家からきしむ音がして怖い怖い夜もようやく明るくなってきて一安心でした。
それとともに台風もおさまり、疲れがどっと出て眠りに。
「学校だよ!」の声で目が覚め、登校。
台風一過の青空が広がっていました。
通学路の電線は切れ、電柱、樹木は倒れていました。
民家の屋根が最も被害を受け、屋根本体が吹き飛ばされた家、トタン、柾が飛ばされた家など無残な姿。
雨でなく本当によかったと思いました。
教室に入って先生から臨時休校とともに、連絡船が沈んだことを知らされました。
携帯ラジオがない時代、停電でラジオが聞けず、また、電話とて事業所、裕福な家以外にはありませんでしたから完全に情報不足。
同級生のなかに、乗組員のお父さんがいて、涙を浮かべていたのを今でも思い出されます。
ご遺体はだいだい色の日本通運のトラックにムシロをかけられ、大森町の大火慰霊堂前広場に運ばれ仮安置されました。
そこでもやはりムシロの上におかれ、せめて毛布はなかったものかと。
検死は堂の中で行われ、火葬場は函館市内だけでは対応できなく、近郊町村の応援を得たようです。
台風のなか、どうして船長は出航したのか?
いろいろな噂が飛び交いました。
この事故がきっかけになって、青函トンネルの着工が急がれたのでした。
それだけ強烈な出来事だったということなのでしょう。
物資の無い時代でしたから、ムシロが当たり前のことだったのでしょうね。
私の家も、父が軍隊から持ち帰った古ぼけた毛布を使っていたような記憶があります。
洞爺丸についての惨劇は小学校のとき社会の先生より語られたことを鮮明に覚えています。やはり先生の親族のかたが亡くなられたとのこと。子供心に悲しい気持ちで話を聴きました。
ふと思い出したのですが私が小さい頃、七重浜沖に座礁したようにあった船・・・幽霊船みたいな感じでずっとありましたよね?あれは洞爺丸ではないですよね?ミカエル様はご存知ですか?
記憶力よりも恐怖感をそのまま引きずって生きてきたと思います。
その証拠には昨夜の夕食で何を食べたのか?
思い出せません。(笑)
お父さんはよくご無事で。
よかったですね。 ミカエル
青函船舶鉄道管理局の職員数は約7,000名。
うち半数が船舶職員だったようですから、殉職された方も多かったと思います。
幽霊船の話は初耳で、それは洞爺丸ではないと思います。
其のころの同級生の歌。
「海見れば 船底見える洞爺丸 花束投げる 遺族の姿」 ミカエル