ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第709号 函館が遭遇した三大災害

2012年03月22日 | 災害
どこの地にも思いがけない悲しい災害の出来事がある。
ここ函館にも大きな災害が3件ある。
その中で一番大きなのが、昭和9年3月21日に発生した「函館大火」。

函館は江戸時代にペリーが来航し、国際開港地となって以来、大きく成長した町であった。
このころ、市街地は、現在の赤レンガ倉庫あたりから函館山寄りの狭い区域。
しばし、大火が起きていた。

最大の延焼理由は、水不足。
と、風が吹き抜ける地形も起因していた。
もっとも、当時の建材は、木と紙、仕方がないのかも。
だから、市内には幕末の建築物が残っていないのである。

大火発生当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風。
午後6時53分頃、立待岬へ行く途中左側・住吉町91番地の民家から出火した。

火は強風にあおられ、またたく間に燃え広がった。
さらに強風による電線の切断による新たな火災地も発生し、
木造家屋が密集する市街地20箇所以上でも次々と火の手が上がり、
手が付けられない状態となった。

時間の経過とともに風向きは南から南西、西風へと変っていった。
火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失するという
大規模な火災となった。

死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして失敗し溺死。
あるいは、東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって、
逃げ場を失い溺死した者(917名)。
また、溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。

当時母は、21歳の独身。
もちろん私も兄も生まれてなかった。
母の実家はこの大火の数年前に、現・中島れんばい近くに建てた。
火が近くまで迫ってきたという。

家の前には「女子職業学校」があり、この建物が反対側に焼け落ちたため、
外壁の漆喰を焦がしただけで済み、火は付近で止まったという。
なんという幸運だったことか。

このときの被害概要。
罹災者数102,001人
死者2,054人、行方不明662名(当時の人口約210,300人)
焼失戸数24,186戸(当時の市内戸数約40,835戸)
市役所も焼け、元町の公会堂に仮庁舎を設けた。

昨日午前、大森町の「函館大火慰霊堂(昭和13年建立)」において、
「函館大火殉難者79回忌慰霊法要」が執り行われた。
主催は「函館仏教会」。
参列者は、年毎に減少し、今回は総勢80名ほど。
仕方がない現実なのだ。
私は午後からお参りに出かけた。





函館市は、この大火を契機に、区画整理事業に着手。
道路の直線化、幅員の広げを図った。グリーンベルトと呼ばれる防火帯は、多く見られる。
消防力の増加も図った。

全国から救援の手が差し伸べられ、市民の復興力となった。
全国の皆様、本当にお世話になりました。
いまある函館は、皆様方のおかげです。


二度目の大きな災害は、昭和20年7月14日、15日の「函館地方空襲」。
死者477人。消失家屋約400戸。
青函連絡船12隻、鉄道車両120両損壊した。

低空での機銃掃射はパイロットの顔が見えたという。
男子学生は海に浮かんだ郵袋を集め、女学生がその郵便物を出し、
風で飛ばぬように小石を置き乾かし、戦地へ送ったという。
一ヶ月後の8月15日に終戦。
ようやく我が国に、安堵感が訪れたのだった。



三度目の大きな災害は、昭和29年9月26日「青函連絡船・洞爺丸沈没」。
台風15号の強風にあおられ横転沈没した。
救助に向かった同連絡船3隻も沈没。
死者1,173人。タイタニック号に次ぐ大きな海難事故となった。
この事故により、青函トンネルの建設に弾みがついた。



私が今こうしてブログを書けるのは、先祖や父母、私も災害に遭遇しなかったため。
幸運な人生に感謝しながら、残りの人生を精一杯生きてゆきたい。

(数値は、函館市市史編纂事務局発行の「函館市略年表」から転載しました。)


米 長い文章になってしまった今回のブログ、最後までお読みいただき、有難うございました。



ミカエル