リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

松坂の時代

2011-06-07 06:38:30 | オヤジの日記
知らなかったのだが、レッドソックスの松坂大輔投手が、故障して手術をすることになるかもしれない、という。

松坂投手に関しては、以前このブログで書いたことがある。

プロ野球時代とメジャーリーグの成績を冷静に見ながら、彼は本当に「怪物」なのか? と疑問を持った。

成績で見る限り、「怪物」と言われるほどの成績を彼は残していない。


そして、私が最も呆れたのが、彼のまん丸の顔とまん丸の体型である。

プロのアスリートが、あんなにまん丸で、やっていけるのか。

相撲取りならわかるが。

あれがすべて筋肉のわけがない。
筋肉だけで、あんなにまん丸になる訳がない。

あれが、すべて筋肉だったとしたら、95マイル以上の速球が投げられるはずだが、松坂投手の速球は、せいぜい90~95マイル程度。
とても世間で言うほどの剛速球投手のスピードではない。

メジャーリーグの世界では、贔屓目に見て、「平均」といったところだろう。

そして、平均をはるかに凌ぐのが、四球の多さだ。
プロであり、「怪物」と言われた投手が、ストライクが投げられないのである。

これは、致命的だ。
つまり、彼には投手としての根本的な資質が備わっていないのではないか。

日本では、「松坂」という名前だけで投げられたかもしれないが、メジャーでは、そんな誤魔化しは、通用しない。

松坂の不調に関して、色々な人が色々なことを言っているが、完全ドシロウトの目線から意見を言わせていただく。


デブに、メジャーの投手が務まるのか。
ストライクの取れない投手を、「怪物」という妄想だけで、ローテーションに組み込む意義があるのか。

メジャーの練習が、最高のものだとは言わないが、少なくとも、松坂投手よりも、ピッチングコーチは、メジャーの現状に詳しいはずなのに、彼は本気で環境に順応しようと思ったことがあるのだろうか。

日本のプロ野球では、完投が当たり前だったかもしれないが、ストライクの取れない投手に完投を許すほど、メジャーは馴れ合いの世界ではない。

メジャーでは、6イニングを3失点以内に抑えることをクォリティスタートと言う。
つまり、3点以内に抑えていれば、負けたとしても、投手が責められることはないと言うことだ。

それは、とても合理的な評価だと思われる。
頭のいい優秀な投手なら、6回の投球の組み立てを考えるのは、慣れてしまえば、それほど難しいものではないはずだ。
それが、つまりローテーション投手ということだ。

何度苦い経験を積んでも、毎回お決まりのように、四球で走者をためて、ドッカーン、では首脳陣にも野手からも信頼されない。

一年目は、慣れないのだから仕方がないにしても、頭のいい投手は、2年目からは自ら修正をするものだろう。

もし修正しても、結果が同じなら、それは松坂投手にメジャーリーグの投手としての才能がないということになる。
工夫もせず、結果を残せない投手は、誰からも信頼されない。


アメリカの記者は、「松坂の時代は終わった」と書いたそうだが、はたして「松坂の時代」などというものがあったのかどうか、私はとても疑問に思っている。



みんな似ている

2011-06-06 06:17:39 | オヤジの日記
今できない大連立が、首相が変わったからといって、簡単にできるとは思えないのだが、永田町の幼児たちは、平気で夢見ているらしい。

2ヶ月以上も、ウジウジグダグダと駄々をこねるだけで、いつまでたってもファーストステップを踏み出せなかったヨチヨチ歩きの幼児的ご老人たちが、今さら何を言っているのか、と思う。

大地震後の一番大事なときに、足の引っ張り合いしかできない自己主張だけが激しい幼児たち。


本当にできるのだろうか?

いや、そもそも本当にやる気があるのだろうか?


どれほど多くの人たちが、不便を強いられているかを、知ってか知らずか、永田町だけで「政局遊び」をやっている人たち。

それは誰もが思っていることだろうが、要するに、自分が目立つ立場にいなけりゃ、「ボクちゃん、仕事ができないの」というお子ちゃまの、ただの我がままではないのだろうか。

二週間くらい前のことだが、仕事場のそばの公園で、目を休めるために、日向ぼっこをしていた。
午後3時半頃のことだった。
一番隅っこのベンチに座って、軽く腿上げ運動などをしながら、心地よい休憩を満喫していたとき、親子連れがやって来たのだ。

30歳前後の母親と3歳くらいの幼児。

他に3つあるベンチには、見向きもせず、私の座っているベンチを指さして、幼児が言った。

「そこ、ボクの」

?????

そして、母親が言う。
「その席、子どもの指定席なんです。そこにしか座らないんです」

私が席を譲るのが当然のような圧力を感じる口調で言われた。

他のベンチではダメなの、と言うのも大人げないので、席を譲った。

「ありがとう」の言葉は聞けなかった。


たったひとつのベンチにこだわる幼児と母親。


我がままな幼児、我がままな母親、そして我がままな永田町的幼児たち。


みんな、似ている。




ウンコが暴れる

2011-06-05 08:36:42 | オヤジの日記
便秘で苦しんだことがない。

中学3年時の京都・奈良への修学旅行のとき、朝メシを食い終わって「便所行ってくる」と同級生に言ったとき、「なんで?」と聞かれた。

なんでって、クソをするために決まっているだろうが。
そう言ったら、「冗談だろ!」と言われた。

冗談じゃねえよ、クソが今にも、口から出そうなんだ。ここで出してやろうか、と言ったら、「バーカ!」と露骨に嫌な顔をされた。
お前はしないのか? と聞くと、家以外ではしない、と言われた。

それまでは思いもしなかったが、よく考えてみると、学校でクソをしているやつが私以外にいないことに、遅ればせながら気づいた。

「家じゃなきゃ、出ねえんだ」


まあ、なんて、お上品なお体ですこと!


なぜか、男子も女子も、学校でクソをすることを嫌がるようだ。

私が、「ウンコが暴れてるぜ!」と言うと、汚物を見るような目で、私を見るのだ。


お上品だな、お前ら!


私の高校一年の娘も、小学校のときから、平気で学校で「大」をした。
さすがに「ウンコが暴れている」とは言わなかったようだが、「ウンコちゃんが出たがっている」と言って、トイレに行ったようだ。

学校のトイレで「大」をすると、からかいの対象になるという、信じられないような風潮が日本の学校にはあるようだが、娘が余りにも堂々としているので、そのことでからかわれたことは、一度もないという。

「大」をしただけでからかうなんて、人間の生理を否定する大馬鹿者だ。

お前ら、一生、クソなんかするんじゃ、ねえぞ!


そういうポリシーを持つ私と娘は、家でも「ウンコが暴れている」と言って、トイレに行く。
真面目なヨメと息子は、眉をひそめるが、自然の生理を馬鹿にするやつこそが、私には滑稽に思える。

屁をするときは、「エイチ・イー(HE)発射」と告げる。

屁に関しては、屁を我慢すると体に悪い、と長年にわたって便秘症であるヨメと息子を説得した成果が出て、最近では、二人とも我慢しなくなった。

それは、人類として、大きな進歩だと言える。


さて、昨年の7月から我が家に居候中の娘のお友だち。

彼女は、便秘症ではなかったが、最初のうちは、どこかで遠慮しているところがあった。

やはり、年頃の娘である。
長年の日本の学校の悪しき風習である、「大とは汚れたものなり」という意識が拭い難く、我慢をしていた時期があったようだ。

そこで、娘と私は、今まで以上に「ウンコが暴れている」を強調するようにして、「エイチ・イー(HE)発射」も少し過剰なほど大きな声で言うようにした。

最初は、それになかなか馴染めずにいた居候さんだったが、2ヶ月もすると、「あ? ウンコが暴れ出したかも?」と言うようになり、「エイチ・イー、発射2秒前」などと言うようになった。

今では、食事中でも「なんか、ウンコが暴れそう」と言い、「我慢できないエイチ・イー」などと言ったりする。
そして、「風呂でエイチ・イー10連発」などと言ったりもする。


彼女もやっと、完全なる我が家の一員になったようだ。


私は、それが、たいへん嬉しい。



産経新聞

2011-06-04 08:25:06 | オヤジの日記
面白い、と思った。

小沢一郎は、内閣不信任案の決議に欠席したあと、グループを集めてカラオケ店で会合を開いたという。
まるで、女子高生の会合のようだ。

そして、鳩山由紀夫は、菅直人の辞任の時期を明確に確認もせずに、「復興の目処がついたら辞めるつもりだ」の言葉だけで、簡単に自己の意見を翻して、否決を決めたという。

それを今さら「詐欺だ」「ペテン」だと大騒ぎするという救いようのない幼児性丸出しの抗議は、コント以下だ。

政権党の重鎮二人が、幼児というのは、最高の喜劇だと言っていい。

そして、喜劇と言えば、産経新聞。
産経新聞は、ウヨク新聞である。
ただ、私は、その愛すべきウヨクぶりをどこか微笑ましく思っていた。

例えば、讀賣新聞の場合は同じようにウヨクだが、いつも時の権力者に取り入り、あるいは肩入れし、陰湿なポジションで政権をコントロールしようとするところが、小賢しい感じがして、どこか鬱陶しく思っていた。

しかし、産経新聞には、純粋に愛国心からウヨク的な記事を書いている印象があった。
その記事内容は、感情的すぎてプロの書く文章としては疑問符がつくが、純粋さという点では、讀賣新聞よりは上等だと思っていた。

ただ、今回の内閣不信任案の茶番劇に関して言うと、産経が標榜してきた愛国心が、それほど上質なものではないことが判明して、がっかりした。

インターネットの記事では、否決か可決か、をどのメディアも騒々しく伝えていたが、どれもが曖昧な表現で、民主党内の反乱者の人数を伝えていた。

それは、いつもどおりの及び腰の表現で「予断を許さない」とか「可決もありうる」というような表現だった。


その中で、産経だけが「不信任案、可決の見通し」と嬉々として伝えていたのである。

産経は、大地震後の政局に関して、最初から「菅退陣」を規定方針として掲げていたように思える。

要するに、「菅退陣ありき」である。

冷静に考えると、大地震後の日本で一番重要視されるのは、被災者の救済と日本の復興である。
優先されるのは、それしかない。
それは、誰が考えても明白なことだと私は思っていた。

しかし、産経が優先したのは、それよりも政局だった。

とにかく、なにがなんでも「菅内閣打倒」。
その一点張りである。


あれほど、うるさいくらい愛国心を標榜していたのに、日本国民や日本のことは後回しで、ただひたすら「政局」にこだわる産経の愛国心とは、その程度だったのか、と落胆した。

被災者目線で考えたら、政局など、もってのほか。

壊された故郷を、少しでも早く元に戻して、平穏な暮らしを取り戻し、亡くなられた方々の冥福を祈ること以外に、優先事項などないはずだ。

だが、産経は政局を優先事項にした。

時宜をわきまえぬ、自民党、公明党、たちあがれ日本、そして、小沢、鳩山の暴挙の後押しをした。


困っている国民を救えない愛国心は、偽物だ。


産経が、共感は出来ないが、どこかに愛すべきウヨク的こころをもった新聞だ、と思っていたのは、私の買い被りだったようだ。



時間の無駄

2011-06-03 06:31:06 | オヤジの日記
自民党というのは、面白い集団だ。

菅総理が辞めるなら、協力する。
しかし、辞めたあとの確かなビジョンは持っていない、のだと。

反旗を掲げた小沢一郎も、新党をつくる、と予測されていたが、いつもながら感情だけが先走りする虚構の政治家に、確かなビジョンあったとは思えない。
本人とその子分たちだけはあると思っていたかもしれないが、今はただのピエロでしかない。


例えば、メジャーリーグで、文句ばかり言っている選手がいるとする。

「俺は、やろうと思えばできるプレーヤーなんだよ。内野も外野もこなせるから、ポジションを与えられたら、絶対活躍する自信はあるよ。
でもな、監督があれじゃ、やる気が起きないね。だから、監督、代えてよ。そうしたら、活躍するからさ。
ポジション? どこでもいいよ。任せるよ。とにかく、お願いだから、監督だけ、代えて。
あの監督以外だったら、俺はやる気が出るから。まあ、他の選手をまとめろ、と言われたらまとめる努力はするよ。
どうやってまとめる? それは、わからないな。監督が代わってから、考えるよ」

あるいは、中学校のガキ大将。

「俺さあ、小学校までは、成績良かったんだよね。やれば、出来る子なんだよ。でも、セン公があれじゃあ、どうしようもないね。
クラスは違うけど、オザワ? あいつは、捉えどころがないやつだけど、セン公に刃向かう根性は買うよ。
だから、密かに、あいつと組んで、セン公を懲らしめようと思っているんだよね。
うまくいったら、あいつ、クビだぜ。セン公が辞めたら? ああ、そこまでは、考えていなかったな。
まあ、そうなったら、そうなったで、そのときに考えるよ。まだ、よくわかんねえけどな」


監督が、代わったら活躍する選手は、確かにいる。
イチローが、そうだった。

イチローの新人時代の監督は、土井正三監督。
土井監督は、イチローの個性を認めようとせず、彼のフォームを改造しようとしたらしい。
新人といえども、独特のバッティング理論を持つイチローは、自分のスタイルを守ったため、レギュラーを勝ち取ることができなかった。

しかし、監督が仰木氏に代わったとたん、彼は本来の能力を発揮して、今に至る。
仰木氏は、イチローを一人前のプロとして扱い、彼のバッティング理論を尊重して、無理に手を加えることはしなかったという。


では、先生が代わったら、子どもは、変わるか?
私の息子の場合は、変わった。

小学4年までは、担任から「マイペースすぎる」というお小言ばかりいただいていたが、5年で担任が代わると「それもマッちゃんの個性。個性が違うのは当たり前。だって、マッちゃんは、誰からも嫌われていないじゃない」と言われて、息子は伸び伸びした小学校生活を送ることができた。

6年の時の担任も、5年時の担任からの引継ぎが上手くいったせいか、息子を「ひとつの確立した個性を持つ児童」として扱ってくれたから、彼の独特の個性が否定されることはなかった。

そして、伸び伸びとした個性のまま、息子は、成長した。
(すみません。完全に親バカ目線の話題でした)


自民党の総裁や小沢氏が、イチローになれるか、という話は、もちろん非現実的すぎて、比較するのも恥ずかしい話だ。
小沢氏は、名前だけはイチローだが、彼が政界に、かろうじて名を残すのは「デストロイヤー」というヒールの存在としてだけだ。


感情だけが肥大して、ビジョンのない政治家を崇め奉る風潮が否定された今回の結末は、極めて理性的であると言える。

小沢が「僕のことを忘れないでー」と言えば、鳩山も「僕もいたんだよー」、谷垣は「茶番」と知りつつ「僕だって、党首なんだからー」とアピール。

公明党とたちあがれ日本の存在は、クラス委員の陰に隠れて、印象が薄い。

要するに、小学校のホームルームの光景と同じだ。


結局は、意外でもなんでもない小学校の教室と同じことが、永田町で起こったということ。


小学校的茶番劇を見せられた国民こそ、いい迷惑。

そして、時間の無駄。