リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

普通の人を「怪物」と呼ぶ怪物

2015-08-30 08:10:00 | オヤジの日記
この夏、ヤフーのトップページで、頻繁に目にしたタイトルが「怪物清宮」だった。

最初は、「進撃の巨人」と同じ系譜だと思ったが、これはすぐに「江川の系譜」だな、と気づいた。

「江川の系譜」とは、頭が硬直した日本のスポーツ・マスコミが、ただ少し普通の高校球児より早い球を投げるだけの人間を差別化するために「怪物」と名付けたのが始まりだと私は認識している。

同じような系譜に「レジェンドの系譜」というのがあって、スキー・ジャンプの葛西紀明氏を海外メディアが「レジェンド」と呼んだ記事に丸ごと乗っかって、それ以降、むかし少し活躍した人さえも「レジェンド」と呼び始めるという白痴的な現象が、今もスポーツ・マスコミの世界で続いている。

他に「男気の系譜」というのがあって、これは、広島カープの黒田博樹氏の日本球界復帰から端を発して、少し浪花節的なことをした人は、みな「男気」で括られるという現象だ。
(これは、黒田博樹氏を貶めているわけではない。一級のメジャーリーガーだった黒田氏の決断は、メジャーリーグと日本プロ野球機構の歴史を変えたと私は思っている)


私は高校野球とプロ野球に無知なので、「怪物」と名付けられた人は、他に松坂大輔氏しか知らない。
高校球児だった頃の松井秀喜氏や清原和博氏、ダルビッシュ有氏、田中将大氏、大谷ナントカ氏は、「怪物」と呼ばれたのだろうか。

幼稚で刹那的な日本語しか扱えないスポーツ・マスコミなら、「怪物」を安売りしても不思議には思わないが。


「怪物清宮」は、投手なのか野手なのか。
あるいは、何歳なのか。
それは、私にとっては、どうでもいいことだ。

どちらにしても、高校球児の中で、少しだけ目立っているだけの人なんだろう。


私が、江川卓氏がスポーツ・マスコミから「怪物」と呼ばれたときに違和感を持ったのは、こんな理由からだった。

ただの高校生が、人より早い球を投げるだけで、それがなぜ「怪物」なのか。
これが、野球もサッカーもバスケットボールもプロ並みの技術があって、しかも学業も学校でトップなら、「怪物」と呼ばれる資格があるかもしれない。

たとえば、アメリカの大学生アスリートの中には、ベースボールの才能もあり、アメリカン・フットボールも一流、バスケットも一流でプロチームから誘われ、さらに学業も大学でトップクラス、という人が希にいる。

どちらが「怪物」に近いかといえば、そちらほうがより近いのではないだろうか。
だが、アメリカ・マスコミは、彼のことを「ホープ」とは呼ぶが「モンスター」とは呼ばない。

だから、普通の高校球児より少し早い球を投げるというだけで、江川卓氏のことを「怪物」と表現するのは、あまりにも陳腐で大げさすぎる、と私は思ったのである。

たとえば、江川卓氏が、高校時代一度も負けたことがないというなら、それは「無敵の投手」ということで賞賛に値する。
しかし、そうではないらしい。
大事な場面では、よく負けていたというのだ。

それを聞いて、弱い「怪物」だなあ、と私は期待を裏切られた気がした。
「怪物」が、そんなに簡単に負けていいのか。


それからの私は、日本のスポーツ・マスコミがアスリートを「怪物」と唱えたときは、彼のことを「平均的な選手より、ちょっとだけ上手な人なんだな」と思うことにしている。

だから、「怪物清宮」と言われても、期待はしない。


そんなことよりも、もしかしたら、本当の「怪物」というのは、野球しかできない、野球しか知らない、サッカーしかできない、サッカーしか知らない、フィギュアスケートしかできない、フィギュアスケートしか知らない10代のアスリートをおだてあげて、その全身に重圧をかけ続け、若い才能を潰し、潰れたら罵倒するスポーツ・マスコミのことではないか、と最近の私は思い始めているのである。


メジャーリーガー・スズキ

2015-08-23 08:13:00 | オヤジの日記
衰えたりとはいえどもイチローはイチロー。

鈴木一朗氏は、40歳を過ぎてもメジャーリーグで数多くのヒットを放ち、数字を積み重ね、全身をバネにして守り、そして走り続けている。

尊敬するしかない。

先ごろ、日米通産安打記録が、メジャーリーグ伝説の安打製造機タイ・カッブの記録を超えたということが、ヤフーのスポーツニュースに載っていたのを読んだ。

ただ、ややこしいことに、「日米通算なんだからメジャーリーグ限定のタイ・カッブを超えたはおかしかろ」というアメリカ・マスコミサイドの指摘もあった。

アメリカが偉大なタイ・カッブの記録を神聖なものとして扱いたい気持ちはわかる。

「球聖」と呼ばれた人なのだ。
日本で言えば、ミスター・ベースボール長嶋茂雄氏を神格化するのと同等といえばいいか。

だから、私も「日米通算はオマケ」だと思っている。

鈴木一朗氏は、日本で数多くのヒットを打ち、さらにメジャーリーグで今も現在形でヒットを打ち続けている。

その偉業を通算で語るのは、鈴木一朗氏としても本意ではないのではないか、と私は思うのだ。

メジャーリーガーの鈴木一朗氏の記録は、メジャーリーガーとして評価すべきだ。
そして、日本プロ野球機構の一員だったイチロー選手の記録は、日本人選手として評価すべきだ。

そんな単純なことも忘れて、「通算」を都合よく強調するマスメディアの軽薄さには、いつものこととはいえ、辟易させられる。


ただ個人的に気になる報道として、何人かの勘違い人間の主張する「イチローの日米通算安打が認められるのなら、タイ・カッブやピート・ローズのマイナーでの記録も加算すべきだ」という白痴的な意見は、あきれるほど理論が破綻していて笑うことすら愚かしいと思った。

ここで、はっきりしていることは日本のプロ野球は米国のマイナーリーグではないということだ。

日本のプロ野球は、日本の最高峰の野球組織である。
つまり、メジャーリーグが、アメリカの最高峰の野球組織であるというのとイコールだ。

マイナーリーグの記録を加算するという根拠は、まったく的外れの言いがかりである。

それを言うなら、イチロー選手の日本での2軍の成績も加算していいことになる。
そうでなければ、辻褄が合わない。
彼が残した2軍での213本のヒットも加算すべきだろう。

日本プロ野球機構リーグと米国のマイナーリーグを混同するようなフェアでない議論を吹っかける「言いがかり」は、論理の欠落した野球ファンには話の種としては面白いだろうが、正当な比較論を組み立てられない理論は、私としては興ざめせざるをえない。

日本と米国の野球は、機構が違うのだから合算することに意味はない。
それでいいのではないか。


記録には、さまざまな側面がある。
たとえば、こんなマジックもある。
20世紀前半のヤンキー・スタジアムのあからさまなマジックのことだ。

米国が誇るホームラン王、ベーブ・ルース氏が数多くのホームランを記録した昔のヤンキー・スタジアムは左打ちのベーブ・ルース氏に有利なように右翼は90数メートルしかなかったという。
(王貞治氏が記録した世界最高本塁打数のうちの何割かに貢献した後楽園球場の右翼が、実際は80数メートルしかなかったのと同じマジックか)

そして、信じられないことだが、ヤンキー・スタジアムの右中間は130メートルだったが、センターは148メートル、左中間は152メートルもあったというのだ。
(今のメジャーリーグの球場の平均的広さは、センターが125メートル前後、左中間が117メートル前後だ)

ベーブ・ルース氏がライトに球を打ち上げたときは、ホームラン。
センターや左中間にヒットを打ったときは3塁打になることが多かったという。

ベーブ・ルース氏は、決して足の速いほうではなかったが、センターから左中間が異常に広かったため、まるで今の俊足の選手のように3塁打を連発したらしい。

そして、メジャーリーグの最高安打記録を持つピート・ローズ氏は、晩年の6年間は選手兼監督だった。
つまり、プレーイング・マネージャー。

自分がヒットを積み重ねられるように、監督としての権限を最大限使い、選手ピート・ローズとしてヒットを積み重ねたという。

監督としては6年間の勝率が.520。
地区優勝は一度もない。
年間の勝利数の平均が70勝程度の平凡な成績だった。
要するに、選手ピート・ローズを長生きさせるための監督業だったといわれても仕方がない。


そういった無理やり作った記録さえ「世界記録」として残るメジャーリーグの歴史を振り返り、大真面目に異議を唱えるのはバカバカしいが、真実だけは知っておくべきだと思う。

野球は、アメリカの国技のひとつだから、アメリカ・マスコミは国威発揚のためなら荒唐無稽なストーリーも平然と書くだろうが、それに鈴木一朗氏を巻き込まないでほしいと私は思うのだ。


あくまでも、鈴木一朗氏のメジャーリーグだけの記録を正当に評価して、彼を「伝説の人」にして欲しい。

タイ・カッブ氏はともかく、無理な設定で記録を積み重ねたベーブ・ルース氏、ピート・ローズ氏が偉大な選手だったと認知させるようなメジャーリーグの方式を鈴木一朗氏には、当てはめないでほしい。

鈴木一朗氏のことは、メジャーリーグに途中から参加して「伝説の人」たちに近づく成績を積み重ねたことだけを純粋に評価してほしいと思う。

そして、日本のマスメディアは、アメリカ型の国威発揚的で一時的な打ち上げ花火のような報道はせずに、鈴木一朗氏のメジャーリーガーとしてのヒストリーを正確に伝えてほしい。


さまざまな媒体で意図的にばら撒かれる非論理的な雑音より、鈴木一朗氏が、筋肉崇拝傾向の強いアメリカのメジャリーグで成功した数少ない日本人であるという事実が、私には何よりも意義深いことだと思うからだ。



泣くなトクミツ

2015-08-16 08:05:00 | オヤジの日記
もはや日本の夏の風物詩になったかのような日本テレビの「24時間テレビ」。

もちろん、今年も開催されるのは知っている。

どんなことにも賛否両論はあるから、「24時間テレビ」も批判が多いとは思うが、私はやらないよりはやったほうがいい、というスタンスだ。

ただ、放送自体は、ほとんど見たことがない。

いま大学2年の娘が、6~7才の頃、チャリティに興味を持って1円玉を集めていたことがある。
それを持って、近所のセブンイレブンまで募金に行ったこともあるから、いま思えば我が家も多少は番組に貢献していたことになる。

娘は、当時(今もだが)「モーニング娘。」のファンだったから、それにつられて真剣に番組を見ていた。
ただ、次の年から、某男性アイドル事務所のタレントさんがメインを張るようになってから見なくなった。

その理由を細かく述べることはできるが、個人攻撃と取られるかもしれないから、ここでは控える。

某男性アイドル事務所アレルギーの娘とは違って、ここで私が異を唱えるのは、総合司会の徳光和夫氏のことだ(完全に個人攻撃)。


番組を円滑に進行しなければいけない立場なのに、彼は泣いてばかり。
まるで、泣くのが俺の仕事だ、と勘違いしているように私には思える。

たとえば、番組に呼ばれたタレントさんたちが、ディレクターの指示に従って泣くのは理解できる。
番組自体が、お涙頂戴、涙の安売り、感動の押し売りをするのは、そういう趣旨の番組だから仕方ないと言える。
そのことは私も理解している。

しかし、進行係だけは感情に流されずに、言葉だけで冷静に取り仕切るのが、本来のプロの技能というものではないだろうか。

たとえば、私は、歌手が最初から最後まで泣いて自分の持ち歌を歌ったとしても、それに感動することは絶対にない。
本物の歌手は、涙を見せずに、魂と技術で人を感動させるものだと思っているからだ。

俳優の演技も、演出上で涙が必要なときがあるにしても、私はセリフと体の表現で人を感動させるのが、本当のプロだと思っている。

それぞれ、プロとしての立場は違うとは言え、最初から涙を見せる姿は浅ましすぎる。
そんな安易な方法でしか視聴者の心を動かせない人を私はプロと呼びたくない。

だから、きつい言い方になるが、薄っぺらな言葉と涙でしか感動を表現できない日本テレビのアナウンサー、演出家たちを私は好まない

それをプロと呼ぶほど私はお人好しではない。

彼らは、勘違いしていると思う。

画面の中で、色々な境遇の人たちが懸命に生きている姿は美しいものだ。
その姿を見るだけで美しいと感じるし、そこには何かしらの感動がある。

だが、そこに、司会者の涙ながらの注釈や感想が入る必要はない。
他の人は感動するかもしれないが、私はそれを見せられると興ざめをする。
チャンネルを変える。

プロの話し手は、言葉を紡ぐことで報酬を得ている。
職業としてその道を選んだ以上、彼らはその言葉だけで事象を伝える技術を身に付けるべきだ。
プロが、涙という最も安易な方法で「金」を得るのは、私の感覚では「卑怯」ということになる。

「涙」「泣く」という、あざとい手法で目の前の現象を表現するのは、稚拙すぎて「プロの気概」が私にはまったく感じられない。

それは、「プロの技能」の放棄だ。
感極まって泣く姿は、プロの司会者なら、「泣き芸」のできるタレントさんに任せるべきだ。
司会者が、彼らの芸の領域を侵すのは、私には勘違いの自己顕示欲にとらわれているとしか思えない。


ただ、そうは言っても、この13年間、私は「24時間テレビ」を観ていないので、もしも徳光氏が、今まったく泣かずに番組を進行していたとしたら、「ごめんなさい」と謝るしかない。


私は徳光氏や日本テレビ・アナウンサーが涙を封印して、涙なき進行をすることを実は密かに望んでいるのだが、これは、もしかしたら、私が番組のことが気になっているから、ということもできる。



いま、インスタントコーヒーが入っていた瓶に、1円玉と5円玉が、5百円以上入っている。

なぜかわからないが、この有効活用の仕方を、この時期になると真剣に考えるのが私の年中行事になっている。