リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

俺もミリヤー?

2011-06-29 10:32:27 | オヤジの日記
加藤ミリヤの曲をよく聴いている、というと不思議がられる。

私と同世代では、圧倒的に「誰?」という人が一番多い。
名前だけは知っている、という人の反応は、「ふーん」か「あっそう」。
曲を聴いたことがある人は、「若者ぶるなよ」「無理するなよ」という人が多い。

そして、「あれって、女子高生のカリスマ、とか言われてなかったか? あんなの若い女が聴くもんだろ。人前でそんなこと自慢気に言うなよ。馬鹿にされるぞ」と、ご忠告してくれる親切な友だちもいる。

しかし、私は歌に、若い子が聴くものや年寄りが聴くものなど、ないと思っている。

いいと思ったものが、その人にとっての「いい歌」なのだ。


「ジョウネツ」というのを聴いたのは、6、7年前だ。
気に入って、すぐにiTunesに入れた。

まず声がいいと思った。
ジョウネツはUA(ウーア)の名曲だが、未熟な若さが歌のポイントをうまく捉えて、デビューしたてにもかかわらず見事に「ミリア節(ぶし)」を確立していた。

この「ミリア節」と私が勝手に名付けた彼女独自の表現方法が、私はとても気に入って、加藤ミリヤは、それ以来、ずっと私のお気に入りアーティストの一人になっている。

ウィキペディアで調べると、加藤ミリヤの項目では「楽曲の特徴として、ヒップホップのサンプリングという手法を使うことが挙げられ、この手法を日本のマーケットに浸透させたとされる。しかし、サンプリングに関しては、有名曲を使い加藤ミリヤに興味の無い人に印象付けるためと、自分の音楽性に力のないことを認めているようなものだ」と、やや批判的なことが書かれている。

これを見解の相違、という。

サンプリングだろうが、カバーであろうが、そのことで音楽性云々を語るのは、お門違いだ。

作・編曲家はいざしらず、歌手に一番大事なのは、表現力である。
自分の感情が、そのメロディラインに、どれだけ乗り移ったかで、歌手の優劣が決まる、と私は思っている。

あるいは、歌手のその表現方法に共感できる度合いの強さで、その歌手が「好き」か「嫌い」かが決まるとも思っている。

誰もが、サンプリングの方法論などという評論家的な感性で歌を聴くわけではない。

その考え方は、むしろ音楽を曲解していると私は思う。
逆に考えれば、それは「通ぶった」音楽劣等人種の思考方法だ。

音楽論は、聴く人それぞれの脳内にあればいい。
ご大層で押し付けがましい音楽理論は、ただ邪魔なだけだ。


私は、演歌と矢沢永吉、長渕剛、中島みゆき、松任谷由実、TUBEが嫌いだが、その音楽を否定はしない。
ただ、私の脳内で音楽認識されない、というだけのことだから、それはある意味、私の脳に大きな欠陥があるということだ。


加藤ミリヤの曲は、私の脳で、正常に音楽認識されているから、彼女の歌が好きだということ。

ただ、それだけのことだ。


「ソツギョウ」や「Love is...」「19 Memories」「TOKYO STAR」は、私のiTunes、iPodの中で、ヘビーローテーションで繰り返されている。



オジサンだって、加藤ミリヤを聴くんです。



いとしのくぅちゃん

2011-06-25 09:26:44 | オヤジの日記
9年前、アルバム「affection」を聴いたとき、安室奈美恵の匂いを感じた。

だから、気に入って、それ以来、倖田來未を聴いている。

なかなか売れなかったが、ゲームソフトとのタイアップで「real emotion」が、そこそこヒットした。
しかし、この曲は、あまり倖田來未色が強いと思わなかった。

この曲で売れても、むしろ苦労するだけではないか、と思った。

しかし、幸いなことに、と言うべきか、その後やや低迷した。
その熟成期間が良かったのかもしれない。

「grow into one」「feel my mind」という、完成度の高いアルバムをリリースした。
これらは、今でも私のお気に入りのアルバムである。

「キューティハニー」は、PVは面白いが、歌自体は、「real emotion」まで後退したイメージがある。
2、3回聴いたら、もう「ごちそうさま」という歌だ。

「Butterfly」も倖田來未の楽曲の中では、下から数えたほうがいいという歌だ。
これが、ヒットしたらヤバイなと思っていたら、予想に反して、ヒットした。

このまま、この路線で行ったら、一発屋で終わるかもしれない、と危惧した。

しかし、その後「Birthday Eve」から「Someday」まで、毎週CDシングルをリリースするという冒険に出た。
この攻めの姿勢は、勇気があって、しかも手抜き感がまったくなかったから、倖田來未というアーティストを定着させる最高のプロデュースだったと今も思っている。

その後、これぞ倖田來未という「4 hot wave」をリリースし、「BUT」「FREAKY」というやはり倖田來未らしい、そして私ごのみのアップチューンをリリースした。
そして、「Kingdom」という完成度の高いアルバムをリリースするが、「羊水発言」で活動を自粛。

あの程度の発言で、なぜ叩かれたのか、いまだに私には理解不能だ。
男性大物芸人は、もっと暴言を吐いているが、ほとんどバッシングされない。
露骨なほどの男社会だ。

私のヨメは、36歳でいま高校1年になる娘を産んだが、「羊水なんか腐ってたって産めたわよ。何を大騒ぎしてるの。馬鹿じゃないの」と男前に発言していた。

私の友人は、2度目の結婚を10歳としの離れた医者としたが、そのお医者さんは39歳で初産を経験した。
そして、その医者が言う。

「私は、羊水が腐ってても、気合で元気な赤ん坊を生むわよ。
子どもを産もうという本気の覚悟をもった女は、あんなこと気にもとめないわ。
あれは、誰かを陥れて喜びたい低俗な男と、子供を産みたくない理由を探している女が、騒いだだけのことよ!」

そのとき生まれた子は、いま幼児体操クラブに入って、その才能を存分に発揮しているという。

私もその女医さんの意見に賛成だ。
当時も今も、私は倖田來未擁護派だが、その時は、どんなに擁護しても、正論を気取った集団ヒステリーの風圧に弾き飛ばされたものだ。

今も同じような集団ヒステリーは、あちこちに発生して、日本を立ち止まらせているが、横道に逸れすぎたので、この話は、ここで終了。

その後、低俗男、言い訳女たちの目論見通り、倖田來未は一時の勢いをなくしたが、楽曲自体は、攻撃性を失わずに、良質の音楽を作り続けている。


今後、倖田來未が、安室奈美恵のように、再ブレイクするかどうかは微妙なところだ。
カリスマ性という点だけを考えるなら、倖田來未は安室奈美恵には及ばない。


ほかの部分で、再ブレイクのポイントを見つけるしかない。

ただ、倖田來未は、そんなことを模索することもせずに、自分のやりたいことを自分のペースで、やっているように思える。
その姿勢は、いいと思う。



そして、これから、どんな状況になったとしても、私は倖田來未の味方である。


それだけは、変わらない。



安室ちゃん

2011-06-15 06:14:02 | オヤジの日記
隠していたわけではないが、安室奈美恵のファンである。

安室奈美恵が、まだスーパーモンキーズというダンスグループに所属していた頃、NHKの番組で歌っている姿を見たことがある。
おそらく、彼女が15歳くらいの頃だったと思う(18年くらい前か)。

ダンスにキレがあって、歌もうまい。
一目見て気に入った。
若いのに、大したものだと思った。

それからずっと注目していたのだが、芽が出るまでに時間がかかった。

安室奈美恵withスーパーモンキーズと名前を変えて、「Try me~私を信じて~」がヒットしたときは、嬉しかった。

その後、ソロになって、小室哲哉のプロデュースで、次々とヒットを飛ばすのを見て、興奮した。

小室哲哉は、その後容疑者となって世間を賑わしたり、彼の音楽性に対して、賛否両論が飛び交ったが、私は安室奈美恵を人気歌手にしたという一点だけで、小室哲哉のことを神のように尊敬している。

彼の功績は大きいと思う。

安室奈美恵と結婚したSAMに関しては、ほとんどわからないのだが、安室奈美恵が選んだ人なのだから、きっと才能にあふれた人なのだろう。
彼は、安室奈美恵を母親にしたということだけでも、功績は大きいと思う。


小室哲哉のもとを離れ、R&BあるいはHIPHOP志向が強くなってから、安室奈美恵は、世間からは低迷したと思われるようになった。
楽曲は良かったのだが、世間が安室奈美恵について来れなくなった。

その間、私は安室奈美恵の時代がまたやってくる、とまわりに力説したが、ほとんど信じてもらえなかった。

唯一、今年高校に上がった娘だけは、信じてくれた。

2008年の春、安室奈美恵の曲がヒットし、アルバムが大ヒットしたとき、その娘が「おまえ、すごいな。本当に安室ちゃんの時代がやってきたな。すごいな。尊敬するぞ」と褒めてくれた。

それは、私の人生で、四番目に嬉しい言葉だった。

この2年、K-POPにハマりきっている娘だが、「安室ちゃんのコンサート、行きたいな。何とかしろ! 一緒に行ってやってもいいぞ」と、一ヶ月に2、3回、私に命令する。


娘と二人で、安室奈美恵のコンサートに行く。


これ以上の幸せはない。


その夢が、今の私を支えている。




被災者そっちのけバカ

2011-06-14 06:18:00 | オヤジの日記
私のブログを読んだ友人から、「お前は菅総理擁護派か」と問い詰められた。

私は答えた。


バカヤロー!
ちゃんと文章を読め。
俺は、マスメディアやネットこぞってのネガティブキャンペーンが嫌で、毎年コロコロと首相が変わるという状況が嫌いなだけだ。

大きな仕事を成し遂げるためには、長期的なビジョンが必要だ。
就任してすぐにネガティブキャンペーンを始めたり、世論調査という、ごく一部分を対象にした民意とは言えない、都合のいい数字(新聞社の立ち位置で数字が微妙に変わる)を根拠にして、政策を批判する方法はフェアではない、と思っているだけだ。

「場当たり的な政策」と批判するが、長期的なビジョンを持ったとしても、どこかで足を掬われる状況では、その長期的なビジョンは活かしようがないではないか。

結局、小泉のように、内容のない威勢だけいい言葉を絶えず機関銃のように、放射することを政権延命の手段にするしかない。
小泉が歴史に名を残したのは、北朝鮮拉致被害者の少数を日本に連れ戻したことと、どうでもいい郵政民営化だけだ。

いや、もうひとつあった。
自民党をぶっ壊したこと。


俺は、お前みたいにガチガチの保守ではないが、かとえって民主党シンパでもない。

超タカ派の安倍晋三と、宇宙人の鳩山が総理大臣になるのは反対だったが、福田康夫がもっと首相を続けていてもよかったし、麻生太郎があのまま続けても、日本はそれなりの方向に行ったと思う。

しかし、だからといって、、その福田と麻生がもしいま総理大臣だったとしても、菅以上の対応ができたかは、疑問だ。
それは、誰にもわからない。

地震学者の言うことが、現実の大地震の前では説得力がないように、仮定の話は、どんな有能な政治評論家、経済評論家がしても、説得力はない。

そして、小泉が総理だったら、とか小沢が総理だったらなどという仮定の話も、同じように説得力がない。


それは、空想の世界の出来事だからだ。


パラレルワールドを覗き込んだら、小泉や小沢が大地震の指揮を執っている世界が見えるかもしれないが、現実には、そんなことはない。


空想よりも、現実、そして長期的なビジョン。

長期的なビジョンを閉ざされ、与党内、野党内からネガティブキャンペーンを張られて、がんじがらめに縛られた、一国のトップにできることは、少しでも自分の任期を伸ばすことしかないではないか。


だから俺は、福田、麻生、菅が政策とは全く関係ない次元で、葬り去られる状況が我慢できないのだ。


大地震から3ヶ月経っても出口が見えない、などというが、政争を煽り立てる「被災者そっちのけバカ」の数が増えるだけの状況では、道筋を照らしたとしても、やっと灯った灯りも、バカたちの臭い息で、無残に消されるだけだ。


俺には「被災者そっちのけバカ」たちは、自分の足元の灯りだけが灯っていればいいように、思える。
つまり、自分が主流派でいたいだけだ。


そんなバカたちは、復興の役に立たない。


俺は、ただ、そう思っているだけだ。



夢のない報道

2011-06-13 06:45:35 | オヤジの日記
古い話になるが、5月のサミットで、菅首相が「1000万戸に太陽光発電を設置する」と宣言して、物議をかもした。

まあ、お気楽で安易な数字をぶち上げたとは思うが、アドバルーンとしては、上等とは言えないまでも、軽い先制パンチくらいにはなったのではないかと、私は理解した。

宣言はしたが、承認を受けていないのだから、まあ一種の「ホラ」みたいなものだ。
一国の総理が、サミットでホラ話をしてもいいのか、と生真面目に突っ込む人は大勢いるだろうが、どこの首脳だって、独断で発言や提案をすることはあるだろう。

サミットは国際的課題や政治的課題を検討する会議とはいえ、法的な縛りのないセレモニー的なものだ。

各国首脳が、自国の未来を語ったとしても、それもセレモニーの一つである。

だから、菅首相のスピーチに対して、「聞いてません」と憮然とした顔を生真面目にさらすのは、むしろ「誰かに言わされてる感」しかしないのである。


この提案に対して、原子力の稼働率は約7割で、太陽光は12パーセントだから、実用的ではない、とか一般的な家屋に太陽光パネルを強制的に設置するのは、法律違反だ、などという幼稚な議論を定期している人がいる。

誰も一千万戸の太陽光発電を今すぐ設置しろ、とは言っていない。

明日にでも取り掛かる、とせっかちに言っているわけではないのだ。

いままで「首相が、あんなことを言っている。さあ、すぐに作り出そうぜ」などという施策が、過去の日本にあっただろうか。


今は、今や忌み嫌われている原子力の稼働率が「約7割」で優位かもしれないが、将来は違うかもしれない。
太陽光の効率は、それほど挙げられないまでも、コストは飛躍的に下げられるかもしれない。
太陽光パネルを家屋の屋根につけるのではなく、効率のいい場所にまとめて設置する方法をとって、法律と整合性を取ることは可能だろう。

政策の提議、提案というのは、政治家として「夢を語る」のと同じことだと、私は思っている。
各国の首脳が、核に関して提議し、原子力エネルギーについて、新しい意見を提案する。
あるいは、人類の未来に関して、もしくは人権に関して協力を訴えかける。

サミットというのは、そういうものではないだろうか。

「聞いてなかった」「根回しがなかった」からプライドが傷つけられた、という次元のネガティブな談話をクローズアップするだけでなく、世界が太陽光に限らず、自然エネルギーをどのようにこれから発展させていくか、という端緒となる提案、提議をマスメディアは、なぜ発信することができないのか。


少しでも前向きに考えなければいけない時期に、相変わらずのネガティブな報道は、あまりにも夢がなさすぎる。