リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ゼッタイに無視する

2014-04-27 09:54:00 | オヤジの日記
だいぶ前のことだが、県立高校の担任が、自校の入学式に参列せず、休みを取って自分の子どもの入学式に参加したというニュースを見た。

それに対して、生徒の保護者の一部が「最近の教師は教え子より自分の子どもの入学式の方が大切なのか」とクレームを付けたらしい。

そして、そのことに関して、教育長が、「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促したらしい。

しかし、これから教え子になる子より、自分の子どもの方が大切なのは当たり前だと私は思うのだが、それは非常識なことなのか。

教師は、無断で休んだわけではない。
ましてや、入学式を台無しにしたわけでもない。

入学式は、普通に執り行われたというのだから、私には何が問題なのかわからない。

有給を取って、自分の子どもの入学式に出席する。
労働者として、誰もがしていることではないのか。

いったい、クレームを付けた人は、教育者に、何を求めているのだろう。
あなたたちだって、仕事先に休暇願いを出して、入学式に参加したのではないのか。

同じではないか。
教師だけは特別だと思っているのか。

仮定の話をするのは鼻白むものだが、私だったら、私の子どもの担任が、自分の子どもの入学式を優先したことに共感こそすれ、批判する気にはならない。

緊急事態のときに、生徒たちを蔑ろにした場合は、非難されて当然だが、入学式は緊急事態ではない。
ただの儀式だ。

そして、同じ儀式が重なった場合、「血」を優先するのは当たり前ではないだろうか。

十数年育て上げた自分の子どもの晴れ姿を見たいという、親の心情を誰も侵す権利はない。

教え子たちとは、これから友好な関係を築いていけばいい。
入学式だけがすべてではないだろう。

来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨しているという。

いつも思うのだが、政治家というのは、誰に向かって言っているのか、よくわからない人種だ。

そう思うのだったら、公に言わないで、直接本人たち(校長、担任)に問いただせば済むことではないか。
それで、話は簡単に伝わると思うのだが。

要するに、選挙用のパフォーマンスか。


この中で、一番ガッカリしたのは、教育長や校長の対応である。

どれほどの人がクレームを付けたかは知らないが、この程度のことは、クレームを付けた人にだけ事態を説明すれば済むことだと私は思っている。

謝る必要はない。
説明するだけでいい。

その上で、教師をかばうのが、上司の役目だ。
何でも謝ればいいというものではない。

部下をかばうのは、上司として、最小限の度量だ。
それさえも、彼らは出来ないのか。
教育者とは、そんなにも薄情な人種なのか。

親として当然のことをした人を、無闇に吊るし上げるクレーマーに加担することはない。

それは、教育ではない。
たちの悪い「言いがかり」「魔女狩り」だ。

そんなものに屈していたら、彼らは、味をしめて、もっと些細なことにもクレームを付けるだろう。

正当な批判には屈してもいいが、言いがかりは突っぱねるべきだ。

クレームを付けた保護者は、「自分の大事な子ども」の入学式に私的なことで欠席するなんて、けしからん、という感情論で憤っているのだろうが、それは、担任にとっての「自分の大事な子ども」のことを忘れた自分勝手な論理だ。

保護者の大事な子どもと担任の大事な子どもは、イコールである。

だったら、「血」を優先するのは、当然のことだと私は思っている。
そして、それは、全世界の血の通った親の共通の権利でもある。

保護者の子どもだけが重要なのではない、担任の子どもも重要なのだ。
その優先順位を理解できない人は、おそらく何を言っても無駄なのだろう。

「とにかく、私の子どもよ! 私の子どもだけが大事なの!」

相手の立場を慮れない人は、自分のポジションにしか関心がない。
普通の想像力さえも欠如した人は、誰に対しても身勝手な「自己」だけを主張する。

それが、つまりクレーマーだ。

そんなクレーマーの相手を真剣にすることはない。

説明責任だけは果たさなければいけないが、そのあとは、放っておいてもいいのではないだろうか。



これは、まったく違う話になるのだが、ある人がブログで、冒頭に、こんなことを書いた。

「皆様は、カレーチェーンの『Coco壱番屋』をご存じだろうか。」

この出だしの言葉に対して、あるFacebookユーザーが、「皆様は、カレーチェーンの『Coco壱番屋』をご存じだろうか。」とは偉そうに。無駄なフレーズだ。
というコメントを載せた。

どこが、偉そうなフレーズなのか、私には全く理解が出来ない。

「ご存じだろうか」という丁寧語、尊敬語を、「偉そうに」と捉える感性が私には全くわからない。
丁寧な言葉を使って、罵られるなら、彼にどんな言葉を使っても無駄だろう。

要するに、日本語が通じない。

飛躍した話になるが、こういった感性の人が、きっと、どんな小さなことでもクレームをつける人になるのだろうな、と私は勝手に想像している。
つまり、炎上の「核」だ。


普通のことを言っても、普通のことをしてもクレームを付ける人は、確実にいる。


そんな人まで相手にするのは、無駄な行為だ。

時間がもったいない。


そんなものは、無視した方が、ゼッタイにいい。


教育者

2014-04-20 09:11:00 | オヤジの日記
痛ましい事故が隣国で起きた。

ただ、事故の処理はまだ継続中で、確かな原因もまだ明らかではない。
(急速な方向転換が原因だという説が有力だが)

ニュースでは、コメンテーターや専門家が、検証の言葉を述べているが、それは今の時点では推測であって、実証されたものではない。

政府や海洋警察の発表が二転三転する中で、事故原因を検証されても、それは中途半端な推理小説を読むようなもので、居心地の悪さしか私は感じない。

私としては、事故の検証よりも建設的な救助の方法を助言していただいた方が、耳にすんなり届く。
若い人が、突然その未来を断たれてしまうのは、理不尽としか思えない。

未来を断たれない方法を国籍関係なく思い募るのが、優先される事項なのではないかと思う。

ただ、事故は人災だとしても、現実に対処すべきなのは、自然の驚異である。
風、波、雨。
その脅威が目の前に立ち塞がったとき、選べる選択肢は限られている。

2次的な被害を出さないことをまず考えなければならない。

当たり前のことだが。救助される側の命と救助する側の命は、イコールだ。

その荒れ狂う自然の中で、人が無力になったとしても、そのことを責めるのは、酷というものだ。

不明者の親の嘆きと絶望、怒りは、想像できる。
そして、救助側の焦りも想像できる。

だから、つらい。

ひとりでも多くの方が、生存していることを祈るしかない。


この事故に関連して、修学旅行の引率をしていた教頭先生が、自殺したという記事をネットで読んだ。

自分が助けられたことに対して、自責の念に抗えず、命を絶ったというのだ。

これは、亡くなった方には申し訳ないが、美談ではない、と私は考える。

責任者なら、最後まで、事故の顛末を見届けるべきだ。
最終的には、裁判の判決まで。

責任者というのは、そういうものではないのか。

なぜ生徒たちが、悲劇に遭遇しなければならなかったのか。
なぜ適切な救助方法が選ばれなかったのか。

そして、誰が悪かったのか。

自分ひとりが死を選んで逃げるのは、教育者として失格ではないのか。

自ら死を選んだ方には申し訳ない言い方になるが、私だったら、こんな弱い教育者に、自分の子どもを預けることはできない。

きっと、生徒への愛情は、過剰なほどある先生に違いない。

だが、愛情の使い方を間違っていると思う。

彼の心情は、わからない。
自分が、その立場になってみないとわからないと思う。

私も弱い人間だから、その状況になったとき、自分がどんな行動を起こすかをいま想像することが出来ない。

ただ、これが己を省みない身勝手な言い方だというのは承知だが、責任者なら、最後まで結末を見届けて欲しいと思うのだ。

突然、その人生を断たれた生徒たちの無念を、その心で受け止めて、次の世代に伝えることが教育者としての務めなのではないか。


私が理想とする教育者の姿が、それだ。


死は、逃避だ。


逃避を選ぶ人は、教育者になるべきではなかった、と私は考える。



顔が見えない世界

2014-04-13 08:38:00 | オヤジの日記
消防士がツィッターで「火事マジ勘弁」とつぶやいて何が悪いのか、意味がわからない。

いたって普通の素朴な感想ではないか。
絶えず火事に備え、身も心も待機して、文字通り身を削って人のために生活のほとんどを捧げているのに、本音さえも言わせてもらえないのは、理不尽すぎないか。

火事で被害を受けた方に対して失礼に当たる、という論理で責めているのだろうが、消防士の方は、職責を全うして火事の現場にいたのだから、その非難はまったく的外れだ。

消火現場から逃げ出したのなら、非難されるのは当たり前だが、そうではないという。

普通に働いている人を、なぜ責めなくてはいけないのか。
理解できない。

普通に本音を語ったら、叩かれるという風潮には、私は馴染めない。
そして、意味の分からないクレームに簡単に屈してしまう行政にも馴染めない。

なぜ若い消防士を守ろう、という発想が出てこないのだろうか。

私は、人を中傷する文章が嫌いだ。
しかし、中傷する文章や非常識で愚かな行いを主張した内容でない限り、ツィッターに関しては寛容だ。

ツィッターが炎上する、とはよく使われる表現だが、何を持って「炎上する」と言うのかは、ツィッターに不慣れな私には理解できない。

否定的なコメントが多かったら、炎上?

しかし、先ほども書いたように、中傷する文章や非常識で愚かな行いをしない限りは、表現の自由がある。
ただ、否定的なコメントをする自由は当然あるが、「表現の自由」同士の言葉の闘いは、突き詰めれば、堂々巡りになる可能性がある。

私の感覚では、当たり前の個人のつぶやき程度に、過剰に反応する理由が理解できない。
それは、表現の自由とは、別物だと思っている。


「火事マジ勘弁」は、素直な感情を吐露しただけ。

彼は、消防士として職責を全うした上で、ただ本音を呟いただけではないか。
そんな人間の素直な「心の叫び」まで、規制するなよ、と私は思うのだ。
それぞれの職業の人が持っている「心の叫び」は、人の数だけあるはずだ。

私は、その「心の叫び」こそ聞きたいと思う。

生の「叫び」は、その職業に就いている人にしか吐くことが出来ないのだから。


さらに、ウインドウズXPのサポート終了に関して、テレビ朝日・報道ステーションのサブキャスターが「お金が大変ですよ。無料交換してくださればいいのにって思っちゃうんですけどね」と述べたことに対して、「慈善事業ではない」「企業の都合だから負担すればいいのにぐらいの感覚で思っているんでしょうかね(苦笑)」などと批判している人がいるというのをネットで読んだ。

さらに、「それって、『テレビが地デジ化するなら液晶テレビを無償交換してほしい』って言ってるもんだぞ」「まだアナログテレビ持ってる人が大勢いるのにアナログ地上放送からデジタルに移行したのはどの業界でしたっけ」と批判する記事も。

マイクロソフトのサポート終了と地デジ移行という、片や一企業、片や国の方針を同列に扱って批判するという神経が、私には全く理解できない。

ユーザーの感情を置き去りにしたというところだけは、当たっているかもしれないが、儲け主義の企業の論理と未来を見据えた世界の風潮を同列に扱うのは、乱暴ではないだろうか。

サブキャスターは、普通に本音を吐いただけ。


いい加減、無駄な正義感を振りかざすのは、やめませんか。



話は飛ぶが、ヤンキースの田中将大投手が、メジャーリーグに適応している。

それは、同じ日本人として、嬉しいことだ。

ただ、ここでは、小さな言いがかりをつけたいと思う。
マスメディアの報道に対してだ。

ヤンキース・ファンがTANAKAを熱烈歓迎! などという報道があった。

しかし、テレビに映った観客席を見ると、空席が目立った。
本拠地デビューの割には、普段の試合より、明らかに観客の数が少なかった。

それを見て、ニューヨーカーは、本当に、関心を持っているのか、と思った。
もちろん観客の数だけで言っているのではないと思うが、偏った先入観で、お手軽な表現で読者、視聴者を煽るというのは、プロとしてお粗末なのではないかと私は思うのだ。

熱烈歓迎したのは本当だとしても、スタンドに空席が目立ったことも併せて書くのが、本当のプロだ。

論文にミスが2つ3つあったことで、ねつ造だと疑われることもある。
そして、そんな風に、正確な報道をしない人が、同じ口で、他人のミスを「ねつ造」と責めるのが、マスメディアだ。

その風潮は、ネットが発達したことによって、私も含めて簡単に「他人の少しのミスでも責める」というツールを得た。


ツィッターやブログは、情報発信道具としては、便利だが、真実を伝える道具としては不成熟だ。

悪いことをした人は批判されて当然だが、その便利なツールは、普通のことをしただけも批判することがある。

顔のない世界は、もともとマスメディアの専売特許だったが、それがネットによって、誰もが顔の見えない意見を吐くようになった。


こんなことを書いている私も、もちろん顔が見えない男だ。

だから、嘘だけは書かないように努めているのだが、不注意、不勉強、未熟さ故に、思い違いで書いている場合もある。
顔が見えないからと言って、責任がないわけではない。


そのことだけは、これからも気をつけていきたいと思う。


小娘

2014-04-06 09:59:00 | オヤジの日記
共同執筆者には、責任はないのか、という疑問がある。

ひとりの研究員に全責任を負わせて、「俺は知らなかった」で科学の世界は許されるものなのか。


ジャンルが違うのは承知で言うのだが、私はフリーランスという立場で、一人で仕事をしている。
しかし、人と組んで仕事をすることもある。

そのとき、たとえば「相棒」が失敗した場合、私はその失敗を共有する覚悟で仕事をしている。
仕事を共有するということは、失敗も共有することだと思っているからだ。

人間だから、失敗は必ずする。
実際に、何度か失敗したことがある。
私は、その度に共有した。
そして、私が失敗したときも「相棒」は、同じく失敗をかぶってくれた。

それは、異質なことなのだろうか。

世間では、共同作業者の失敗は、全部ひとりに押しつけるのが常識なのか。

まあ、それが常識だとしても、私は「相棒」と心中をするつもりだが。


話は、少々飛躍するが、私は大学を卒業したあと、弁護士事務所に事務員として勤めた。
事務員というのは、弁護士先生の指示のもと訴訟資料を揃えたり、相談者がくると話を聞いて、どの弁護士に仕事を割り振るかを決めたりする仕事だ。

その事務員の中で、29歳の有能な女性がいた。
仕事の処理が超人的に早く、接客技術も超一流だった。
尊敬していた。

しかし、世の中には、「女性」というだけで、能力が劣っていると見る「偏見の塊」のような人が多い。

女性が応対に出ると、「何だよ! 女かよ! 男にしてくれよ。女じゃ伝わらないよ!」と言って、男の事務員に代わることを要請するのである。
その度に、大卒二年目の若造である私が出て、応対することになった。

29歳の女性の方が、明らかに事務処理能力は上なのに、お客は男というだけで若造の私を信用するのだ。

あるときなど、四十代の女性のお客に、「『小娘』じゃなくて、『ちゃんとした男』を出してよ」とクレームを付けられたことがあった。
そのときも、私は少しも「ちゃんとした男」ではなかったが、私が応対をさせられることになった。
事務員としての価値は、明らかに女性事務員に劣るのに、私が応対すると「偏見の塊」は安心するのである。

その「小娘」と呼ばれた29歳の事務員は、翌年30歳で司法試験に、みごと合格した。

その方は、虎ノ門でいま弁護士事務所を構えているが、いまだに「偏見の塊」から、「女」というだけで、その価値を不当に下げられているかもしれない。

リーガル・ハイ!


また、話は飛躍するのだが、私は女優の沢尻エリカさんが好きである。

映画「ぱっちぎ!」からファンになった。
TVドラマ「1リットルの涙」でさらにファンになった。

その沢尻さんが、大分前のことだったが、「別に」とふてくされた態度を取ったことで、干されることになった。

それが、私には納得がいかなかった。
世の中には、男の政治家や評論家、あるいは司会者、お笑い芸人などが、不遜な態度で、相手の人格を全否定してもほとんど問題になることがないのに、なぜ女優が「別に」と言っただけで干されたのだろうか。

「小娘」だからか。

男社会では、少し頭角を現してきた女性を煙たがって「小娘は叩け」という風潮があるのかもしれない。
それは、強面の政治家、評論家、芸人を叩くより、遥かに容易いことだからか。
(TVのワイドショーや女性週刊誌、新聞などの記者は、おそらく大半が、強面に尻込みする男たちだ)

若者が不遜な態度を示したら、大人が「それはダメだよね」とたしなめるだけでいい、と私は思うのだ。
無理矢理頭を押さえつけて退路を断つのは、私の感覚では「いじめ」だ。


話を戻して、論文をねつ造し、改ざんした(理化学研究所が言っているに過ぎないが)ことが、事実なら、それは研究者として失格だと思う。

しかし、同じ論文に名を連ねた人も失格だろう、と私は思うのだ。
そして、その研究グループを管理する人も失格だ。


「小娘」だから、犠牲にしてもいい。


私には、男社会のそんな目論みが、透けて見える。

ひとりの「小娘」をスケープゴートにして、事態の収拾を図るという手法は、男社会にドップリ浸かった「大人の」男女たちには、心地よいだろうが、私には心地よくない。


永遠の「小僧」は、青臭くそう思っている。