リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

贈るテント

2017-10-29 06:29:00 | オヤジの日記

長年の友人の尾崎に、30年以上の付き合いで、今年初めて誕生日プレゼントを贈った。

 

何を贈ろうかと迷った。

ありきたりのものは贈りたくない。

悩んだ。

尾崎へ贈るとなると、どこか照れくさいので、尾崎の家族のためになるものを選ぶことにした。

尾崎の妻の恵実と子どもたちが、近年アウトドアにハマっているというのは、大きなヒントだった。

だから、テントを贈ることにした。

もちろん尾崎家は、テントを持っているだろうが、予備が1つあっても邪魔にはならないだろう。

 

尾崎の子どもは、8歳と5歳、3歳。

他に尾崎には先妻との間に29歳になる娘がいた。

その娘が、5年前に結婚した。

結婚式に呼ばれたが、尾崎は出なかった。

なぜ出てやらないんだ、と私が聞くと、尾崎は「俺に父親の資格があると思うか」と自嘲気味に笑った。

だがな、父親の資格を決めるのはおまえじゃない、娘の方じゃないのか。

私がそう言うと、尾崎は、「俺には勇気がないのかもな」と、小さく口を歪めた。

その半年後に、尾崎の妻の恵実が3人目を妊娠した(恵実は尾崎より11歳下だ)。

成鳥が一人巣立ったから、またヒナが欲しくなったわけだな。

「そうかもしれない」

 

尾崎の子どもの名前は、3人とも私が名付けた。

尾崎に頼まれたからだ。

女・男・男。自分の子どもの名前よりも悩んだかもしれない。

私が名前を見せたとき、尾崎は3回とも文句を言わなかった。

「ありがたく使わせてもらう」と言っただけだった。

 

名付け親というのは、「親」とついている以上、親も同然だ。

だから、3人は私の子どもだ。

その子どもたちが、アウトドアにハマっているという。

ひと月に2回は近隣にキャンプに行くらしい。

そうなれば、贈り物はテントしかないだろう。

他にもアウトドアグッズはあるが、家族を包み込むものはテントだけだ。テントこそ尾崎への贈り物に相応しい。

アウトドアショップを何軒も回った。見回っているうちに、徐々に興味が湧いてきた。

ドーム型があったり、ツールームがあったり、自分だったら、どんな場所でどんな風に過ごすだろうなどとイマジネーションが沸き上がってきた。

キャンプグッズは、結構高価なものが多かったが、日常とは違う世界で使うのだし、大自然のテーマパークに来た気分に浸るためには、ケチるのは野暮というものだ。

だから、私にとっては、百年ぶりの大きな出費だったが、奮発することにした。

ツールームのテントを買った。

背負って帰るのは無理らしいので、尾崎の中野のマンションの管理室に送ってもらった(管理人には、あらかじめ話をつけておいた)。

 

誕生日当日、尾崎家では、子どもたちを中心に尾崎を祝う会が催された(実は、私が尾崎の誕生日を祝うのは初めてだった)。

恵実と子どもたちの手作りのバースデイケーキがテーブルの中央にあった。

ホワイトチョコレートのプレートには「リュウイチ おめでとう」と書かれていた。

尾崎家では、子どもたちは親のことを「リュウイチ」「メグミ」と呼んだ。羨ましい家庭だ。

尾崎が、いいお父さんだということがわかる。

メシは、私がちらし寿司を作った。

ご飯とすし酢と具材があれば、簡単にできるからだ。要するに、手抜き。

ろうそくの炎を消す前に、私は消えて、管理人室に行った。

私と同じくガイコツ状態の管理人からテントの包みを受け取った私は、得意げに尾崎にプレゼントを渡した。

 

尾崎は驚くかと思ったが、「先を越されたな」と苦笑いをした。

「俺も今年はおまえに何かを贈ろうと思っていたんだ」

そのあと恵実が、「そうなんですよ、みんなで相談していたところです。今年は贈りたいねって。先を越されたんで、私も驚きました」と目を細めた。そして、「こんなにいいものを頂いたら、こちらも考え直さなければいけないわね」と尾崎の方を見て微笑んだ。

「確かにな」と尾崎。

そして、「ありがたく頂く」と受け取ってくれた。

 

ケーキの火を吹き消したあとで、子どもたちが、それぞれ尾崎に、感謝の手紙を渡した。

それは、簡潔で嘘がなくて、とても微笑ましいものだった。

それを見た私は、私が書いた尾崎宛の「弟へ」の誕生日カードを渡すのをためらった。

子どもたちの手紙に比べたら、陳腐すぎて消え入りたくなるレベルだったからだ。

ためらっているとき、恵実が私が左手に持っていた誕生日カードに目を留めた。

「龍一、Mさんから、もう一つ大事なプレゼントがあるわよ」

仕方なく渡した。

尾崎はすぐに開けて読んだ。

気恥ずかしさが、全身を駆け巡った。逃げ帰ろうかと思った。

しかし、尾崎はすぐに言ったのだ。

「兄貴・・・これからもよろしくな」

目を合わせることはなかったが、ぶっきら棒な言い方の中に、長年の付き合いを凝縮した信頼を感じた。

 

尾崎が、プレゼントに目を留めながら、言葉を続けた。

「だが・・・このテントは、使えねえな」

気に入らなかったか。

「いや、使うときは、おまえの家族と一緒にキャンプに行くときだ。そのときは、おまえが、これを使ってくれ。それを条件に頂くことにする」

恵実が、隣で大きく頷いていた。

子どもたちは、ちらし寿司に夢中だ。

 

「11月25日まで」と恵実が言った。「龍一と子どもたちと私で、これ以上のものを考えますから楽しみにしていてください」

今度は、尾崎が大きく頷いた。

 

この夜飲んだ、恵実が好きな焼酎「二階堂」が、忘れられない味になった。

 


真面目なハゲの息子

2017-10-22 06:34:00 | オヤジの日記

大学時代の陸上部の同期に、ハゲという男がいる。

 

30歳前から頭髪が薄くなった。

だから、私は、みんなが名付ける前に、いち早くハゲのことをハゲと命名し、まわりに認知させた。

そのときから、ハゲは「ハゲ」になった。

ハゲは頭が良かった。

嫌らしい言い方になるが、大学の成績は私の方が良かった。しかし、根本的な頭の良さと人間性は、ハゲの方がハゲしく上だった。

ハゲは真面目で努力家で協調性があった。

だから、一部上場企業に就職することができた。

私は、不真面目で努力が嫌いで協調性がなかったから、独りで食っていく道を模索した。

社会的には、ハゲの方が明らかに、有益な存在だといえた。

 

7年前に、ハゲは食道がんを患った。

手術前に見舞いに行ったとき、ハゲは気落ちして憔悴しているように見えた。

でも、お前の好きな桑田佳祐だって食道がんだったけど、克服して歌ってるんだぜ、と私はハゲをハゲました。

手術は成功した。

そのことがあってから、ハゲは人生観が変わったようだ。

手術から2年後に会社を辞めたのだ。

真面目なハゲのことだから、定年まで勤め上げるだろう、と私は勝手に思っていた。

だから、どうしてだ? と聞いてみた。

「家のローンも払い終えたから、好きなことをしたくなってな」と、ハゲは毛のなくなった頭をハゲしくかきながら、明るく答えた。

その若さで、楽隠居か? と聞いたら、ハゲは「行政書士をやりたいんだ。いきなりでは無理だから、会社で繋がりのあった行政書士事務所に弟子入りして実務を覚えた上で、独立しようと思っている」と、実務にハゲむことを宣言した。

そして、「おまえも資格を持っていたよな。一緒にやらないか」と誘われたが、私はハゲしく拒否した。

ハゲは、資格を取得後も勉強を怠らなかったが、不真面目でポンコツの私は、資格を取っただけで満足して、勉強を怠っていた。毛のある私は、勉強にハゲむのが、面倒だったのだ。

 

2年間の弟子期間を終えて、ハゲは横浜三ツ沢の自宅で行政書士事務所を開業した。3年前のことだった。

儲かってまっか? と聞くと、ハゲは「儲かるほどではないな。儲けようとも思っていない。蓄えた金で生活はできてるから、焦ってもいないんだ」と、思い切り毛をむしりたくなるような殿様宣言をした。

よかったな、ハゲ、毛がなくて。

 

ここで、突然、ハゲの息子が出てくる。

息子は、残念ながらハゲてはいない。むしろフッサフサだ。おそらく、母親のシバタリエさんの遺伝子を受けついたのだろう(あの有名人のシバタさんではありません。ただの同姓同名です)。

息子は、やはり真面目な男で、一部上場企業に勤めていた。

ただ、高校3年間は、父親とまったく口をきかないという面白いところもあった。

ハゲが、「息子が口をきかないんだよな。気が滅入るよ」と相談してきたので、私は、ハゲの家に行って、息子と面談した。

部屋に入って驚いた。ビジュアル系やヘビメタバンドのポスターが壁一面に貼られていたからだ。

私の娘も、ビジュアル系が好きなので、半分くらいのバンド名を知っていた。それで、息子と意気投合した。

息子が言うには、自分は子どもの頃から優等生で、まったく面白みのない人間だった。それが、ずっとコンプレックスとしてあって、自己嫌悪に陥っていた。反抗期もなかった。だから、形だけでも反抗期を作ろうと思って、父親と口をきかないことに決めた。でも、高校の3年間だけだと決めているので、あと半年で終わりますから、ということだった。

面白い理屈だが、わからなくもない。私も反抗期がなかった。おそらく、私が今ひねくれているのは、きっとその反動のせいだ。

本気ではない反抗期でも、あった方がいい。いいな、それ、面白いな、と私はハゲしく納得した。

 

その息子から、二日前に電話があった。

「俺、一人暮らしをしたいんですけど、オヤジは反対すると思いますか?」

息子は、実家の横浜三ツ沢から東京天王洲に通っていた。

通勤時間は1時間程度だが、乗り換えが多いらしい。それが辛いので、会社の近くにマンションを見つけたのだという。

もう引っ越すつもり満々やないか~~~い! と突っ込んだら、「いえ、仮に抑えているだけですから」と生真面目に答えたハゲの息子。

つまらない男だな。

ハゲしく脱力しながら、私は、君のオヤジは、誰よりも君を信頼している。反対する理由なんかない。心配するな、とハゲの息子をハゲました。

まさか・・・俺が、君のオヤジに、君が引っ越すことを伝えるのを期待してるのか?

「いえ、俺が言います」と、キッパリと言うハゲの息子。

では、なぜ、俺に電話をしてきたんだ?

「誰かに聞いてもらいたかったんです。色々考えたんですけど、最終的にMさんが、いいかなって」

気が済んだか?

「ご迷惑をおかけしました」

言い方が固いな。「乙で~~す」くらいは言えないのか。

「年上の人には言いません」

あっそ(つまらない男だ)。

 

では、切るぞ。

「ああ・・・もう一つ、聞きたいことが」とハゲの息子が、ためらいがちに言った。

「妹が失恋したらしいんですけど、なんと言って慰めればいいでしょうか」

ハゲには娘もいたのだ。息子と7歳離れた娘だから、まだ高校生のはずだ。

私は、答えた。

 

クシャミを3回もすれば忘れるさ。それは、まだ風邪とは言えない。風邪の前兆かもしれないが、美味いものを食ってよく眠れば、すぐに治る。本当の風邪を引くまで体力を蓄えるんだな、って言ってやったらどうだ。

 

「それ、本気で言っているんですか?」

俺は、冗談以外は、すべて本気だ。

「つまり、Mさんに真面目に相談した俺が馬鹿だったってことですか?」

 

ハゲしく頷いた俺だった。

 


父はいない

2017-10-15 06:51:00 | オヤジの日記

父親が死んでから、何年経つか覚えていない。

 

おそらく4、5年だと思う。

10月の終わりに死んだ気がする。

墓は建てた。

神奈川県川崎に、立派すぎるほどの墓を建てた。

2回しか行ったことがない。

納骨のときと、母が「行きたい」と言った昨年だ。

友人の尾崎と一緒に行った。

2回とも墓に手を合わせなかったし、拝みもしなかった。

私にとって、父は、そんな対象ではなかったからだ。

 

家に帰ってこない男。

稼ぎをまったく家に入れない男。

だから、病弱な母は、ずっとフルタイムで働いていた。

誰もが知っているような一流企業に勤めていたのに、外に独りで家を借り、「俺は小説家になる。小説家は、人の道を外れてもいいんだ」とうそぶいていた男。

定年退職したとき、稼ぎが少なくなって、やっと家に帰ってきたが、私は、もうそのとき、結婚して家を出ていた。

だから、接点がない。

母にとっても、年を取ってから帰ってこられても迷惑だったろう。

家での会話は、ほとんどなかったという。

馴染みの寿司屋で食い物を堪能し、近隣の温泉で豪遊することもあった。

 

70歳前に、父親は、脳梗塞で倒れた。

「長いリハビリが必要ですね。ご家族の協力が必要です」と医師に言われたが、母はそれを拒否した。

私も母の決断を支持した。

独りだけのリハビリ。

ある程度良くなってから、私は父のために、老人ホームを探して、入所させた。

自分のためにだけ金を使った男は、年金も自分のためだけに使った。

独りで貯め込んだ金と年金だけで、ご立派な老人ホームに入所することができた。

 

入所のときだけ、老人ホームに足を運んだ。

それ以来、母も私も父が死ぬまで老人ホームに足を運んだことはない。

入所から20年間、疎遠だった。

独りで自分勝手に生きてきた男だ。

死ぬときも独りが相応しい。

 

その男が死んだ。

最期を看取る、などということは考えなかった。

病院から「危篤です」という連絡が来ても駆けつけなかった。

死んでから行った。

葬儀には、呼びもしないのに、私の友人が6人も来てくれた。

こんな男のために・・・と思ったが、友人たちの優しさに触れて、自然と涙が出た。

大粒の涙だ。

あの男のための涙ではないが、娘と抱き合って涙に暮れた。

 

父親が残した金で、ご立派な墓を建てた。

自分のためだけに金を使う男の最期は、墓も自分の金で建てるべきだろう。

独りだけが眠る墓。

祥月命日や月命日には、代行業者に頼んで、墓参りをしてもらっている。

その金も、父親の貯め込んだ金から出ている。

 

4年ほど前のことだった。

父親のキャッシュカードが2枚出てきた。

「これ、どうする?」と母に聞いたら、「切り刻んでくださいな」と母は答えた。

切り刻んだ。

おそらく、貯金を分散させていたのだろうが、「ゆうちょ」の金だけで充分供養できると思ったので、その2枚に関しては、母も私も関心はなかった。

独りで勝手に貯め込んだ金を、母は「他人の金ですから」と興味を示さない。

だから、私も興味がない。

 

家族に関わらない男を反面教師にして、私は家族に濃厚に関わる人生を選んだ。

それを間違っていると思ったことはない。

 

興味のない男の命日が近づいている。

 

昨晩、大学4年の娘が私に聞いた。

「なあ、命日が近いんだよな」

誰の?

「じいちゃんの」

一度も抱っこしてもらったことのないじいちゃんだろ? 気になるのか?

「だって、血がつながってるだろ。血って、人間の根本だよな。ボクは、おまえと血がつながっていることを誇りに思ってるぞ」

 

娘は、私よりも大人だ。

 

今年は、娘と二人で、父の墓参りに行くことにした。

 

ゼッタイに、泣かないとは思うが・・・。

 


レモンかじったら

2017-10-08 06:29:00 | オヤジの日記

今週は、締め切りが3件重なったので、睡眠時間が削られた。

「オレ眠っていないんだよね」と眠ってない自慢をすると嫌われるらしいので、言わない。

こんな風に眠気が襲ってきたとき、私はレモンをかじることにしている。

丸ごとだ。

外国産は危ないので、必ず有機野菜を売っている店で、無農薬のものを20個くらい買うようにしている。

料理にも使うが、生でかじることの方が多い。

レモンをかじると、私は覚醒する。

仕事が続けられる。

 

ここで、いつものように、話が11メートルほど飛ぶ。

小学校5年生のときのことだ。サエキという同級生がいた。女子だ。

サエキは、体が弱かった。

学校に来るときは、調子のいいときは松葉杖。悪いときは車椅子だった。

車椅子のときは、学校がバリアフリーではなかったので、同級生たちが車椅子を持ち上げて2階の教室まで運んだ。

サエキは絵がとてもうまかった。

そして、私の絵をよく描いてくれた。

いつも走っている絵だった。

 

サエキが言った。

「マツはいいよな。いつも気持ちよさそうに走っているもんな。アタシは、マツの走っている姿を見るのが好きだよ」

体育がいつも見学だったサエキが描く私は、明らかに本物よりもいい男だった。

それを見て、私は「誰だよ!」といつも突っ込んだ。

 

小学校6年の5月、サエキが入院したということを担任から知らされた。

なかなか退院してこないので、私は一人で病院に見舞いに行った。

病室に入ったとき、ガリガリに痩せたサエキの姿を見て、私は衝撃を受けた。

重病人の顔だった。

しかし、それでもサエキは、私の見舞いを喜んでくれて、「マツ、秋の運動会、楽しみにしているからな。またブッチギリ頼むぞ」と病人とは思えないような強い目線を向けて、私を励ました。

何も言い返せなかった。

 

帰り道、私の心は打ちのめされて、とても凶暴になった。

目黒川にかかる橋の下に打ち捨てられた自転車を、獣になった私はうなり声を上げながら、何度も蹴った。

左足の感覚がなくなるまで、蹴った。

それでも、気が収まらなかった。

 

一学期最後の日。

朝早く来て、私は校庭を軽く走っていた。

そのとき、担任がやってきて、サエキが死んだことを知らされた。

足下から血の気が引いていく感覚を私は初めて味わった。脳がしびれた。自分が立っているのかさえ、わからなかった。

そのあと私の足の下の地面が崩壊した。

 

クラスを代表して、私が葬儀に参加した。

出棺のとき、誰かにレモン色をした風船を渡された。クラクションとともに、その風船をみんなで解き放った。

空に舞い上がるレモン。

あとで聞いたら、サエキの祖父は淡路島でレモン農家をしていたらしい。

サエキは、そのレモン農家を継ぐのが夢だったというのだ。

 

残酷にも、その夢は叶わなかった。

 

葬儀が終わって4日経ったとき、私は担任に呼び出された。

そのとき、一枚の原稿用紙を渡された。

「読んでみろ」

それは、サエキの5年生のときの作文だった。

「私は体が弱いので走ることができない。でもM君の走る姿を見て、私はいつも励まされている。M君は私の代わりに走ってくれているんだと自分で勝手に思っている。いま私は、走ることができないけど、いつかM君のように楽しそうに走りたい」

そんなことが書かれていた。

「サエキのご両親が、これは君が持つべきだと言っているんだ。重いものかもしれないが、貰って後悔はしないと先生は思っている。それがサエキへの供養じゃないだろうか」

そのとき、バカな私は「供養」という言葉を知らなかった。

だが、「供養」という呪文のような言葉に引きつけられて、家に持ち帰った。

 

その作文は、大分色あせてしまったが、いまも手元にある。

そして、レモン。

レモンをかじれば、私は覚醒する。

それは、きっとサエキが覚醒させてくれているのだ、と私はいまも思っている。

 

走れなかったサエキ。

走るのが夢だったサエキ。

 

中学に上がったとき、私は迷わずに陸上部に入った。

高校でも大学でも。

そして、いまでもランニングは続けている。

 

サエキの代わりに・・・などと思い上がったことは私は考えない。

だが、レモンだけは、絶対に私を守ってくれていると思う。

私の仕事に、レモンは欠かせない。

 

レモンをかじったら、体が生き返る。

 

レモンが、いまも私を助けてくれている。

 

 


顔出しNG

2017-10-01 07:45:00 | オヤジの日記

東京から大阪に串カツツアー。

 

娘と娘の友だちのミーちゃんと私の三人。

先週の土曜日の夜から日曜日にかけてのことだった。

夜行バスを降りて、まずは梅田のインターネットカフェに入った。

朝メシとしてコンビニで買ったポテトチップとドリンクバーで、腹ごしらえをした。

私は再び寝てしまったが、娘たちはマンガを読みあさった。

娘は幼い頃読んだ「セーラームーン」をまた読んだという。

ハマったようだ。

 

7巻まで読み終わったところで、昼メシタイムになった。

3人で私と娘が4回行ったことのある、梅田の串カツ屋に入った。

15本のコースを頼んだ。

スティック野菜とご飯も頼んだ。

大食いのミーちゃんは、なんとご飯を7杯もお代わりした。

店の人が驚いていた。

サービスに、赤出しの味噌汁を出してくれた。

大食いは、どこでも愛されるようだ。

 

食い終わったあとは、岩盤浴だ。

新今宮にある世界の岩盤浴が楽しめるというスパに入った。

そこには、偶然にもセーラームーンが置いてあった。

娘は、最終話まで読むことができて感激していた。

だが、結末が混沌とし過ぎていて娘はショックを受けた。

しかし、岩盤浴は気に入ったようだった。

 

岩盤浴のあとは、再び串カツ。

ミーちゃんは、10本の串カツを食いながら、大盛りのご飯を6杯食べた。

店の人が拍手をしてくれた。

ミーちゃんは米農家に嫁ぐべきだと思う。

 

帰りの新幹線で、娘はキレートレモンを飲み、私はスーパ-ドライを飲んだ。

だが、驚くべきことに、ミーちゃんは、鶏そぼろ弁当と牛丼を食べた。

 

なに? その底なしの食欲!

 

そして、食べたあとにすぐ寝た。

牛になるぞ~。

東京駅に着く前に「モー」と言って、ミーちゃんは起きた。

外見は人間のままだった。

 

大阪では、たくさんの写真を撮った。

いいスリーショットも10枚以上撮った。

だが、顔出しはNGだというので、今回は載せられない。

載せたら殺される。

 

そして、私は食い物屋の食い物を写真に撮るという下品なことができないタチだ。

だから、これもNGだ。

なので、最後に、我が家の世界で2番目にブスな猫・セキトリの画像を見て、大阪を感じていただきたいと思います。

 

(無理かニャー)