リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

留学する娘 後編

2016-08-28 08:17:00 | オヤジの日記
前回の続きです。

留学の話を初めてしたとき、娘は、こんなことも言っていた。

「それに、韓国に行く理由は、もう一つあるんだよね」

ユナちゃんのことだな?

「よくわかったな」

ユナちゃんというのは、娘が12歳のとき、初めてできたメール友だちだった。
7歳上のメール友だち。
ユナちゃんは、韓国在住の韓国人だった。

ユナちゃんは、大の日本びいきだ。
10歳くらいの頃から、YoutubeでJ-POPを聞き、日本のドラマを見て、コッソリ日本語を学んだ。

そして、高校を卒業する頃には、日本語は読み書きと会話を独学でできるようになった。
ユナちゃんは、嵐とPerfumeが好きだった。

K-POPにはまったく興味がなく、特に「男の歌手が気持ち悪い」と拒否反応を示した。

それに対して我が娘は、J-POPも好きだが(特に椎名林檎、陰陽座)、K-POPも好きだった。
一番好きなのは、少女時代。

少女時代には、同じように「ユナちゃん」がいた。
だから、同じ名のユナちゃんに親近感を持ったのかもしれない。

ユナちゃんが大学4年のとき、夏に卒業旅行として、初めて日本にやってきた。
我が家に、15日間泊まった。

ユナちゃんは、シャイだけど礼儀正しい「愛すべき子」だった。
とても素直で、とても日本人的な子だった。
そして、驚くほど正確な日本語を喋った。

会うとすぐ私たち夫婦を「日本のお父さん」「日本のお母さん」と呼んだ。

日本滞在の最終日の前日、我が家族とユナちゃんの5人でディズニーランドに行った。
ディズニーランドを堪能した後で、ユナちゃんが、私たちに、プーさんの小さなぬいぐるみをくれた。

ぬいぐるみには、手紙も添えられていた。
「お父さん、お母さん、お兄さん、夏帆ちゃん、大好きです。
いつか私は絶対に日本で暮らします」と書いてあった。

28歳のユナちゃんは、いま韓国の病院で事務員兼介護師として働いていた。
ユナちゃんの夢は、日本の病院で働いて、日本で暮らすことだった。

だが、ユナちゃんのご両親は、典型的な反日だった。

一部の韓国人は、排他的な政府や排他的なマスメディア、排他的な教育を受けて、感化されやすい状態になっていた。
それらの人は、自分の意見を持つことをせず、反日のうねりに身を投じることの心地よさに抵抗しないまま、政府の思い通りに反日になっていた。

それは、日本でも同じだ。
排他的な政府やマスメディアの影響を受けやすい、自分の意見を持たない人は、反中、反韓になる。
どこの国も変わらない。

我が娘が大学に入ってすぐ、ユナちゃんは言った。
「うちのお父さんお母さんは、とてもいい人なの。
優しくて、常識もある。
人を見る目も曇っていない」

「だから、夏帆ちゃんが韓国に留学して、たまに私の家に来て、お父さんたちと話をしてくれたら、夏帆ちゃんを通して、日本のいいところを感じ取れると思うの」

「お父さんお母さんは、絶対に夏帆ちゃんを気に入ると思う。
だって、娘の私が、夏帆ちゃんを大好きなんだもの。
大好きにならないわけがないわ。
そうしたら、お父さんたちも考えが変わると思う」

そんなことを言われたら、ひねくれ者の私だったら「何で俺が、そんな面倒くさいことしなきゃいけねえんだよ。俺には関係ないだろうが」と文句を言ったと思う。

だが、我が娘は、「わかった。ユナちゃんの親に会う。そして、仲良くなる」と即答した。

それ以来、ユナちゃんと娘は「一生、友だちでいようね」と約束し、娘は7歳上のユナちゃんを「ユナ」といい、ユナちゃんは娘のことを「夏帆」と呼んで、姉妹以上の愛情で結ばれていた。


娘は、昨日11時50分発の飛行機で韓国に行った。

ユナちゃんは、一昨日、日本に到着して、我が家に泊まった。

そして、昨日の便で娘と一緒に韓国に行った。

最後に、ユナちゃんが言った。
「お父さん、泣かないでね。
私が絶対に夏帆ちゃんを守るから、心配しないで」

そう言うユナちゃんも泣き顔だった。

娘が無事に6か月の留学を終えて帰ることを、大量の涙とともに祈った。


そして、もう一人の我が娘「ユナちゃん」が、日本で念願通り、介護の仕事に就けることも大量の涙とともに祈った。



留学する娘 前編

2016-08-21 08:28:00 | オヤジの日記
私は、バカ親なので、いくらでも自分の娘の自慢ができる。

いま大学3年の娘は、今年92歳になる私の母を尊敬していた。

娘が小学5年のとき、私の母が「夏帆ちゃんに介護してもらったら、こんなに幸せなことはないわ。この世に未練を残さずに死ぬことができるわね」と言ったのを真に受けて、娘は「私がおばあちゃんの介護をする。でも、おばあちゃんは死なせないよ」と言ったのである。

それから、娘は中学に進学し、介護の勉強ではなく、独学で英会話とハングル語の勉強をし始めた。

ハングル語を覚えようと思ったのは、娘が韓国の「少女時代」のファンだったからだ。
当時は、まだ日本ではデビューしていなかったが、YouTubeの映像を見て、娘はすぐにファンになった。
そして、歌詞を理解するために、ハングル語に興味を持った。

英語とハングル語の勉強は、高校に上がってからも続いた。
英語は「英検二級」、ハングル語は「ハングル能力検定四級」を取得した。

だから、私は、娘は大学で語学部に入るものだとばかり思っていた。

高校3年の三者面談。
担任から、「娘さんは、MARCHレベルの大学に入る学力があります」と言われた。
それを聞いて、私と同じ大学に入ってくれたら嬉しいのだが、と勝手に思った。

しかし、娘は毅然として言ったのだ。
「私は社会福祉学部のある大学に入りたいと思います。
祖母と約束をしたんです」

まさか、娘が祖母との8年前の約束を覚えているとは思わなかった。
それは、意外だったが、感動する言葉だった。

学校からの帰り、娘とファミリーレストランに寄った。

いいのか、MARCHにだって入れるかもしれないんだぞ。
私は、娘の意思が固いのを感じながらも、あえて聞いてみた。

「確かにMARCHには入れるかもしれない。
でも、MARCHには、頭のいいヤツも沢山いるだろ。
入ったとしても『特待生』にはなれない。

でも、少し下のレベルの大学だったら、頑張れば特待生になれる可能性はある。
ボクは、それを狙っているんだよね」

娘は、我が家が、超絶なほどビンボーな家庭だということを理解していた。
だから、授業料を親に負担させることを不憫に思っていたようなのだ。

「授業料無料って、魅力的だよな」

娘は、その宣言通り、少し下のレベルの大学に入り、まったく休まずに授業を受け、「S」のフルマークをとった。
その結果、願いが叶って、特待生になった。

2年からの授業料が免除になったのだ。

授業料の免除が決まった日、娘が「お願いがあるんだけど」とヨメと私の前で、神妙な面持ちで頭を下げた。

「3年になったら、韓国に半年間、留学したいんだ・・・」

娘が、その決意を持っていることを私は薄々感じていた。
普段の娘との会話の中で、薄い表現ではあったが、「留学」をほのめかすものがあったからだ。

私は、バカ親ではあるが、バカではない。

息子や娘の「努力」や「健康」に関しては、絶えずアンテナを張って、彼らの動向をキャッチしていた。

我がヨメは、まるで最果ての無人島のように、アンテナが一つも立たない人なので、娘の告白にびっくり仰天だったようだ。
(ヨメは、子どもたちの病気にも気づかないことが、たまにある)

大学3年の後期だけ、韓国に留学したい。
娘は、具体的なプランを語りはじめた。

協定留学先は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、中国、韓国などがあったが、渡航費が安く、生活費が安いことを考慮すると韓国しか選択肢はなかった。

「これから3年生の夏までに、アルバイトで百万円を貯めて、渡航費と生活費は自分で調達します。だから金銭的な迷惑はかけません。それに、アルバイトをしても絶対に成績は落とさない」

留学先の授業料に関しては、特待生の場合、大学側が負担してくれるという。
単位も向こうで取ったものが反映されるというから、卒業時の単位取得に影響はない。
だから、渡航費と生活費だけを用意すれば留学はできる、と娘は言った。

我が家が、どビンボーでなければ、アメリカ留学もさせてあげられたろうが、娘は最初から、それは諦めていたようだ。

韓国で「社会福祉」の勉強をするのか、と聞いた。

「いや、社会福祉は国によって制度が異なるから、参考にならない。ボクは、大学で1年間勉強してみて、日本の社会福祉の仕組みは、ほとんどわかった。だから、韓国に行くのは、社会福祉の勉強のためではない」

韓国の大学では、英語のクラスに入るのだという。

「だって、介護が必要なのは、日本人だけではないだろ?
ボクは、グローバルな気持ちで、色々な人たちを介護したいのさ。
そのためには、英語は必須だろ」

まあ・・・確かに。

反対する理由はなかった。

娘は宣告通り、2年から、昼は大学に通い、夜は近所のスーパーマーケットでアルバイトをして、今年の7月までに100万円を貯め、留学準備を完全に終えた。

2年次の成績も「S」のフルマークだった。
(特待生でなければ、留学中の授業料が免除にならないので、娘は必死だった。絶えず寝不足だった)


留学の話を初めてしたとき、娘は、こんなことも言っていた。

「それに、韓国に行く理由は、もう一つあるんだよね」

ユナちゃんのことだな?

「よくわかったな」

繰り返すが、私はバカ親ではあるが、バカではない。
私が娘のことで知らないのは、娘が毎日どんな夢を見ているか・・・ぐらいだ。


・・・と、ここまで打ったところで、長くなり過ぎたことに気づいた。


この続きは、次回になります。



クラクション

2016-08-14 08:18:00 | オヤジの日記
右耳が聞こえない。
右目が極端な弱視である。

だからと言うわけではないが、ほんの少しだけ障害者の方たちの気持ちがわかる。

・・・と偉そうに言っても、私の場合、日常生活に苦労はしていない。
パソコンを使って、自宅で仕事をしていても、不便に感じることはほとんどない。
きっと、気持ちをわかったつもりでいるだけだと思う。

私が自分から宣言しない限り、右耳と右目が不自由なことなど、誰もわからない。
そして、本当に誰も知らない。

わざわざ宣言する意味がないからだ(ここでは宣言したが・・・まわりが誰も読まないということを前提に書いている)。

家族は知っているが、家族は私に気を使うことなく接してくれていた。
ヨメなどは、毎日わざわざ私の聞こえない右側に立って話しかけるくらいだから、おそらく意識していないのだと思う。


先日、週に何回か、中央線武蔵境駅に向かう道で出くわすご老人が、トラックの運転手に抗議をしている場面に遭遇した。
ご老人が運転手に「クラクションがうるさい」と、少し不自由を感じさせる発声で抗議しているところだった。

ご老人は、どこが不自由なのかはわからないが、三輪の自転車にいつも乗っていた。
その三輪自転車のスピードが、感心するくらい遅いのである。
そして、両手両足が、とても細かった。
ただ、後ろから見ると、ご老人が一生懸命こいでいることは、端から見ても感じ取れた。

暑いときも寒いときも、ご老人はいつも一生懸命に自転車をこいでいた。

自転車の後ろ籠には、伸縮式の杖と黄色いエコバッグがいつも置かれていた。
おそらく、一人暮らしで、毎日買い物に出かけていると勝手に推測した。

歩道のない道。
だから、ご老人は車道を走るしかなかった。
狭い車道だ。

心ない人は、もしかしたら、その姿を見て「邪魔だ」と思うかもしれない。
健常者の数パーセントは、「勝手な生き物」だ。
「健常であることのありがたみ」を知らない。

だから、トラックの運転手も、クラクションをしつこく鳴らして、ご老人に意地悪をしたのだろうと思った。

そこで、ご老人が怒った。

私は勝手にそう思った。

しかし、それは、私の早とちりだった。

トラックの運転手さんが、ご老人の後ろ籠を指さして言ったのだ。
「籠の一部が破れて、杖が落ちそうになっていますよ」

確かに、後ろ籠を見てみると、杖がほとんど落ちかかっていた。
それを運転手さんは、ご老人に知らせるために、クラクションを鳴らしたのである。

多くの人は、ご老人の杖が落ちようが落ちまいが関係ないと思って、知らんぷりをしたと思う。
私も教えないかもしれない。

だが、運転手さんは、それをクラクションを鳴らすことで知らせようとした。

そして、自分のハンカチを籠の穴の空いた部分に当てて、ガムテープで止めることまでしたのだ。

「これは応急処置ですから、自転車屋で直してもらうといいですよ」と運転手さんが、しゃがみながら、ご老人の目を覗き込んだ。

ご老人は、コックリとうなずいて、「ああ・・・悪いね。本当に悪かったね。ありがとう」と、声を無理に絞り出すようにして頭を下げた。
それから、ご老人は、またゆっくりと自転車を動かしはじめた。


トラックは、そのスピードに合わせて、ゆっくりと進んだ。
ご老人がT字路を左に曲がるまで、5分近く、気長にトラックはご老人の自転車の後をついていった。

トラックが大きな通りを左に回ってご老人を追い越すとき、またクラクションを短く鳴らした。
おそらく、ご老人に向けて鳴らしたのだと思う。

私には、その音が、「頑張ってください」に聞こえた。


そんな気持ちのいいクラクションの音を聞いたのは、初めてだった。



6回目の夏

2016-08-07 08:21:00 | オヤジの日記
大学時代の女ともだちの墓参りに行った。

多磨霊園。
今年で6回目になる。

彼女は大学時代の同級生・長谷川の妹だった。
一学年下の妹で、大学も学部も同じだった。

笑顔のキラキラした子で、我々のアイドル的存在だった。
名前をクニコと言った。

長谷川は、大学を卒業すると、父親の経営する400人規模の会社に入った。
クニコは、大学を卒業したのち、大学院に進学し、そのあと父親の会社に入った。

その後、仙台支社ができたときに、責任者として仙台市に移った。

そして、東日本大震災。

仙台支社は、仙台市と石巻市に倉庫を持っていたが、石巻市の倉庫は壊滅。
仙台市の倉庫も半分以上の商品が被害を受けた。

仙台支社長だったクニコは、東京と仙台を何度も往復して、商品の調達に走り回った。
「少しは休め」という長谷川の忠告を無視して、ほとんど不眠不休で働いた。

その激務がじわじわと体を痛めつけたのか、その年の6月に死んだ。
心不全だった。

クニコは結婚していなかったが、当時20歳の養女がいた。
遠い親戚の七番目の子だった。
名前を七恵と言った。

クニコの葬式で養女の顔を初めて見たとき、血の繋がりが薄いのに、似ている部分が多いことに驚いた。
その顔を見て、七恵を養女にした理由が、少しだけわかった気がした。

葬式には、大学時代の友人が数多く参列した。
その中の一人、野中に、「おまえのレースに、クニコはよく来て、デカい声を上げてたよな」と懐かしむように言われた。

確かに、そうだった。
大学陸上部で短距離選手だった私が参加する大会に、クニコは必ず来てくれて、「マツー、飛ぶように走れ!」といつもデカい声で声援を送ってくれた。

その通りに、飛ぶように走ったが、思わしい結果は出なかった。
東京都の大会、関東大会で、決勝に残ったのは、たった二度だけだ。

飛ぶように走るだけではダメなのかな、才能がないのかな、と思ったが、クニコは「まあ、マツのすごいところは怪我をしないところだよな」と、少しピントのずれた褒め方をしてくれた。

そう言えば、中学、高校、大学にわたって、私は一度も怪我をしたことがなかった。
それは、小さい意味で「才能」と言えたかもしれない。

だが、大学3年の11月に、左膝を痛めた。
私は、走りながら治すつもりだったから、練習は休まなかった。
だが、悪化した。

そんな私を見て、クニコが何度も「マツ、医者に行けよ。気合いで治るわけないだろ」と言って、私を叱った。
膝を痛めてから3か月後に、意を決して医者に行ってみたら、「膝内側側副じん帯損傷」と言われた。
全治4か月とも言われた。

4か月後は4年生になっている。
その頃治っても、あまり意味はない。

だから、陸上部をやめた。

大学キャンパスで、陸上部をやめてから、初めてクニコに会った。
そのとき、言われた。

「マツは思い切りがいつもいいよな。そこが、あたしにはできないところだよ。でも、もう少し続けてほしかったな」

隣には、兄の長谷川がいた。
そんなことを言うクニコを見ながら、長谷川が「こいつが、こんな口の聞き方をするのは、マツだけだよ。他の先輩には敬語を使うのに」と言った。

どういう意味だよ、と聞くと「そういう意味だよ」と長谷川が答えた。

なぜか、クニコのパンチが私の腹に飛んできた。

痛さにもだえている間に、2人はいなくなった。


あれから、30年後に、クニコが死んだ。
自分によく似た養女を残して、一人で死んだ。

墓参りを一緒にしたのは、今年25歳になったクニコの養女・七恵だ。
友人の長谷川は、昨年社長を辞めてしまったが、七恵はその会社で業務部に所属していた。

そして、今年の10月からは、クニコのいた仙台支社の管理部に移るという。

自分から望んだのか、と言ったら、「当たり前でしょ。私が母のやり残したことをやるんだから」とけんか腰で言われた。

その口調を聞いて、似ていると思った。

東京には、もう帰らないつもりだな、と私が言うと、七恵が小さく息を吸った。
そのすきに、当たり前でしょ、と私が七恵の言い方を真似て先手を取った。

腹にパンチが飛んできた。


クニコのときと違ったのは、「バーカ」と勝ち誇ったように言われたことだ。


クニコはきっと、成長した七恵を、空の上から頼もしそうに見ているにちがいない。


そのとき、セミが、私の右頬に強く当たって、何ごともなかったかのように、空に勢いよく飛んでいった。

七恵と一緒に、セミが飛ぶ姿を追いかけた。


七恵が「母さん、またいっちゃったね」と呟いた。


それを聞いて、私の中で、6回目の夏が終わったと思った。