リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

コジマだよ!

2017-05-28 06:43:00 | オヤジの日記

武蔵野に住んでいたときお世話になったオンボロアパートのオーナーから電話があった。

 

「Mさん、ちょっと困ったことになってね、お知恵を貸してもらいたいんだけど」

 

このオーナーには、とてもお世話になった。

オンボロアパートをオーナーの都合で取り壊すことになったとき、次の引っ越し先を探していただき、引っ越し代、敷金、礼金、2か月分の家賃を融通していただいた。

なんの苦労もなく、東京国立に引っ越すことができたのはオーナー様のおかげだ。

恩人と言っていい。

だから、お役に立ちたい。

しかし、こんな非力なガイコツにできることはあるだろうか。

 

一応、話だけ聞いてみた。

オーナーが、30年前に、武蔵野にアパートを2棟建てたとき、新宿の不動産屋に管理を頼んだ。

そして、10年前に、三鷹にアパートを2棟建てたときも、その会社に管理を頼んだ。

しかし、この不動産屋が、ひどかったという。

管理をするといいながら、住民から苦情が来ても1か月はほったらかし。

廊下の電灯が切れてもそのまま。水漏れがしてもそのまま。トイレが壊れてもそのまま。

住民に対して、高圧的な態度を取ることもあった。

管理費分の働きをしていなかったようだ。

そこで、オーナーは、その不動産屋との契約を打ち切り、7年前に自前の管理会社を立ち上げた。

社員3人に専門的な教育を施し、自分の所有するアパートや美容院、月極駐車場、他の人が所有するビルの管理をするようになった。

 

武蔵野のオンボロアパートは、もうすでに壊されていて、年内に2棟の新しいアパートが建てられる予定だ。

しかし、それを聞きつけた新宿の不動産屋が、オーナーに接触を試みるという事態になった。

「素人さんが管理をするのは無理ですね。何かあったとき、取り返しがつかないことになりますよ」と営業の男に言われた。

「素人さんはプロに頼った方がいいんです」

オーナーの杉並区荻窪にある自宅兼事務所に2度顔を出して、さりげなく威圧したというのだ。

 

ヤクザさんか。

 

「今度は、上司を連れてきますよ」という捨て台詞を残していったのが、先週の月曜日のことだった。

そして、今週の火曜日、上司を連れてやってくるという連絡があったという。

「嫌なんだよね。なんか、危ない人と話をしている感じがして」と、オーナーが憂鬱な口調で言った。

「危ない人」というフレーズで、私の頭に、二人の男の顔が思い浮かんだ。

新宿で、いかがわしいコンサルタント会社を経営する大学時代の同期、バッファロー・オオクボと極道コピーライターのススキダだった。

 

オオクボは、大仁田厚氏に似た馬力のある風貌をしていた。

そして、ススキダは、どこから見ても極道だった。

それを本人もわかっていて、ファッションも極道寄りにしていた。

私は、早速二人に連絡を取って、オーナーの窮状を伝えた。

オオクボの第一声は「ちょろいな」だった。そして、ススキダは「ワクワクするぜ」だった。

 

二人との打ち合わせは、簡単に終わった。

火曜日。

何の役にも立たないヒョロヒョロのガイコツは、オーナーの事務所の衝立ての影で、床に胡座をかいて、一番搾りを飲みながらパソコンを開いていた。

事務所にWEBカメラを仕掛けていたのだ。

私が出ていっても相手に威圧感を与えることができない。だから、裏方に徹しようと思った。

 

不動産屋がやってきた。

二人とも小太りの小さい男だった。

いきなり、「どうですか、決心がつきましたか?」と来た。

挨拶もしないのかよ。

本当に、ヤクザさんみたいだ。

オーナーのコジマさんは、憮然とした顔で無言。

そこで、私はススキダたちに、LINEでゴーサインを出した。

 

二人が勢いよくオーナーの事務所の扉を開けた。

反応する不動産屋。

顔が険しくなった。

それに対して、悠然とした歩みで不動産屋に近づくオオクボ。

「新宿でコンサルタントをしているものです」と、二人に名刺を渡した。

えんじ色のダブルのスーツという「いかにも」の出で立ちで、見事に楽しんでいた。

「コンサルタントがなんで?」という当然の疑問を持つ不動産屋。

「私のお客様なんです」と言いながらオオクボは股を大きく広げて前屈みに座った。

次に、ススキダが自己紹介もせずに、いきなり二人の前に座って、「言った言わないは嫌だからよ。今回の話は、録音させてもらうからな」とボイスレコーダーをテーブルに置いた。

そして、二人を交互に睨んだ。

二人は雰囲気にのまれたのか、無言で頷いた。

 

すかさず、オオクボが口を開いた。

丁寧な口調だった。

「コジマさんは、私の大事な顧客です。コジマさんの不利益になることを阻止するのが私の役目です。そちらが無理な要求をすると、こちらのススキダさんともども、面倒なことを考えなければいけなくなります」

そして、ススキダ。

「俺は、歌舞伎町にビルを持っていてな、コジマさんとオオクボさんに世話になっているんだよ」

ススキダが歌舞伎町にビルを持っているのは本当だ。

亡くなったススキダの父親が所有していたものを継いだのである。

そして、突然立ち上がって、「新宿署の捜査二課って知ってるか」と言った。

立ち上がったまま、無言で二人を見下ろすススキダ。

「俺の言いたいことは、わかるよな」

(おまえ、本当に極道にしか見えないな。ハッタリに見えないもんな)

 

相手は無言だったが、勝負ありだった。

手も足も出ないダルマさん状態だ。

しかし、ここで終わってしまったら、オオクボ、ススキダ二人の手柄になる、と私はみみっちいことを考えた。

そこで、私は衝立てから姿を出し、ススキダに向かって竹刀を投げた。

これは、アドリブだった。

たまたま事務所に竹刀が2本あったから、使ってみただけだ。

私の意図をすぐに感じ取ったススキダと、机のこちらと向こうで、立ち合いをし始めた。

ススキダは、スポーツはほとんどダメな情けないやつだったが、剣道は3段の腕前だった。

竹刀の音が、バシバシと響いた。

そして、品のないことに、ススキダが「キエーッ」とか「チェストー」とか叫ぶから、室内は動物園のサル山のようなやかましさだった。

 

突然、もう一人男が現れて、竹刀を振り回すとは、誰も想像できないであろう。

打ち合ったのは、せいぜい一分ほどだった。

気の済んだ私は、竹刀を放り棄てて、また衝立ての向こうに消え、床に胡座をかき一番搾りに口をつけた。

竹刀を持ったままのススキダが、ほとんど放心状態の二人に、「騒がしくして悪かったな。でも、もう来るなよ」と睨んだ。

さらに、今まで紳士的な態度だったオオクボも態度を変えて、「来てもいいが、覚悟の上で来るんだな。ススキダさんを敵に回す度胸があるのなら、俺は歓迎する」と凄んだ。

 

不動産屋二人は、無言で立ち上がり、顔を蒼白にして逃げるように事務所を出ていった。

 

「大成功」と書いたプラカードを出したいくらいの大成功だった。

 

今回の件をプロデュースしたガイコツが、誇らしげに衝立ての影から姿を現して、オーナーに言った。

 

「これで、アイツらも二度と来ないと思いますよ、オオシマさん」

 

「コジマだよ!」

 

私のボケに、正常に反応してくれたオーナー。

さすがだ。

4人で机を叩いて笑った。

「でもねえ」とオーナーが言った。

「Mさん、あんた、本当に性格が悪いねえ」

 

え? 俺だけ?

ススキダは? オオクボは?

 

 

え? 俺だけ?

それはないですよ、ノジマさん。

 


ロックスターじゃない

2017-05-21 06:47:00 | オヤジの日記

就職活動中の娘が、水曜日、内々定を貰った。

 

ただ、内々定したからといって、完全に進路が決まったかというと、そうではない。

まだ、いくつかの選択肢を娘は持っているようだ。

だが、内々定はめでたい。

だから、乾杯をしようか、ということになった。

場所は、私の長い友人の尾崎が中野でやっているスタンド・バーに決めた。

 

実は、娘の二十歳の誕生日に尾崎に頼んで、スタンド・バーで「初飲み」をしたことがあった。

スタンド・バーだから、本来ならスツールはないのだが、尾崎が娘に気を使ってくれて、洒落たスツールを2つ用意してくれたのだ。

しかも、店を貸し切りにして。

その店は、尾崎の店ではあるが、尾崎は店には出ない。

店を取り仕切るのは、尾崎の義弟だった。

まずは、ビールを・・・ということで、クアーズライトを出された。

苦みの少ない、サッパリとした味わいのビールだ。

初めて飲むことを考慮して、尾崎の義弟が選んでくれたのだ。

その気配りは当たって、娘は「美味いな。ビールって、もっと苦いと思っていたけど、イメージが違うね」と気に入った。

2杯目は、シーバスリーガルだった。

娘は水割り、私はロックだ。

初めてのスコッチ・ウィスキー。

やや甘みのあるフルーティで飲みやすいウィスキーだ。

これも初めてだから気を使ってくれたのだろう。

3杯目も同じもの。

娘は、私に似て、酒が強かった。

1時間半で3杯というスローペースだったこともあったが、顔が赤くなることはなかった。

饒舌になるということもない。

 

腰を上げようとしたそのとき、今までかかっていたジャズが終わって、ZARDの歌が流れてきた。

「夏を待つセイル(帆)のように」だった。

私が、娘の名前の入ったこの曲を聴くと泣くのを尾崎の義弟は知っていて、たまに不意打ちのように流すのだ。

私が泣いている姿を見て、同じように涙を流す娘。

それを無表情に見つめる尾崎の義弟。

意地の悪い男だ。

 

 

内々定を貰った次の日。

スタンド・バー。

1杯目は、前と同じで、クアーズライトだった。

乾杯をしようとした。

そのとき、驚いたことに、尾崎の義弟が、「僕もさせてもらっていいですか」と聞いてきた。

もちろん。

3人で乾杯をした。

そして、尾崎の義弟が、私の顔を窺うように、ためらいがちに口を開いた。

「4日前に、娘が産まれました」

娘とふたり、立ち上がって拍手をした。

背を向ける尾崎の義弟。

背を向けたまま、震える声で「ありがとうございます」と言った。

名前は?

「カナンと言います。夏の南と書きます。女房が、南を2つ続けてナナと言いますので、それから取りました」

まだ、背を向けたままだった。

 

尾崎の義弟の背中に、私は、こんな話をした。

 

浜田省吾の曲に「I am a father」というのがあった。

決して、スーパーマンやヒーローではないが、家族のために懸命に働いて、家族を守るという歌だ。

そして、俺はムービースターじゃない、ロックスターでもない、ただの普通の父親として家族の明日が、いい日になることを信じている、と歌っていた。

 

俺は、君がカナンちゃんのために、普通の父親になってくれることを願う。

俺は、君が出す酒を信じているから、ここはとても居心地がいい。

それは、君のおかげだ。

君はロックスターではないかもしれないが、最高のマスターだよ。

私が、そう言うと娘も頷いた。

 

くるりと振り向いた尾崎の義弟が、握手を求めてきた。

握手した。

娘もした。

 

最後に出されたのは、「響」の17年ものだった。

なぜ、尾崎の義弟が、それを選んだのかが、私にはわからなかった。

だが、普段は口数の少ない尾崎の義弟が言ったのだ。

「僕の祝いの酒です。祝いたいとき、僕は必ずこれを飲みます。幸せな気分になるんです」

 

今までに何回これを飲んだ? と私が聞くと、尾崎の義弟は、切ない笑顔を作って「3回ですかね」と答えた。

「尾崎に、この店を任されたとき、入籍したとき、子どもが産まれたとき」と指を折った。

祝いたいときが3回。

そして、今回が4回目。

私たちは、とても貴重な機会を共有したようだ。

カナンちゃんに乾杯、とまた娘と二人でグラスを持ち上げた。

尾崎の義弟の目から涙が溢れ出してきたので、私たちは、見ない振りをして「響」を飲み干し、店を出た。

 

中野駅までの道。

娘が言った。

「『響』は、ボクたちも祝いのときだけに飲みたいな。ロックスターじゃないおまえには、お似合いだ」

 

俺は、もうスターダストだからな。

 

「確かに」と娘。

 

 

内々定、おめでとう。

 

 


言い訳とお詫び

2017-05-14 06:48:00 | オヤジの日記

「忙しい」というのは、言い訳として、たいへん優れた言葉だ。

 

ただ、私は根拠もなく忙しがっているわけではない。

私の一日は、テレビのレギュラー番組を10本以上持つ有吉弘行氏ほどではないが、濃密なスケジュールで埋められている。

朝4時40分に起きて、家族の朝メシを作り、息子の弁当を作る。

そのあと、我々が住むマンションから400メートルほど離れたところに住む私の母親に朝ご飯を届ける。

 

母は、93歳だ。

足腰は衰えたが、口先と手先は達者だ。

お昼ご飯と洗濯、掃除は昼間にヘルパーさんが来てやってくれるが、トイレは一人で行けるし、趣味の書道は毎日欠かさずやっているようだ。

他に、ステレオをつけっぱなしにして、アデル、ノラ・ジョーンズ、ケルティック・ウーマンなどの曲を聴いたりもしている(ただ聴力が衰えているので、普通より音がでかいのが難点だ)。

晩ご飯は、私が作ったものをヨメが届けてくれる。

あと7年で百歳。

「頑張ってみようかしら」と嬉しいことを言う母だ。

 

メシ関係の他に私がすることは、困ったことに、仕事しかない。

仕事部屋で朝6時半頃からパソコンをカチャカチャし、ときに営業に行き、業者に仕事をお願いし、ときに支払いたくない諸々のものをネットバンキングで振り込む。

私が考え事をしていると、ヨメなどはサボっていると思うようだが、ボーッとしているように見えても、デザインのアイディアをひねり出していることがほとんどだ。

たとえ、カチャカチャしていなくても、私の脳は仕事をしているのだ。

そんな作業は夜の12時まで続いて、そのあと5分で風呂に入り、クリアアサヒを3分で飲み、娘と15分程度会話した後に眠る。

 

そんな日々を繰り返している。

ありがたいことに、丸一日休みが取れることは滅多にない。

腐りかけのガイコツ・デザイナーなのに、皆様、腐りかけが好きなのか、なぜかいい仕事を途切れることなくくださる。

いつか「骨格標本」にでもしようと思っているのかもしれない。

 

こんな日常に、去年の6月から、介護老人保健施設通いというのが加わった。

母の従兄弟の息子さんが、火事で右足首が壊死したため、日常生活を送るのが難しくなった。そこで、川崎の介護老人保健施設の入所を薦められた。

その人は、「タカシさん」と言うのだが、細々ながらも血の繋がった人が、母と私しかいない。

施設に入ったり、病院で治療を受けるときは、血縁関係にある人の許可が必要となる。

だから、たとえば、施設内で突然具合が悪くなって、救急車で病院に運ばれた場合、私が川崎まですっ飛んでいって、治療に立ち会わないといけないという段取りになる。

昼間なら電車があるが、真夜中だと困ったことになる。

私はビンボーなので車を持っていない。

しかし、原付バイクならある。だから、原付バイクで国立から川崎まで片道30キロの道をガイコツ・ライダーとして、颯爽と疾風することが今まで5回あった。

家に帰るのが朝の4時だった場合、寝ている暇はない。家族の朝メシ、弁当を作り、さらに母にご飯を届けるという日常が、そのまま繰り返されることになる。

そして、少しでも時間が空いたら、体力維持のためにランニング。

食材の買い出しも私の仕事だ。

洗濯物も私が干す。

皿洗いだって、やりまっせ。

 

なぜ、そんなにスケジュールをタイトにするかというと、私は、自分が「生来のナマケモノ」であることに気づいているからだ。

私は、一度怠けたら、徹底的に怠けるナマケモノだ。

そのことを知っているから、そして、それが怖いから、自分を「シャープなガイコツ」として縛っているのだ。

それに、私は真面目に仕事をこなしていれば、その仕事が次の仕事を呼びこんで、さらに上のステップに行けると信じている「真面目仕事教」の信者だ。

仕事は自分を決して裏切らない、と固く信じているバカモノと言ってもいい。

 

 

以上のようなことがありまして、思いがけず、たくさんのコメントをいただきながらも、返事をすることができません(すべて目を通しております)。

こんな腐りかけのブログを真面目に呼んでくださる方が大勢いらっしゃることは、私としては想定外の出来事です。

もちろん、お返事を放棄するつもりはありません。

ただ、しばらくの猶予をいただきたいと思います。

 

 

我が家のブス猫・セキトリも、このようにお詫び申し上げております。

 

 


ナイスさんの入れ墨

2017-05-07 07:50:00 | オヤジの日記

大学4年の娘の友だちがタトゥーを入れたらしい。

 

目立たないところに、彼氏の名前を入れたという。

「やめろって言ったんだけど、舞い上がっているから聞かないんだよね」と嘆く娘。

タトゥーがいいか悪いかは、個人の価値観の問題だから、第三者が何を言っても説得は難しいと私は思う。

やめろ、と言われたら、よけい感情に火がついて、逆効果になる可能性がある。

人間とは、「反発する生き物」だ。

説得は、反発の引き金になる。

おそらく何を言っても無駄だったのではないか。

 

入れ墨に関しては、ほろ苦い思い出があった。

小学校5年の時だった。

私は、友人3人とよく近所の空き地で、キャッチボールをしていた。

ほとんど毎日そこでキャッチボールとバットを使ってのノックをしていた。

 

その空き地の隣に、マンションが建つことになった。

そして、工事現場の脇には、飯場(作業員が寝泊まりする場所)があって、私たちは、そのうちの一人の若い男性と仲良くなった。

「俺、中学のとき、野球をやっていたんだよ。だから、混ぜてよ」と言われた。

ガッチリした体格で、明るくて声のでかい人だった。

 

私たちがいい球を投げたり、いいスイングをしたりすると、「ナイス!」と言って弾けるような笑顔で褒めてくれた。

だから、私たちは、彼のことを「ナイスさん」と呼んで、慕っていた。

ナイスさんは、20代前半だったと思う。

動きがキビキビしていて、表情が豊かで、何よりも子ども好きだった。

愛すべき人だった。

 

4月から6月。

季節は過ぎて、暑くなってきた。

いつも長袖のシャツを着て、私たちと遊んでくれたナイスさん。

 

6月半ば、梅雨の晴れ間に、耐えられないくらい暑い日がやってきた。

そんな時でも、私たちは空き地でキャッチボールをした。

ナイスさんも「今日は暑いなあ」と言いながら、私たちの相手をしてくれた。

そして、あまりにも暑かったので、ナイスさんは「悪いな、裸になってもいいかい?」と私たちに聞いたのだ。

「いいよ」と答えた。

 

長袖のシャツを脱いだナイスさんの背中には、般若の入れ墨があった。

 

それを見た私たちは驚いて、「わわわ」と言いながら逃げ帰った。

それ以来、私たちがその空き地に近づくことはなかった。

 

それから2か月が経って、マンションは完成し、飯場はなくなった。

私たち4人が2か月ぶりに空き地に足を踏み入れたとき、当然のことながらナイスさんの姿はなかった。

あったのは、空き地の水飲み場に残された木片だけだった。

 

その木片に書かれた文字。

「楽しかったよ、ありがとう。4人の野球少年たち」

ナイスさんが、書き残した言葉だった。

 

それを見たとき、私たちは、とても悲しい気持ちになった。

いつも明るく振る舞って、私たちを愛してくれたナイスさんを背中の入れ墨を見ただけで、嫌悪したこと。

入れ墨があってもナイスさんはナイスさんなのに、なぜ私たちはそれを受け入れることができなかったのか。

 

「俺たちは、ナイスさんを傷つけたんじゃないかな」

 

いつもは軽く感じる軟式ボールが、とても重たく感じられて、私たちはすぐにキャッチボールをやめた。

4人の耳には、ナイスさんの「ナイスだよ!」が、こだましていたと思う。

 

その「ナイスだよ」の声は、今も私の耳に強く残っていた。

 

 

「入れ墨」「タトゥー」を思うとき、私にはナイスさんの「ナイスだよ」が強く思い浮かぶのだ。

 

それを思うとき、タトゥーにも人生があるのだな、と強く感じる。

ナイスさんの入れ墨は、きっと彼の人生にとって必要なものだったのだ。

ヤクザさんがする入れ墨と一般の方たちがする入れ墨が、どう違うのかは、わからない。

 

だが、そこに数々のドラマが存在するとき、無闇に否定するのもどうかな、とは思う。

 

ナイスさんが、その後、どんなドラマを作ったのかはわからないが、まぶしすぎるほどの笑顔をまわりに振りまいて、人を幸せにしたことを私はいま信じて疑わない。

 

 

入れ墨を見て、ビビって逃げた私が言っても説得力はないかもしれないが・・・。