リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

心が狭い

2013-11-24 07:54:00 | オヤジの日記
以前このブログで「ノムラ嫌い」というのをエントリーしたことがあった。

野村克也氏の存在があるから、私はプロ野球に興味がないのだ、という内容だった。

それに対して、「ずいぶんと心が狭い」というコメントをいただいた。

心が狭い、という件に関して、反論するつもりはない。
自分でも、そう思っているからだ。

ただ、私は自分の心が狭いことがわかっているが、意外と人は自分のことをわかっていないことが多いという話を。


同業者に、野菜嫌いの男がいる。
特にピーマンとニンジン、椎茸は天敵だと言っている。

まるで子どもではないか。

彼の家族とたまにバーベキューパーティをする。
彼と彼の子ども二人は、肉ばかり食う。
野菜は、焼きそばに入っているキャベツだけだ。

それに対して、私は肉も食うが魚も野菜もバランスよく食う。

しかし、サトウは言うのだ。
「おまえ、肉食わないから、太れないんだぞ」

サトウは、176センチ、80キロ。
私は、180センチ、56キロ。

体型のイメージから、最初から私が肉を食わないと決めつけているのである。

サトウは、「肉を食うのがバーベキューだ」と断言する。
彼の二人の子どもも、親の真似をして、肉だけに食らいついている。

私の息子は、肉が大好きだ。
しかし、野菜も食う。
娘は肉が苦手だが、食わないことはない。
だが、野菜はもっと苦手だ。

その娘を見て、サトウは「Kちゃんは、野菜が嫌いか。そうだよな。こんなものより肉の方がいいよな」と得意げだ。
肉を食っていない娘を指さして、私に「おまえの子どもにしては、まともに育ったな」と言う。

おそらく頭が悪いのだろう。


大学時代の友人に、納豆が食えない男がいる。
「あんな臭いもの食えるかよ。俺は関西人だから、生まれたときから納豆には縁がないんだ。あんな臭いものを平気で食う関東のやつらはおかしい」と威張っている。

関西人とは言うが、シノヅカは福井県の生まれだ。
家の所在は、福井県の南の方で、京都に近いらしい。

「車なら京都まで10分だ。だから、俺は関西人だ」と言う。
さらに、「関西では、納豆は食べないし、コンビニにも売っていない」と強弁する。

しかし、得意先の、大阪生まれ大阪育ちの若い子は、子どもの頃から納豆を食べていたらしい。
「俺、一日に平均3パック食べますから」と言っている。

私が、それを教えると、シノヅカは「親が関東なんだろう」と抵抗する。

いや、両親も関西人らしいぞ。

「まあ、関西人にも色々いるからな」

当たり前だ。
頭が悪すぎる。


同業者の友人は、「俺は絶対に邦画は見ない。ジブリも見ない」と言っている。
「邦画には華がない。いい役者がいない。安っぽい」とも言っている。

そして、「テレビドラマも日本のは見ない。アメリカのものだけだ」と威張っている。

そんな極端な趣味を持つオオキが、私がプロ野球を見ずに、メジャーリーグばかり見ているのを非難するのだ。

「アメリカはメジャーリーグより、バスケットの方が面白い。俺はメジャーリーグには興味がないね。メジャーリーグを見るくらいなら日本の野球を見る。日本の方が戦術がきめ細かくて、俺に向いている」

そして、最後に、こんなことを言うのだ。

「おまえも、偏った見方ばかりしないで、広く世間に目を向けた方がいいぞ」

おそらく、頭が悪いのだろう。


ところで、ここからが本題なのだが、日本テレビ系の「世界の果てまでイッテQ」という番組で、タレントのイモトさんが、マナスル登頂に成功した。

そのことに関して、「ある業界人」が「イモトのマナスル登頂は、一流のシェルパや医師が同行し、費用も数千万円以上かかった。この番組のせいで、登頂に失敗した登山家が『イモトでも登れたのに』と言われたら立つ瀬がない」と語っているという記事を読んだ。

他の「登山関係者」は、「登山家たちは、命をかけてやっているのに、テレビ局がお遊びで大金を注ぎ込むのは、フェアではない」とも言っているらしい。
(いつも思うのですが、この「ある業界人」とか「~~関係者」というのは、本当にいるのでしょうか。想像上の生き物ではないでしょうかね。ネッシーと同じような)

この記事が本当だとして、その登山家たちが、もし同じ条件の登山企画があって、「あなたに是非のぼっていただきたい」と、テレビ局に頭を下げられたら、彼らは、それを断れるだろうか。

彼らは、「ねたみ」という「狭い心」で、文句を言っているのではないか。


だが、こんな仮定の話をしても意味がないことは、私にもわかっている。

山に篭める思いや願いは、人それぞれだからだ。
そして、その「それぞれ」の中に、たまたまイモトさんが入っていたというだけのことである。
(金額がかかるかからないは、テレビ局側の事情だ)

異論があるのは当たり前だと思う。
登山家としてのプライドもあるだろう。
それは、わかる。

だが、「普通の人ができないことをやった」場合は、素直に讃えることも必要だと私は思うのだが。



どうでしょうか。

今回は、「心の狭い」内容ではなかったのでは?

いや、こんなことを書くことこそ、「心が狭い」ことか。


反省するふりをしておこう。



ファミレスのマナー

2013-11-17 07:41:01 | オヤジの日記
料理が趣味なので、料理関係の記事がネットでトップにあると見てしまうことが多い。

先日、料理ではないが、「海外で人気 和製スイーツ」というタイトルに惹かれて、記事を読んでみた。

器用な日本人が作る和菓子、洋菓子が世界で注目を集めているという産經新聞の記事だった。
ただ、記事を読み進んでいっても、菓子の何かにスポットライトを当てるでもなく、誰か有名な職人に密着したものでもなく、現象を上っ面だけ追いかけて、ただ紹介しました、という内容のないものだった。
本当に世界で注目を集めているのか、まったく説得力に欠ける記事だった。

最後に記事を書いた記者の名前が書いてあったところは、「書き逃げ」ではなく好感が持てた。
しかし、それだけの記事だった。

そう思いながら、下にスクロールしていくと、ヤフーおなじみのコメント欄があった。

そこに、こんなのがあった。


「日本の食文化が成熟している証拠 キムチとは大違い」
そのコメントに対して、2千人以上の人が賛成していた。


菓子の記事に対して、キムチを引き合いに出し、どこかの国を批判する。
私は、こういうパラノイア(偏執狂)的な思考が好きではない。

日本の菓子の記事に、無理やりキムチを連想するという、その神経がわからない。
食文化の比較論など、その記事のどこにもないのだ。
そんなに、キムチのことが気になるのだろうか。


私も、中韓鮮が日本を国として認めないかのような態度には怒りを覚えるが、だからといって、相手国と同じレベルの思考方法で相手をけなすことは、できるだけ避けるようにしている。

中韓鮮が、普通の話し合いができる大人の国になるまで、待ってもいいのではないかと思っている。

「国」という、大きな宿題を与えられた政治家が、それを持て余して、未熟な民に「悪者はあいつらだ。それが答えだ」と、民に宿題の答をバラまいている状態が、今の近隣三国だ。

ここは、相手が成長して、もう少しまともな答案が返ってくるのを待つのが大人の対応というものではないだろうか。


先日、コピーライターの友人とファミレスで、仕事の打ち合わせをした。

そのとき、大声で話をしている集団がいた。
言語から察するに、中国の方だ。
20~40才くらいの男女混合。
男が4人、女が3人だった。

呆れるくらい、でかい声だ。
石焼き芋の販売車が、2台すれ違ったような音量である。

すべてを確かめたわけではないが、私の目に入った店内の客みなが眉をしかめていた。

お国柄、と言ったらそれまでだが、「人目をはばかる」という概念がもともと抜け落ちていなければ、あれほどの大声で話し続けられるものではない。

あとで、友人に聞いたら、話の半分は、日本か日本人の悪口だったらしい。

経済大国と言ってもたいしたことはない。
トイレはきれいだが、人間は24時間トイレで暮らしているわけではないから、トイレだけ綺麗でも意味がない。
日本はもはや目標ではない、というようなことを言っていたらしい。
(本当はもっと凄まじい表現を使っていたのだが、それは秘密にしておく)

なぜ友人が、それがわかったかというと、彼が日中の混血だからだ。
お父さんが中国人、お母さんが日本人。
中国で暮らしたことはないが、広東語はそれなりに話せるし、聞くだけなら9割くらい理解できるらしい。

「言っておくが、中国人の全部が全部、あんなんじゃないからな。誤解するなよ」

それは、わかっている。
おそらく、礼儀知らずは一握りだけだろう。
ただ、その一握りが、全体のイメージを悪くするのは、どの国でも、どんな現象でも同じだ。

だからこそ、マナーというものがある。
マナーが必要になる。

そして、マナーは教育で培われる。
その教育がおざなりだった人は、不幸だ。

同じレベルの人としか付き合えない。
「みんながこうだから、俺もこれでいいんだ」と思ってしまう。
自分が正しいと思っていることを注意されたら、逆ギレをする。

だから、いつまでもマナーが身に付かない。

それは、本人にとっても、まわりにとっても不幸なことだ。
しかし、こうなってしまうと、なかなか治るものではない。

「眉をひそめられる人」と「眉をひそめる人」の間の溝は、簡単には埋まらない。


打ち合わせが終わって、二人で席を立った。
レジに向かう前に、コピーライターの友人が、大声集団に近づいた。

そして、何かを話した。

大声集団の顔が、人が消えるマジックを見たときのように、驚いた表情のまま固まった。
そして、皆がうつむいた。


店を出てから、何と言ったんだ、と聞いた。


「あなたたちの国は、世界有数の大国になった。日本も追い抜いた。しかし、人として一番肝心なマナーは、日本の5歳児にも負ける。今日、父の国の恥を見て、私は情けなくて死にたくなった、というようなことを言ったんだけどな」


いつもは、横柄な嫌なやつだと思っていたが、このときほど彼がカッコ良く思えたことはない。


ピッチャーの品格

2013-11-10 08:23:03 | オヤジの日記
少し時が経ってしまいましたが、東北楽天ゴールデンイーグルス、日本一おめでとうございます。

試合は見ていないので想像だが、第7戦まで行ったということは、かなりの激闘だったと思われる。

日本球界の常識からすれば、日本球界の盟主様であらせられるジャイアンツが勝つというのが、予定調和の当然の帰結点のはずだろうから、イーグルスがそれを覆したのは、すごいことだと思う。

抗うことのできない何らかの力が強い流れを作り、イーグルスの背中を押したのかもしれない。

田中将大投手が、今年初めて負けたらしいが、そのことがむしろ今まで絶対的ヒーローの陰に隠れていた選手たちの能力を引き出して、止まった流れをイーグルスに引き戻すきっかけになったというのは、素人考えか。

いずれにしても、新しい時代を築いた選手の皆様、監督、コーチの方々、ファンの皆様方、おめでとうございます。


イーグルス、と言えば、負けないエース、田中将大投手。

ネットで、田中氏が沢村賞の栄誉を受けたという記事を見た。
沢村賞は、投手にとって勲章だという。
しかも、2回目というではないですか。
日本球界の大エースですね。

そこで、全くの野球素人である私は、軽い興味で、沢村賞というのをネットで調べてみた。

選考基準というのがあって、登板試合、完投数、勝利数、投球回数、奪三振、勝率、防御率の7つ。
それを満たしている投手の中で、一番優秀だと思われる投手を、選考委員の方々が合議で選びなさるらしい。

歴代の受賞者を見てみると、プロ野球に詳しい友人にお伺いを立てると「伝説の投手」と言われる方々が、綺羅星のごとく列記されているという。

しかし、私は野球には無知なので、半分以上の方を知らなかった。

江川卓氏や金田正一氏、星野仙一氏、野茂英雄氏、ダルビッシュ有氏、松坂大輔氏、上原浩治氏は、顔と名前が一致するが、他の方は名前は知っていても顔が思い浮かばない方々ばかりだ。

でも、きっとすごい投手だったんでしょうね。

今年の受賞者・田中将大氏繋がりの記事を見ていたら、2年前の沢村賞選考のとき、委員の方から、田中氏には「品格がない」というクレームがあったらしい。

記事を読み進むと、打者を打ち取ったときのガッツポーズと雄叫びが「品格がない」ということらしいのだ。

秀でた成績を上げたプロ中のプロに対して、技術ではなく「品格」でクレームを付けるとは……では、沢村賞の定義って何だ、と再び選考基準を見直してみたら、「品格」などという曖昧なものはなかった。

「広辞苑」で調べてみると、「品格」とは、物の良し悪しの程度、品位、と書いてある。

おそらく、選考委員のどなたかは、ガッツポーズや雄叫びが、物の善し悪しの「悪し」の方だと判断なさったのだろう。

だが、私には、それが野球の投手、あるいはアスリートに必要なものとは思えない。

たとえば、サッカーでゴールをした選手が、喜び走り回る姿も「悪し」だと判断なさって、その方は「品格がない」と仰るかもしれない。
テニスで、4代大会の一つで優勝した選手がコートに寝っころがって喜ぶ姿も「品格がない」。
バレーボールの試合でアタックが決まったあと、選手たちが、いちいちコート内に集まって喜びを分かち合う姿も「品格がない」。
ゴルフでイーグルを決めたプロ選手が右手でガッツポーズを決める姿も「品格がない」。
オリンピックのレスリングで金メダルを取った女子選手が監督に肩車をされて喜ぶ姿も「品格がない」。
柔道選手が、オリンピックで2大会連続で金メダルを取った後に、軽くガッツポーズをするのも「品格がない」。
水泳選手が、オリンピックで金メダルを取った後、嬉しさのあまり水面を叩くのも「品格がない」。
オリンピックのフェンシングで、銀メダルを取ったチームが喜んで飛び上がるのも「品格がない」。
IOC会議で、誘致が決まった瞬間に、関係者が喜ぶ姿も「品格がない」。

ピッチャーのガッツポーズと雄叫びが「品格がない」と仰るのなら、これらも「品格がない」範疇に入るのか。


野球のピッチャーというのが、そんなに上品で品格あふれる方々ばかりだとは、知らなかった。
無知だった。

だが、もちろん、選考委員の方々は田中将大氏を最大限に評価して、沢村賞に選んだのだと思う。
それは、わかる。

「品格」云々は、田中氏に立派な投手になって欲しいという期待の現れである、というのが一般的な考え方だろう。
ただ、それは田中氏の耳に直接届く方法で伝えるべきだ。
選考後に、公の場所で苦言を述べるという方法は、賞の選考基準を曖昧なものにしてしまうのではないか。
「品格」など、選考基準のどこにも書いていないのだから。

その記事を読んでいた私は確信した。
俺は品格がないから、プロ野球に興味がないのだ、と。

そのときの選考委員の方々が、土橋正幸、平松政次、堀内恒夫、村田兆治、北別府学氏の5人。

きっと品格のある方々に違いない。


ちなみに、メジャーリーグで同等の賞は、サイ・ヤング賞。
1956年に制定された(沢村賞は1947年だから、沢村賞の方が歴史は古い)。
これは、経験を積んだ記者の投票で決まる。

投手経験者が、密室で合議の上で決めるという貴族会議的なものではない。
記者各自の持ち点で決まる。
1位票(5点)、2位票(3点)、3位票(1点)の3種類の票だ。

その票数は、公開される。
だから、わかりやすい。

選考基準はあるらしいが、明確なものではない。

近年では、スポーツ科学を駆使した色々な指標をそれぞれの記者が独自に照査して、独自の判断で投票するらしい。
だから、最多勝投手、最優秀防御率投手がすんなり受賞するということはない。

勝ち負けは、投手だけの力では決まらない。
防御率もそうだ。
チーム力が必要になる。
しかし、そのチーム力は他力本願の部分があるから、その責任を投手にかぶせるのは酷だ。
だから、最近のメジャーリーグでは、純粋に「投手力」を判断する傾向にある。
弱小チームで13勝ながら高い能力を見せた投手が、21勝の最多勝投手を差し置いて受賞したことなどは、その顕著な例だ。

ある程度の勝利数は考慮するが、絶対の評価基準ではない。
勝敗に関わらず、己の「投手力」で、相手打線をどれだけ抑えたか、どれだけ長いイニングを投げてチームに貢献したか、などの数字を重視する傾向が強まっている。

そこに、曖昧な「品格」が入り込む余地はない。
「能力」だけが考慮される。

たった5人の「お偉いさん」が、規定を満たした「品格ある投手」を「合議」で選ぶという高飛車なものではない。

もちろん権威はあるが、時代に柔軟に対応してきている。
それは、合理的だと思う。


ただ、もしも日本人の多くが、投手の能力の一つに「品格」を求めるのなら、その選考方法は間違いだとは言えない。
同じ年に、田中将大氏と同じような成績を残した投手がいて、その人が一度もガッツポーズや雄叫びをしなかったから、その人を選んだ、という明確な基準があるというのなら、文句は言わない。
それが日本のスタンダードなら、その選考は正しい、ということになる。


私がそれに馴染めないだけ、の話だ。


けなしの先輩

2013-11-03 05:41:01 | オヤジの日記
個人的な好き嫌いは誰でもあると思う。

私の場合は、タレントのヒロミ氏が、むかし嫌いだった。

お笑い芸人の範疇に入ったと思うが、彼のどこが面白いのか、まったく理解できなかった。
芸能人や一般人をけなして笑いを取る。
一番お手軽で、経験の蓄積も工夫もいらない芸ではないか、と思ったのだ。

ただ、もちろん芸能の世界というのは、素人の私が考えるような表層的な好き嫌いで判断できるものではないこともわかっている。

おそらくヒロミ氏にけなされて笑いを取られた芸能人たちは、それを喜んで、「いい仕事をした」と思っていたのだと思う。
彼にけなされることが、芸能人としてのステータスになっていたのかもしれない、ということは想像がつく。

しかし、それでも私は「他人をけなして笑いを取るのは芸ではない」という考えを捨てきれないのである。

だから、ヒロミ氏の名前が番組クレジットに載っているだけで、私はそのテレビ番組を見ないようにした。
彼は、今で言えば有吉弘行氏と同じくらいの売れっ子だったから、その結果、だいぶバラエティ番組の視聴からは遠のいた。

そんな日々を過ごしているうちに、いつの間にか、彼の姿がテレビから消えていた。

自主的に消えたのか、何かの力が働いたのか、経緯はわからないが、彼のいないテレビが当たり前になって、私はまたバラエティ番組の視聴を再開した。


先日、同業者との恒例の飲み会の席で、タモリ氏の「笑っていいとも」終了に関しての話題が出た。
それに関して、皆が口々に「残念だよねえ」「淋しいなあ」と言っていた。
しかし、そんな彼らに、私は言ったのだ。

君たちは、昨年の今ごろは、「まだやってたのかよ、全く面白くない! 痛々しいぞ」とけなしまくっていたことを忘れたのか。
俺だけが、タモさんの達観した芸を賞賛していたが、君たちはそれを全否定したではないか。
それなのに、この変わりようは何だ! 恥を知れ、恥を!

だが、「でも、matsuさんは、『笑っていいとも』は見てないんだろ、見てない人に言われても説得力がないよ」と全員から反撃を受けて、私はその主張を取り下げた。
その後、日本シリーズの話題になったので、興味のない私は飲み食いに専念することにした。


無言で、イカの塩辛とマグロ納豆の和え物を食いながら生ジョッキを傾けていたら、強圧的な声が私の耳に届いた。


「まったく、おまえら『ゆとり世代』は、礼儀を知らないんだからよお」


その声に反応して右の席を見ると、テーブルに男性4人が座っているのが見えた。
外見からすると、おそらくサラリーマン。
20代後半と思える男が、彼より少し下の男たち3人に対して、時に舌打ちを交えながら意見をしていた。

おまえら『ゆとり世代は』とは言っても、おそらく言っている彼も『ゆとり世代』のように思えるが、それは細かいことになるので詮索はしない。

彼らの会話を聞こうとして聞いたわけではないが、声が大きいので、勝手に耳に届いてしまった。

全体の話の流れからすると、絶えず文句を言っている人は、彼らの大学時代の先輩らしい。
つまり、体育会的封建主義。

「何でおまえ、俺の電話に1回のコールで出ないんだよ。俺を避けてるのか?」
「イブキ先輩の出産祝い、何で俺に相談なしに決めるんだ、おまえら、いつからそんなに偉くなったんだ」
「ほら俺のグラスが空だろ、すぐ注げよ、絶えず先輩の俺に気を配れ、気を抜くな」
「おまえら、二人でコソコソしゃべるな。俺に聞こえるようにしゃべるんだ。今日は、この4人がチームなんだから、関係ない話はするな」
「おい! トイレに行くときは、黙って行くんじゃない。先輩に対して、『トイレに行かせていただきます』が決まりだったろ」

見事な封建主義だ。
彼はきっと、自分も先輩から、このような扱いを受けてきたのだろう。
だから、それを受け継いで、彼も先輩風を吹かせる。

そして、この後輩たちも、その下の後輩に、封建主義で接しているのだと思う。

私も中学、高校、大学と体育会的封建主義の陸上部に所属していたから、それは理解できる。

彼らは、けなしたり叱ったりすることは、「愛ある行為」だという認識を持っているのだと思う。

しかし、こうやって酒を飲みながら、完全に第三者の立場で先輩の言葉を聞いていると、それは「言いがかり」にしか聞こえない。

とは言っても、それに目くじらを立てるのは、野暮というものだろう。
お互いが、その状態を納得しているのなら、それは平和な関係だ。
それを否定することはない。


おそらく、前述のヒロミ氏と、けなされた芸能人の関係も、この種のものだったのだろう。
私は見るのに耐えられなかったが、それは私だけの問題で、多くの人は、そうではなかったかもしれない。

笑いに対する好みは、人それぞれだ。


そんなことを考えていたら、その「けなしの先輩」が、居酒屋の女性店員に、こう怒鳴るのが聞こえた。

「なんだよ、おまえ。頼んだら、すぐ持ってこいよ。持って来れないなら土下座しろよ。いや、土下座はまずいか。炎上しちゃうからなあ。だったら、心の中で土下座しろ、シッ、シッ!」
そう言って、店員に向かって、さばくように手を振った。


その光景を見て、思った。
先輩後輩の間では許されることも、他人との間では許されないこともある。

客が店員に対して、何を言っても許されるということはない。
店員にマナーは必要だが、客にもマナーは必要だ。
それは、イーブンの関係である。


もしかしたら、ヒロミ氏も、そのあたりの区別を混同して、テレビ画面から消えたのではないか、と思った。


いまさら、どうでもいい話だが。