リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

幼稚な逆ギレ

2014-06-29 09:18:00 | オヤジの日記
逆ギレ、というのは見苦しい。

自民党の高村正彦副総裁が、地方議会の自民党議員が、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を批判する意見書を提出、可決された件に関して、「地方議会であっても、日本人であれば慎重に勉強してもらいたい」と反論したのだという。

高村氏は、その根拠として、昭和47年の自衛権に関する政府見解に言及し、「この見解を出したときも与党の事前了承はなかった」と述べ、丁寧な議論を積み重ねているとアピールしたらしいのだ。

しかし、そもそもその見解がおかしいのですよ、と意見書を提出したのだから、勉強して欲しいのは、むしろ今の与党の方だろう。

様々な地方議会が、自民党議員が、集団的自衛権に関して抗議の意見を述べている。
それに対して、高村氏は「いまだかつて一つの閣議決定に当たり、これだけ慎重にやったことは私の経験では知らない」と強調していると言うが、それは、反対が多いという現実を見ていないから、言えることだ。

要するに、彼は、地方議会から批判されたことに対して、感情的に反発しているだけだろう。

議論を尽くした、というのは、高村氏たちの見解であって、地方議会は、そう思ってはいない。
そんな簡単なことに気づかない政治家に、「世論」を判断することはできるのだろうか。

結局は、自己都合の結論だけがあって、自己都合の結論を押しつけるために、強圧的に「議論を尽くした」と言い張っているるだけではないのか。


俺たちが出した結論に、地方議会ごときやペーペーの自民党議員が反発するなよ、ということだろう。


高村正彦副総裁は、かつて外相も経験なさった優秀な方だと思うが、彼は外交の場で、相手から自己の意見を否定されたとき、相手の外交官にどんな態度を取ったのだろうか。

円滑に外交を進められたのだろうか。

少し気になる。


話は飛躍するが、大分前のことだが、コンビニで不快な対応をされたことがある。
そのとき、私と同じような被害者を捜そうと、ネットを検索した。

これは、私とはケースが違うのだが、コンビニで店員に自分の買った商品をつまみ食いされて、不快な思いをした、という文章を見つけた。

そのとき、自分が頼んだファストフードを目の前で、袋に手を入れて「少しつまんで」食べている姿を見てしまったという文だった。
対応があまりにひどいので、抗議をしたら、店長が謝りに来ると言い、同じ商品をいただけることになったが、これに対してどう対応したらいいか、という話だった。
そして、そのことに対して、何か社会的な制裁を加えられないか、とも書いていた。

それに対してのコメントが、ひどかったので、驚いた。


「へ~そんなことあったんかい!!!
でもよ、謝り来るのにおまえは許してやらんのか
もう一度同じ商品作るっていってんだで!!!許してやれよ」

「とんだクレーマーですね・・・。
その店員がしたことは確かによくないと思います。
でも、それだけで犯罪に問われるわけがありませんよ」


確かに、金を払う前までは、その商品は店のものである。
だから、「味見」と称して、袋の中の商品を確かめる行為は、犯罪には問われないだろう。
しかし、モラル、というのがある。

そして、客商売で一番大事なのは、その「モラル」なのだ。

お互いがモラルを守ることによって、売り手と買い手の間で、信頼関係が生まれる。
その信頼関係なしでは、商売は成り立たない。
そのことを知らない人は、要するに、世間知らずだ。

世間知らずの人が、「謝るんだから許してやれよ」「とんだクレーマーだな」という意見を言う。

おそらく、何かに意見をする人に対して、彼らは、感情的に反発しているだけだろう。
意味は若干違うかもしれないが、それも逆ギレだ。


彼らは、正当な意見を述べる人を、「反体制の人」と思っているのかもしれない。

そうやって、持論を主張したり、権利を主張する人は、彼らにとって、きっと「怖い人」なのだろう。
だから、怖いが故に、本能的に、それを封殺したい願望が芽生える。

だから、感情的に反発する。
高村氏のように。


一昨日、中央線武蔵境駅のスーパーのレジで並んでいたときのことだ。

レジの女性が、見習いの方だった。
だから、不慣れなのは当たり前だろう。

経験が浅いのだから、わからないことは、たくさんある。
それを乗り越えて、彼女はプロになっていくのだと思う。

POSシステムに、お客の買った総菜が反応しなかった。
それに対処しようと、レジの若い子は、大声で熟年の女性に助けを求めた。

熟年の女性は、すぐに対応して10秒もかからずに、正確な値段を提示することができた。
その素早い流れは、プロとして流石だな、と私は思った。

しかし、客である70歳くらいの男の人は、「何やってるんだよ1」と怒りをあらわにしたのだ。

「こんなこともできないのかよ、おまえ! それで、よく、そこにいられるな! おまえには、給料をもらう資格なんかねえ! 早く消えろ!」

そう言い放ったのだ。


確かに、未熟だったもしれない。
しかし、未熟であっても、誰でも未熟な段階はある。

未熟ではない人間などいない。
誰だって、仕事を覚えた期間は、未熟だ。

彼らは、なぜ、その「未熟期間」を待てないのだろう。

その姿を見たとき、この精神的な未熟期間の長いご老人は、「未熟さ」ゆえに逆ギレという方法をとることしか知らなかった、と思った。



自分の考えと違う人を否定する人は、私も含めて「幼稚」なのだ。
そして、人を怖がっている。

その思考方法が、「逆ギレ」を生む。


これは、反省しなければいけない、と思った。

真のサッカーファン

2014-06-22 09:11:00 | オヤジの日記
先週の終わりに、仕事が押し寄せてきたので、ワールドカップは、リアルタイムでは観ていない。

日本の試合は、録画して、仕事が一段落したときに、1•3倍速で観ている。

ただ、お断りしておくが、私は、サッカーファンではない。
サッカーには興味がない。

ワールドカップだから観ている。

だから、真のサッカーファンから観たら、私など、どシロウトだ。


私の友人に、真のサッカーファンを自任する男がいる。
川崎フロンターレのサポーターである。

その彼が、毎回渋谷のスクランブル交差点で繰り広げられるお祭り騒ぎに関して、「あいつら、騒ぎたいだけだろ。あんなの本当のファンじゃないよ!」というメールを送ってきた。

「負けてハイタッチはない。あれは理解できない。祭りじゃないんだから」

仕事が忙しかったので、返信はしていない。

「真のサッカーファン」に、私の考えを述べたら、ロケット・ランチャーで攻撃されるかもしれないからだ。


「祭りじゃないんだから」とは言うが、私の感覚では、ワールドカップは祭りだ。

純粋な国際的なスポーツ大会かもしれないが、各国の方たちの盛り上がり方を見ていると、祭りにしか見えない。

顔にペイントを施したり、Tシャツに自国の国旗を描いて応援をする様は、祭りそのものだ。

祭りには「勝敗」が、かかっていないが、ワールドカップには勝敗がある。
違うのは、その点だけだ。

だから、私は、ワールドカップは、勝敗のかかった祭り、だと思っている。


負けて悔しがるのが、真のサポーターである、という考え方には、根拠がない。
人の感情は、複雑だ。

悔しがり方は、それぞれ違っていいと思う。
負けて悔しいのは、当たり前だが、誰もが同じ表現方法をとる必要はない。

渋谷にいた人たちが、私と同じようにワールドカップを祭りだと思っているかは知らない。

騒ぎ方が画一的で、まるで何かに操られているように感じるが、きっと、あの場所では、あの表現方法しかなかったのだろう。

そんな彼らにとって、「真のサッカー」などは、関係ないのではないか。


たとえば、私は青森の「ねぶた祭」の起源や歴史、意義を知らない。
だが、知らなくても参加した。

徳島の「阿波踊り」の詳細も知らなかったが、参加した。

どちらも楽しかった。

何も知らなくても、祭りは、楽しめるものだ。
「ねぶた」では、かなり羽目を外した人を見かけた。

しかし、よほどのマナー違反でなければ、それも「祭りの風景」だ。

目くじらを立てるほどのことではない。

真の「ねぶたファン」の中には、不快に思う方もいるかもしれないが、それを規制し過ぎたら、祭りの温度が下がる。


毎度の渋谷スクランブル交差点での「お祭り騒ぎ」は、少し温度が上がっただけだと私は思っている。


あんなの「真のサッカーファン」ではない、というのなら、行かなければいいだけのことだ。

真のサッカーファンは、違うところで応援して、お祭り騒ぎから距離を取ればいい。
そうやって、棲み分けをしていけば、軋轢は生まれない。

いちいち「祭り」を批判していたら、温度が下がり続けるだけだ。



そして、私は「真のサッカーファン」ではない上に、渋谷のお祭り騒ぎには参加しないという、中途半端な男である。


なぜなら、サッカーには、興味がないからだ。




衝撃の事実

2014-06-15 10:35:00 | オヤジの日記
誰が始めたのか知らないが、言葉を略すという現象がある。

大抵は、そのものや人に対しての親愛の情から略すことが多い。

たとえば、SMAPの木村拓哉さんを「キムタク」というように。

ただ、これは、どうかな? というのもある。
以前、大御所志村けんさんのことを「しむけん」と略している記事を見た。

「ら」しか抜いていない。

抜く意味があるのかと思った。

その他に、ハリウッドの大女優、アンジェリーナ・ジョリーさんが、映画「トゥーム・レイダー」でブレイクしはじめた頃、ネットの映画記事で「アンジョ」と略して表現しているのを見たことがある。

「アンジェ」ならまだわかるが、「アンジョ」はないだろう。

私の知る限り、そんな風に略して言った人を知らない。
普通は「アンジー」だ。

メチャクチャすぎて、笑うしかない(あるいは無知なのか)。


昨日、同業者6人と吉祥寺の居酒屋で、恒例の飲み会を開いた。

そのとき、隣のテーブルに座った男が、「カツアン! 俺の酒が飲めないのかよ!」と怒鳴っているのが聞こえた。

「カツアン」と「俺の酒が飲めないのか」という言葉に反応して、テーブルを見た。

目の据わった30代半ばの男が、隣の20代半ばに見える男に、酒を強要しているところだった。

平成を26年過ぎたいま、まさか「俺の酒が飲めないのか」というフレーズを聞くとは思わなかった。
昭和の高度経済成長期からタイムスリップしてきたのかと思った。

私は、忘年会や新年会、新入社員歓迎会などは、面倒くさいと思って、8割がた断ってきたので、幸いにも、そのフレーズを聞かされることがなかった。

もし、そんなことを言いそうなお方が会に潜入しそうな場合、防衛本能が働いて、断ってきたからだ。

体育会系の大学陸上部OB会でも、そんなことを言う人がいなかったから、私は幸運な人生を歩んできたと言っていい。


その居酒屋で、そう言われた若い人は、どう反応したかというと、「もう限界です。飲めません!」と抵抗していた。
それに対して、相手は「俺の酒が」と繰り返したが、他の3人の同僚が、「カツタは、ビール1杯が限度なんですよ。これ以上飲ませたらヤバいです」と懸命にかばったので、「チェッ! 『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」と舌打ちまじりに吠えた。

しかし、推察するに、30代半ばなら、おそらくあなたも「ゆとり世代」ではないか、と思った。

「ゆとり教育」は、小学校では1980年頃始まっているから、いま39歳くらいまでの人は、「ゆとり教育」世代ではないだろうか。

「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を「『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」というのは、自分の首を絞めるようなものだと思うのだが、きっとご本人は気づいていないのだろう。


これは、余談だが、私は「ゆとり教育」が失敗だとは思っていない。

「ゆとり教育」に批判的な人は、おそらくOECD(経済協力開発機構)が実施した学力テストをもとに評価しているのだと思うが、日本が学力上位にいたときの参加国は30カ国程度だった。

しかし、いまは、60カ国以上に増えている。
参加国が増えれば、順位が下がるのは当然ではないだろうか。

ましてや、途上国は子どもの教育に力を入れることが多い。
そのとき、「1位」という冠が意味を持つ。
国家としてのモチベーションが上がるからだ。

しかし、先進国は、アメリカ、イギリス、フランスなど、トップテンには入っていない。
先進国で上位にいるのは、日本だけだ。

要するに、先進国には「1位」のモチベーションは必要ないという判断だろう。

その現象を、統計学を知らない頭の悪い政治家や評論家、間抜けなナショナリストが批判して、「ゆとり世代はダメだ」と決めつけることになった。

「教育論」を順位に結びつけるから、そんな間抜けな批判になる。
世界をグローバルなものとして、一つに捉えれば、「俺の国だけが」という発想にはならない。

中韓も「俺の国だけが」という意識が強烈すぎるが、アジアで日本だけは、それから脱するような教育があってしかるべきだと思う。


しかし、まあ、それは、どうでもいい。

私が気にするのは、「カツアン」という略称である。

「カツタ」というのが聞こえたから、「カツアン」の「カツ」は、「カツタ」なのだと思う。

では、「アン」は、何なのか、というのが気になった。

居酒屋で隣に居合わせた人のことなど、どうでもいいと思うのだが、「カツアン」のインパクトが強すぎたので、私はこだわった。


そこで、同業者との会話に身が入らないまま、隣のテーブルの会話を断片的にピックアップしていると、衝撃的な事実が分かった。

その人の名は、「カツタ・アン」と言うらしいのだ。

つまり、「タ」しか、略されていない。

そして、もっと衝撃的なのは、そのひとが女性だったことだ。

外見上は、スーツを着ていて、髪は短髪。
化粧もしていない。

「その種の人」かと思ったが、よく聞いてみると一人称は「私は」である。
「俺」ではない。

「その種の人」は、自分のアイデンティティを保つために、自分のことを「俺」「ボク」と呼ぶ場合が多い。
(私の知り合いに一人『オナベ』の方がいらっしゃるが、彼(?)は、自分のことを『ボク』と呼んでいる)
つまり、このひとは「その種の人」ではないのかもしれない、と推測した。


「カツアン」と呼ばれ、「俺の酒が飲めないのか」と言われた人は、女性だった。

それは、私にとって、とても衝撃的な事実だった。



世の中には、こんな風に、色々なことがある。


そして、こんなこともある。

ヤホーのトップ記事を見ていたときのことだ。

ジャイアンツの監督が、サッカー日本代表へエールを送った。
「初戦が大事。日の丸を背負う重みは違う。重圧はプレッシャーではなく、荒ぶるという形でね、力に変えてほしい。ショー・ザ・フラッグ(日の丸をみせろ)だよ」と語った。

私の乏しい知識では、ショー・ザ・フラッグというのは、「立場をハッキリしろよ(旗幟を鮮明にせよ)」という意味でとらえていたのだが、いまは違う解釈なのだろうか。


この解釈に関しては自信がないので、軽々しくは言えないのだが、この一言も、私にとって、ある意味「衝撃の事実」だった。


歪んだ統治

2014-06-08 10:49:00 | オヤジの日記
得意先で、訳の分からない呪文を唱えられた。

仕事を出してくれた担当者が、「ライオンズの選手は、甘えているよ。監督の責任じゃないのに」と言ったのだ。

プロ野球に疎い私でも、ライオンズというのがプロ野球チームだということはわかる。
しかし、突然「選手は甘えているよ。監督が~」と言われても、意味不明だ。

私が苦手な会話の中に、プロ野球と高校野球の話題がある。

まったく興味がないのだ。

お得意様相手だから、話を合わせた方がいいのだろうとは思う。
だが、話を合わせるといっても、まったく知らないのだから、話の合わせようがない。

いい加減なことを言ったら失礼になると思ったので、ここ6年ほどの私は、「すみません。全然興味がないので、わかりません」と答えている。
それが功を奏して、最近は、その種の話題を振られなくなった。

本来なら、この担当者も野球の話を振ることはなかったが、よほど我慢できなかったのだろう、突然言い出した。

色々なご不満を私にぶちまけたが、私は、その話の5分の1も理解できなかった。
理解できなかったから、相づちを打つこともしなかった。

自分でも失礼な男だと思う。
しかし、わからないものは、わからない。
だから、「ごめんなさい」と言うしかなかった。

担当者は、私が頭を下げたものだから、我に返ったように「ああ、ごめん。Mさんは、知らないんですもんね。俺の方こそ、ごめんなさい」と頭を下げてくれた。

それを聞いて、私の中で、彼への好感度が上がった。

生まれが福岡で、物心ついた頃からのライオンズ・ファン。
親会社が変わって、埼玉に移ってきても、彼はライオンズを応援し、長男には「怜央(レオ)」と名付けるほどの筋金入りのファンだ。
つまり、愛すべき野球ファン。


そのことが気になったので、家に帰ってネットで「選手は甘えているよ」事件を調べてみた。

そこで、「伊原監督“休養”ナゼ? 前近代的な指導や規律にナインの心が離反」という記事を見つけた。
読んでみた。

ライオンズの今シーズンの成績が悪くて、それが監督の「前近代的」な指導、練習法によるものだ、という記事だった。
前近代的な方法とは何か、と言えば、選手に対して、長い裾のユニホームやひげ、茶髪を禁止、門限も午後10時に設定。野球以外の部分でも厳しい戒律を求めた、ということらしい。

メディアは嘘をつくのが当たり前だが、もしそれが本当なら、「前近代的」というより、「時代錯誤の勘違い」と言っていいのではないだろうか、と思った。

私は、ニューヨーク・ヤンキースが所属選手に対してヒゲを禁止していることに、苦笑を禁じ得ないのだが、これは、それよりも遥かに上をいく「拘束」ではないか。

聞くところによると、プロ野球の選手は「個人事業主」として、球団と契約しているという。

すべての野球選手が、個人事業主として契約するとき、「監督の命令は絶対だ、長い裾のユニホームやひげは禁止、門限は午後10時」という条項を受け入れてサインしているのだろうか。

それは、ありえない、と私は思うのだ。

プロは、プロとしてのパフォーマンス(能力)だけが求められる世界だと思っている。
契約社会のメジャーリーグでは、ヤンキースと契約するとき、「ヒゲ禁止」が盛り込まれているかもしれないが、日本では、どうなのだろう。
個々の契約の詳細はわからないし、プロ野球に「長い裾のユニホームとひげ」の選手がいるかいないかもわからないので、そこは保留にしておく。

お互い納得しての年俸契約を交わしたプロに必要なのは、個人成績とチームの優勝だと思う。
チームの勝ちに貢献して、そのチームが優勝すれば、それはプロとして最高の結果だろう。

個人事業主は、個人の能力を最大限に発揮した結果、チームが優勝することが命題で、それによって年俸が上がるものだと私は考えている。
そして、素人考えでは、チーム内での個人パフォーマンスが上がれば、勝ちがついてくるものだと単純に考える。

その現実的な事象に、「長い裾のユニホームやひげは禁止、門限は午後10時」は必要なのだろうか。

彼らは、子どもではないのだ。
高い年俸を得ている大人に、そんな「しばり」は必要なのか。

自称「常勝球団」という奢りを持ったニューヨーク・ヤンキースでさえ、いま「常勝」ではない。
あのチームに、「ヒゲ禁止」の効力は、どれほどあるのだろうか。

勝利に有効なのは、ユニフォームやヒゲや門限ではないだろう。
指揮官が、どれほど真剣にチームの現状に向き合い、「個人事業主」を気持ちよく働かせることができるか、が必要ではないのか。

保守的な指揮官は、過去の栄光だけにすがっている。

しかし、個人事業主にあるのは、今だけだ。
今の成績が、「明日の年俸」に繋がる。

それが理解できない指揮官は、無能だ。

ただ、「休養した監督」が、負けを認めて勇退したことは、潔いと思う。

私が見たネットでのコメント欄では、「選手も同罪」「ヒゲは必要なのか」「長いユニフォームは見苦しい」などという監督擁護の意見が目立った。

しかし、私は思うのだ。
個人事業主のプライドを最大限尊重して、試合を作るのが監督の仕事だということを。

休養した監督にあったのは、「自分の過去の流儀」だけ。

それだけでは、説得力がない。
それは、自己満足というものだ。

「現在」を見つめて、選手を尊敬しなければ、人の心は未来に向かわない。


保守的なライオンズ・ファン(あるいは、昔はよかった的な野球ファン)は、選手に対する尊敬を忘れているのではないか、と素人の私は考えた。

経験ある監督が示唆するルールは絶対である、という認識は「盲目的な従順」を前提にしたもので、それはチームの戦略とは関係ないものだ。

監督を擁護する人たちの気持ちは、私には全くわからない。
選手の尊厳を無視したチーム作りは、否定の感情だけが際立ったネガティブな「歪んだ統治」だ。

そんな「歪んだ統治」が蔓延している、と思ったのが、その記事の下の方にあったリンク記事だった。

ジャイアンツの監督が、自己の球団の投手が、打って一塁に走った際に、足に違和感を感じて降板したことに対して、「あの程度で足がつってもらったら、そりゃ困りますね」と、記者に向かって言った記事だ。

怪我をした投手を労ることもせずに、目の前のメディアに自分のチームの投手を批判することを言ったという。

しかし、そんなことは、本人に直接言えばすむことで、メディアに言うことではない。

監督は、選手を批判するのが仕事ではない。
選手をかばうのも仕事の一部だ。

かばうことで、選手は、落ち着いて仕事をすることができる。

しかし、これは私には呆れる出来事なのだが、ファンの多くは、メデイアに同調して監督同様、選手を批判するコメントが多かった。

本来なら、ファンも選手の怪我の状態を心配するものではないのか。

これでは、選手は、怪我を申告できなくなるではないか。
小さな怪我が、大事になることもある。
しかし、監督にそんなことを言われたら、我慢せざるを得なくなる。

我慢したら、怪我は悪化する。
悪循環だ。

監督や盲目的ファンは、選手の将来をどう思っているのだろう。

選手を使い捨ての駒だとおもっているのか。

選手の悪口を言う監督は、他の人が受け入れたとしても、私には受け入れられない。
チーム事情よりも、選手の状態を優先できない人は、結局は「自分本位」の人だと私は思っている。


後日、得意先の担当者に、そんなことを言ったら、「野球を知らない人に、言われたくないね」と完全に否定された。



そう言われたら、何も言い返せないのだが………。



低レベルの会話

2014-06-01 10:13:00 | オヤジの日記
気にさわる会話、というのが誰にでもあると思う。

昨日、まるで真夏の日差しの中で、中央線武蔵境駅前のスターバックスのテラスでドリップコーヒーのショートを飲んでいたときのことだった。
隣のテーブルの男二人の会話が、勝手に耳に飛び込んできた。

二人のうちの一人の声が規格外に大きかったので、耳に入ってきてしまったのである。
そして、それが気にさわった。

「今日は、肉、なにを食おうか」

おそらく、お二人は仲良しで、頻繁に一緒にメシを食いにいっているのだろう、と推測した。
声のトーンが、仲間意識独特の馴れ馴れしさを伴っていたからだ。

「4日続きで、焼き肉はどうだ」と相方が答えた。

それに対して、声のでかい男が「いいね」と答えて、メニューは決まった。
メニューが決まったあとで、声のでかい男「A」が、声のトーンをさらに上げて言った。

「肉だけでいいからな。野菜なんてのは、軟弱なやつが食べるもんだから」

こういうご意見を持ったお方は、以外と多い。
そして、なにが根拠か知らないが、「俺は肉食系だからよ」と話をつなぐのだ。

肉しか食わないから肉食系?
そのまんまですね。

しかし、私はこの種の会話を聞いて、いつも思うのだ。
彼はきっと、子どもの頃からママに、こんなことを言っていたのだと思う。

「ボク、ピーマン食べられないの!」
「ニンジンも大っ嫌い!」
「シイタケなんて、見るのも嫌!」

それに対して、ママは毎回「いいのよ、ボク。ピーマン食べなくても大きくなれるから」と励ます。

もちろん、大きくなれるだろう。

しかし、その結果、彼は大人になってから、一生、嫌いなものにチャレンジできない「軟弱もの」になってしまったのである。
肉を食うことを、まるで英雄の所行のように転嫁させ、野菜を食えないことの言い訳にしているのだ。

そして、でかい声で言う。
「ナスなんか、人が食う色してねえだろ!」

その言葉を、野菜農家の人の前で大きな声で言えるのなら、私は彼を認めてもいいと思う。


そして、声のでかい男「A」は、こんなことも言ったのだ。

「最近の俺は、地震予知の能力があるんじゃないかな?」

普段は感じないが、寝ていて、背中がムズムズすることがあるのだという。
それを感じると、3日以内に、世界でマグニチュード4以上の地震が、必ず発生していると自慢していた。

それを聞いて、彼の相方「B」は、「おお、すごいな」と彼を讃えた。

いま、地球の地下活動は、かなり活発化しているように思える。
マグニチュード4程度の地震なら、日本のどこかで週に数回起きているのではないか。

「でもなあ」と、声のでかい男「A」が言う。
「どこで起きるかは、わからないんだよ。ただ、背中に違和感を感じたときは、確実に起きるんだ」

「それって、凄いことだよ」と相方「B」。

そうですか。
私は、ほぼ毎日、世界のどこかで、マグニチュード4クラスの地震は起きていると思うのですが…。

それを予知と言ったら、今日、地球のどこかで竜巻が起きます、というのも「立派な予知」になるだろうから、私が、竜巻くるかもね~、と言ったら、それも予知が当たったことになるのだろうか。

つまり、誰もが「予言者」、ということなのかもしれない。


そして、最後の会話。

相方「B」が、ドリンクのストローを左手の小指を立てて飲みながら言った。

「俺、10歳年の離れた高校1年の妹の風呂場を突然のぞいたことがあったんだよ」

声のでかい男「A」が、その話に、すぐに食いついた。
「すげえな。やるな、おまえ! 勇者だな!」

なにをもって「やるな」というのか、疑問に思ったが、その後の会話が、私の左耳に勝手に入ってきた(右耳は聴力がないので)。

「妹は、ビックリした顔で、俺を見ていたけど、その顔が可愛かったんだな。でも、次からは、風呂のドアの鍵をかけたから、見れなくなったが、たまに鍵をかけ忘れることがあるんだよ。そのときは、またいきなりドアを開けるんだ。妹の驚いた顔は何度見ても可愛いな。最近は、鍵をかけ忘れることが少なくなったが、たまにあったときは、嬉しいな」

ハッハッハ、と手を叩いて喜ぶ、声のでかい男「A」。
「おまえ、ヒーローだよ!」

どんなヒーローだよ!


その話を聞いて思った。

この二人は、今日たまたま低レベルの会話をしたわけではないだろう。

おそらく会うたびに、このクォリティの会話をしているのだと思う。


心を許し合っている友だちだからこそ、できる会話だというのは、わかる。

バカ話ができるのが友だちだ、ということもわかる。

ただ、低レベルなことには、変わりがない。


おそらく、私も友人とする会話は、はたから見れば低レベルに思われているのかもしれない。

たまにベッキーさんやローラさんの太ももの美しさを絶賛する会話を友人とすることがあるが、その会話を他人が聞いたら、そのひとたちは「こいつ、エロ親父?」と眉をひそめていたのかもしれない。


ベッキーさんとローラさんの太ももは最強だが、「A」と「B」の会話を聞いて、私は、これから周囲に気を配りつつ、「低レベルの会話」をするベッキーだと肝に銘じた。