リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

美人の口から

2019-01-27 05:08:00 | オヤジの日記

なぜ人は「ウンコ」と言うのか。

 

直接ウンコとは関係ないが、ウンコ的な存在の人を私は知っている。

桶川のイベント企画および広告代理店の「おバカなフクシマさん」だ。

このおバカに関しては、かつてコチラに書いたことがあった。

フクシマさんは、おバカではあるが、繊細なおバカである。東日本大震災のあと、ボランティアで宮城県に赴いたフクシマさんは、その凄惨な様にショックを受け、うつ病になった。

その後、4年前に幸いにも復活して、フクシマさんは「おバカリターンズ」を果たした。

 

フクシマさんとの仕事では、いつも打ち合わせは20分くらいで終った。普通は、そこでバイバイするのだろうが、我々はここからが長いのだ。

フクシマさんは、「接待ターイム!」と叫んで、私の前に一番搾りの500缶と柿ピーを置くのである。

さらに、それと同時に、ある人物が現れる。女優の麻生久美子さんに似た美人事務員さんだ。

この人は、お美しい顔をしているのに、なぜか会話の中に頻繁に「ウンコ」が出てくる人だ。

母親がロシア人、父親が韓国人。しかし、生まれも育ちも日本なので国籍は日本。

日本語、英語、ロシア語、ハングルを操るマルチリンガルの才女。だが、会話に「ウンコ」。

 

「この間、日比谷線に乗ったら、目の前でウンコを食べているおじさんがいたんですよ。嘘でしょ! と思いますよね。バッグからメガネを出して確認したら、それはカリントウでしたぁ。紛らわしいったらありゃしない! 地下鉄でカリントウを食べるのは、やめてくれないかしら!」

カリントウをウンコに間違えるのもやめて欲しいと思う。

「うちの柴犬のポーリー。納豆が好きなんですよ。ただ、散歩をしたときにウンコは絶対にしますよね。そのウンコをマジマジと見ると、納豆が消化されずに、丸ごと残っていることがあるんですよね。でも、消化されているときもあるみたいなんですよ。あれって、なんなんでしょうね」

知らんわ。

 

そんな楽しい会話は、フクシマさんのうつ病とともに消え、麻生久美子似もドサクサに紛れて結婚したから、桶川の得意先がつまらなくなった。

プロとして恥ずかしいことだが、22歳年下のフクシマさんとの友情だけで仕事をいただいていたので、それ以降桶川の会社からの仕事は断っていた。

 

だが、フクシマさんがリターンズしてすぐ、フクシマさんからお誘いがあった。

「また、仕事しましょうよ」

 

昔さいたま市に住んでいた頃は、桶川は近かった。10キロ程度の距離だから歩いても行けるはずだ(歩いたことはないが)。

ただ、埼玉から東京に帰ってからは、桶川がとてつもなく遠くなった。東京武蔵野から40キロ以上あるのだ。歩いたら片道10時間はかかる。途中で宿場町の旅籠に泊まらなければならないくらい桶川が遠くなった。

行くだけで丸2日かかりますよ。無理です。私はフクシマさんの申し出を、泣いたふりをして断った。

「では、こういうのは、どうですか。俺の得意先が日本橋にあるんですけど、得意先での打ち合わせのあとに、必ず息抜きにファミレスに寄るんですよ。ここを利用するというのは、どうでしょう。俺が日本橋まで足を運びます。Mさんのところから日本橋まで歩いてどれくらいですか。桶川よりは近いんじゃないですか」

何をバカなことを言っているんですか、フクシマさん。最寄りの武蔵境駅から東京駅までは電車で40分。東京駅から日本橋までは歩いて10分程度。1時間もかからずに行けますよ。歩くわけないでしょう。江戸時代じゃないんだから。

 

「クッソー、裏切られたぁ!」

 

金曜日の午後1時、日本橋のファミリーレストランで、フクシマさんと打ち合わせをした。

フクシマさんとの打ち合わせは楽だ。あらかじめパターン化したフォーマットを作ってあるから、クライアントにそれを選んでもらうだけで仕事は終わったも同然。

フライヤー用のフォーマット、フリーペーパー、新聞、雑誌、看板、招待状などを数種類パターン化するまでの準備には時間がかかったが、できてからは楽チンになった。これを採用してから時短になって、納期が圧倒的に早くなった。コストパフォーマンスもいいから、クライアントもお喜びだそうだ。

オーダーメイドもできるが、金と時間がかかるので、見積もりを見た時点で、ほとんどのクライアントが「ああ、フォーマットで」と答えるという。

今回は中古車フェアの看板広告だった。あらかじめパターンを選んでいただいていたので、あとは必要な事項を配置し、マイナーチェンジを施すというだけの仕事だ。

打ち合わせは15分程度で終わった。

 

そして、「接待ターイム!」。

フクシマさんが叫んだとき、サプライズがあった。

麻生久美子似が、イリュージョンのように、床の下から子どもを連れて姿を現したのだ。子どもは女の子。3歳過ぎだろうか。将来、美人さん決定! の整った顔立ちの女の子だった。

麻生久美子似とは5年ぶりくらいだった。相変わらずお美しい。

10歳以上年の離れた大学教授と結婚したということは、会社を辞めるときに聞いた。きっとお上品な暮らしをしているに違いない。肌ツヤがよく着ているものも質素だが高級感があった。きっと幸せなのだろう。

しかし、その上品なお顔が、「この子のウンコに付き合っていたら疲れちゃって、なんか食べましょうよ」といきなり言うのである。

5年経ってもウンコかい!

 

娘さんのランちゃんは、パフェを頼み、フクシマさんと麻生久美子似は、和食のセットを頼んだ。私は生ビールとフライドポテト、ソーセージグリルだった。

ランちゃんはパフェを食べながら、お絵かき帳にフニャフニャした絵を真剣に描いていた。

そんな和みモードの中で、フクシマさんが10年近く前に3人で奥多摩に行った小旅行のことを思い出話として言い出した。

フクシマさんの愛車のRVRで、バーベキューをしに奥多摩まで行ったのである。なぜ、そんな展開になったのかは、おバカ3人まったく覚えていない。

ただ、「深緑だから、奥多摩だよね」「奥多摩だったら、バーベキューしかないっしょ」というバカにしか理解できない動機で、奥多摩に行ったのだと思う。

バーベキュー前に、近辺を散策した。

そこで我々は、たまに「熊出没注意」という立て看板と遭遇した。

「クマ怖いじゃないっすか」と怖じ気づくフクシマさん。

そんなフクシマさんを私と麻生久美子似は、おちょくるのだ。

あれ、フクシマさんは確かM治大学文学部クマ語学科の出ですよね。気づきませんでしたか。あの立て看板の裏には、クマ語で「人間出没注意」って書かれているんですよ。だから、クマは怖がって人に近づきませんから。

「あー、気づきませんでした。でも、それなら安心ですね」

そのあとで、麻生久美子似が「蛇に注意」の立て看板を見つけた。

「ああ、でも、大丈夫ですから。いま確認したら、裏にヘビ語で『人間に注意』って書いてありました。ヘビさんも人間には近づかないと思いますよ」

さすがR教大学文学部ヘビ語学科出身。頼りになります。

 

そんなバカな会話は、我々の間では、当たり前だった。

 

でも、そのあとで、麻生さんはさらに面白いことを言ったのだ。覚えてますか。

「もちろん、覚えています」

「ヘビはよくトグロを巻くって言いますけど、トグロを巻いたヘビのウンコは、やっぱりトグロを巻いているんでしょうかね、ガハハ」

「そんな感じでしょうか」

 

正解です。

 

そんな話をしているとき、パフェを食べていたランちゃんが、パフェのある部分を指差して無邪気に言った。

それは茶色のウエハースだった。

「ねえ、ママ。これの色って、さっきランちゃんがしたウンコの色に似ているよね」

 

 

おっそロシア。

 

「血は争えない」っててててて、やつですかぁーーー。

 

 


ドタキャンされて天使

2019-01-20 05:28:01 | オヤジの日記

中央線に乗っているとき、ケツのポケットに入れたiPhoneが震えた。

 

ディスプレイを見ると、神田のイベント会社の中村獅童氏似の担当者からだった。

これから行くところだ。打ち合わせ時間の10分前に着く予定で家を出た。中野駅の手前。午後12時11分。

電車内では応対できないので、中野駅のホームに降りた。中央線は頻繁にやってくるから、一台乗り過ごしても約束の1時には間に合う。

忙しない口調で、獅童氏似が出た。

「ああ、Mさん、ごめんなさい。トラブルが起きましてぇ・・・。いま処理に手間取っておりましてぇ・・・。だから、あのぉ・・・、今回の打ち合わせは延期してぇいただきたいとぉ・・・。トラブルが解決したらLINEしますのでぇ・・・。あのォ、Mさんの大好きなカキフライ定食を奢りますのでぇ、勘弁してください。ああ・・・お、恩にきます。そいじゃ!」

 

要するに、ドタキャン。

 

いきなり時間が、空いたぞ。

このまま家に帰るのは、もったいない気がした。中野駅で降りて、昼メシを食うというのが、一番正しい洗濯宣託選択ではないだろうか。

なので中野駅で降りた。

中野駅近くで知っている店は、居酒屋か飲み屋ばかりだ。あとは、立ち食いそば屋。

午後1時前。私のおぼろげな記憶では、居酒屋や飲み屋は、のれんを畳んでいるはずだ。

それに対して、立ち食いそば屋さんは、絶対に開いているはずだ。頭に「かけそば」が浮かんだ。別皿で、ちくわの天ぷらとイカの天ぷらを頼んだら、「お! 豪勢だね。何かいいことあったのかい? お兄さん」と、厨房のオバちゃんは驚いてくれるだろうか。

オバちゃんの笑った口元から覗く銀歯を見てみたい気もしたが、思い起こせば、昨日の水曜日も仕事の打ち合わせの帰りに、日本橋の「よもだそば」で、かけそばと春菊の天ぷらを食った記憶があった。

2日続きで、オバちゃんの銀歯を見る必要性は、いったいあるのか。

「ない」という天の声が聞こえたので、立ち食いそばは、洗濯宣託選択から外した。

 

この日、木曜日は風もなく、お日様もご機嫌な様子で顔を出していた。散歩するには丁度いいヌクヌク日和だった。

とりあえず、中野の街をブラブラしながら、立ち食いそば屋さん以外のお店を探すのが得策toksakと判断した。

中野といえば、中野ブロードウェイ、中野サンプラザが有名だ。しかし、私は旅に来たわけではない。いまここで、観光スポットに行く必要性は、トランプ氏が、突然謙虚になる確率と同じくらいない。

 

ブラブラを始めた。「ブラサトル」の始まりだ。

ちなみに、私はブラタモリを観たことがない。大抵のテレビ番組は、「ブラ歩き」と言っても、ただ街の有名店で食いしん坊がメシを食って、「美味い」というだけの食い歩きを写しているだけだ。

ブラタモリもきっと、そんな食い歩き番組だろうという偏見があるので、私は興味がない。観ない。基本的に、NHKは観ないことにしているし。

 

そんなどうでもいい情報を頭に散りばめつつ、中野駅北口をブラっていたら、突然ヨメの言葉が脳天に落ちてきた。

中野生まれ中野育ちのヨメは、絶えず故郷の中野の情報をチェックしていたのだ。

その中に、「中野区役所の裏の中野四季の森公園、いいよ。芝生と緑の木々が癒されるの」というお告げがあった。

お告げに従わない場合、祟りがあるという噂が、我が家族が住む国立(くにたち)界隈にはあった。祟りは、なるべく回避したい。ということで、お告げに従って、公園に行ってみることにした。

その前に、西友に寄って、クリアアサヒの500缶とおにぎり弁当を買った。飲食店に入るよりも、その方が安上がりだと思ったのだ。

焼きそばと俵おにぎりと唐揚げ。ビールのおつまみとして最高ではないか。

 

中野四季の森公園は、都会にありがちな公園だった。それなりに広くて、緑が多くて、近くに見えるビルの街並みが絵になる、都会にしか存在しえない公園だ。

これは、悪口ではない。都会を意識すれば、誰だって、こんな公園しか作れないし、きっと都会人・老若男女は、ほとんどの人が、こんな公園を望んでいると思う。

つまり、都会人にとって理想的な公園だ。

 

その理想的な公園で、おにぎり弁当をつまみに、クリアアサヒを飲んでいた。

少し離れたところでは、公園デビューをして、それなりに成功した若いお母さん方が、子どもさんを放牧していた。

子どもたちの甲高い声が、中野の空気の中を拡散していた。

わけもなく叫べるのは、今のうちだけですよ、放牧中のガキたち。放牧はいつか終わります。放牧が終わったときに、君たちはどんな人格を築くのでしょうかね。

 

そんなことを思っていたら、私の座った芝生のそばに、4歳前後の男のガキがプラスチックのバスを芝生の上で走らせている姿が、目に入った。

30前後に見えるお母さんが、ガキに向かって言った。

「ねえ、こんなに端っこじゃなくて、もっと人のいるところで遊ぼうよ」

ガキは、ブッブーと言いながらバスを走らせていた。笑顔が似合うガキだった。もう少し修行したら、「天使の領域」まで到達できる可能性を持った将来有望なガキだった。もし天使ドラフトがあるのなら、間違いなく私は1位指名をしただろう。

だが、お母さんは、「ねえ、聞いてるのかな」と、ややイライラのご様子。

そのイライラ目の母さんと偶然目が合った。

どうでもいいことだが、お母さんは化粧をしていなかった。インスタグラムで、それのどこがスッピンですか、と疑惑の顔を晒す「自称スッピン」の有名人と違って、このお母さんは、純正のスッピンだった。

今は30前後に見えるその容姿。私の思い込みではあるが、スケートボードかスポーツクライミングをやっていそうなキリッとした佇まいは、化粧を施せば、おそらく24から27歳くらいに変身するに違いない。

そんなことを思っていたとき、思いがけないことに、スッピン母さんが私に話しかけてきた。

 

「この子、弱いんです。公園で遊んでいると、まわりの子にオモチャをすぐに取られるんですよね。抵抗できないんです。それが歯がゆくて」

初めて会った白髪オヤジに、普通そんなことを言いますかね。この場合、どう答えたらタラタラ、満足いただけるのでしょうか。

スッピン母さん、私の顔を挑戦的な目で見てますよ。オヤジ、タジタジですよ。

 

だが、ここで、私のいつものテキトー癖が出るのだ。深刻な話は、すべてテキトーにはぐらかせば、相手は私を馬鹿にして鋭い追及を諦めてくれる。

「テキトーに勝る武器はなし」と私が尊敬する高田純次師匠も仰っているではないか(言ってない?)。

 

私は、遠くで騒ぎまくっている放牧中のガキどもを指差して言った。

あの子たちは、親も含めて力(チカラ)を無駄に使っているんですよ。力でお互いをマウンティングしてます。この社会の多くが、力がマウンティングの道具になっています。

でかい声を出した方が勝ち。単純すぎて俺なんか鼻で笑っちゃいますけど、「チカラ信者」は、世の中にあふれています。

えーと、お子さんのお名前は?

「ハルマです」

お母さん、まさか三浦春馬さんのファンですか。

「バレバレでしたか」

スッピン母さんが、乙女の恥じらいを見せた。

バレてまんがな。

 

ハルマくんは、すごい子だと俺は思いますよ。

多くのガキが、力でまわりを支配しようとしているのに、ハルマくんは、それを使わない。

お母さん、もしかして、ハルマくんのこと「弱い子」だと思ってませんか。

「弱いと思いますけど・・・だって、抵抗できないんですから」

 

俺の大学時代、同級生にウェートリフティング部で活躍していた奴がいます。タナカと言います。

タナカは、全日本クラスのアスリートではなかったですが、その力の強さは尋常ではなかった。170センチ70キロの体型以上に彼は大きく見えました。

腕相撲をしたら、彼以上の体格をしたやつや柔道3段の男さえも子ども扱いするくらい「強い男」だった。

 

ある日、タナカと渋谷道玄坂の居酒屋で飲んでいたときのことだった。隣に座った酔っ払いサラリーマンが、タナカに絡んできたのだ。

「ニイちゃん、いい体してるな。でも、人は見た目じゃわからないからな。その立派な体だって、張りぼてってこともあるよな。なあ、殴らせてくれねえか」

世の中には、まれにこんな馬鹿がいる。あおり運転をして平然としていられる人も、この類だろう。

普通だったら、こんな奴は相手にしない。

しかし、タナカは笑みを浮かべて、男を見た。

その笑顔が、男を刺激したのか、男は突然タナカの右胸を拳で叩き始めたのである。

私からしたら、こんな奴は狂人でしかない。突然、見ず知らずの男が初対面の男の胸を叩いたのだ。あり得ない。

タナカの顔を見ると、タナカの表情は変わっていなかった。笑顔のままだった。

おそらく男は全力で5発、タナカの胸を叩いたと思う。

臆病な私は、情けないことに男を止めることができなかった。

 

しかし、勇気ある男が目の前にいた。

厨房にいた居酒屋の店長だった。店長は、おしぼりを男の顔めがけて投げたのである。ジャストミート!

そして、店長は厨房から出て、男の胸ぐらを掴んだ。

「あんた、俺のお客さんに暴力を振るったよな。これは犯罪だ。俺は、警察を呼ぶ。こんなの我慢できるかあ!」

店長は、店員に向かって警察に電話するように指示した。

190センチ100キロの巨漢店長が、男を羽交い締めにした。その姿には、絶対に逃がさないぞ、という気迫があふれていた。

 

そんな中、タナカは、そんな緊迫した空気にも動ぜず、小さな笑顔を作っていた。

「あのー、店長、俺、大丈夫ですから。全然効いてないっすよ。痛くなかったです。大丈夫ですから。大ごとは、やめましょう」

それを聞いて、店長は、警察に電話するのを思いとどまった。

しかし、男に向かって、こう言うことだけは忘れなかった。

「あんた、出入り禁止だ。2度とくるな! 今日のお代はいらないから、とっとと消えろ!」

 

次の日、国際法のゼミでタナカと一緒だった。

私は授業前に、タナカを人が通らない廊下の隅に連れていった。そして、言った。

おまえ、胸を見せてみろ。俺は、男の胸をマジマジと見る趣味はない。だから、少しの間でいい。見せてくれないか。

タナカの顔からは、いつもの笑みは消えていたが、抵抗せずに見せてくれた。

タナカの胸には、赤紫色のアザがいくつもあった。男に殴られた跡だった。

 

タナカ・・・おまえ、すごいな。すごいよ・・・本当に、おまえ、すごい・・・すごいよ。よく我慢できたな。

すごい、と言っているうちに、涙が出てきた。

 

そのアザは、タナカが強い証拠だった。

心が強い証拠だった。

 

お母さん、と私は目の前で悩むスッピン母さんに向かって言った。

 

多くのガキは、力で何でも解決しようとしています。

でも、あなたのハルマくんは、違う。

 

多くのガキたちとハルマくん、どっちがいま上等だと思いますか。

 

私の強引な理論に、お母さんは首をかしげ気味だった。「テキトーなこと言うなよ」という若干の非難もあったかもしれない。

だが、こう言ってくれた。

 

「今の話、夕飯の前に、主人に話してみたいと思います」

 

お母さんの横で、ハルマくんがバスを「天使の笑顔」で走らせていた。

 

ブッブー!

 


初雪が落ちてきた日

2019-01-13 05:30:00 | オヤジの日記

空気が入れ替わった。

家の窓をすべて開けたのだ。

空からは、ハラハラとまばらに雪が落ちてきた。

初雪か。

 

世田谷区池尻。

大学時代の同級生の家だった。

もう5年、人が住んでいない家。

「5年経ったら、更地にして手放そうと思っていたんだ。区切りがいいだろ。最後に家を見に行かないか」

友人のタチバナに誘われた。

タチバナは、この家に小学校3年から、結婚して家を出た30歳まで住んでいた。両親とタチバナ、5歳違いの弟と4人だった。

私は、タチバナの両親を親しみを込めて「おやっさん」「おっかさん」と呼んでいた。

 

おやっさんは、私の父親がわりの2人の大人のうちの一人だった。

一人は、世田谷区下馬に住んでいた叔父だ。ただ、叔父は、私が12歳のときに死んでしまったので、大学2年からは、おやっさんだけが父親がわりになった。

大学2年のとき、友だちと4人でタチバナの家にお邪魔した。スキヤキを食わせてくれると言うので、嬉々としてタチバナの家に行った。

三軒茶屋寄りの住宅街の一角に、タチバナの家はあった。二階建て。出っ張りの少ない四角い木造の家だった。そして、敷地内には、花があふれるほどの広い庭があった。

南に面した一階にはガラス作りの窓がせり出していた。サンルームだった。そこにも、たくさんの花があった。

花の家。

私は、それ以来、タチバナの家を「花の家」と呼んだ。

 

初めて、おやっさんの家でスキヤキを食わせてもらってから数日経った日に、タチバナから言われた。

「また、おまえを連れてきてくれって、親父が言うんだよ。お前だけでいいって。今度は、豚肉のスキヤキを食わせてやるって」

初めてスキヤキを食わせてもらったとき、私は、我が家ではスキヤキは豚肉なんですよ。牛肉は、疲労回復には効き目がないんです、と生意気な持論を披露した。

中学の頃から陸上部に所属していた私は、自分の体を実験道具にして、練習方法や食事の効果などを研究していた。

疲れは怪我につながる。無駄な疲れを残さないために、どんな練習をして何を食えばいいかを独自に考えながら、私はトレーニングの日々を過ごした。

その結果、私にとって、牛肉は役にたたない食い物だということがわかった。牛を食ったときと豚を食ったときの疲労感が、明らかに違ったのだ。

もちろん、専門家から見たら、そんなデタラメな! という異論はあるかもしれない。専門家のご意見は、ありがたく拝聴するが、走るのは私であって、専門家ではない。

だから、私は私が身をもって実験した理論を尊重する。何があっても肉は豚だ。牛は、私には役にたたない。

 

そんなことを牛のスキヤキを食いながら、タチバナの父親に熱弁した。

「おもしれえな、おまえさん」と感心された。

それ以来、タチバナの家でご馳走になるスキヤキは、豚が主役になった。みんなで「トンスキ」と呼んだ。

「トンスキを食べるようになってから、心なしか疲れを感じなくなったよ」と、おやっさん。

それは・・・気のせいだと思いますけどね。

 

なぜかわからないが、おやっさんは、自分の息子の友だちのなかで、特別私を気にかけてくれた。

私がいまのヨメと結婚するとき、ヨメの両親の反対を受けたので、未熟な私たちは神戸に駆け落ちをした。

もちろん、無計画にではなく、職場も住まいも確保した上での駆け落ちだった。

そのとき、「おまえら、大バカものだな」とおやっさんに叱られたが、おやっさんは、ときどき私たちの様子を見に、神戸まで来てくれた。

そして、布団と冷蔵庫、ラジカセしかない新居を憐れんで、電子レンジ、洗濯機、扇風機、ストーブをプレゼントしてくれた。

ヨメと2人、泣いたふりをして頭を下げた。おやっさんにケツを蹴飛ばされた。これは、愛のムチか。

 

一年後に東京に戻った。

相変わらず、ヨメの親の理解は得られなかった。

「まあ、仕方ねえから、とりあえずケジメをつけたらどうだい?」とおやっさんに言われた。

「披露パーティーをやんな。今のままでは中途半端で、よそ様に顔向けできねえだろ。俺の後輩に、恵比寿でレストランをしている奴がいるから、そこなら格安でできる。いいよな。俺が段取りをつけても」

お願いします。

なぜ、自分の息子の同級生というだけの私を、おやっさんが、これほど気にかけてくれたのか。

一度も聞いたことがない。タチバナにも聞いたことがない。聞いたからといって、それから先の関係が変わるとは思えなかったからだ。私は昔から余計なことは聞かない主義だ。

 

披露パーティーで、おやっさんとおっかさんは、仲人を務めてくれた。

私は、若者だけでやるつもりだったが、「1人くらいは大人がいた方が、重しになるってもんだよ」とおやっさんが言うので、お言葉に甘えた。

おやっさんは、K応大学応援団仕込みの応援をひとりで披露してくれた。

あのー、おやっさん、それって場違いなんじゃ・・・。俺たち、ほとんどA学なんだけど。

「めでたいことに、K応もA学もねえだろう。応援してやったんだから、文句を言うな」

無茶苦茶や。

 

おやっさんは、最初、大手の音響メーカーに勤めていた。しかし、会社の業績が悪化したので、希望退職者を募った会社の方針に乗って、会社を辞めた。そして、5年ほどタクシーの運転手をしたあとで、大手の旅行会社のツアーコンダクターになった。

おやっさんは、英語と中国語が堪能だったので、それは天職といってよかった。

しかし、その会社の定年は55だったから、55歳からは、自宅のサンルームを改造して、カフェを開くことにした。

季節の花に囲まれた「花の家」カフェだ。

カウンター席が3つ。丸デーブルが室内に2つ。テラスに2つ。11人の客がくれば、満員になる隠れ家的なカフェだった。

日曜日には、常連さんがやってきて、行列ができる場合もあった。

おやっさん厳選のブレンドコーヒーと手づくりベイクドチーズケーキだけの店。そして、様々な季節の花。

贅沢な空間だ。

 

私は、客の少ない平日の午前中に行くことが多かった。

行くたびに、おやっさんに言われた。

「サトル、なんか面白い話してくれよ。面白かったら、コーヒータダにしてやるからよ」

面白いかどうかは、わからないが、適当なバカ話を披露した。話が終わると、おやっさんは、必ずメニューにはないバタートーストを出してくれた。

「俺のおごりだ」

話がつまらなくても、おやっさんは私から金を取らなかったから、初めから取る気はなかったのだと思う。

 

その後、おやっさんは肺がんを患い、81歳で地上からいなくなった。

2人目の父親がわりがいなくなった。

5年前のことだった。

血の繋がった男が死んだときも泣かなかった冷血の男が、おやっさんのときは泣いた。

今もときどき泣くことがある。バカげたことだ。

 

冷たい空気が肌を包む中で、タチバナが言った。

「もしいるのなら、形見の品を持って帰ってくれないか」

いや、俺に、そんな資格はないだろう。俺は赤の他人だ。世話にはなったが、だからといって貰えるもんじゃない。

そう思ったとき、目の中に2組のカップが目に入ってきた。陶器で作られた不細工なカップと皿だ。

むかし、老後のために、何か趣味を持とうと思って陶芸教室に通っていたことがあった。どれもが不細工な作品ばかりだったが、その中でマシだったのが、コーヒーカップだった。

私は、恥知らずにも、その2つのカップをおやっさんとおっかさんにプレゼントしたのだ。

「ハハハ、おまえ、度胸あるな」と笑われたが、おやっさんは受け取ってくれた。

久しぶりに手にとってみた。焦げ茶とオレンジ色のグラデーションがアンバランスな、ふざけたコーヒーカップだ。

こんなふざけたカップを残しておくなんて、おやっさんも変わっているな。

「カップの裏を見てみろよ」とタチバナが言った。

見ると、「息 暁作」という文字が彫られていた。私の記憶にはないものだ。

「親父が電動ドライバーで彫ったんだよ。それを見たときは、おまえに嫉妬したな。息子は俺の方だぜ。おかしいだろうよ」

「ただ、初めて言うことだけどな。俺には、生後半年で死んだ兄貴がいたんだとさ。そいつの名前が、漢字は違うが『哲』と書いてサトルと言ったんだな。だから、おまえをその生まれ変わりだと思ったのかもしれない」

 

こじつけにしか聞こえないな。

 

「そうかもしれない。ただ、おまえのことを気に入っていたのは事実だ。俺が嫉妬するほどにな」

「そのカップ、貰ってくれないか。他のものは捨てるつもりだが、そのカップだけは、捨てたくはない」

「それを捨てたら、親父に怒られる気がするんだ。だが、俺が持つのは違うと思う。これは、おまえのものだ。頼む」

タチバナが、悲壮な空気を身にまとって、私を見つめた。

そんなに、深刻ぶるなよ。余計に寒くなるだろうが。

 

まあ、もともと俺が作ったものだからな。

俺が、責任を持つべきだな。

貰ってやる。

 

家に持ち帰って、早速ブサイクすぎるコーヒーカップで、ドリップコーヒーを飲んだ。

 

 

瞬時に、私の目の前に、季節の花々が広がった。

  (おやっさんの笑顔も)

 


ミーちゃんと親子丼

2019-01-06 05:02:01 | オヤジの日記

あけまして おめでとうございます

本年も 皆様のご多幸を お祈りいたします

 

新年初めてのブログなのに、最初の話題は昨年末の話。

12月30日の夜、大学時代の2年後輩のカネコから接待を受けた。

嬉々として、我が家族5人、吉祥寺の食い放題の店に乱入した。

カネコだけが待っているかと思ったが、知っている顔がたくさんいた。

カネコの奥さん、カネコの娘のショウコとそのガキ2人、カネコの息子のリョウ、ショウコの夫のマサの7人だった。

私のほうと合わせて、総勢12名。これは、どういうこと?

「忘年会をしようかなと思ってな。こんなチャンスは、そうそうないからな」

もちろん、おまえの奢りだよな。

「ああ、俺とマサとリョウが払う。だから、財布は気にするな」

ショウコの夫のマサが、コクンと頭を下げた。真面目な夫。八王子で、中学の英語教師をしていた。「牧師をしてます」と言っても誰も疑わないだろう。つまり、つまらない男だ。

 

ショウコが高校3年のとき、ショウコの通う高校に、マサが中学3年生の教え子たちを連れて学校見学に来た。

そのとき、ショウコは、高校の生徒会長をしていた。マサと生徒たちを案内した。

そのとき、何が、あるいはどこがお互いを引きあったのかわからないが、25歳と17歳の男女の気持ちが化学反応を起こした。

そして、一年後の7月に、2人は結婚した。ショウコは、大学1年、大学に入ったばかりだった。

どうして、そんなに結婚を急いだのだろう。当然の疑問だと思う。

しかし、その年の11月、八王子のアパートに行って、2人に会ったとき、私は確信した。

マサだから・・・マサだから、ショウコは結婚したのだということを。

意味がわからないかもしれないが、補足説明をするとこうなる。

17歳で出会おうが、20歳で出会おうと、25、30歳で出会おうと、ショウコは絶対にマサと結婚しただろう。

つまり、相手が「マサだから」ショウコは結婚した。たまたま17歳で出会っただけ。いつ出会っても良かったのだ。いつ出会おうが、ショウコはマサと結婚する運命にあった。

そういうことだよな、とショウコに聞いた。

「さすがサトルさん、正解だよ。うちのパパには、わからなかったみたいだけどね」

脳細胞が脂肪で埋まったカネコには、絶対に理解不能に違いない。

 

ショウコとマサのガキ、帆香(ホノカ)、悠帆(ユウホ)は、私の両サイドに座って、寿司やらソフトクリームを食っていた。

2人は、私のことを「しらがじいじ」と呼んだ。本当のじいちゃんであるカネコのことは、「デブジー」と呼んだ。

「デブジー」よりも明らかに「しらがじいじ」の方が品のいい呼び方だと思う。ガキどもは、人間の価値が分かっているのだ。あっぱれだと思う。

 

ユウホの隣に座ったマサが、私に言った。

「先輩、あの子、すごい食べっぷりですね。圧倒されますよ」

マサもショウコも私と同じ大学を出ていた。だから、マサは、私のことを「先輩」と呼んだ。

だが、私は年下に「先輩」と呼ばれるのが好きではない。私自身、大学時代の年上を「先輩」と呼んだことがない。形骸化した上下関係が鬱陶しいからだ。

「先輩」などと呼ばなくても人を敬うことはできる。言葉は、所詮言葉だ。形だけの敬意は、相手を軽んじるだけだ。

だから、俺のことは「マツ」と呼んでくれ、とみんなにお願いした。学年が下の子たちは、それを受け入れてくれて、私を「マツさん」と呼んだ。

マサにもそうお願いしたのだが、マサは、頑なに私のことを「先輩」と呼んだ。

「だって、マツさんこそ『先輩』と呼ぶのに相応しい人ですから」

つまらない男だ。しかし、1人くらいは、私を「先輩」と呼んでバカにする奴がいてもいいと思ったので、マサに限っては、それを許していた。

 

マサの目の前の席に、ミーちゃんがいた。

食い放題の焼肉を私の娘が焼き、それを大盛りのご飯の上に乗せて、一気に掻きこむ豪快な食いっぷり。

わずか30分で、これが3杯目のどんぶり飯だ。惚れ惚れするほどの大食い風景。

その前に、刺身3人前をすでに食っていた。味噌汁も大椀で1杯飲んでいたのだ。

どんぶりを左手に持ったみーちゃんは、完全に戦闘態勢に入っていた。

やっと焼肉2皿目に取り掛かったカネコなど、小せえ小せえ。体はデカくてもミーちゃんの迫力には及ばない。所詮はミニブタですな。

 

食っている最中のミーちゃんと目が合った。

私がうなずくと、みーちゃんは顔全体でキラキラとした笑顔を作って、目だけで私に語りかけた。

「パピー、アタシ、満足だよ」

ミーちゃんは、中学3年の6月から高校1年の7月まで我が家に居候していた。

両親の離婚調停という生々しい空気に耐えきれず、我が家に逃れてきたのだ。

初めての日、その食いっぷりの凄まじさに圧倒された。とにかくコメをよく食ってくれたのだ。コメにゴマ塩を振りかけただけで、どんぶり飯を三杯一気に食った。味噌汁は、大きなお椀で五杯は飲んだ。スパゲッティなら、最低5束食った。コロッケは20個。餃子は100個。インスタントラーメンは最低3人前プラス米。

ミーちゃんの美味そうに食べる姿を見るのが、私は好きだった。

 

ある日の深夜、仕事部屋で徹夜をしていたとき、ミーちゃんが部屋に入ってきた。

腹が減ったのかな、と思ったが、鼻をすする音が先に聞こえた。

「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」とミーちゃんが泣いて謝った。

なんで、謝るの?

「だって、パピーの娘でもないのに、ずっと家に居座って、ご飯もたくさん食べて。アタシ、非常識だよね」

私は、椅子から降りて、ミーちゃんの前に座った。

「俺は、君のことを娘だと思っているよ。メシを作って、たまに勉強も教えている。君の下着だって、俺は洗っている。それは、俺が君の父親だからできることだ。君が俺のことを父親だと思わなくても、俺は父親だと思っているから。それは、これからも変わらないから」

ミーちゃんのご両親は、離婚が成立して、ミーちゃんの親権は母親が持った。しかし、ミーちゃんは母親と折り合いが悪かった。父親についていきたいと思ったみーちゃんの願いは叶えられなかった。

それが、とてもショックで、ミーちゃんは、そのときとてもネガティブになっていたのだと思う。

これは、さらに一年以上あとのことだが、父親はその後再婚し、再婚相手との間に子供も生まれた。それ以来、今に至るまで、ミーちゃんと父親は没交渉になった。

 

ミーちゃんが「ゴメンナサイ」と泣いた夜、ミーちゃんは心のたけを30分以上私にぶつけた。

ミーちゃんは、とてもいい子で頭のいい子だったが、唯一「愛情」を受ける方法だけを知らなかった。

そのとき、私はミーちゃんに言った。

俺はいま仕事中で、とても忙しいけど、邪魔をしないなら、ずっと見ていてもいいよ。

ミーちゃんは、私が仕事を終えた朝4時過ぎまで、床に正座して私の作業をずっと見ていた。そして、仕事を終えたのを確かめたあと、「ご苦労さまでした」と頭を下げ、仕事部屋を出ていった。

朝8時前に、娘とミーちゃんは、家を出て学校に行く。私はいつも玄関で2人を見送った。

そのとき、ミーちゃんが言った。

「パピー、今日は親子丼が食べたい。親子が食べたい」

わかった。親子だね。

 

それ以来、ミーちゃんは親子丼が大好物になった。

昨年の30日。最後にミーちゃんが食ったのも親子丼だった。シメに親子丼を大盛り1杯。

食い終わって「幸せだー」と叫んだ。

そんなミーちゃんに向かって、全員が大きな拍手を送った。店の人も拍手をしてくれた。

 

12月31日と1月1日。娘とミーちゃんは、家でのんびりと過ごした。入社一年目。肉体的にも精神的にも疲れがたまっていたに違いない。

娘の部屋で、テレビを見たりゲームの任天堂クラシックミニなどをしたりして過ごした。

2日になって、やっと外に出た。みんなで東京タワーに行った。

ミーちゃんが、東京タワーに行ったことがないと言っていたからだ。

幸いアッパレなほどのいい天気だったので、見晴らしはすこぶる良かった。

その絶景に見とれているとき、まずミーちゃんが言った。

「ねえ、パピー、カレシができた。取引先の4歳年上の人だよ」

スマートフォンの中の画像を見せてくれた。普通の男だった。

次に、娘が言った。

「ボクもできた。まだ2週間もたっていないけど、一応カレシだ。今度連れてくるな」

画像を見せてもらった。普通の男だった。

 

普通が、一番さ(ちょっとショック)。

 

1月3日。2人のカレシの話と餃子をおかずにして、晩メシを食った。

ちょっとビールを飲みすぎたかもしれない。その理由は言わない。

 

4日の昼前、北陸新幹線で、ミーちゃんは予定通り金沢に戻ることになった。

新幹線の中で食わせようと思って、特大のおにぎり3つとでかいメンチカツ2つ、大好物の自家製タクワンをミーちゃんに持たせた。

ホームで、突然ミーちゃんにハグされた。耳元で言われた。

「パピー、大好きだよ。今度は、ゴールデンウィークに帰ってくるから・・・カレシを連れて」

 

北陸新幹線が走り去っていった。

 

呆れるくらいいい天気だったのに、遠ざかっていく新幹線が雨にけぶっているように見えたのは、なぜだろう?