リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

だってバカじゃん

2018-01-28 07:15:00 | オヤジの日記

「これ買ってきたんだよ」と大学4年の娘がテーブルに紙袋を置いた。

開けてみると、猫ちゃん柄のパジャマだった。

それも2人分あった。

「ペアパジャマだ。一緒に着ようぜ」

それを見ていたヨメが、「なに? キッモチ悪いー!」と言った。

「え? ペアルックじゃないぞ。ペアルックは気持ち悪いけど、ペアパジャマは、いいんじゃないか。誰も見ていないんだし」

いいのか、高かったんじゃないのか。金払おうか、と私が言うと、娘が「それじゃ意味ないんだよな。バイトの給料で買うってことが重要なんだよ」とパジャマの入った袋を叩いた。

 

私は一年中、部屋では半袖半ズボンである。パジャマを最後に着たのは、いつだったか・・・思い出せないほどの大昔だ。

その私が、娘と同じ柄のパジャマを着るというのは、自分でも意外すぎて、笑うしかない。ただ、その笑いは、ニヤケ笑いであるが。

お互いのパジャマ姿を見て、娘が「おお、ピッタリだったな! これで寒い冬も乗り越えられるな」と言った。

きっと娘は、今年の冬は特別寒いから、半袖半ズボンの私を憐れに思って、長袖長ズボンのパジャマを買ってくれたのだろう。私一人分だと着ないかもしれないので、わざわざペアを選んだのだろう。

 

あったかーーいなあ。

 

ところで、武蔵野のオンボロアパートに住んでいた頃、私は不思議に思っていたことがあった。

なぜ娘や息子は、こんなオンボロアパートに、友だちを連れて来られるのだろう、と。

私だったら、恥ずかしくて出来ない。

こんな築30年以上のオンボロアパートに住んでいるところを友だちに見られたくない。

しかし、子どもたちは平気なのだ。

特に娘などは、高校時代の同級生6人を連れてきて、「おい、メシを食わせろ」と命令することが当たり前になった。

タコ焼きパーティ、餃子パーティ、焼き肉パーティなどを月に最低2回はした。

 

その6人たちは、大学3年の後期、娘が韓国に留学していたときも我が家にやってきた。

「ねえ、パピー、ハンバーグ食べさせて」「スープカレーが食べたい」などと言って、各自食材を持ち寄って、やって来るのだ。

娘がいないのに来る、というのが、とても不思議だった。

だから、娘のお友だちの双子の姉妹・アミユミ(PUFFY?)に聞いてみた。

なんで、こんな汚ったねえアパートにやって来るの?

するといつも辛口のことを言うユミちゃんに、怒られた。

「あのさあ、パピーは、建物の外観で人や物事を判断すんの? ということは、パピーは、外見で人を判断するってこと? それって、最悪じゃん。外見と本質は違うよね。私たちは、来たいから来てるんだよ。ここに来たい理由があるから来てるんだよ。わからないかなあ」

 

おそるおそるお伺いを立ててみた。

その来たい理由とは?

 

ユミちゃんが、私のことを指さしながら言った。

「だって、夏帆のパピーやマミーってバカじゃん!」

アミちゃんがフォローした。

「それは、頭が悪いバカって意味じゃないからね。なんか普通の大人とは違うバカの雰囲気を持ったバカだからさ。落ち着くんだよね」

それ・・・フォローになっているのか?

要するに、バカってことだろ。

「バカじゃないよ。いい意味でバカってことだよ」

 

よくわかりませんけど、「バカ家族」が居心地がいいってことかな。

 

「そうだね」

 

それは、褒め言葉なのか。

俺たちは、このまま「バカ」でいいのか。

 

嬉しいような、そうでないような・・・・。

でも、嬉しいかな。

 

昨日もアミユミちゃんが我が家にやってきて「カレーおでんパーティ」を開いた。

そのとき、「パピーってバカじゃん」「バカじゃん」を20回以上言われた。

 

そのたびに、心がとても、あったまった。

 

 

 


元居酒屋の女

2018-01-21 06:18:00 | オヤジの日記

SkypeとLINEで、たまに子育ての相談を受けている女性がいた。

名前は知っているが、住んでいるところも年齢も知らない。

怪しい関係だ。

 

8年前に、埼玉から東京に帰ってきたとき、埼玉で知り合った同業者の皆様方から、「Mさんを励ます会」を定期的にやろうよ、とお節介なことを言われた。

しかも、埼玉からわざわざ吉祥寺まで来てくれるというのだ。

別に励まされなくてもいいんですけどね・・・と失礼なことを思ったが、来てくれるというのを拒むのは大人げないので、適当な居酒屋を捜して、2か月に1回程度、飲み会を開くことが習慣になった。

しかし、それぞれに探りを入れていくと、ただ単に、埼玉の田舎者が吉祥寺に来たいだけだということがわかって、若干白けた。

 

初めのうちは、店をいつも変えていた。

私は、馴染みの店を作るのが好きではない。常連さんにはなりたくない。味が気に入った店でも、顔を覚えられないように、半年以上の間隔を空けて行くことにしていた。

しかし、飲み会を開くようになってから1年半経ったとき、同業者たちに、「落ち着かないから、店を固定しましょうよ」と言われた。

わざわざ埼玉のど田舎から来てくださる方たちのご意見を無視するわけにはいかないので、わかりやした、と答えた。

「あの2回目に行った居酒屋がいいよね」「そうそう、スタイルがよくてエキゾチックな顔立ちをした威勢のいい女の子が、なんか、いいよね」「愛人にしたいタイプだよね」

スケベ親父か!

あんたらの目は節穴か。あれは、どう見たって元レディースだぞ。背中に入れ墨しているかもしれないぞ。ヤケドするぜ。

「まあ、見るだけだから」「店では暴れないでしょうよ」

 

そんな経緯があって、店を固定することにした。

こじんまりとした居酒屋だ。30人程度で一杯になる雑然とした居酒屋。その居酒屋を一人の女性が、手際よく仕切っていた。確かにエキゾチックで、キリッとした人だった。

同業者のお気に入りのその女性は、店長代理だということが判明した。

その人は、左の頬に、くっきりとしたエクボがあった。だから、私は、その人のことを「片エクボさん」と呼んだ。

片エクボさんは、私のことを「白髪のだんな」と呼んだ。

その当時、私は体の調子の体調がおかしかった。

ヘモグロビンの数値が5.9まで落ちて、かかりつけの医師から、「いつ脳梗塞や心筋梗塞で死んでもおかしくないですよ」と褒められていた。

週2回の点滴とひと月に1度の輸血を受け、大量の鉄剤を飲んで、やっと生きていた。

しかし、わざわざ埼玉のどどど田舎から吉祥寺まで私を励ましにきてくれる「ハゲ増し軍団」の誘いを断ることはできないから、飲み会には参加した。

 

ある日の飲み会のとき、片エクボさんが私の耳元で言った。

「白髪のだんな。お酒はやめようよ。栄養のあるものをたくさん食べて、元気を出そう。この店には、ノンアルコールビールは置いてないけど、私が特別に用意をしたから、それを飲んでビールを飲んだ気になって」

元レディースの迫力に押されて、私は、ついうなずいてしまった。片エクボさんは、私の体の調子の体調が悪いことを見抜いていたのだ。

それから、1年半ほど、私はビールの色をしたノンアルコールビールの入ったジョッキを飲まされることになった。

埼玉のどどどど田舎から来ている同業者たちは、私がビールを飲んでいると思ったようだ。

 

私の体の調子の体調が良くなってから、片エクボさんにこっそり聞いてみた。

なんで、俺のことを気にかけてくれたの?

それに対して、片エクボさんが、元レディースの迫力を隠さずに言った。

「白髪のだんなとあたしは、縁は薄いけど、薄い縁でも縁は縁だよね。具合が悪そうな人を放っておけないよ。それに、あたしは、やせ我慢をする男が好きなんだよね」

そうか、薄い髪でもハゲはハゲって言うもんな、と同業者の頭を見回しながら、私は言った。

後ろから元レディースに、首を絞められた。

 

ここは、暴力居酒屋か。

 

それ以来、片エクボさんとは、そんなコントをする仲になった。

結局、飲み会に参加する人たちの中で、片エクボさんと一番仲良くなったのは、私だった。

そんな片エクボさんは、3年前の暮れに、「妊娠が先で入籍があと婚」という人にあるまじきことをして、居酒屋をやめることになった。

やめるとき、「白髪のだんな。Skypeって知ってる?」と聞かれた。

ああ、俺はスキップは世界で2番目に上手いんだ。見せてやろうか。

また首を絞められた。

そのあと、私が、旦那さんのクビは、間違っても締めるなよ、と言いながら片エクボさんの頭をポンポンしたら、片エクボさんに薄い胸にすがりついて泣かれた。

同業者から、嫉妬の目で見られた。

 

それ以来、妊娠まっただ中、あるいは出産後に、片エクボさんからSkypeのビデオ電話で、相談を受けることがたまにあった。LINEでも相談を受けた。

「忙しい? ねえ、今忙しい? 忙しい?」

元レディースの迫力で言われたら、断ることなどできない。次に会ったとき、絶対にボコボコにされる。だから、平静を装って、全然大丈夫、と毎回震える声で答えた。

今回も震える声で、だいじょうぶだー、と答えた。

 

「あたしね、また、できた」

何ができた? 逆上がりか?

もちろん、何ができたかは、わかっていたが、私の性格上、一度は茶化さないと話が進まないという愛すべきお茶目さがあるから、一応言ってみた。

しかし、片エクボさんから、「うん、逆上がりができた」という意外な答えが。

うそだろ?

「あたし、勉強とスポーツはぜーんぜんダメだったから、はじめて逆上がりができて、うれしいんだよね」

うそだろ?

 

「嘘に決まってるでしょうが!」(元レディースの迫力)

 

ですよね。

 

2人目か。それは、めでたい。

「24歳で2人目だからね。30までに4人は産みたいよね」

ちょーーーーーっと、待ったぁ!

ということは、6年前に知り合ったとき、君は18歳だったってこと? 18歳で居酒屋の店長代理をしていたのか。

それは、許されることなのか。

片エクボさんが、口元を手で押さえながら、ホホホと笑った。

「だって、わたくし、お酒は飲みませんし、煙草も吸いませんから。それに、22時には帰っておりましたから」

 

怖いな、怖いな・・・女は怖いなぁ(稲川淳二風に)。

 

 

片エクボさんの旦那さんが、すこし可哀想になってきた。

 

 


上を向いて歩こう

2018-01-14 06:08:00 | オヤジの日記

 毎年のことだが、正月には大学時代の後輩カネコの娘ショウコがやって来る。

 

ガキを二人連れてやってくるのだ。

お年玉を目当てに。

27歳の人妻に、果たしてお年玉は必要なのだろうか。

それを考えることに意味はない。

だって、強引にお年玉を奪っていくのだから。

ショウコとガキ二人分のお年玉を渡し、ショウコから私の子ども二人分のお年玉をもらう。

まあまあ、おあいこかな、と納得するしかない。

 

ロイヤルホストで、高級ハンバーグを食いながら「夏帆ちゃん、卒業だよね」とショウコが言う。

そうだ。我が娘は今年大学を卒業するのだ。

「卒業旅行は、どうするの?」

大親友のミーちゃんと香港のディズーニーランドに行くらしい。本当はアメリカのディズーニーランドに行きたかったが、金がかかるので香港で我慢したようだ。

 

「あたし、卒業旅行に行ってないんだよね」

それはそうだ。高校卒業と同時に結婚し、大学3年で子どもを産んだショウコには、卒業旅行に行く余裕はなかっただろう。

卒業旅行よりもガキの子育てと学業が優先だ。

「サトルさんは、偉そうにオーストラリアに行ったんだよね」

偉そうではないどね。

 

今はオーストラリアに行くのは簡単だし、航空運賃も安いようだが、私の大学時代は往復の航空運賃が100万近くかかった。

しかも「白豪主義」という大きな壁があった。

建前的には、そのとき白豪主義は終わっていたが、まだあちらこちらに、その名残はあった。

当時のオーストラリアは、白人がまるで世界の中心のような社会だったのだ。

一応、日本人は「名誉白人」という扱いを受けていたようだが、私は極々たまにしか、その扱いを受けた記憶がない。

だから、行く先々で、「おまえ、チャイニーズかよ」という扱いを受けた。

 

色々な店で、来店拒否にあった。

「白人しか認めねえよ」

ただ色素が薄いだけで、何が偉いんだろう。

まともに受け入れてくれる店は、2店に1店くらいだった。

受け入れてくれた店でも、ステーキを頼むと、後から来た白人の方が早くステーキが運ばれて、同じものを注文した私のステーキが後から来た。しかも、私の方が明らかに肉の大きさが違うし。

それが当たり前の「白豪主義」の名残だった。

ホテルも明らかに粗末なものをあてがわれた。

 

宗主国・イギリスに頭が上がらないから、彼等は、自分より下の人種をマウントすることでしか自分たちのアイデンティティを保てなかったのだろう。

だから、アボリジニやアジア人をマウントしたのだ。

これは偏見かもしれないが、オーストラリア人の中でも教養の高い人は、とても友好的だった。

しかし、教養の低い人は、異邦人を差別化する確率が高かった。

子どもも「あいつ、カラーズだぜ!」と私を指さすことがあった。

子どもは、知識が薄い。そして、親の影響を色濃く受けている。

親が無知なら、子どもも無知だ。だから、差別が蔓延する。

これは、日本も変わらない。

どの国も同じだ。それが常識なら受け入れるしかない。

我慢して40日間、差別社会の中で旅をした。

 

帰りの航空運賃を残して、あとの金を使いきるまでオーストラリアにいようと思った。

それは、理不尽な白人差別社会に対する意地だった。

メルボルンの公園で、「差別大国」を呪いながら、物憂い気分で、呆れるほどキレイな青い空を見上げていた。

そのとき、70過ぎの老人に、「あんた、チャイニーズかい?」と聞かれた。

面倒くさくなったので、「ああ、チャイニーズだよ」と答えた。

「そうかい、この国でチャイニーズが生きていくのは大変だよな」と老人は言って、一枚の紙をくれた。

それは、新しくできたバーの無料飲料の券だった。

それを持っていくとウィスキーが一杯無料で飲めるというものだ。

「チャイニーズに飲ませくれるかは、わからねえけどな」と老人は、肩をすくめながら言った。

期待はしなかった。

しかし、「差別社会」に挑戦するように、私はその夜、そのバーに行ってみた。

 

券を見せると、白人のバーテンダーは、普通にウィスキーを出してくれた。

そして、隣に座った30代の太った男は、「きみ、チャイニーズかい?」と笑顔で話しかけてくれた。

いや、ジャッパニーズだよ。

「おお、俺は日本は大好きだよ。船旅で寄ったことがある。とても親切にしてもらったぜ」

酒を奢ってくれた。

それだけで、涙が出た。

40日以上の旅で、オーストラリア人に親切にしてもらったのは、数回だ。

しかし、隣に座った男は、「なあ、兄弟。君は、この国の旅で苦労を味わっただろう。悪いな。この国は、厄介な国なんだ。でも、決して悪い国じゃない。俺は、君にいい思い出を残して、国に帰って欲しいんだ。だって、俺はこの国が大好きだからさ」と私の肩を抱いて、ウィスキーを3杯も奢ってくれた。

 

そのあと、店の隅に置かれたアップライトのピアノに向かって、男は歩いていった。

そして、男は弾き始めたのだ。

「上を向いて歩こう」

旋律は、若干乱れていたが、それはまさしく「上を向いて歩こう」だった。

 

その旋律を聴いて、泣いた。

思わず涙があふれた。

その旋律を聴いたとき、日本に帰ろう、と思った。

もう充分だ。俺は差別主義の国と40日以上闘った。

俺は勝った、と思った。

異国の旅先で勝った負けたなど、馬鹿馬鹿しい話だが、当時の私はそう思った。

 

私の卒業旅行は、そんな馬鹿馬鹿しい旅だった。

 

ショウコが言う。

「うん、バカだよね。サトルさんらしい、馬鹿馬鹿しさだよね。でも、あたしは、嫌いじゃないよ」

 

 

新年早々、30歳以上下の女の子に褒めてもらった。

とても居心地が悪い。

 

 


新年の告白

2018-01-07 05:35:00 | オヤジの日記

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

年末年始は仕事。

1月3日まで慌ただしい日々を過ごした。

そして、4日の昼。長年の友人の尾崎から昼過ぎに電話があった。

「お嬢さんを連れて、バーまで来ないか」

尾崎が経営する中野のスタンドバーに娘と行ってきた。

午後4時にバーに到着した。

尾崎が一人で待っていた。

店は12月31日まで営業していて、年始は5日からだという。例年は4日からの営業だが、今年は5日。

バーをまかせているのは、尾崎の妻・恵実の弟だ。つまり、尾崎にとっては義弟。

義弟に昨年子どもが産まれたので、一日家族サービスの時間を多く与えたらしい。

普段は尾崎がカウンターに立つことはない。しかし、この日は立った。

最初に出されたのは、クアーズライトだった。

娘の気に入っているビールだ。

それを飲んでいるとき、尾崎が娘に紙袋を渡した。

「恵実からだ」

今年の春から会社勤めをする娘へのプレゼントだった。

ありがたい。恵実の気配りに感謝した。

娘も感激していた。

私にはまったくわからないのだが、フェリージというメーカーのバッグらしい。

 

なんじゃ、フェリージって?

何語やねん?

 

「俺もよくわからねえんだ」と尾崎。

ただ、見た目で、高価なものだということは想像できた。

ありがとうございます、と親子で頭を下げた。

 

そのあと、3人でカティサークを飲んだ。

飲んでいるとき、尾崎が突然饒舌になった。

尾崎は、高校を1年の1学期で中退し、それから10年近くアンダーグラウンドの世界で生きてきた。

その話をし始めたのだ。

どうしたんだ、尾崎、酔ったのか?

「酔っちゃいないが、今日は俺の両親の命日なんだ。なんか、心のケジメをつけたくなってな」

そのストーリーは、重くて新年の話題に相応しくないので、今回は書かない。いつか、機会があったら、紹介してみようかと思う。

 

尾崎の話を聞いた娘は、ショックを受けたようだ。

尾崎と娘は、私の父親の葬儀で、初めて顔を合わせた。そのときは、尾崎が放出する空気に圧倒されたようだが、それからのち3度尾崎と会うことによって、完全に免疫ができた。

今では「尾崎のおじさん」と呼ぶくらい親しみを感じている。

「お嬢がいるから」と尾崎が言った。尾崎は、私の娘を「お嬢」と呼んでいた。

「お嬢がいるから話せたんだ。おまえ相手だと照れるからな」

 

きっと尾崎は、前からそれを聞いてもらいたかったんだと思う。

ただ、私に直接語るには、生々しすぎて気が引けたのだろう。

その気持ちは、わからないでもない。

その尾崎の告白を受けて、今度は娘が「今だから言うけどな」と話し始めた。

「韓国に留学しただろ」(娘は大学三年の後期、半年ほど韓国に留学していた)

「最初の2週間は、大学の寮で晩ご飯を食べながら、毎日泣いていたんだよな」

初めて聞く話だ。

娘とは毎日Skypeのビデオ電話で会話をしていた。

「ホームシックなんて全然ないよ」と娘は言っていた。私は、その言葉を信じていた。いつも明るい笑顔だったからだ。

しかし、パソコンの画面に映らないところで、娘は泣いていた。

その事実は、私にとても大きなショックを与えた。

なぜ気づいてあげられなかったのだろう。

異国の地で、ひとりぼっち。韓国語も英語も完璧ではない。その中で、ひとり暮らすことが、どんなに辛いことか。

「大丈夫だぜ、キムチがあれば、ボクは元気だ!」

その強がりの裏にあるものを理解できなかった俺に、彼女の父親である資格はあるのか。

 

へこんだ。

 

そう思っていたら、尾崎が新しいカティサークのストレートを私の前に滑らせながら言った。

「お嬢は、お嬢なりに環境に適応しようとしたんだ。そのための涙だ。その涙が、お嬢を強くしたんだと俺は思う。その強くなる過程を、おまえはビデオ電話で見守ることで、さらにお嬢に力を与えたんだと俺は思っている。それが、父親としての役目だったんだ。おまえは、父親の役目を知らないうちに果たしていたんだよ」

 

娘もうなずいていた。

 

心の中に小さなわだかまりはあったが、娘と尾崎の目を見ているうちに、心が徐々にほぐれてきた。

俺は完璧な父親ではない。完璧な人間でもない。

だが、それは、誰もが同じだ。

娘の涙を想像できなかった私は、とんでもないバカ親だが、バカな親でもいないよりはいい。

 

俺は、このままでいいんだよな、と娘と尾崎に聞いた。

 

ありがたいことに、二人はうなずいてくれた。

 

 

まだ、しばらくは、バカ親父を続けようかと思った新年だった。