リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ブログのアクセスを考える

2013-10-27 08:51:00 | オヤジの日記
自分のブログのアクセス数を週に1回確認する。

たとえば、私のこのブログは、週にページビューで3500前後、実訪問者数で1100前後。
訪問者数は、一日130~200で推移している。

この数が多いのか少ないのかは、わからない。

1週間に1回の更新にしては、意外と多いな、というのが正直な感想である。


実は、もう一つブログをやっているのだが、こちらの方は実訪問者数が一日600~7500だ。
呆れるほど多い。
なぜこれほどの訪問者がいるのか、まったく理解できない。

7492のカウント数を見たときは、「嘘だろ!」と叫んだほどだ。


アクセス数をあげる努力は、何もしていないのだ。
努力をすれば、もっと上がるのかな、とは思うが、何をしたらいいのかがわからない。

検索キーワード上位の言葉をちりばめると、いいらしいよ、と昔友人が言っていたことを思い出した。

たとえば、10月25日のヤフーの上位キーワードは、これ。
森圭介。
ギターの森。
ドラフト速報。
むつ美花店。
田村恵。

どれもまったく知らない。
そして、知らないからと言って、調べる気にもならない。
このキーワードは、私の生活とはまったく接点のない言葉だ。

その言葉を使用するのには、抵抗がある。
検索して、受け売りで書くという手もあるが、受け売りで書くというのは、他人の言葉で書くということだ。
それでは、ブログの意味がない。

自分の言葉で表現してこそのブログである。
他人の言葉を借用したら、自分が埋没してしまう。

だから、自分の言葉で書こうと思ったが、何も思い浮かばない。

その結果、今回のブログは、投げやりになった。


森圭介、ギターの森、ドラフト速報、むつ美花店、田村恵。


さて、このキーワードを使ってみたが、アクセス数は上がっただろうか。



一週間後が楽しみだ。



仕事で金をもらうということ

2013-10-20 07:21:00 | オヤジの日記
台風26号の被害に遭われた方々、お見舞い申し上げます。


東京武蔵野は、午前5時台の雨がすごかった。
オンボロアパートのトタン屋根の音がうるさくて、目が覚めた。

そして、おそらくそのとき、伊豆大島では、破壊的な土石流が猛威を振るっていたのだと思う。

さらに、そのとき、大島町の町長と副町長は、出張で現地にいなかったという。

今回の被害に関して、それは結果論だよ、あれほどの被害は誰も予測できない、という人がいた。
夜中の2時3時に、避難勧告を出されても混乱するだけだろう、と意見を述べる人もネットではいた。

しかし、それは違いますよ、と私は異を唱える。


それでは、仕事に対する考え方が甘いですよ、と。


私は、人様の命を預かる仕事はしていないが、「仕事」というのは、どんな職業も同じ心構えでするものだと思っている。

私の職業は、パソコンを使って印刷物をデザインすること。

クライアントに仕事を貰ってから、校了になるまでが仕事だが、時に印刷まで請け負うこともあるし、ポスティングなどの段取りをすることもある。
私は自由業なので、基本的には一人で仕事を請け負っている。

納期に間に合わなければ、次の仕事はない、というのがフリーランスの鉄則だ。
だから、仕事の仕上がりと納期には細心の注意を払う。
何度も確かめる。

ボリュームの多い仕事のときは、トラブルがあることを想定して、予備の印刷会社を抑えたり、雇った人たちの能率が悪くてポスティングが間に合わなければ、家族総出でノルマをこなす。
仕事をいただいた時点で、終了に至るまでの工程を細かくスケジュール化していくことが、ミスを防ぐための私なりの方法だ。

それは、人様の命を預かるほど厳しいものではないが、私は万全を期した仕事をして、それで家族を養っている。


その責任の規模が、私とは比べ物にならないほど大きい行政は、だからこそ細心の注意を払うべきだ。

大型台風が来るのが確実の状況なら、まず最悪の事態を想定して災害対策を考えるべきだろう。
たとえ大雨が降っても降らなくても、台風の進路にあたる区域には、早い段階で避難計画を提示すべきだ。

「過去に例がない」「予測できませんでした」の言い訳は、詳細な気象データを確実に入手できる行政には許されないことだ。
人命を守るために、予想できる災害対策をしないのは、行政側の怠慢である。

たとえ結果として大雨が降らなかったとしても、対策をするのが彼らの「仕事」だ。

「夜中の2時3時に避難勧告なんて無理だよ」ではないのだ。
前の日に対策を講じて住民の安全を図ることこそが、彼らの「仕事」なのだ。

それができない行政は、無能だ。


私がもし「仕事」をしくじったら、確実に得意先を失う。
おそらく、他の多くの方たちも、そうだろう。

行政は仕事をしくじったら、非難を浴びる。
その非難の総量は大きいと思うが、その非難は時とともに消えていき、彼らは何事もなかったように、税金を垂れ流しながら、また同じ仕事を続けることができる。
その非難が彼らの心身に染み付いて、次の仕事に生かされていくかどうかは、過去の例を思い返すと、はなはだ疑問だ。

行政の長は、選挙の洗礼を浴びることもあるが、事故が風化してしまえば、名前を連呼して頭を下げ続け利権をちらつかせれば、長の座を維持できることもある。


そんな行政や行政の長たちに、「災害は予測できないんだから」とか「夜中の2時3時に避難勧告なんて無理だよ」などというピントのずれた擁護をする人は、「仕事」で金を貰うことの意味を理解していない人だ。



台風27号が、26号よりも大きな勢力に発達して北上している。


来ないことを祈りますが、行政には今度こそ「仕事」をしていただきたい、と思っている私です。


「あー」の洪水

2013-10-13 08:22:00 | オヤジの日記
少し前のことだが、プロテニス選手のクルム伊達さんが、試合中に観客席からのため息にキレて大声を出したことがあった。

その伊達選手の行為に対しては、否定的、批判的な意見を多く見かけた。

そのなかで、産經新聞が、極めてピントのボケた記事を書いていたので、ここで抜粋しようかと思う。

「43歳の現役プレーヤーである伊達は素晴らしい選手だ。勝利を期待する日本のファンは多い。伊達がポイントを失うと、ため息が出るのは当然だ。それが嫌なら日本で試合をしなければいい」
「観客がいるからこそのプロ選手である。観客を味方につけ、自分のパフォーマンスを上げるのも技術のうちだ。伊達の発言は単なるイチャモンのようにみえる」
「ロック歌手の矢沢永吉氏は観客と「WIN-WIN」の関係をつくった。1970年代には客が暴れ、公演を拒否する会場もあった。個人的に、30年前からコンサートに足を運んでいるが、演奏中にケンカもあった。暴走族が着るような特攻服姿で、会場前で旗を振り、集会をするファンも多かった。だが今や、矢沢がバラードを歌うときは、手拍子もなく、クラシックコンサートのような静けさが生まれる。「タオル投げ」が有名だが、これもファンが始めたことから広まった」
「サッカーの本場、欧州では拙劣なプレーには観客からブーイングが起こる。選手とファンが、双方向のコミュニケーションをとることで、試合はより良いものになる。伊達にはそういう発想を持ってほしい」

長い引用になったが、この文章には、いくつかの勘違いがある。

まず矢沢永吉氏と観客とのWIN-WIN関係だが、彼のコンサート会場に来るのは、当然のことながら、彼のファンだけだ。
その現場で、どんな現象、事件が起きようが、結果的に、それはファン同士による「予定調和」の範囲内で終わる。

しかし、肌がヒリヒリするような緊張感の中で戦うプロスポーツ選手の試合会場に、そんな「予定調和」はない。
そこにあるのは、「勝ち」か「負け」の結果だけである。
もちろん、観客を味方に付けるのは、プロの選手にとって、必要な技術だ。

ただ、それは記事の中にあるような「サッカーの本場では云々」というのとは、違う意味の話である。
(イタリア、ドイツに過去15年ほど赴任していた友人に言わせると、少なくともイタリア、ドイツのサッカーの観客は、マナー知らずが少なからずいるという。試合そっちのけで暴れるという。的外れのブーイングをする人もいるという。それに、拙劣なプレーに対してブーイングをするのはサッカーだけではない。それだけでは、選手と観客とのコミュニケーションがとれていることの証明にはならない。私は、このような適当なことだけを抜き書きした記事を『空想記事』と呼んでいる)


サッカーでは、個々の選手の「刹那」のプレーに、賞賛や罵声が降り掛かってくる。
そして、ブーイングの嵐の中で、試合はそのまま動いて、怠慢プレーをした選手は、交代させられる。

野球でもそうだ。
ふがいないバッティングやピッチングを見せた選手は、罵声や叱責の後、交代させられる。

彼らは、ブーイングを浴び続けているわけではない。
試合は常に、多くの選手が個々のプレーをしながら、入り乱れて展開される。
ブーイングのターゲットは、一人だけではない。

だが、テニスに交代はない。
試合は流れていくが、選手は常に、観客たちの視線に晒されている。
そして、彼や彼女たちは、時に対戦選手のみならず審判、観客をも敵として戦っているのである。
(個人競技と団体競技では、一人が受け止める罵声の総量が、明らかに異なる)

ようするに、何が言いたいのかというと、「種類が違う」ということだ。
観る対象物(スポーツや歌、劇など)によって、彼らのおかれた状況は、明らかに異なる。

当たり前のことだが、ロックンロールとサッカー、テニスは同列に語れない。

それをなぜ同列に語って批判するのか、私には理解できなかったのである。


実は、私は当日、大学時代の友人の娘に誘われて、有明の観客席にいた。

私は、スポーツの試合は、20程度しか観戦したことがない。
ほとんどが、ボクシングだ。
あとは、陸上とラクビー。

テニス観戦に関しては、初心者と言っていい。

だから、テニス観戦の現場を初めて経験して、「あー」とか「あーあ」の洪水に驚いてしまったのである。

もちろん、伊達選手のサーブやボレー、ショットが決まったときは、大きな拍手や歓声が起きる。
まわりが盛り上がったときの高揚感は、気持ちがいいものだ。

しかし、ミスショットには、「あー」の大洪水。

それを身近で体験した私は、つい、友人の娘に向かって、「え? みんな応援しているんじゃないの?」と聞いてしまったのだ。

彼女は「いや、いつもは、こんなじゃないんだけどね」と、困り顔だった。


「観客を味方につけるのも技術のうちだ」というが、それは観客が観戦できるレベルにいる場合に成り立つ理論だ。

テニスでは、「ため息」が試合を壊すこともあるのだと、「あー」の洪水の中で、自分でも2回「あー」を言ってしまった私は、大いに反省し、実感したのである。
(「あー」を2回も言って、ごめんなさい)


ところで、記事を書いた産經新聞の記者は、現場にいたのだろうか。
(もちろん、いなくても記事が書けるのがプロですが)


たとえば、スポーツニュースの中で、番組側の意図的な「伊達選手のキレた映像」を見ただけの人は、おそらく伊達選手に対して批判的になると思う。

さらに、その種の批判的な意見を目にした人も、おそらく批判的になるだろう。

そんな風に、「あー」の洪水が流れを変えて、「批判」の洪水を作る。


「予定調和」のない、プロ選手は大変だ。

ご同情申し上げる。



ところで、日本では、自己アピールが強い人は、感情的に疎んじられることがよくある。
感情論だけが先走って、その人の本質は目隠しされる。

しかし、黙っていては、観客に自分の思いは伝わらない。


「ため息ばっかり!」


あの日あの時、私には、あの声は、純粋に、プロスポーツ選手の「魂の叫び」として聞こえたのだが………。


(伊達選手は、長いキャリアの中で世界中を転戦した結果、それぞれの国の観客の質を当然知っているからこそ、あの言葉が出た。そして、「あー」は、決して応援の言葉ではない、と言いたかったのではないだろうか)


占領された車内

2013-10-06 08:43:00 | オヤジの日記
奇妙な光景だった。

井の頭線に乗っていたときのことだ。

昼間の井の頭線・各駅停車は空いていた。
一車両に10人もいなかった。

私は、その空いた車両の3人席の右端に座った。
目の前には、20代半ばと思われる男が座った。
そして、その男の一人分空いた場所に、20歳前後と思われる女が座った。

電車が渋谷駅を発車する前から、男はiPad miniを操作しはじめた。
女は、スマートフォンだ。
女は、インナーイヤフォンをしていたから、音楽を聴くかYouTubeを見ていたのかもしれない。

男がiPad miniで何をしているかは、わからなかった。
真剣な顔で操作をしていたから、お気に入りのアプリを使っていたのかもしれない。

下北沢を過ぎ、いくつかの駅を過ぎ、明大前に着いた。
下北沢で数人が降りたが、数人が乗ってきたので、車内の人数は、それほど変わらなかった。

明大前でも何人かが降り、何人かが乗ってきた。
その中の一人が、男と女の間に座った。

他に座るスペースはいくらでもあったが、なぜか男と女の間の座席に座った。
20歳ぐらいの女だった。

その女もまた、座ると同時に、スマートフォンを操作しはじめた。

車内を見回すと、私以外の全員が、スマートフォンを手にもって、指をスライドさせる動作を繰り返していた。
久我山駅で、友だち同士と思われる女子高生が乗ってきたが、彼女たちも、手に持ったスマートフォンを操作しながら座席に座った。
隣り合って座っているのに、二人に会話はなかった。

終点の吉祥寺駅が近づいてきた。

ほとんどの人が、スマートフォンを動かす手を休めず、画面に見入っていた。

その中で、私の前に座っていた男だけが、iPad miniをバッグに閉まったあと、首を一度コキッと鳴らした。

そして、男が明大前から乗ってきた女に向かって、「何、食べようか?」と聞いたのである。

え? 知り合い?
思わず女の顔を見た私は、さらに信じられないものを目にした。

その女が、隣の女に「カオリは、何食べたい?」と聞いたのである。

渋谷から乗っていた「カオリ」と呼ばれた女は、スマートフォンをいじりながら「何でもいい」と答えた。


目の前に座った男女3人は、知り合いだった、という出来の悪いミステリー。


友だちとの会話よりも、スマートフォン、タブレットが重要。

この出来事は、もはや日常なのか。


もしかしたら、これを奇妙な光景と思う私の方が、奇妙なのかもしれない。