リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

「バカ男」と「バカ女」

2015-03-31 07:32:00 | オヤジの日記
20年くらい前からだと思うが、たとえば夜道で、女性ひとりが前を歩いているのを見かけると、私は、立ち止まって女性が見えなくなるまで待つことにしていた。

たとえば、自転車に乗っていて、前を歩く女性が一人だけだとしたら、私は方向を変えて、別のルートを通ることにしていた。
それが、遠回りになったとしても、私はその道を選んだ。

夜道では、人は敏感だ。
誰もが敏感ということはないだろうが、稀にいる敏感すぎる人が嫌なので、私は夜道には最大限の注意を払うようにしていた。

こんな話を友人たちにすると、「考えすぎだろ」「そこまでやる必要ないだろ」と嘲笑される。

この種のことは、人それぞれ感じ方が違うから、異論があるのは仕方がない。
私自身も、友人たちの感想は、正しいと思っている。

ただ、警察が告知する「不審者情報」などを見てみると、私以上に警察が敏感になっていることがわかる。

いや、敏感というより、過剰な「世論操作」と言っていいかもしれない。
事件が起きなければ、何もしてくれない警察が、なぜ地域社会に、ことさらに不審者情報を流しているのか。

私だけの感想かもしれないが、何か意図的なものを感じる。


たとえば、信じられないことだが、公園で知らない男が子どもに向かって「サヨナラ」と声をかけただけで、「不審者情報」に載せられる、という記事を読んだ。

昼間、人通りの少ない道を、前を歩く女子中学生を早足で追い越しただけで、それも「不審者情報」に載せられる。

暗くなりかけの道を、猛スピードで自転車を走らせ、若い女性を追い越すのも「不審者」になるらしい。

人通りの多い場所で、車を降りて女子高生に道を聞いただけで、「不審者」と通報されたケースもあるという。

商店街で、インナーイヤフォンを耳に当てて、歌を口ずさんでいた若い男が、「挙動不審の男」として通報された。


どの街角にもありそうな光景を「不審」という定義で括ったら、拳銃を携行した警察官も「不審者」とみなしていいことになる。
彼らのすべてが、拳銃を携行する資格を持っているかどうか、我々市民が知る方法はないのだから。

確かに、不幸な事件が起こってしまったら取り返しがつかないが、それと、何もかもが「不審である」という情報をばら撒くこととは別物である。

些末な情報を絶えずばら撒いていたら、むしろ「危険に対するアンテナ」が麻痺してしまうのではないだろうか。


過剰な「不審者情報」は、それが当たり前のことになりすぎて、実は「ないに等しい情報」になっているような気がする。

不審者情報や危険者情報を地域と共有するのは、有意義なことだ。
だが、日常生活の当たり前のことまで、「不審」と捉える空気を警察がばらまくことは、それが、為政者の理不尽な監視が強化される端緒になる恐れがある。

私には、彼らが無用な不審者情報をばらまくことで、「疑心暗鬼の社会」を作ることを目的としているように思える。


話は戻るが、私が冒頭で述べたことは、「自己防衛」の結果だ。

20年以上前、会社員だった頃の私は、大宮から埼京線で新宿まで行き、山手線に乗り換え、恵比寿でさらに日比谷線に乗り換えて、神谷町まで通っていた。

どれもかなり混雑する路線だった。
私は、その6年にわたる通勤で、10回近い「痴漢騒動」に遭遇した。

その中には冤罪もあったかもしれない、と私は想像している。

世の女性の中には、病的に敏感な人がいる。
鞄が軽く体に触れただけで、睨まれた経験は誰にもあるだろうが、私も6年間で数十回あった。

不愉快である。

だから、私は満員電車に乗ったときは、両手が使えない状況を自分で作った。
両腕でバッグを胸に抱え、さらに左手でCDウォークマンを持ち、右手で吊り革を握った。

この状態では悪さはできませんよ、というアピールだ。

ただ、そこまで万全にしても、肩が少し触れただけで睨む女性は必ずいた。
そういう人はきっと「満員電車の男はみな痴漢である」という確信を持っているだろうから、何を言っても無駄だと思って諦めるしかない。

それは、子どもに「サヨナラ」と言っただけで「不審者」とみなす意図的な空気と、精神構造、社会構造が同じなのかもしれない。


だから、自己防衛が必要になる。

「不審者」に思われる場面に自分を置かなければ、不幸は訪れない。
それが一番の方法であると私は確信していた。


しかし、こんなことをしても意味はなかった、と思われる出来事が、先週の土曜日にあった。

午後7時前、自宅近くの坂道を歩いていたときのことだ。
我がオンボロアパートまで、あと150メートルほどの距離。
時間にして、2分程度で我が家に帰れる。

坂道の前後に、人はいない。

安心していい場面である。

しかし、坂道の終わりに、小さな駐車場があった。
車4台ほどのスペースの駐車場。

そこを通過しようかというとき、突然、セダンの影から、出てきた女がいた。

私とぶつかりそうになったその女は、大きな声で、「何! 危ないじゃない! 転びそうになったわよ! わざとなの! 訴えるから!」と怒鳴ったのだ。

私は家へ続く歩道を普通に歩いていただけである。
早足でもなく、ノンビリでもなく。

少しも危なくはなかった。
転んだわけでもなかった。

普段は、この程度のことで怒ることはない私だが、そのときは、あともう少しで我が家なのに、という安堵の時間を邪魔された腹立たしさもあって、売られた喧嘩を買うことにした。

「では、警察に行きましょう。あるいは、この駐車場の前の家の人は、今は自治会の副会長さんをしていますが、昔は警官でした。(これは本当です)その方に、話を聞いてもらいましょう」。

私は、駐車場前に建つ副会長さんの家の呼び鈴を押そうとした。

すると女は、「何よ、バカじゃないの! 大げさな! バカ男!」と、名誉毀損で訴えてもいい罵倒を残して、足早に去っていったのである。



つまり、どんなに神経を使っても「バカ女」には、敵わないということだ。

(ところどころ、差別用語があったことをお詫びいたします)



けしからんの暴力

2015-03-10 09:16:00 | オヤジの日記
多摩川の河川敷には、よく行った。

実家が近いので、実家に顔を出したとき、子どもたちを連れて散歩をしたのだ。

穏やかに流れる川の音、そして、のどかな景色。
空には、たまにカイトが浮かぶときがあった。
よちよち歩きの子どもを、愛情あふれる顔で見守る若い夫婦の姿もあった。

だが、そんな平和な光景も、数人の残虐者に簡単に蹂躙される。

その所業は「鬼畜」以外の何ものでもない。

しかし、少年犯罪ということになると、世の中は突然ヒステリックになることが、私には理解できない現象だ。

「少年法を改訂せよ」という主張は、まだいい。
その種の議論は、密室協議ではなく、ガラス張りのものなら、何の異議もない。

しかし、それを詳細な議論にかけることなく、一方的に容疑者側の素性を晒したりするのは、感情論の度合いが強すぎて、ネットを悪用した「魔女狩り」にしか私には思えない。

それは、正義ではない。

正義感を隠れ蓑にした「鬱憤ばらし」でしかない。


青少年による凶悪犯罪が、近年増えている、という誤った情報を信じている人が、いまだにいる。

しかし、1975年から90年頃に比べると、明らかに少年の凶悪犯罪は減っているのである。
近年、やや増加傾向にあるのは事実だが、1975年から90年頃と比べれば、その数は、はるかに少ないのが現実だ。

あの時代は、経済成長が優先された時代で、大人が子どもをかまっている余裕がなかった。
つまり、子どもの教育より金が優先された時代だ。

その隙をついて、少年の凶悪犯罪が、大きな闇を作った。
だが、社会が落ち着いてきた2000年頃からは、少年の犯罪に対する経験値を得た大人たちが、それを抑止する方法を覚えたのか、その数値は確実に減ってきた。

ただ、インターネットというモンスターが、瞬く間に情報過多の世の中を作ったのが、1980年前後と決定的に違うところだ。

その結果、なにか目立った犯罪が起きると、「けしからん」という情報が、ネット媒体で溢れることになった。

少年の凶悪犯罪がピークだった1975年から90年までは、インターネットが普及していない時代だったから、「けしからん」情報は、一部のゲスな週刊誌とテレビニュースがばらまいただけだったので、ヒステリーは、その媒体を信じる人だけにしか伝わらなかった。

しかし、今の時代は、いくつかのゲスなアプリが主役になって「けしからん」を四方八方にばらまいている。
その「けしからん」情報の多さは、昔とは質も量も違う圧倒的なスピードで、電波の中に充満している。

それが、「少年の凶悪犯罪が増えた。何とかしろ」という錯覚を生んで、勘違いの正義感を持ったヒステリックな人々が、自己の感情を満足させるために、「魔女狩りの闇」を疾走している。


少年だから赦される犯罪というのはない、と私は思っている。

罪は罪。

自らが犯した罪は、それに相応しい罰を受けるべきだ。
そのことに異論はない。

だが、インターネットは、裁判所ではない。
ましてや、顔の見えない人々が鬱憤を晴らす場所でもない。

容疑者の顔や名前を晒したところで、彼の犯した罪の何が変わるわけでもない。

容疑者の所業は憎い。
それは当然のことだが、その憎しみと、容疑者の情報を晒すという暴挙は、イコールではない。

それでは、何の解決にもならない。

ただいっときだけ、高ぶった自己の感情を「裁判官気取り」で満足させているだけだ。
そして、週刊新潮の場合は、落ち込んだ雑誌の売上を伸ばしたいという極めて短絡的で正直な動機もある。

名誉毀損で訴えられてもおかしくない「自己の顔を晒さない告発」は、ただのスタンドプレーだ。
それは、未成年犯罪の残虐さと背中合わせ、表裏一体の罪だ。

大部分の人は、冷静で社会的にも大人だが、少数の未熟な人の「けしからん」の暴力が、いつか取り返しのつかない集団ヒステリーに形を変えることもありうる。

ただ、彼らも事件からひと月も経つと「けしからん」の暴力に飽きてしまって、違うターゲットを探すだろうから、少年法改訂騒ぎは、いつものように一過性に終わる可能性もある。



ごくろうさま、というしかない。