リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

タカハシヨシノブ

2015-10-25 08:41:00 | オヤジの日記
ジャイアンツの原監督がお辞めになるという見出しが、ネットのトップニュース扱いで載っていたのを見た。

ジャイアンツ・ファンの方たちには申し訳ないが、めでたい。

これで、私の知っているジャイアンツの人が、サカモト選手だけになった。
ただ、サカモト選手にしても、よく行く居酒屋の女性店長代理が好きだというから名前を知っているだけで、サカモト氏がピッチャーなのかバッターなのか私は知らない。
顔も知らないのである。

プロ野球系ニュースも野球中継も高校野球を含めて30年近く見ていない。
スポーツ紙も読まない。
ついでに言えば、新聞全国紙も読まない。


たとえば、ジャイアンツの新しい監督が私の知らない人で、顔も知らないサカモト氏がどこかの球団に移籍したら、清々しいほど私が知らないチームが出来上がる。

それは、実にめでたいことだ。

どうでもいいことだが、私は他のチームの選手のことも監督のこともよく知らない。
(名前と顔が一致するのは、中畑清氏、工藤公康氏、大谷翔平氏、ウラディミール・バレンティン氏、斎藤隆氏、松井稼頭央氏、西岡剛氏くらいのものである)


どうか、新しい監督は、私の知らない人にしていただきたい。
そして、サカモト氏をジャイアンツから解放して欲しいと思う。

そんな風に拝んでいたら、大学時代の友人・シバタから電話があった。

「あのな・・・怒るかもしれないけどな・・・」

俺は怒らないよ。
腹を立てるだけだ。

「あのな・・・ナカハタが辞めたじゃないか」

主語と動詞は理解したが、そのほかが理解できない。
ナカハタ氏は、何を辞めたのだ。

酒とタバコととギャンブル?
あるいは、酒とタバコととギャンブル?

「監督をだ!」

シバタは、典型的なアホなジャイアンツ・ファンだった。
神奈川で生まれ名古屋で高校までを過ごしたシバタは、そこではドラゴンズ・ファンだった。
だが、東京の大学に入ってからは、長いものに巻かれるようにジャイアンツ・ファンになった。

そして、たまに帰省するとドラゴンズ・ファンに戻った。
さらに、シバタは中畑清氏が好きだったので、中畑氏がベイスターズの監督になったとき、簡単にベイスターズ・ファンに鞍替えした。

私が推測するに、その中畑氏がベイスターズの監督を辞めたことによって、シバタはまたジャイアンツ・ファンに戻ろうとしているのではないか。

要するに、シバタは節操がなく常に多数派を拠り所とする、スタンダードなジャイアンツ・ファンなのだ。
自分の意見を持っていない。


「それに、ほら、俺はヨシノブも好きだからさ。今度監督になった」


また難解な言葉が出てきましたよ。


ヨシノブ? 何?
それは、苗字なのか?

それに、形容詞が抜けているぞ。
どこの監督になったんだ。

「馬鹿だな、おまえ、タカハシのことだよ!
だからぁ、巨人に決まっているだろうが!」

そんなの知るわけないだろうが。
野球無知な人間に、ヨシノブって言って通じると思うお前のほうが馬鹿だ。

じゃあ、おまえは俺が「アントニ・クラーベ」と言ったら、すべてがわかるのか。

「ア・・・アント・・・?」
「何だそれ?」

つまりは、そういうことだよ。

わからない人間に、わからない言葉を言ってもわかるわけがない。

「まあ、いいや! とにかく俺はジャイアンツ・ファンに戻る。後で知ったら何を言われるかわからないから、いま言っておく。いいな!  間違いなく言ったからな!」

電話が切れた。

そんな、つまらないことを言うために電話をしてきたのか。

おまえ、あと2年で還暦だぞ。
大丈夫か。


しかも、シバタは無神経極まりない男だった。

そのせいで、タカハシヨシノブって名前を覚えてしまったではないか。


顔も知らないタカハシヨシノブさん。

迷惑な話でしょうが、今すぐ監督を辞退していただきたい。



よろしくお願いします。



我が友セキトリ

2015-10-18 08:20:00 | オヤジの日記
おんぼろアパートの庭に住み着いた「セキトリ」という名の猫。

我が家族が、おんぼろアパートに住み始めて5年が経つが、我々が引っ越してきた2~3ヶ月後には、セキトリは庭に置いたダンボールの箱を住処にしていた。
もしかしたら、我々がおんぼろアパートに引っ越す前からセキトリは庭に住み着いていて、我々の方が居候ということもありうる。

引越しの時に使ったダンボールを潰さずに置いておいたら、彼にはそれがヘーベルハウスに見えたらしく、気に入って今に至るまで庭の右隅で居住権を主張していた。

ただ、ダンボールでは雨や雪を凌ぐのは大変だろうと思って、ダンボールを二重にして空気の層を作り、夏は涼しく冬は暖かい仕様に改造した。
そして、雨が侵入しないように五つの面にビニールシートを貼り、入口は猫の鼻や手で押して開けられるように、細いパイプの軸を使ったスイング形式のドアにした。
雨よけ用のひさしも防水シートで作った。
さらに、中には洗濯のしやすいタオルケットを敷いた。

大改造! 劇的ビフォーアフター。

なぜ私が彼をセキトリと呼ぶかというと、頭のてっぺんの模様が相撲取りの髷(まげ)に似ていたからだ。
ドスコイ!

セキトリの歳はわからない。
5年まえから大人の雰囲気を撒き散らしていたから、推定6~7歳ではないだろうか。

メシは、セキトリが練り物が好きなので、一日一回は練り物を出す。
あとは、パンが好物なので我が家で作った食パンをちぎって出したり、トーストにして出したりしている。
基本的にメシは朝と夕方の2回だ。

私はセキトリを愛しているのだが、セキトリが私を愛しているかはわからない。

東日本大震災のとき、セキトリは震災の2日前から姿が見えなくなった。
私は心配で心配で、メシだけは喉を通ったのだが、アルコール類は買い占めにあって買えなかったため喉を通らなかった。

そんな日々が続いていたとき、震災から2週間以上経って、セキトリがハウスに戻ってきた。
私は嬉しさを表現するため、セキトリを抱きしめようと思ったのだが、セキトリは素早い動きで私の手を逃れ、ハウスに戻った。

それはとても素っ気ない態度だったが、晩メシにカマボコを出したら、セキトリが「ニャー」と鳴いた。
セキトリの鳴くのを初めて聞いた。

「ニャー(でっかい地震だったな、おい!)」

それを聞いて、心が通じたと思った。
嫌われてはいないと感じた。
ただ、今もそうだが、たいていはメシの時にしか心が通じないのが、私には不満であるが。


いや、他にも通じたと思ったことが何度かあった。

私には、2歳上の姉がいたのだが、私は姉と血が繋がっているはずなのに、身内としての愛情を持ったことがなかった。
おそらく中学のときから、口をきいた回数は10回に満たなかったと思う。
姉は、無類の怖がりで、自分以外の全てが怖い人だった。
だから、社会を怖がり、高校卒業後40年近くを家に引きこもって過ごした。

酒だけが友だちだった姉は、3年前に肝臓ガンで死んだ。

葬儀から帰ったあとで、私はセキトリに、血の繋がった姉が死んでも泣けない人でなしの俺を叱ってくれ、とお願いした。
そのとき、セキトリはハウスからノッソリと出てきて、私の膝の上に乗っかった。
セキトリが、私の膝の上に乗るのは、初めてのことだった。

セキトリは私の方を見なかったし、鳴きもしなかった。
だが、私はセキトリが私を慰めている気がした。

その感覚が確信になったのは、父親が死んだときだった。
私の父親は破滅型の人で、誰もが知っているような一流会社に勤めていたのに、稼ぎを家に入れずに稼いだ金すべてを自分のためだけに使った。

酒と女。

私の母は20代後半と70代に結核を患って入院したのだが、そんな時でも父は病院に顔を出さず、家に帰っても来なかった。
病弱な自分の妻を見向きもしなかった。
年金も自分のためだけに使った。

そして、2年前、脳梗塞で死んだ。
その時も私は泣けなかった。
いや、意地でも泣かなかった。

薄情だよな。
俺は人間じゃないよな、とセキトリに話しかけた。

そのときも、セキトリは私の膝に乗ってきたのだ。

昨年の8月。
「重度の貧血」と診断された私は、セキトリに家族にも言えない愚痴を盛大にこぼした。

身内が死んでも涙ひとつ流さない人間に、誰かが重い罰を下したんだよ。

そのときも、セキトリは当たり前のように膝に乗ってきた。

そして、今週のことだ。
一年経って、ヘモグロビンの数値と残留鉄の数値が鉄剤を飲んでいるのにも関わらず、平均値まで届かないことを医者に指摘された。

「あなたの体は、自転車操業状態ですね」

かなり悲観的なことを例に上げて、「精密検査をして原因を探らないと何が起こるか・・・」と脅された。

セキトリに、そのことを伝えると、セキトリが「ニャーニャー」と2回鳴いた。
いつもは1回なのに、この日は2回。

彼は、2回鳴くことで、私に何を伝えたかったのだろうか。

「おまえも大変だな、兄弟」
「うるせえよ、そんなの関係ねえよ」
「眠いんだから寝かせろよ、ボケ!」
「早くメシ持ってこいや! 気がきかねえな」

どれか一つは当たっているような気がするが、私はネコ語を習い始めてから、まだ日が浅いので正確な翻訳ができなかった。


俺は、人間としても猫としても劣等生だな、とセキトリの前で泣いたふりをした。


セキトリは、何も言ってくれなかった。


自己満足の妄想

2015-10-11 08:42:00 | オヤジの日記
ひとつの夢を持っている。

大昔のことになるが、私は大学で陸上部に所属していた。
自慢をする気満々だが、私の通っていた大学では、私が短距離の記録は一番よかった。

だが、その陸上部は短距離の種目では当時の東京で弱小の方だったから、私は典型的なお山の大将だった。
そして、そのお山の大将は、3年の夏に腰と膝を痛めて、治療に専念するため休部することになった。
4年になれば、就職活動が忙しくなるので時期的に退部でも良かったのだが、悪あがきをしたのだ。

中学から陸上部一筋だった私から走ることを取ると、腑抜け同然だった。

そこで、中学時代から置き去りにしてきた自由時間を取り戻すために、変化を求めて、まずジャズ研究会を冷やかしに行った。
ウッドベースが余っていた状態だったので、格安の2万円で譲り受け、ウッドベースと格闘した。
さらに、映画研究会にも平行して顔を出し、映画撮影の裏方の仕事を教えてもらった。

そして、裏方の仕事が楽しくなると、映画の脚本に興味を持った。
映研の連中が書く脚本が、現実にこだわるあまり退屈で面白みに欠けていたからだ。

俺なら、あんな深刻なテーマは選ばない。
人生がどうの、死がどうの、過去がどうの、日常生活に潜む暗闇がどうの、なんて映像にして何が面白いのか、と思った。

何を芸術家ぶっているのか、と。

映画は、エンターテインメントなのだから、現実世界から遠いものを作ったほうが絶対に観る方も作る方も楽しいはずだ。

そんなことを思っていた私は、脚本を書き始めた。
脚本を書くのは初めてではない。
高校2年、3年の文化祭で、同級の友人と共同執筆という形で脚本を書いたことがあった。

2年のときは、鳥を擬人化したファンタジー。
3年では、パラレル・ワールドに入り込んだ教師が主人公のSFだ。

一部の人たちからは「自己満足だ」と悪評だったが、2つとも「演劇部門」で1位の評価を得た(2回とも2クラスしか参加しなかった。つまり、1位かビリ)。

脚本を起こすときは、私がアイディアを出し、文章のうまい友人が話をまとめる分担制だった。

その友人は、同じ大学に進学したので、今回も文章に書き起こす役目を押し付けた。
友人はクラブに入っていなかったので、自由な時間が多かった。
頼むと「面倒くさいな」と言いながらも嬉しそうに引き受けてくれた。

ストーリーは、「逆ホラー」。

簡単に言えば、幽霊の方が生身の人間どもに脅かされる話である。

幽霊ふたりは友人だった。
同じ場所、同じ時間に死んで幽霊になった。
しかし、その幽霊は、いつも人からは丸見えだった。

そして、極度の怖がりだった。
最初は、人間のほうが彼らを怖がったが、実は彼らが臆病だということを知った人間たちから、彼らは絶えず脅かされることになった。

都会の公園、路地裏、エレベーターの中、交差点など、幽霊たちはあらゆる場所で人間たちに脅かされた。

お化け屋敷なら、むしろまわりに溶け込んで脅かされることはないと思って入り込んでみたが、偽のお化けや入場者たちにも脅かされて、余計怖い思いをする羽目になった。

幽霊二人は、都会を逃れて人気のない海辺にやってきた。
夜の海辺だ。
どこか懐かしい景色と波の音。

「ああ、ここなら俺たちも心と体を休められるかもしれない」
だが、そう思って安心していた幽霊に、もっと大きな悲劇が訪れる。

砂浜に仕掛けられた爆弾が次々と爆発したのだ。
腰を抜かしそうになりながら、幽霊は逃げる。
逃げる、逃げる、顔を恐怖で引きつらせながら逃げる。

そして、逃げた先には断崖絶壁。
追い詰められた幽霊に、人間どもはマシンガンを掃射する。

幽霊だから、弾に当たったとしても死なないのだが、この幽霊は痛みだけはわかるのだ。
撃たれた分だけ痛い。

痛い、痛い、痛い。

幽霊は、我慢できずに断崖からダイブした。
そして、そのダイブが時間を切り裂いて、幽霊はタイムスリップしたのである。

幽霊たちが降り立ったのは、1944年。
フィリピンの戦場だった。
アメリカ軍が日本軍を容赦なく機銃掃射する場面に遭遇して、幽霊は驚愕した。

それは、正しく自分たちが死んだ場所だったからだ。
同じ場所、同じ時間に死んだ幽霊ふたり。

幽霊(このときは人間)は、弾丸の雨にさらされながら、そのことを思い出した。

逃げなくては。

逃げないと、幽霊になったとき、また人間どもに脅かされる。
それだけは、嫌だ。

幽霊は、神がかった走りで弾丸の雨から逃げることに成功した。
そして、生きたまま終戦を迎えた。

ときは移って、西暦2000年。
80歳になった幽霊は、ふたり同じ時刻に、人間として死んだ。

彼らは、幽霊になることを選ぶこともできたが、それを望まなかった。
なぜなら、この世に思い残すことがなかったからだ。


というような脚本を書いて、映研のシナリオ担当に見せたのだが、「自己満足だな」と一刀両断された。
さらに、追い打ちをかけるように「これ、どんだけ金かかると思ってるんだ! 予算を考えろ、バカ!」と罵られた。

そして、つい最近、大学2年の娘に、大昔にこんな脚本を考えたんだけど、と言って話したら、「自己満足にも程がある」と怒られた。



映画にしないほうがいいのかな?



「自己満足の妄想」で我慢しておきましょうか。



娘と観たドラマ「あの花」

2015-10-04 08:05:00 | オヤジの日記
大学2年の娘が珍しく、「一緒にドラマを見ようぜ」と言った。

フジテレビで放映した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」だ。
娘が録画しておいたらしい。

娘は中学まではドラマ好きで、週に何本も見ていたが、高校に上がると英語、韓国語と社会福祉の勉強を真剣に始めたことで自由時間がなくなった。
大学に上がってからは、その勉強のほかに、週に3回イトーヨーカ堂での夜のアルバイトが入るから、尚更ドラマを見ている暇がない(来年の海外留学のために金を貯めているのだ)。

おそらく4年以上ドラマを観ていないのではないか。
ドラマだけではなくテレビを観ることも極端に減った。
EXILEとAKB、ジャニーズをあまり知らない数少ない女子大生のひとりだ。

「観たいと思ったドラマは、久しぶりだぜい!」
大好きな亀田の柿の種を皿いっぱいに盛って、娘はテレビの前に陣取った。
時刻は午後11時半を過ぎていたので、観終わるのは深夜1時半頃になるが、娘とドラマを観る機会が次いつになるかわからないので、さきいかを齧りながら並んで観ることにした。

「泣くなよ、泣くなよ」と言いながらも、最初に泣いたのは娘の方だった。
そして、つられるように私も泣いた。

娘から、アニメーションが原作だという情報を知らされているだけで、私の中に先入観はまったくなかった。
だから、アニメーションとイメージが違う、などという思い込みもまったくなかった。

つまり、普通の青春ドラマとして鑑賞できた。

設定がアニメーションっぽいなどとも思わなかった。
不自然だとも思わなかった。

この設定が不自然だというのなら、映画「ゴースト/ニューヨークの幻」の設定にも文句を言わなければならなくなる。
そもそも私は、リアリティのあるドラマは面白みに欠けると常々思っている。
せめて映画やドラマだけは、想像力と創造力にあふれた夢のある物語が観たい、と思うのだ。

現実世界に生きている以上、同じ現実世界の重いテーマにドップリ浸かりたくはない。
違う世界を漂って、脳を休ませてやりたいと思う。

その意味では、このドラマは現実感がないという点で最適だった。

さらに驚いたのは、ドラマの展開が前後する中で、この現実感のない話をおとぎ話のような空気感をさりげなく醸し出し、無理なく演じた若い俳優たちの力量だ。

それは、見事だったと思う。
おとぎ話は、俳優としての経験の少ない人の方が、無駄な装飾がなくて直接的な表現ができると思う。
つまり、演技に余分な生活臭がない分だけ、メルヘンの世界が構築しやすい。

その無垢な表現は、このドラマから確実に現実感を削ぎとっていた。
そして、この現実感を削ぎとることこそが、この物語のテーマなのではないかと私は勝手に思ったのである。

もちろん、大きなテーマとしての「友情」が、そこにはある。
その上で、あえて現実感をなくすことで、その「友情」だけを浮き立たせる手法を取ったのではないか、と私には思えた。

アニメーションを知っている人には、きっと言いたいことはたくさんあるはずだ。
それぞれの思い入れが強ければ、その意見は分岐されてパズルのように複雑な断片を作る。
そして、その断片が数多いほど、その物語は人から愛されているということになる。

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」が、多くの人に愛されているか私は知らないのだが、このドラマが娘と私にとって忘れられないものになったのは確かだ。

そして、、若い俳優たちの繊細な表現力を感じることができた私には、これから先、原作のアニメーションを観る楽しみが増えたというオマケもある。

いつかアニメーションの方も観てみたいと思っている。


物語に入り込んで、途中から大好物の柿の種を食べるのを忘れた娘が、「絶対に、今日の夢に出てくると思うぞ。夢で6人に会ったら、何て言えばいいんだろうな。悩むよな」と、涙で溢れた目を左手で拭って、さらに鼻をすすり照れたように笑った。

そんな娘に、私は言った。

悩むことはないさ。
言うことは一つしかない。
わかるだろ?


娘とふたり、深夜1時半過ぎ、小声で同時に叫んだ(目から水を流しながら)。



「めんま、みーっけたぁー!」