リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ハンバーガーぎらい

2011-04-30 10:02:38 | オヤジの日記
ハンバーガーを食ったことが、ほとんどない。

マクドナルドのハンバーガーは、100円になったときに、一度だけ食った。
デザイン的に、いいフォルムをしていたが、味はそこそこに感じた。

ファーストキッチンのハンバーガーは、食ったことがない。
ロッテリアは、近くにないので食ったことがない。

モスバーガーは、「一番美味いよ。あれこそ本物だよ」と言われて一度食ったが、普通だな、としか感じなかった。


照り焼きハンバーガーは、私の得意料理の一つである。
厚さ1センチの自家製ハンバーグを照り焼きにして、レタスとトマトをのせて、バンズではさむ。
たったそれだけのものだが、家族は「商品化できる」とまで評価してくれた。

お世辞ではあるが、悪い気はしない。

85点くらいは、やってもいいか、と勝手な自己採点。

しかし、いずれにしてもハンバーガーは、あまり好きになれない。
私自身が、肉があまり好きではないというのもあるかもしれないが、他の肉料理と比べるとハンバーガーは、はるかに食いやすいものだ。
それなのに、好きになれないのは、どうしてか、と思っていた。


その理由が、昨日、少しではあるが、わかったような気がした。


昨日、秋葉原のマクドナルドでマックフライポテトを食いながらコーヒーを飲んでいたときのことだ。

私の席の隣に、女子大生風の女性がふたり座った。
その中のひとりが、おそらくハーフと思われるエギゾチックな顔立ちをした人だった。

上品で整った小顔。
肌もきれいで、睫毛の長さが際立っていた。
ようするに、相当な美形だ。

男ばかりでなく、女も振り返るような美人。
実際、店にいた女子高生らしき集団が、彼女を指さして「モデルじゃん!」と言っているのが聞こえた。

世の中には、きれいな人がいるもんだ、と感心して、頻繁に盗み見をした。

美しい。

ただ、それもハンバーガーを食べるまでのことだった。

ハーフ美女が、ハンバーガーを食べている時、違和感を感じた。

口元が、少し卑しい感じになったからだ。
え? と思った。

あんなに美しい口元が、ハンバーガーを頬張っただけで、少し下品に見えたのである。
顔自体は美しいことは美しいが、どこか微妙に崩れた様は、小さな衝撃と言ってよかった。

そして、そのとき、俺が、ハンバーガーが嫌いな理由の一つは、これだったんだ、とはじめて気づいたのだ。

下品な口元。
卑しい口元。

俺は、これが嫌いだったのだ。


たとえば、何かやましいことを体全体に詰め込んだ政治家の口元は下卑て見える。

消費者の視点を無視して、儲けることしか考えない企業のトップの口元は下品だ。

ビールのCMに出ている大物ロック歌手が歌う口元は、何か卑しい感じがする。

レギュラー番組をたくさん持つ関西の大物MCの口元は、何を言っても下品である。

私は、そんな口元が嫌いだ。


だから、誰もが、それを食べるとき、どこか卑しい感じを漂わせるハンバーガーが嫌いだったのだ。


ハンバーガーを食べている時の美女の顔を、私は正視できなかった。

美女は、ハンバーガーを食べるべきではない。




自粛ぎらい

2011-04-29 08:50:57 | オヤジの日記
英国では、ロイヤルウェディングで盛り上がっているらしい。

まったく興味はないのだが、目出度いことは、お祝いすべきだと思う。

人を明るくさせる話題は、ニュースとしては最高のものだ。
その価値は、高い。

それほどの目出度い祝い事なのだから、私は、日本からは皇太子夫妻が出席するものだとばかり思っていた。

しかし、震災の現状を考慮して、行かないのだという。

本人たちが、自ら行かないと言ったのか、あるいは宮内庁の差し金か。
詳しいことはわからないが、海外皇室の結婚式に出席することまで自粛するという神経が、私には理解できない。

何を気を使っているのか、と思う。

確かに数万人の人が亡くなったり、行方不明になった現実は重いが、すべてを一緒くたにして、喪に服すのは間違いだ。

重い現実を受け止めながらも、明るいあしたを生きる姿を、象徴となる人やそれに連なる人は、身を持って示すべきだ。

祝うときは、祝えばいいじゃないか。
それが、人間として普通の姿だと、私は思うのだが。


多少意味合いは違うかもしれないことを承知で書く。

5年前、友人は、ご両親と愛犬を交通事故で、一瞬にして失くした。

その現実は、かける言葉が思い浮かばないほど、重くて悲しいものだった。
友人の顔を、まともに見ることができなかった。
「ご愁傷さま」さえも言えなかった。

なんの言葉もかけられない自分の不甲斐なさを、呪った。

しかし、葬儀が終わった日。
友人は、憔悴した笑顔を私に向けて言ったのだ。

「明後日のライブは、やるからな」

友人は、仲間5人と、平均年齢42歳(当時)のヘビメタバンドを組んでいたのである。

そして、事故の4日後が、彼らの最初で最後のライブの日だった。

仲間たちは友人に気を使って、ライブの中止か延期を提案したが、友人は「今やらなきゃ、意味がない」と言って、開催を強く主張したのだ。

中止するのは簡単だが、その日に合わせて気持ちを高めてきた仲間たちの努力を考えると、いま緊張の糸を切ってしまったら、二度と「次のチャンスは来ない」と、友人は思ったという。


「やる」「今やらなきゃ駄目だ」


彼の意志が固いことを感じ取った仲間たちは、彼の両親の葬儀の二日後に、ライブを決行した。


私もそのライブを見に行ったが、中年の腹の出たおっさんが、胸をはだけた格好で楽器を懸命に弾き、髪の薄くなった友人が、シャウトする様は、悲壮感と言っていい迫力があって、そして微笑ましかった。

ライブは、かなり盛り上がった。

彼と彼の仲間たちが、彼の身に降りかかった不幸を観客に知らせなかったのもよかった。

観客は、60人程度だったが、誰もがオヤジたちの熱い演奏に体を動かし、同じようにシャウトした。

一体感。

私たちは、確実に、それを感じていたと思う。

ライブが終わったあとで、友人が言った。
「みんなが楽しんでくれてよかった」
「誰にも迷惑をかけなくてよかった」
「やめなくてよかった」

そして、「俺は、人から見たら親不孝者かもしれないが、親父とお袋、リリー(犬)だけは、絶対に喜んでくれたはずだ」。


俺も、そう思う。


友人は、ライブをやってよかったと、私は今でも思っている。




ドキュメンタリーぎらい

2011-04-28 06:51:22 | オヤジの日記
テレビや映画で、ドキュメンタリー映像という手法がある。

実在のできごとを虚飾を交えないで記録した映像、というのが一般的な解釈だろう。

ただ、「細かいことを言うなよ」と言われることを承知で書くと、カメラが回って、編集の手が入った時点で、それは一部虚飾が入っているのではないか、と思うのだ。

全部の映像をリアルタイムで見せてくれるなら、それは事実に近づいたと言えるかもしれない。
ただ、そんなときでも、カメラの存在は、やはり事実をオブラートで包むような「もどかしさ」がある。

隠し撮りなら、そのもどかしさは解消されるが、それは場合によっては、犯罪になる。

しかし、ドキュメンタリーの対象である人に、隠し撮りをばらしてしまったら、またもどかしくなる。

1パーセントでも虚飾が入ってしまったら、それは事実とは言えない、と私は思うのだ。

結論としては、「映像は、事実を伝えられない」「必ず虚飾が入る」ということだ。

映像ディレクターの主観で、いくらでも編集はできるのだ。

だから、それを「事実です」と言うマスメディアの勘違いが、私は嫌いだ。


以前、ニュース番組で、ドキュメンタリー仕立てで、痴漢の冤罪事件を追ったものがあった。
その人は30代のサラリーマンで、朝の通勤時間に女子高生に痴漢を働いたということで、現行犯逮捕されたらしい。

しかし、裁判の結果は、冤罪。
そのニュースでは、冤罪に至るまでの、彼と彼の関係者の努力をカメラが入って、半年以上追い続けていた。
そして、彼の会話と、電車での検証場面、さらにCGを駆使して、痴漢の汚名を着せられるまでを淡々としたナレーションを添えて流していた。

だが、それは、あくまでも冤罪の主を中心に作られたストーリーだった。

痴漢を訴えた女子高生は、ぼかしをかけて、インタビューを断る場面しか出てこなかった。
それも、断って後ろを向くシーンを数回リプレイしていた。

つまり、そこに番組側の何かしらの意図を感じる。

原告側が、インタビューを断ったのなら、そのことだけを告げればいい。

何度も、断った映像を繰り返して強調することはない。

「冤罪ありき」で作った映像は、決してドキュメンタリーではないし、ニュースとも言えない。
一方の視点からしか報道しないものは、映像ファシズムだ。


今回の震災も、いつの日か、ドキュメンタリーに名を借りた「悲惨」だけを強調したり「善意」だけを強調した視点で、映像が作られるかもしれない。

それは、映像作家の作品ではあるが、事実を表現したものではない。
あくまでも「彼が編集した作品」である。

それを見れば、彼が何を訴えたかったは、わかるだろうが、それは「彼の作品」以上のものにはならない。


商業的な人の目を通したら、事実は、必ず遠ざかる。

だから、私はドキュメンタリーが嫌いである。





大御所ぎらい

2011-04-27 07:04:42 | オヤジの日記
「大御所」と私が勝手に思っている歌手。

たとえば、松任谷由実、中島みゆき、吉田拓郎、小田和正、井上陽水、さだまさし、矢沢永吉、長渕剛など。

ほとんど聴いたことがない。

荒井由実は「ひこうき雲」をよく聴いたが、彼女のそれ以降の音楽に関して、私は無知だ。

他には、たとえば、社会現象になったピンクレディの歌も、ワンコーラス聴いたことがない。

だから、「ああ、あれヒットしたよね。今でも歌えるよ」と言われても、「だから?」としか思わない。
「あの頃はねえ・・・・・」と言われても、「どの頃だ?」としか思わない。

生来のひねくれもの、というのがある。
多数派には属さない、という気性が子どもの頃から染み付いていた。

多数派は、胡散臭い。
ヒステリックだ。
排他的だ。

そんな思い込みが、強い。

仕事中は、J-WAVEを流しているが、小田和正あたりの曲が流れると、すぐに消す。
反射的に消す。
テレビのCMで矢沢永吉が歌っている場面があると、必ずチャンネルを切り替える。

友だちが、長渕剛の歌を口ずさむと、ケツを蹴る。
街を歩いていて、松任谷由実の歌が流れると、駆け足で通り過ぎる。
中島みゆきの歌が流れると、耳を塞ぐ。


重症だと思う。


ただ、どうでもいいことだ、とも思う。

彼らの歌を聴かなくても、俺の人生、別に損はしていない。
だから、一生、聴かなくても、俺の何が変わるというわけでもない。

歌は、歌。

聴きたくない歌は、聴かない。
皆が、そうだと思う。


大御所歌手は、嫌いでいいと思う。



「昔は良かった」ぎらい

2011-04-26 07:34:14 | オヤジの日記
取引先の中小企業の社長は、60歳くらいの男性である。

仕事の話の合い間の世間話で何回に一回かは、この年代の人にありがちな「昔は良かった」という話になることがある。


面倒くさくなる。


たいていは、昔の歌は良かったな、で始まる。
今の歌は、口ずさめないよ、全然心に響かない、というものだ。

そして、昔の映画は良かった。
俳優は良かった。
ドラマは面白かった。

昔の先生は良かった、まで行く場合がある。
さらに、バブルのころは、良かったよ。毎月のように、台湾、中国に遊びに行ってたね、とまで昔を振り返る場合がある。

ただの自慢話。

むかしばなし。


面倒くさくなる。


以前のブログにも書いたが、昔が良かったと思うのは、過去の出来事が「思い出のフィルター」を通すからだ。
それに対して、今のできごとはまだ「思い出のフィルター」が出来上がっていない。

だから、昔は、フィルターを通して遠い分だけ、よく見える。

彼らが懐かしむその昔だって、昔の教師は良かった、歌は良かった、と言っていたことを彼らは忘れている。

その前の時代も、「昔は良かった」と言っていたはずだ。

そして、その前も・・・・・・。

そんなに昔は良かったのか。
今は、そんなに駄目なのか。


じゃあ、昔の何が良かったんですか。
いまのどこが駄目なんですか。


と聞くのも面倒くさいので、「昔の経営者も、立派な人が多かったですよね。昔を振り返りませんでしたから」と投げやりに、言ってみた。


すると、私の皮肉にはまったく気づかず「ああ、そうそう! そうなんだよ。昔の経営者は良かったね。立派だった。昔の人は偉かった」と大きくうなずくのである。



そんなに、昔は良かった!?



私は「昔は良かった」話が、嫌いである。