リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

逃げる記者

2014-05-25 09:48:04 | オヤジの日記
もう20年以上、新聞を取っていない。

たまに、仕事で資料が必要なとき、図書館で読むことはあるが、今も新聞社の方向性があまり変わっていないことに、驚かされる。

私が新聞を取るのをやめた理由の一つに、署名記事の少なさがあった。
誰が書いたかもわからない記事を信じるほど私はお人好しではない。

たとえば、テレビのニュースで記者が意見を述べるとき、「社会部記者の誰それ」「政治部記者の誰それ」「文化部の誰それ」という肩書きが出るから、責任の所在がハッキリわかる。
しかし、新聞の多くは、署名記事が少なかった。

今は大分多くなったようだが、すべてではない。
内容が多岐にわたる三面記事には、署名記事がほとんどない。

「名無しびと」が書く記事を私は信じない。
たとえそれが真実だったとしても、名前のない記事は、フィクションにしか思えない。

金を払って読む記事が、誰のものかもわからないなんて、身勝手すぎて興ざめする。
それで正義を気取って他人を断罪するのだから、ある意味「喜劇」と言っていい。

責任の所在がはっきりしない記事で人を裁くなど、自分に類が及ばない、はるか遠くの位置から他人を誹謗する「掲示板」とまったく同じではないか。

それで知識人を気取っているのだから、呆れる。


今のことは知らないが、たとえば、むかし日本のプロ野球の記事を読むと、呆れるほど「関係者談話」が多いことに辟易した。

「ある球団関係者によると」「球団首脳が」「ある評論家の意見では」「球界OBの意見として」というのが多くて、その人たちは本当に存在するのか、といつも「あるある詐欺」だと思って飛ばし読みしていた。

他にも「政府関係者によると」「ソーリに近い人の情報では」「関係者の話を総合すると」などという都合のいい言い回しで記事を書く人がいた。

本人の名前を出したら、差し障りがあるのは推測がつくが、所在のハッキリしない、そんな記事を書く意味があるのか、と舌打ちしながら飛ばし読みしたものだ。

何か事件があると、容疑者や被害者は、実名、年齢、地域を特定して書くのに、「妄想記事」では特定された情報が皆無である。

出来の悪い「妄想記事」を読むほど、私は暇ではない。


メジャーリーグなどでは、「ヤンキースのGMが」とか「ホワイトソックスのフロントの誰それが」、「ブルージェイズ担当の記者の誰それが」という名前が出てくるから、信憑性が高く感じられる。

それが、たとえトンチンカンな内容であっても、確実に名前が出てくるから、責任の所在がわかりやすい。

逃げていないな、と思う。


しかし、日本の新聞の場合は、日常生活に深く関わる政治状況を伝えるときでも、前述のように「名無し」の場合がある。

「逃げる記者」が何を言っても、説得力がない。

それが正論であっても、名乗らない人の意見は、空論だ。

クーデターやテロにあう確率の低い国のメディアが、覆面をかぶって及び腰になるなど、臆病すぎるだろう。


弱者に対しては自己の名を告げて告発するが、政治家や大企業のトップを批判するときは「名無し」だとしたら、そこに「気概」「矜持」「自尊心」はあるのか、と思う。

職業として「記者」を名乗っているなら、すべて本名で記事を書いて欲しい。


それができるようになったら、私はまた新聞を読み始めるかもしれない。




悲劇ばかりではない

2014-05-18 09:36:00 | オヤジの日記
今年は、エルニーニョ現象が発生する可能性があるという。

エルニーニョになった場合、冷夏、暖冬になる確率が高いとも聞く。
気の早いメディアは、専門家の意見として、野菜が高騰したり、ビールなどが売れなくなって、日本経済にダメージを与える、と報道していた。

しかし、私はいつもこの種の報道に違和感を持っていた。

冷夏で野菜が高騰し、猛暑で野菜が高騰し、大雪で野菜が高騰する。

自然の恵みをいただいて作物を育てるのだから、根本となる自然が味方をしてくれなかったら、作物は育たない。
その理屈は、わかる。

ただ、そんな気まぐれな自然に翻弄されながらも、いい野菜や米、果物を育てている農家も確実に存在する、と私は思っているのだ。

しかし、メディアは、農家の悲劇だけを取り上げて、独自の工夫で災害に負けない野菜、米、果物を作り続けている人たちのことを取り上げることは少ない。

彼らが何故、災害にも負けずに、良好な作物を作り続けることができるのか、という視点でニュースを作ったら、それはかなり有意義なものになると思うのだが、メディアがお好きなのは、悲劇だけだ。

テレビに映し出されるのは、雪の重みで押しつぶされたビニールハウス。
台風で押し倒されたビニールハウスや果樹園。
あるいは、暴風になぎ倒された田畑。

こんな大雪が降るなんて。
こんな大きな台風が来るなんて。
こんなに、気温が上がるなんて。
あるいは、夏なのに、こんなに気温が低いなんて。

運が悪かったですよねえ。

ようするに、メディアが伝えたいのは、そのことだけ。

悲劇を増幅して伝え、建設的な方法で災害に強い作物を作っている人に、スポットライトを当てることには怠惰だ。
彼らは、感情論、情緒論でしか事実を伝えることができないように思える。

農家の方たちの中には、そんな運に背を向けて、独自の工夫で災害に立ち向かっている方も多くいるはずだ。
そして、その方たちの「工夫」は、大きな財産だと言っていいと思う。

それなら、メディアの役目として、その財産を世に知らしめて、災害に強い農業を建設するための方策を提案するというのもありではないか、と私は思っている。


今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
いまのうちに、悲劇を先取りしておこうか。

これが、いまのメディアの報道だ。

今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
何か、対処方法を調べて、提案しようじゃないか。

こんなメディアを期待するのは、間違いだろうか。


この話とは、筋道が45度ほどずれるが、思いついたことを書いてみようと思う。

友人が、2年前に父親が死んだことにより、家業の解体業を継ぐために山梨の実家に帰った。
彼の家の庭には、いつ作られたのかもわからないような年季の入った納屋があった。

そのいつ倒壊してもおかしくないような納屋に、父親の遺品が格納されていた。

彼は、それを危惧して、母親に納屋を建て直すか、新しい物置を買わないか、と提案した。
しかし、母親は「いいわよ、別に壊れても。どうせ古いんだから」と、立て直しに乗り気ではなかった。

父親の遺品が詰まった納屋。
彼は、そのことが気がかりだった。

だから、彼は昨年の暮れに一・五坪弱の鋼板でできた物置を購入し、納屋の隣に設置した。
そして、父親の遺品のすべてを、そこに移した。
それを見た彼の母親は、「こんなのもったいない。まだ納屋は壊れないわよ。今までも壊れなかったんだし」と否定的だった。

しかし、今年の冬は、山梨に記録的な大雪が降った。

朝、ドッシャーンという大きな音で目覚めた彼の目に映ったものは、大雪で倒壊した納屋だった。
見事なほど押しつぶされた古い納屋。

その隣の真新しい物置は、屋根に1メートル近い雪が積もっていたが、勝ち誇ったように雄々しく立っていたという。

押しつぶされた納屋を見て、母親が泣いた。

「お父さんのものが潰されなくてよかった。無事でよかった。潰されたら、お父さんに顔向けができないからね」

数十年に一度の大雪を予測できる人は、おそらくいない。

友人も予測したわけではない。

ただ、納屋が壊れたら、父親の思い出も壊れると思った。

その彼の強い思いが、災害から大事なものを守ったことは、間違いがない。


このことを「たまたまだよ」「まぐれ当たりだな」という人は、人間に備わっているはずの「豊かな感情」「家族愛」が理解できない人だ。


「母ちゃんの泣いている姿を見たとき、俺はここに帰ってきて良かった、と心の底から思ったよ」


友人のその言葉を聞いたとき、私も泣きそうになった。


肉食バーバリアンの後悔

2014-05-11 08:34:00 | オヤジの日記
大学時代の友人オオクボは、いまベジタリアン(菜食主義者)である。

彼は、肉、魚、卵を食わない。
2年前に、高血圧症と通風、と医師から宣告を受け、それまでの肉中心の食事から、半年で菜食生活にシフトした。
(魚には体にいいものもあるし、鶏肉は低カロリーだと聞くが、オオクボは徹底していた)

それまでの極端な肉食生活から、よく徹底した菜食に切り替えられたと思う。
昔は、「俺の主食は焼き肉だ」と言っていた男が。

要するに、意志が強いということだろう。

食事療法のおかげで、「肉体年齢は実年齢より15歳若いですね」と医師に言われたことが、かなり嬉しかったと語っていた。


そのオオクボと同じく、大学時代の友人ヤマザキ、イイヅカの4人で2年ぶりに食事をした。
数年前から流行りの安い居酒屋チェーン店だ(場所は新宿)。
一つ一つの単価が安いので、心置きなく食えるし、値段がわかりやすいのがいい。

その居酒屋でオオクボが食うのは、もちろん野菜オンリーだ。
「タケノコの土佐煮」「菜の花の御浸し」「ジャガイモピザ」「厚揚げのステーキ」など。

それを見た肉食バーバリアン(野蛮人)のヤマザキ、イイヅカが舌打ちをした。

「何だよ、その料理。全然、力がつかねえじゃねえか。毎日が病人食かよ! 軟弱な人生だなあ。おまえ、終わったな!」

そして、私が食ったのは、「揚げ物野菜3種盛り合わせ」と「季節野菜の天ぷら」だけ。

それを見たイイヅカが、「だから太れないんだよ!」と余計なことを言った。
(バカなやつは、野菜食は太れないと思っているが、二つとも揚げ物なので、カロリーは高い。つまり、こいつらは無知なのだ)

私は、180センチ、57キロ。
ランニングを趣味としているので、至って健康だ。
不整脈が持病だが、死ぬほどではない。

そして、肉は好物ではないが、私は家族の晩メシを作るのを趣味としているので、バランスのいい料理を心がけている。
だから、肉、魚、野菜、キノコ類などをバランスよく取っている。

無知な肉食バーバリアンとは、根本的な生き方が違う。

他の3人の肉体データを比べると、オオクボは174センチ、66キロ。
2年前までは80キロ以上あったので、15キロ近くカラダを絞ったことになる。

ヤマザキは178センチ、85キロ。
イイヅカは、172センチ、75キロ。

二人ともメタボに分類していいか、という体型である。

二人は、何度か痩せようと努力したことがあったらしい。
しかし、いずれも失敗。

「肉が食えないんだったら、死んだ方がましだよ!」とまでイイヅカは言う。
さらに、ヤマザキが「肉を食いながら死ねるんなら、本望だ!」とうそぶいた。

イイヅカは、トマト、レタス、キュウリ、セロリが食えないと言う。
ヤマザキは、ナスとキノコ類が天敵だと言っている。

好き嫌いがあるのは、人間として当たり前だが、肉しか食わないおまえらが、ベジタリアンを批難するのは筋違いだろう。
オオクボが、おまえに「トマトが食えないなんて、人間として終わっているよ」と言ったことがあるか?
「シイタケが食えないやつは、軟弱でキモい!」などと言ったことがあるか?

肉食は、そんなに偉いのか?
野菜が食えないことを威張るなんて、まるで子どもじゃないか。


で……お前たち、定期的に会社の定期検診を受けていると思うんだが、結果は、どうなんだ?

私が、そう聞くと、途端に二人の声に力がなくなった。

私がもう一度聞くと、渋々と口を開いた。
「高血圧、高コレステロール」とヤマザキ。
「内臓脂肪、血液ドロドロ」とイイヅカ。
そして、二人とも「酒とタバコと脂っこいものは、ほどほどに。寿命を縮めますよ」と、健康アドバイザーに言われたらしい。

「でもな、色々な付き合いがあるから、どれもやめられないんだな。俺たちの仕事は、付き合いが一番大事だからな」

要するに、言い訳。

オオクボは、コンサルタント会社の社長様だ。
お前たちより、はるかに仕事先との付き合いは多いと思うんだが。

お前たち、肉食バーバリアンからベジタリアンに変身できるか?
「焼き肉が主食」のオオクボが出来たことをおまえたちが出来ない理由は何だと思う?

ヤマザキとイイヅカが顔を見合わせた。

50過ぎの太った親父たち。
白髪が増え、蓄積された疲労が、顔にしみ込んでいた。

その姿は、もちろん鏡となって、私の姿を映し出す。
太ってはいないが、私も似たり寄ったりだ。

だが、オオクボだけは、生き生きとしていた。

何故か、と考えたとき、オオクボは会社を背負っているからではないか、と思った。

彼が、病に倒れたら、自分だけでなく家族、そして社員、さらには社員の家族まで困らせることになる。
言い古された言い方だが、彼の体は、彼一人のものではない。

その自覚が、彼をベジタリアンに変身させるエネルギーになったのではないだろうか。

俺たちが自分の体に責任を負うのは、家族だけだ。
家族だけだから、気楽に考えているんじゃないかな。
身近すぎて、現実感がないのかもしれない。

でも、俺はオオクボを見ていて、俺たちも、家族に、もっと責任感を持つべきだと思ったんだ。

オオクボが背負っているものと俺たちが背負っているものの密度は違うかもしれないが、どんなものでもエネルギーに変えることは出来る。

ただ、俺たちは、それに気づいていないか、逃げているだけなんだと思う。

この中では、オオクボだけが、それを強く自覚している。


うらやましいな。


オオクボ以外の3人が、同時に頷いた。



怠惰な働き蜂

2014-05-04 09:00:00 | オヤジの日記
記者の書く記事は、お手軽だ。

たとえば、ネットでスポーツの結果を知ろうとして、記事を開くとする。

田中将大氏の記事を読んだ場合、「現地紙では、こう評価していた」などというものが多い。

ニューヨーク・ポストの記者は、こう書いた。
ニューヨーク・タイムズの記者が、こう書いた。
USAトゥディの記者は、こう書いていた。

とても記事といえる内容ではない。
人がリポートしたものを、そのまま引用しているだけである。

私の中では、「記者」と言えば、自分の足で取材し、自分の頭で分析して自分の言葉で文章を書く人のことだと思っていた。
だから、この種の記事に、いつも違和感を持っていた。

たとえば、サッカーにしてもそうだ。

本田圭祐氏の試合内容を読んだとき、「イタリアのガゼッタ・スポルト紙の採点では、最高の7点だった」とか「コリエレ・デロ・スポルトでは何点だった」という記事の評価をそのまま書いたりすることが多い。

これも記事ではなく、ただの引用だ。

評論家や専門家は、たとえ的外れの意見だとしても、独自の視点で記事を書いているのに、記者は現地の報道を伝えているだけ。

申し訳ない言い方になるが、この程度の記事なら、勉強しなくてもか書けるのではないか、と私は思う。


他にも、特定の政治家に張りついている人を「番記者」と呼ぶ。
政治家のご機嫌を損ねないように、まったく批判的な記事を書かずに、太鼓持ちのような存在になっている人たちだ。

権力者である政治家のご機嫌を損ねると、次の取材を拒否されるので、当たり障りのないことを書いて、無駄に紙面を埋める人たち。

おそらく高学歴の勉強のできる人たちなのだろうが、彼らは「自分の言葉を持たない人」だ。
政治部の記者は、教養がないと務まらないが、我が強くて自分の意見を強く主張する人は、権力者には鬱陶しい存在になって、遠ざけられるのだろう。

その結果、介護犬のような従順な人だけが生き残って、さらに政権に対して無批判になる。

そして、その種の記者が、有能扱いされる。


スポーツ記者も、似たり寄ったりなのだろう。

日本人メジャーリーガーの人気者に張りついて、ご機嫌を伺って取材をするが、結果的には、他人の記事を引用することだけが使命になる。

自分の言葉で書くと、選手のご機嫌を損ねるかもしれないが、他人の意見を引用する分には、言い訳はいくらでも出来る。

「いや、あれは、俺が思っているんじゃなくて、『ニューヨーク・タイムス』が書いたことですから」

それに、田中将大氏が、まるで全米、ニューヨークの興味を一身に引いているかのような報道をしているが、私がBSで見たヤンキースタジアムの田中氏の登板では、毎回かなり空席が目立った。

ヤンキースタジアム(定員5万人超)では、大抵の試合で観客数が4万人を超えるのに、田中氏のときは、4万人を超えたのは3回のうち1回だけ。
BSに映るヤンキースタジアムの観客席を見て、ヤンキースファンは、本当に田中氏のことを認めているのか、と思った。

そして、その種の報道(観客席が埋まらない)をしているメディアは、驚くほど少ない。
田中氏が、ニューヨークを席巻しているような扱いが多い。

メディアが持つべきはずの当たり前の客観性が、そこにはない。

アメリカやイタリア、スペイン、韓国などのメディアは、多くの場合ヒステリックだが、日本のメディアが、そこまで真似をすることはないだろう。

それとも、ヒステリックな人間だけが、報道する資格を持つのが、報道の世界なのか。
私は、そのことに違和感を持っている。


有名な日本人メジャーリーガーに、金魚の糞のようにつきまとい、ときに、しつこく外国人メジャーリーガーに日本人メジャーリーガーの印象を聞く。

多くの場合、彼らは大人の対応をしてくれるが、心では「日本人のことばかり聞いて、俺のことは聞かないのかよ」と思っているかもしれない。
目の前にいる一流メジャーリーガーのプライドは無視して、日本人のことだけを聞くのが、とても失礼なことだとは想像つかないのだろうか。


むかし、スポーツニュースの映像で、現役時代の松井秀喜氏にソロゾロとつきまとう30人以上の記者の行列を見たとき、この群れたメディアの行列は、現地の外人の目には異質に映るのだろうな、と思った。

まるで女王蜂に群がる、働き蜂のよう。
しかし、その働き蜂は、ただ群れるのが仕事だと思っている「怠惰な蜂」だ。
そして、みなが同じ内容の記事しか書かない(書けない)クローンだ。

同じことをいま、田中将大氏や本田圭祐氏にも繰り返している。


いったい彼らの意識は、どこに向いているのだろう。

読者なのか、対象とする選手なのか、それとも彼らが所属する会社の上司なのか。


もし彼らが、会社の上司にしか思いが至らないなら、その記事が持つ本質は、薄っぺらで自分本位、会社本位過ぎて、無駄な存在だと私には思えるのだが。