リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

こんな人にはなりたくない

2018-10-28 07:07:00 | オヤジの日記

昨日、娘と話した。

 

私が20代の頃の写真を見せたのだ。

ヨメと函館に旅行したときの写真だ。

函館山で、夜景をバックにしたときの写真。

娘に言われた。

「おまえ、悪い方に顔をいじっただろ。随分イケメンだったじゃないか」

このときは、真田広之に似てるとあっちこっちから言われていたからな。

「しかし、不思議だよな。真田広之は今も真田広之のまま歳をとったけど、なんでおまえは高田純次になったんだ」

それは、私が高田純次師匠を尊敬しているからだろうな。人は尊敬する人に顔が似るって言うからな」

 

however だがしかし、人は顔ではない、ルックスだ。Mistake 間違えた、Pigeon 鳩だ  No ハートだ。

「相変らず troublesome 面倒くさい男だな」

君もな。

 

いきなりだが、私はハートのカッコいい男を2人知っている。

もう25年前くらいのことだ。会社勤めをしていた私は、京都への出張を命じられた。しかし、真冬だった。名古屋から関ヶ原あたりに大雪が降って、新幹線が遅れた。

普段走るはずの新幹線ダイヤが間引かれたのである。私の古い記憶では、3本に1本くらいの割合で間引かれたと思う。

ただ、幸運にも、私が乗る予定の新幹線は間引かれなかった。but しかし、予定時刻が来ても走り出す気配はなく、私は待合室で発車時間まで待つことを強いられた。

待合室には、多くの人が待っていた。ほとんどの人は、大人しく待っていた。

しかし、待てない人もいた。

私の前に座っていたサラリーマンだ。2人いたのだが、そのうちの1人が、ワンカップの日本酒を飲んで、出来上がっていた。

「なんで、雪なんかで遅れるんだよ。自由席で帰るなんて最悪じゃないか。指定席とったのになんで自由席なんだよ」

「しょうがないだろ。大雪は自然現象だから、不可抗力だ。文句を言っても仕方がない。気長に待とうぜ」と同僚らしき人が正当なことを言った。

しかし、待てない男は、「俺は待つのが大っ嫌いなんだよ」とワンカップを握り締めながら、髪の毛を掻き回した。

 

私は、自分が乗る新幹線が決まっているので、余裕の表情で、待合室を見渡した。

ひと通り見渡したあと、目の前の酔っ払いと零コンマ5秒目が合った。

零コンマ5秒は、目があったと言えるのかどうかわからないが、相手は反応したのである。

「あんた、俺をバカにしただろ」

まあ、バカにしてましたげどね。日本酒一杯で酔えるなんて安い体だねとは思ったが、声には出さなかった。

それに、当時私は東急東横線沿線のボクシングジムに通っていたから、自分が無敵だという幻想を抱いていた。

それが、態度に出ていたのかもしれない。

「ふざけんなよ、俺がこんなに我慢してんのに、おまえ、なに笑ってるんだよ」

笑ってはいませんけどね。たった、零コンマ5秒目が合っただけで、因縁つけるおまえは、何様? と思っただけですよ。

そのとき、想定外なことに、男は突然飲み干したカップ酒の瓶を私に投げつけようとしたのである。

それを体に受けたら間違いなく私は何らかの怪我を負っただろう。

しかし、その男の右手を掴んだ人がいた。

右手で男の手を掴み、左手で男の肩を押して、男の自由を奪った男。

すぐにわかった。青島幸男氏だった。

おそらく東京都知事になる前の参議院議員の頃の青島氏だ。

「ボクは『青島だあ』の青島だ。もしJR東の運営に文句があるなら、ボクの事務所に来て文句を言ってください。ボクがJR東に言いますから」と言って、酔っ払い男のスーツのポケットに名刺を落とし込んだ。

 

男は、途中で相手が青島幸男氏だとわかったらしく、おとなしく青島氏の意見を受け入れた。

普通は、政治家なら、鉄道会社に権利を主張すれば、新幹線のグリーン車の座席を取ることは、簡単だったろう。待合室もVIPルームを利用できたに違いない。

しかし、青島氏は、その特権を利用せずに、一般人と同じように普通の待合室で列車を待ち、当たり前のように、列車の発車を待っていたのである。

カッコいいな、と思った。

こんな男になりたいな、と思った

 

10年以上前のことだ。

中目黒の同業者の機械の調子が悪いというSOSを受けた私は、中目黒に向かった。

機械は20分もかからずに、正常に稼働した。

そのあと、私は、中目黒から、渋谷まで歩いて帰った。中目黒育ちの私は、いつも渋谷まで歩いて行った。

渋谷までのルートは幾種類もあった。このときは、代官山から南平台を通り、大坂上から246を通り、渋谷に下る道を選んだ。

南平台の信号のない横断歩道。

そのときは、強風がふいていた。

その横断歩道を手押し車を押した80前後のお婆さんが歩いていた。風に飛ばれそうな華奢なお婆さんだった。

横断歩道の半分まで、やっと到達した。しかし、その足取りは、どう見ても弱々しく思えた。

これは、俺の出番かな、俺が背負わないといけないかな、と思った。

だが、そのとき、タクシーが止まったのだ。

そのタクシーから男が、飛び出してきたのである。

安岡力也氏だった。

安岡氏は、すぐにお婆さんを右手で抱え、左手で手押し車を持ち、強風からおばあさんを守るように、横に歩いて、横断歩道を渡った。

そして、渡ったあと、「婆ちゃん、家はどこだい?」と聞いた。

「すぐそこだから」とお婆さん。

「本当は送ってあげたいけど、俺、急いでいるんだよね。ゴメンね」

安岡氏は、走ってタクシーに戻って行った。

そして、タクシーの後ろで待っていた車に向かって、安岡氏は、2度深く頭を下げた。

強くて優しい男。

その姿を見て、カッコいいな、と思った。

 

そのときまで、安岡力也氏は、私の苦手なタイプだったが、そのときから、安岡氏は私のヒーローになった。

あんな男になりたいと思った。

 

話は変わって、昨日の昼のことだった。

三鷹駅の中央総武線のホームを歩いていたら、80前後の男の老人が歩いている場面に遭遇した。

ご老人は、ビニール傘を右手に持ち、それを竹刀のように構えて、傘の先端を細かく振りながら「おい! おい! どけ!」と大声で言いながらホームを歩いていたのである。

実は、3週間前も新宿の中央総武線のホームで、ご老人を見かけたことがあった。

そのときも、ご老人は同じようにビニール傘を振っていた。

危ないではないか。ビニール傘の高さは、子どもの顔の位置と同じくらいだ。無闇に振り回したら、事故が起こる可能性がある。

 

ご老人には失礼かもしれないが、いったい、どんな人生を歩んだら、こんな老人になるのだろうか、と思った。

 

「俺は、こんな老人にはなりたくない」と娘に言った。

 

 

しかし、娘は言ったのだ。

「おまえは、青島幸男より、そのジイさんの方に近いな。自分のののの立ち位置を把握したほうが良いぞ」

 

はい、いま把握しました。

気をつけまっす。

 


ソウルから来た娘

2018-10-21 06:39:01 | オヤジの日記

前回の続きです。

 

ユナちゃんが、土曜日夕方の便で、韓国から日本にやってきた。

日本の病院に、就職するためだ。

ここに至るまでには、いくつかの山を越えなければならなかった。ユナちゃんのご両親がガチガチの反日だったからだ。

ユナちゃんは、12歳頃からJ-POPを聴くようになった。韓国の歌とは違うメロディアスな歌が、心地よかったのだという。

その中でも、デビューしたての「嵐」がお気に入りだった。

「若いエネルギーが、まっすぐ伸びているところに、日本の若者のひたむきさを感じたの」

嵐を気に入ったユナちゃんは、嵐の歌を理解したくて、日本語を独学で勉強し始めた。17年前のことだった。

「好き」というのは、人に、特に若い人には、大きなエネルギーを与えるようだ。高校を卒業する頃には、ユナちゃんは、日本語の会話、読み書きをほぼ完璧にこなせるようになった。

その頃、我が娘はネットの世界で、ユナちゃんと遭遇した。7歳年上のユナちゃんとメール友だちになったのだ。

 

娘は、東方神起を聴いて、KPOPに興味を持った。最初聴いたとき、日本語で歌っているから、彼らが韓国人だとは分からなかった。日本人が歌っていると思った。

しかし、私が、彼らは韓国の歌手なんだ、と教えると、「こんなに日本語上手いのに、韓国の人なんだ!」と素直な驚きを顔全体で表した。

その驚きは、大きな興味に変わった。

彼らが、こんなにも上手に日本語を話せるのなら、自分だって、勉強すればハングル語を話せるのではないか。

我が家では、反韓教育はしていない。在日韓国人の友だちがいたし、親が中国人の友だちもいた。トルコ人もいた。

彼らは、私たちと同じような考えを持つ「同じ人間」だった。

娘が言う。

「ユナちゃんは、努力家だ。絶えず日本のことを研究している。そして、日本と日本人を尊敬している。ボクも韓国のことを尊敬したいが、それは悪いことか」

悪くはない。ただ、大っぴらに言うと波風が立つ場合もある。お互いの国の複雑な関係も勉強しておいたほうがいい。

「わかったぞい」

 

娘は、それから少女時代が好きになった。

「こんなに、ワクワクさせてくれるグループは、久しぶりだよ。椎名林檎を初めて聴いたとき以来かな」

娘は、小学2年のとき、椎名林檎の「勝訴ストリップ」を聴いて、椎名林檎の世界にハマったおかしな子だった。

それから、陰陽座を経て、東方神起、そして、少女時代へと興味が移る。

少女時代にハマったとき、娘が言った。

「ボクは、ハングル語をマスターしたいな。いいよな? 間違ってないよな。ユナちゃんといういい師匠もいるんだから。ユナちゃんは、ボクにとって、最高のお手本だ」

そんな風に、7歳年上のユナちゃんと友情を育みながら、娘は成長していった。

 

そして、大学3年の後期に、娘はユナちゃんのいる韓国に半年間留学した。

そのとき、娘は、ユナちゃんにお願いされたのだ。

「私は、日本で働くのが夢なの。でも、私の両親は、典型的な反日だから、絶対に許してくれない。だから、夏帆にお願い。私の両親と仲良くなって、少しでも日本の印象を良くして欲しいの」

そんなユナちゃんの夢を叶えるために、娘は韓国留学後、2週間に一度の割合で、ユナちゃんの家を訪れた。

最初の訪問では、完全に無視された。一家は茶を飲んでいたが、娘には何も出されなかった。ユナちゃんが、気を使ってくれて、ペットボトルのミネラルウォーターを出してくれた。それを飲みながらユナちゃんとだけ話をした。

娘は、反感を買うと思ったので、ユナちゃんの家では、絶対に日本語を使わないように気を配った。娘は、それなりにハングル語が話せたが、完璧ではなかった。しかし、使える範囲内で、懸命に話した。

「それでも、ユナちゃんの両親は、そっぽを向いていたけどな」

 

2回目に訪問したとき、40歳くらいの男の人がいた。ユナちゃんの遠い親戚だった。

その人は、何度か日本に来たことがあるらしく、東京のことは、ある程度詳しかった。そして、簡単な日本語が話せた。要するに、ユナちゃんが気を利かせて、その人を呼んだらしいのだ。

家族関係を重んじる韓国人だから、たとえ反日の両親でも、親日の親戚の来訪は拒まないだろうと、ユナちゃんは思った。それは、賢い選択だった。

親戚の人は、日本語で「こんにちは、はじめまして」と挨拶をした。しかし、娘は、この家では、絶対に日本語は話さないと決めていたから、ハングル語で答えた。

その後も、その人は、たまに日本語で話しかけてきたが、娘はかたくなにハングル語で答えを返した。

 

期待はしていなかったが、その姿勢が少しだけ、ユナちゃんの両親の心を動かしたようだ。

3回目に訪問したとき、初めてお茶を出された。そして、ユナちゃんのお母さんが、話しかけてきた。

「韓国の好きなところと嫌いなところは、なに?」

取り繕うことが嫌いな娘は、ハッキリと答えた。

「嫌いなところは、すぐ感情的になるところ。外人に対して、態度を変えるところ」

娘は、大学に留学してすぐ、健康診断に行くように言われ、病院に行った。しかし、看護師は娘が日本人だとわかると、あからさまに態度を変え、コイツは言葉が通じないと思ったのか、言葉を発することをせず、身振りだけで応対し、最後に娘の背中を強く押した。娘の順番だったのに、列の最後まで娘を無理やり押し込んだのである。

それって、差別ではないのか。

とは思ったが、自分が好きで選んだ道だから、文句は言わないことにした。

 

好きなところ?

「街と人がバイタリティに溢れているところ。街を歩いていると、自分にも自然とエネルギーが注入される気がして元気になるところ」

そんな風に、ハッキリと意見を述べたら、意外なことに、ユナちゃんの父親が「面白いね。あなた、面白いね」と喜んでくれた。

 

留学して1ヶ月半が過ぎた頃、環境にも慣れて安心したのか、娘は油断して風邪をひいた。

38度以上の熱が4日続いた。

熱が出ても、娘と私の辞書には「休む」という文字はない。人に伝染さないように、マスクと手袋、消毒スプレーを装備して、大学に行った。

高熱の3日目にユナちゃんから電話があった。ユナちゃんは娘のガラガラ声を聞いて、「ちょっと、夏帆、大丈夫?」と大変心配してくれた。

「うちの病院に来なよ。診てもらった方がいいよ」ユナちゃんは、病院で働いていたのである。

しかし、娘は、大学の行き帰りだけで疲労困憊してしまって、病院に行く気力までは湧いてこなかった。「大丈夫、寝て治すから」。

 

その日の夕方、娘が寝ていたとき、娘が暮らす寮の寮長に起こされた。

「お客さんが来たよ」

お客さんといえば、ユナちゃんだろうと思った。ユナちゃんが、心配してきてくれたのだろうと。

ロビーに降りた。

そこには、ユナちゃんのお母さんがいた。

「夏帆、熱があるんだって? 薬持ってきたよ。ご飯食べてる? 栄養つけなくちゃダメだよ」

漢方薬と弁当を持ってきてくれたのだ。

ユナちゃんのお母さんは、娘を優しく抱きしめてくれた。

韓国に来て、初めて家庭を感じた気がした。

 

それからのユナちゃんのお父さんお母さんは、娘に対してフレンドリーだった。

だが、お父さんお母さんの考えは、変わらなかった。

「夏帆はいい子だけど、日本と日本人は、まだ好きになれないな」と日本に対して拒否反応を示すのは、今までと変わらなかった。

そんな状態のまま、娘の半年の留学が終わった。

結局、娘は気に入られたが、ユナちゃんの両親の日本嫌いは、そのままだった。

「ごめんね」と娘は、ユナちゃんに誤った。

「何を誤るの。うちの親が、日本人を気に入ったことだけでも、大きな進歩だよ。それは、夏帆のおかげだよ。ここからは、私がなんとかするから。どうも、ありがとうね、夏帆。本当に、ありがとう」

 

ユナちゃんは、それから、私の娘の近況を絶えず両親に告げた。

ユナちゃんの両親は、娘の話には積極的に興味を示した。

その地味な蓄積が、功を奏したのか、ユナちゃんのご両親も、娘のことをとても気にかけるようになった。

「あの子は、もう韓国には来ないのかねえ」

それを聞いた娘は、去年の8月、12月、今年の2月に韓国に行った。

その度に、ユナちゃんの両親は喜んで迎え入れてくれた。

「我が娘よ」とまで呼んでくれたという。

 

今年の2月に韓国に行ったとき、娘は、ユナちゃんの両親に東京ディズニーランドのガイドブックをプレゼントした。

それを見せながら、娘が言った。

「ディズニーランドは、日本の縮図なの。

勤勉でサービス精神旺盛な従業員。正確なシステム運営。驚くほど清潔な園内。

そして、規律を守るお客さん。彼らは、大きな声も出さず、文句も言わず、けっして列を乱さない。

そこに載っている日本人の笑顔を見てください。偽りに見えますか。こっちまで、笑顔になりませんか。

お父さんお母さん、それが日本なんです。日本は、笑顔の国です。あなたの娘さん、ユナを笑顔にさせる国です。

信じてください」

 

私の娘の説得が、どれほど効果があったのかは、わからない。

しかし、ユナちゃんの両親は、ユナちゃんが日本で働くことを許してくれた。

11月1日から、ユナちゃんは日本の病院で、事務員として働く。

昨日の土曜日の午後、ユナちゃんは、日本にやってきた。

ユナちゃんが成田空港の出国ゲートに姿を現したとき、娘は走ってユナちゃんに近づいた。ユナちゃんもバッグを投げ出して、娘のもとに走った。

抱き合う2人。

7歳違いの姉妹だった。

国籍は関係ない。

2人は、強い絆で結ばれた姉妹だった。

 

ユナちゃんは、25日まで我が家で暮らしたのち、病院の寮で新しい生活が始まる。

今日は、日本での生活に必要なものを買うために、我が家族全員と買い物に行く予定だ。

 

昨日の夜、ユナちゃんに言われた。

 

「おっとーさん。末永く、よろしくね」

 

30歳の娘が、突然、できたって感じー。

 

 

 


寿司屋で角野卓造

2018-10-14 06:38:00 | オヤジの日記

新宿で、いかがわしいコンサルタント会社を営むオオクボからLINEが来た。

 

「金曜の夜 空いているか」

空いてはいないが、国立で寿司を奢ってくれるのなら、無理やり空けてやらんこともない。

「わかった」

家族も込みだが、それでもいいか。

「わかった」

交渉が成立したので、金曜の夜7時、腹を極限まで減らしたビンボー家族が、オオクボの前に現れた。

私以外の家族は、丁寧にオオクボに挨拶をした。奢っていただくのだから、それは当然のことだ。息子と娘は、仕事帰りだったので、恥ずかしくない格好をしていた。ヨメも、高級寿司を食べられるというので、おめかしをしていた。

私は、14年半履きつぶした、ケツのポケットが無残にも2つとも剥がれたジーパンと息子のお古のスターウォーズのトレーナー、底にヒビが入って雨の日は悲惨なことになるスニーカーだった。

 

焦げ茶色のダブルのスーツできめたオオクボに、寿司屋に案内してもらった。

駅から徒歩5分程度。普通にのれんがかかっていて、戸は木で出来ている寿司屋っぽい店だった。

2つのテーブルを合わせて、5人が座った。気持ちが悪いことに、私の前にはオオクボが座った。おまえ、顔でかいな。我が家は、息子以外みんな小顔なのに。

まるで、社長みたいじゃないか。

「社長は顔でかい説」を実証して、来年のイグノーベル賞を狙いたい私は、もうすでにサンプルを3人揃えていた。

オオクボ、杉並の建設会社の顔デカ社長、静岡のリブロースデブ・スガ君だ。

ほ〜〜〜んとに、でかい。

成功する人は、顔がでかいのだ。つまり、小顔の私は、高須クリニックで顔をいじってもらわない限り成功できないということになる。

ノー、高須クリニック!

そこまでして、成功したくはない。(負け犬のオーボエ!)

 

一番搾りを飲みつつ、生牡蠣を食った。

オオクボは、日本酒の冷やを社長っぽく偉そうに飲みながら、いきなりアワビを食ってやがる。最初は玉子焼きを食うとかの謙虚さはないのか。堕落したな、おまえ。

そう思いながら斜め左を見ると、息子がいきなり伊勢海老を食っているではないか。ヨメは、皿にイクラが溢れまくったイクラの軍艦巻きだ。娘は、地味にイカ。

「寿司の好みにも性格が出る説」を検証して、来年のイグノーベル賞を狙ってみるか。

自分の性格は、把握している。私は牡蠣は大好物だが、奢ってもらうときしか食わない。つまり、意地汚くてケチだ。他の人間の性格診断は、もう少し時間が必要だろう。

 

7つ目の牡蠣と3杯目の一番搾りを飲んでいたとき、オオクボが顔を近づけてきた。

おまえ、でかいな。

「相談があるんだが、いいか」

仕事の相談以外なら、受けてやってもいい。

「その仕事の話だ」

仕事の話なら、京橋のウチダ氏にすればよかろう。

「ウチダさんも俺も苦手な分野だからだ」

経営コンサルタントが、苦手な分野があるって、おかしくないですかー。なんで苦手な分野の仕事を受けたんだよ。

「最初受けたときは苦手ではなかったんだ。しかし、途中から苦手に変わったんだ」

オオクボ、おまえ、日本語が下手になったな。

 

オオクボの回りくどい話を簡潔にお伝えします。

一年以上前に、森さんという人が、オオクボのクライアントになった。森さんは、大手建設会社で造園・植栽の部署にいた。

40歳を過ぎたのを機会に、独立を考えた。慣れ親しんだ造園の会社を立ち上げようと思ったのだ。そこで、オオクボにアドバイスを求めた。オオクボは、独立するためには、確実に仕事をくれる顧客をなるべく多く確保してください、と言った。

森さんは、一年かけてマンションやビルを管理する会社や管理組合、大きな庭園を所有する個人をターゲットにして顧客を集めた。

その数が一定数を超えたところでオオクボがゴーサインを出した。それが今年の6月初めのことだった。

そして、7月半ばに森さんは会社を辞めた。事務所を借りる準備をし、旧知の友に声をかけて、パートナーになってもらう段取りをつけようとした。

しかし、そのとき、森さんの体に異変が起きた。脳梗塞で倒れてしまったのだ。ただ、左半身に麻痺はあるが、重い症状ではないのは、不幸中の幸といってよかった。リハビリをすれば回復は可能だと医師からは告げられた。

 

だが、リハビリをしながら造園業は出来ない。

「延期しましょう」とオオクボは言った。

森さんにも依存はなかった。しかし、このあと森さんの奥さんが出てくるのだ。

奥さんが言う。「主人には、リハビリを頑張ってもらう。私は家計を支える」。

森さんの奥さんは、結婚前、フレンチレストランで働いていた。調理師免許を持ち、ソムリエの資格も持っていた。

「店を持ちたいんです」

クライアントが、森さんから奥さんに変わった。

 

「俺は飲食業が得意じゃねえんだよ」とオオクボ。情けないコンサルタントだ。

飲食店を開きたいという奥さんに向かって、オオクボは定食屋を薦めたという。

「目玉料理がなくても、平均的に美味しくて安ければ安定的に店は運営できますから」

しかし、定食屋を開くのなら、まず場所を探して、最低1人は従業員を雇わなければいけないだろう。家賃と人件費。そのほかに、昨今の不安定な野菜の価格もある。食材の仕入れに店の経営が圧迫される場合もあるだろう。

俺には、そんな発想はできないな。

「奥さんも同じことを言っていた」

「それなら、おまえは、どう思うんだ」

森さんの家は、何処に?

「渋谷の笹塚だ」

一軒家?

それなら、自宅の一部を改造してレストランにしてみてはどうだろうか。そして、ランチもディナーも予約制にする。予約制なら、食材の調達は読めるから、余計に食材を買うことはない。おそらく、奥さん1人で切り回せる。

つまり、人件費はいらない。家賃もいらない。あとは、奥さんの腕次第だ。ソムリエの資格があるってのは、相当なアドバンテージだと俺は思うけどな。

 

「それもありだな。

家から笹塚駅までの導線をマーケティング会社に提示して、客層や年齢層、近隣のレストランの平均的な価格を出させれば、ある程度のプランは見えてくるな。造園会社の開業資金をそのまま使えばいいから、資金の心配はいらない。

隠れ家的なレストランを目指してみるか。

うまくいくかわからないが、一応提案してみよう」

そのあと、貝の盛り合わせを注文したあとでオオクボが言った。

「ところで、この話には、いつものくだらないオチはつかないのか」

 

私は、左に座って鉄火巻きを食っている娘の肩を叩いた。

「父ちゃん、今日はラーメンは作らないの?」

 

角野卓造じゃねえよ!

 

「なんだ、それ?」貝を箸でつまんだオオクボの指先が震えていた。

 

これは、最近の娘と俺の遊びなんだ。

どんな話をしていても、この掛け合いが出たら、この話はおしまいってことだ。わかりやすいだろ。

「ちっとも、わからないが」

 

私はカッパ巻きのキュウリを眺めながら言った。

オオクボ、おまえ、今日の顔、緑色だな。

 

すかさず娘が「シュレックじゃねえよ!」

 

オオクボが、両手で自分の顎を支えながら、娘に向かって言った。

「夏帆ちゃん、すごい瞬発力だね。俺にはついていけないな」

 

ついてこなくてよし。

 

そのあと娘が、「もう大人の会話は終わった?」と言った。

 

もちろん、シュレックが出てきたら、おしまいさ。

 

「では、ここで、ひとつ報告がある。ユナちゃんが来週の土曜日、日本に来る。日本で働くためだ」

 

えーーーーーーー!

 

ユナちゃんのことは、こちらのブログに以前書いたことがございます。

 

 

しかし、続きは、次回に。

 

 

 

 

 

 


ブログを続ける言い訳

2018-10-08 08:25:00 | オヤジの日記

おはようございます。

 

本来なら、このブログは、日曜日に更新が恒例となっておりましたが、昨日は、息子の会社の運動会ということで、息子と娘、ヨメの弁当を作るというイベントがありまして、更新ができませんでした。

 

どうでもいいことですが、私は2つのブログを持っていました。

それを息子と娘の弁当を作らなくていい土曜と日曜に更新していました。

しかし、ありがたいことに、今年の4月、5月に、新たにレギュラーの仕事が入るという幸運に恵まれたため、土曜日のブログの更新が難しくなり、いま閉鎖中でございます。

 

意外なことに、アメリカやフランス、韓国、ロシア、カナダなどからのアクセスが多いブログでししししたから、閉鎖するのは断腸の思いでした。

ただ、できないのなら、スパッとやめるのが私の流儀なので、皆様には何も告げずに閉鎖いたしました。

 

日曜の午前中は、子どもたちの弁当を作らなくていいので、1時間程度の余裕はあります。

ということで、このブログは、続けていこうかと思います。

 

こんなへっぽこブログでも、5人か6人か9人の読者はいるようなので、毎週日曜日朝に、必ず更新します。

 

しばらくお付き合いをおねがいいたします。