「国立よりも武蔵野の方がよかったわぁ」
そう言うのは、我がヨメだ。
ヨメは、何か新しいことを経験すると、最初は必ずけなす習性を持っていた。
6年住んだ武蔵野とまだ住んでから一か月も経っていない国立を比較するのは、気が早いと私は思う。
だが、人はなかなか思い出をリセットできない生き物である。
その思いは、6年の暮らしの重さをかんがえたら、わからなくはない。
(私は、早々と武蔵野の暮らしを忘れかけているが)
私の友だちに、同じようにリセットできない男がいた。
新宿で、年商4億のいかがわしいコンサルト会社を経営するオオクボだ。
オオクボとは、大学の陸上部で同期だった。
だが、その当時の私たちの関係は、犬と猿の仲だった。
だから、大学時代には付き合いはなかった。
そのオオクボと親しくなったのは、10年前に友人が開いた陸上部のOB会からだった。
そのとき、高級時計を腕にはめ、成功者の匂いをプンプンとさせて私の前に座ったオオクボを見て、私は嬉しくなってしまったのだ。
それからは、年に数回、オオクボの体の空いたときに、メシを食ったり酒を飲んだりするようになった。
大仁田厚氏に似た馬力を感じさせる風貌から、私は彼のことを「バッファロー・オオクボ」と呼んでいた。
そのバッファローは、会社経営者のくせに、リセットできない男だった。
「今の歌って、おもしろいか? 昔の方が絶対によかったよな」という「昔はよかった話」が好きな男だ。
おまえは、今の歌はつまらないというが、では、今の歌を真剣に聴いたことがあるのか。
「ほとんど聴いたことはない。耳に残らない歌ばかりだからな」
ほとんど聴いたことがないのに、今の歌はつまらない、というのはコンサルタント的に見てどうなんだ。もしレコード会社がクライアントになったら、どうするつもりだ。断るのか。
「仕事は別だ。そのときは、真剣に聴く」
では、聴いてもいないのに、軽々しく「つまらない」なんて言うべきではないな。
俺は、いつも感心しているんだが、今の若いアーティストたちは、俺たちが若い頃より遥かにオリジナリティがあって、クリエイティブだ。発想が斬新で、プロ意識も高い。そして、競争も激しい。その中を生き抜くだけでも素晴らしいとは思わないか。
「だが、俺が歌えるような歌じゃないしな」
おまえ、自分がカラオケで歌える歌だけが、いい歌だと思っているんじゃないか。
「まあ・・・そうだが」
それは、歌いやすい歌であって、いい歌とは言わないな。
1度、昔の歌がいいって感情をリセットしてみろ。
そうしたら、歌に限らず、今の文化の方が昔よりも多くの「プロの技」に溢れているのがわかるだろう。
一昨日の金曜日、オオクボと新宿の海鮮居酒屋でランチを食った。
オオクボは、カニづくしのにぎり寿司を食い、私はサーモンステーキ丼を食い、生ビールを飲んだ。
食いながら、オオクボが言った。
「ある会社の職業訓練を頼まれているんだが、難しいよな、今の若いやつは。個人主義が強すぎて、仲間意識を持つのが下手なんだよ。組織には、縦の関係と仲間意識が大事ってことが理解できないんだな。昔は、こんなことはなかったんだが」
大人が若者を理解できないのは、いつの時代だって同じだろう。
昔の大人は、若者を「新人類」と言って、一つのカテゴリーにはめ込んだが、今度は、その新人類が大人になったら、若者を「ゆとり」と言って同じカテゴリーにはめ込むんだよ。
そして、その「ゆとり世代」が大人になったら、若者をまた差別用語で同じカテゴリーにはめ込むだろう。
だが、世代感情を1度リセットしてみたら、その世代の若者や大人が、ほぼ変わらないのがわかるはずだ。
おまえも感情をリセットして、世代を取り払った職業訓練をしてみたらどうだ。
教える側だけが大変なのではなくて、教わる側も大変だってことを意識することも大事だぞ。
私のお粗末な意見に、オオクボは苦笑いで応えただけだった。
そのあと、唐突にオオクボが言った。
「俺は、毎回のように、おまえにメシを奢っているが、それもリセットされているのか」
(話がそっちに飛んだかぁ!)
いえ・・・オオクボ社長、メシは胃と腸で消化されてリセットされますが、感謝の思いは決してリセットされません。これは、不変です。
「なんか、苦しい言い訳に聞こえるが」
(だって、言い訳だもん)
「まあ、いいさ。どうせおまえとの食事の支払いは、全部経費で落とすんだからな」
経費で・・・・・落とす? 本当か?
「ああ、おまえには質のいいクライアントを3人紹介してもらったから、これは、その報酬だ。だから、経費で落とせるのさ」
なーんだ、感謝しなくてもよかったってことか。
あのぉ・・・ご相談なんですが、オオクボ社長様。たとえば、私のランニングシューズがボロボロで困っているんですが、それも「経費」とやらで落とせますでしょうか?(自分でもセコいやつだと思う)
「落とせるぞ。なんなら、すぐそこのABCマートに寄っていってもいいぜ」
(心の中でガッツポーズ)
いま初めて気づきましたが、「経費」って、いい言葉ですね。
魔法の杖のような言葉ですね。
オオクボ社長様・・・一生ついていきますから。