リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

魔法の杖・経費

2017-03-26 07:11:00 | オヤジの日記

「国立よりも武蔵野の方がよかったわぁ」

そう言うのは、我がヨメだ。

ヨメは、何か新しいことを経験すると、最初は必ずけなす習性を持っていた。

6年住んだ武蔵野とまだ住んでから一か月も経っていない国立を比較するのは、気が早いと私は思う。

だが、人はなかなか思い出をリセットできない生き物である。

その思いは、6年の暮らしの重さをかんがえたら、わからなくはない。

(私は、早々と武蔵野の暮らしを忘れかけているが)

 

私の友だちに、同じようにリセットできない男がいた。

新宿で、年商4億のいかがわしいコンサルト会社を経営するオオクボだ。

オオクボとは、大学の陸上部で同期だった。

だが、その当時の私たちの関係は、犬と猿の仲だった。

だから、大学時代には付き合いはなかった。

そのオオクボと親しくなったのは、10年前に友人が開いた陸上部のOB会からだった。

そのとき、高級時計を腕にはめ、成功者の匂いをプンプンとさせて私の前に座ったオオクボを見て、私は嬉しくなってしまったのだ。

それからは、年に数回、オオクボの体の空いたときに、メシを食ったり酒を飲んだりするようになった。

大仁田厚氏に似た馬力を感じさせる風貌から、私は彼のことを「バッファロー・オオクボ」と呼んでいた。

 

そのバッファローは、会社経営者のくせに、リセットできない男だった。

「今の歌って、おもしろいか? 昔の方が絶対によかったよな」という「昔はよかった話」が好きな男だ。

おまえは、今の歌はつまらないというが、では、今の歌を真剣に聴いたことがあるのか。

「ほとんど聴いたことはない。耳に残らない歌ばかりだからな」

ほとんど聴いたことがないのに、今の歌はつまらない、というのはコンサルタント的に見てどうなんだ。もしレコード会社がクライアントになったら、どうするつもりだ。断るのか。

「仕事は別だ。そのときは、真剣に聴く」

では、聴いてもいないのに、軽々しく「つまらない」なんて言うべきではないな。

俺は、いつも感心しているんだが、今の若いアーティストたちは、俺たちが若い頃より遥かにオリジナリティがあって、クリエイティブだ。発想が斬新で、プロ意識も高い。そして、競争も激しい。その中を生き抜くだけでも素晴らしいとは思わないか。

「だが、俺が歌えるような歌じゃないしな」

おまえ、自分がカラオケで歌える歌だけが、いい歌だと思っているんじゃないか。

「まあ・・・そうだが」

それは、歌いやすい歌であって、いい歌とは言わないな。

1度、昔の歌がいいって感情をリセットしてみろ。

そうしたら、歌に限らず、今の文化の方が昔よりも多くの「プロの技」に溢れているのがわかるだろう。

 

一昨日の金曜日、オオクボと新宿の海鮮居酒屋でランチを食った。

オオクボは、カニづくしのにぎり寿司を食い、私はサーモンステーキ丼を食い、生ビールを飲んだ。

食いながら、オオクボが言った。

「ある会社の職業訓練を頼まれているんだが、難しいよな、今の若いやつは。個人主義が強すぎて、仲間意識を持つのが下手なんだよ。組織には、縦の関係と仲間意識が大事ってことが理解できないんだな。昔は、こんなことはなかったんだが」

大人が若者を理解できないのは、いつの時代だって同じだろう。

昔の大人は、若者を「新人類」と言って、一つのカテゴリーにはめ込んだが、今度は、その新人類が大人になったら、若者を「ゆとり」と言って同じカテゴリーにはめ込むんだよ。

そして、その「ゆとり世代」が大人になったら、若者をまた差別用語で同じカテゴリーにはめ込むだろう。

だが、世代感情を1度リセットしてみたら、その世代の若者や大人が、ほぼ変わらないのがわかるはずだ。

おまえも感情をリセットして、世代を取り払った職業訓練をしてみたらどうだ。

教える側だけが大変なのではなくて、教わる側も大変だってことを意識することも大事だぞ。

私のお粗末な意見に、オオクボは苦笑いで応えただけだった。

 

そのあと、唐突にオオクボが言った。

「俺は、毎回のように、おまえにメシを奢っているが、それもリセットされているのか」

(話がそっちに飛んだかぁ!)

いえ・・・オオクボ社長、メシは胃と腸で消化されてリセットされますが、感謝の思いは決してリセットされません。これは、不変です。

「なんか、苦しい言い訳に聞こえるが」

(だって、言い訳だもん)

「まあ、いいさ。どうせおまえとの食事の支払いは、全部経費で落とすんだからな」

経費で・・・・・落とす? 本当か?

「ああ、おまえには質のいいクライアントを3人紹介してもらったから、これは、その報酬だ。だから、経費で落とせるのさ」

なーんだ、感謝しなくてもよかったってことか。

 

あのぉ・・・ご相談なんですが、オオクボ社長様。たとえば、私のランニングシューズがボロボロで困っているんですが、それも「経費」とやらで落とせますでしょうか?(自分でもセコいやつだと思う)

「落とせるぞ。なんなら、すぐそこのABCマートに寄っていってもいいぜ」

(心の中でガッツポーズ)

 

 

いま初めて気づきましたが、「経費」って、いい言葉ですね。

魔法の杖のような言葉ですね。

 

オオクボ社長様・・・一生ついていきますから。

 

 


夏を待つセール(帆)

2017-03-19 07:09:00 | オヤジの日記

「死神」のような陰気な顔をした親友がいる。

姓を尾崎という。

30年以上の付き合いだ。

今は、ほとんど兄弟のような付き合いをしていた。

高校を一か月足らずで退学したあと、24歳までのほぼ10年を危険な世界で生きてきた男。

犯罪歴はないが、瀬戸際で無駄な時間を過ごした男。

その男が、24歳で叔母が経営するコスメショップを継ぐという転換期を経て、尾崎は脱線した人生から本線に戻ってきた。

それと同時期に、尾崎と私は出会った。

新潟長岡駅の待合室で、突然話しかけられたのだ。

「東京に帰る金が不足している。だから、これを買ってくれないか」

差し出されたペリカンの万年筆を見たとき、面白いな、と思った。

風貌は、どこから見ても「筋もん」だったが、目の奥に言いようのない一途さがあって、私は笑いながら頷いてしまったのだ。

俺も貧乏旅だから、三千円しか出せないが・・・。

「俺の思っていた額と同じだ。ありがたいな」と尾崎が笑った(私には笑ったように見えた)。

それからの付き合いだった。

 

その尾崎は、中野でコスメショップを続けながら、輸入酒の卸、販売を手がけ、スタンドバーも経営していた。

成功した「死神」と言っていいだろう。

15歳からの10年。

尾崎が、その時代について、多くを語ることはないが「喧嘩した記憶しかない」と言ったことがあった。

そして、「喧嘩では負けたことがない」とも豪語した。

170センチ、50キロの華奢な体だが、彼の喧嘩作法を私は2度体感したことがあった。

1度は、渋谷宇田川町で飲んだ帰りに、チンピラ6人に取り囲まれたときだ。

私は、完全に逃げる準備をしていたのだが、尾崎は躊躇なく6人に立ち向かって、そのうちの5人を一瞬で血祭りに上げた。

残りの一人は、戦意喪失して、腰が抜けた状態だった。

これは、本当に現実世界のことなのか、と肌が泡立つような感覚を味わった。

2回目は、中野の居酒屋で、酒を飲んでいるときだった。

ステレオタイプのチンピラ二人が、尾崎に絡んできたのだ。

それに対して、尾崎は、静かなトーンで「お前たち、俺を知っているのか? どこの組のもんだ?」と睨んだのである。

それだけで、チンピラ二人は怖じ気づき、高速で店を出ていった。

完全な貫禄勝ちだ。

役者が違う、と言っていい。

 

そんな尾崎が経営する中野のスタンドバーに、昨日行ってきた。

時刻は、開店30分前の5時過ぎだ。

尾崎は、経営者であるが、このバーを取り仕切っているのは、尾崎の妻の弟だった。

この義弟は、30代後半の歌舞いた男である。

何をやっても1年と続いたことがないという堪え性のない男だった。

それを見かねた尾崎の妻が、尾崎に「弟の根性を叩きなおしてほしい」と頼んだ。

尾崎は、人と関わるのが嫌いな男だったので、最初は拒んだが、妻の必死さに負けて引き受けることにした。

「俺は、拳でしか教えられないが、いいのか」と妻に念を押した尾崎は、明らかにブラックな方法で弟を支配した。

そして、義弟は、すぐに尾崎に心酔した。

義弟も少林寺拳法の使い手だったが、尾崎にはまったく適わなかったようだ。

スタンドバーは、洋酒が主流だが、ビールも出す。

ただ、外国製のビールばかりだが。

だが、そのバーで私がカウンターに立つと尾崎の義弟は、必ずクリアアサヒの缶を私の前に滑らすのだ。

つまり、特別待遇だ。

金も取らない。

毎日来たとしても、尾崎は私からは金を取らないだろうが、私は世界で2番目に気配りができる男なので、年に2、3回しかスタンドバーに行くことはない。

店で流れているのは、ジャズだけだ。

尾崎と私の共通の趣味がジャズだった。

尾崎は、バド・パウエルが好きで、私は、セロニアス・モンクが好きだった。

そして、尾崎はアルトサックスの経験があり、私はウッドベースの経験があった。

尾崎は、昔からジャズだけを流せる店をやりたいと言っていた。

だから、この店は、尾崎の夢と言ってよかった。

クリアアサヒを飲んだあとは、尾崎の義弟のお任せで、洋酒が出るのがいつもの習慣だった。

私の顔を見て、そのときに合った酒を出すのだ。

このとき出されたのは、バランタインの12年ものだった。

私には、洋酒に関して蘊蓄(ウンチク)を垂れる趣味はないので、美味いか不味いかしかわからない。

きっと、このときの私の体調が良かったのだろう。

酒が、とても美味く感じられた。

次に出されたのは、ブナハーバンだと言う。

知らない銘柄だ。

これも美味かった。

この日は、スコッチ・ウィスキーを出す日だったようだ。

店に流れているジャズは、ソニー・ロリンズのアルバム「サキソフォン・コロッサス」、次が、「テナー・マッドネス」だった。

骨太のロリンズのテナーサックスが、店の中を暴れ回っていた。


だが、次に突然、私にとって聞き慣れたイントロが流れてきた。

それは、ジャズではなかった。

ジャズだけを流す店に、2曲だけあるジャズではない曲。

その一曲であるZARDの「夏を待つセール(帆)のように」だった。

(ちなみに、残りの1曲は、クイーンの『ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン』だった。これも私の思い出に関連した曲だ)

この曲には、私の娘の名前が入っていた。

夏帆。

だから私は、この曲は、坂井泉水さんが娘のために書いてくれたものだと、今も確信していた。

娘のテーマソングだと思っていた。

歌詞を読めばわかるのだが、少しも泣かせる歌ではない。

だが、私は、この曲を聴くと、娘の赤ん坊のときからの記憶が瞬時に思い起こされて、号泣してしまうのである。

このバーには、年に2、3回足を運ぶが、毎回かかるわけではない。

尾崎の義弟が、私が油断をしていると見たときだけ流すのだ。

このときの私は油断していたことになる。

泣いている私の姿を無表情に見つめる尾崎の弟。

意地の悪い男だ。

曲が終わると、私の涙も止まる。

そして、曲も変わる。

ZARDのあとにかかるのは、決まってジョー・サンプルの「メロディーズ・オブ・ラブ」だった。

そのあとに出される酒も毎回決まっていた。

「チナーコ」というテキーラだ。

度数は、40°、テキーラの中では低めの度数だが、酒としての主張が強い。

喉が焼ける。

そして、それを飲み干したあとは、水道水を一杯飲んで、店をあとにする。

背中に「お気をつけてお帰りください」という尾崎の義弟の声を聞いてドアを押し、少し暗くなり始めた中野の街を駅に向かって歩いていく。

 

それから、妻と息子と娘と新しい息子の待つ国立に帰るのだ。

 

「夏を待つセール(帆)のように」の余韻に浸りながら。

 

 


リードが取れてパニック

2017-03-12 07:18:00 | オヤジの日記

100円ショップには、10年以上行ったことがなかった。

10年以上前のことだが、娘の自転車のベルが壊れたので、100円ショップでベルを買った。

私のも壊れていたが、基本的に私は「ベルを鳴らさない派」なので、ずっと放っておいた。

だが、娘に「おまえも付けろ」と言われて、百円なら、まあいっかー、と思って付けた。

しかし、付けたその日に、ベルの上の部分が2つとも取れたのだ。

私は、世界で2番目に不器用な男なので、私の付け方が間違っていたのだと思った。

だから、また同じものを買って、今度は近所に住む芝浦工大の学生に付けてもらった。

彼は、自分でエレキギターとアンプを作るくらい器用な男だった。

そのイトウ君が、「先生、これ、誰だって付けられる簡単なものですよ。器用な先生が、なんで俺に頼むんですか」と言った。(イトウ君は、私のことを『先生』と呼んで、いつもバカにしていた)

だが、イトウ君に付けてもらった自転車のベルは、私のは次の日に上の部分が落ち、娘のは6日目に取れた。

同じものを4つ買って、同じように上の部分が取れるのは、偶然とは言わない。

「欠陥品」という。

それ以来、私は100円ショップを信用しないようになった。

 

だが、武蔵野から国立に引っ越したとき、ヨメが速射砲のような勢いで言ったのだ。

「ダイニングのコード類が、ごちゃごちゃしていて、みっともないから、まとめたら!」

パソコン周り、オーディオ、テレビ周り。

たしかに、ごちゃごちゃはしていた。

でも、武蔵野のアンボロアパートでも、ごちゃごちゃしていたはずだけど・・・。

「武蔵野はいいの!

ここは新居で、しかもダイニングは綺麗でしょ。

みっともないじゃない!」

・・・と命令されたので、コード類をまとめるグッズを買うことにした。

今までならホームセンターに行って、頑丈なものを買ったところだが、引っ越しで疲れていたので、長年の方針を変えて、駅前の100円ショップを利用することにした。

娘に、「百円グッズで、ボクの部屋をアレンジするぞ。ロッケンロールな部屋にするからな。一緒に100円ショップに行こうぜ。金はおまえが出すんだ」と脅されつつ、付いていった。

私は千円程度の買い物だったが、娘は3千円以上を買い漁った。

これは、娘にたかられた、というのが正しい認識だろうが、バカ親父は、エヘヘヘと喜んで金を払った。

ダイニングがスッキリした。

娘の部屋も、ロッケンロールに変身した。

満足した二人は、まったく同時に「セキトリを散歩させようか」とハモった。

100円ショップに、犬用のハーネスとリードがあったので、買ってきたのだ。

犬用ではあるが、猫に使ってはいけない、という条例は国立市にはない。

だから、セキトリに付けてみた。

総額216円のハーネスとリードは、元ノラ猫に相応しいものだった。

お似合いです。

セキトリ君。

 

国立市東1丁目のマンションから300メートルほど離れたところに、小さな公園があった。

そこに、セキトリを抱きかかえて連れて行った。

そして、公園に入ったら地面に降ろして、リードをコントロールしながら、セキトリを自由自在に歩かせた。

これで、運動不足が解消できるはずだ。

セキトリは、とても嬉しそうだった。

リードを嫌がるかと思ったが、ときどき私の顔を確認しながら、まるで猫のようなステップで公園を走り回った。

ワーイ、ワーイ!

タノシイニャーン!

しかし、その喜びは、一瞬で恐怖に変わった。

公園に、ソフトバンクのお父さんに似た白い犬が、入ってきたのだ。

フンギャッ! と言って、セキトリが急にギアをあげた。

セキトリの力は凄まじいものだった。

その突然のギアチェンジに、ハーネスとリードを繋ぐリングが、大きな負荷に耐えきれずに壊れた。

セキトリは、フンギャーーーー! と叫びながら、リードのないハーネスを付けたまま公園の外に逃れた。

本能的に、公園の外に逃れれば安全だと思ったのだろう。

公園の外に出てすぐに、セキトリは冷静を取り戻した。

公園の外から、セキトリが「ナーオ、ナーオ、ナーオ! ガイコツオヤジィー!」と伸び上がるようにして、私を呼んだ。

私と娘が公園の外に出ると、セキトリは、文字通り飛ぶようにして、私の胸に飛び込んできた。

「イエニ、カエローニャー!」

そうだな、家に帰ろうニャー。

100円ショップで買ったハーネスとリードは、もろかった。

 

家に帰った私は、早速Amazonで1900円のハーネスとリードを注文した。

ブス猫には不釣り合いなくらいの可愛いハーネスだったが、これは値段相応に頑丈だった。

テンション高いセキトリの3回の散歩にもビクともせず、その役割を果たしていた。

「結局は、百円グッズってのは、使い捨てだよな」と娘。

 

そんなこともあって、また100円ショップが嫌いになりそうな私だった。

 

 


泣かされて鳴かされた

2017-03-05 07:52:00 | オヤジの日記

引っ越しは、疲れるという。

確かに、荷造りや荷ほどき、その他の諸手続きは、面倒だし煩わしい。

今回の引っ越しの場合、疲れることは疲れたが、アパートのオーナーの都合による引っ越しということもあって、私たちはかなり優遇されたと思う。

まず、敷金が全額返ってきた。

そして、新しいマンションを探すにあたって、私は何の苦労もしなかった。

なぜなら、オーナーが探してきてくれたからだ。

しかも、あそこが不便だ、ここが汚いなどとクレームをつけて、家賃を1万円負けさせたのである。

新居の敷金、2か月分の家賃はオーナー持ちだ。

引っ越し自体も、オーナーから「Mさんは、忙しいだろうから、業者に全部やってもらいなよ」と言われたので、お言葉に甘えて、梱包、荷ほどき、家具等の設置はすべて引っ越し会社にやってもらった。

何という神対応、仏対応。

だから、申し訳ないくらい楽なお引越しだった。

転出や転入など、その他もろもろの手続きだけは面倒だったが、そんなことで文句を言ったら罰が当たる。

オーナー様。

ありがとうございました。

引っ越し業者にも、おおむね丁寧に作業をしていただいた。

ただ、2つだけ問題があった。

去年の11月、私の誕生日に友人からいただいた10万円近い価格の超高級炊飯器を壊されてしまったのだ。

オーマイガッ!

(もちろん、弁償していただいたが)

 

そして、これが一番の問題点なのだが、最後に追加料金を要求されたのだ。

契約のとき、「追加料金はいただきません」という契約のもとに引っ越しをお願いした。

だが、「人数を一人追加しましたので」というのだ。

え?

何のための見積もりだよ!

追加したのは、そっちの都合だろうが!

プロの目で見て、「今回の引っ越しは、これくらいで済みますから」と言って、その見積額をお互い了承して契約を交わしたのではないか。

おぬし、約束を違えるとは、何様のつもりじゃ。

そこへ、なおれ!

成敗してくれよう!

一転して「クレーム侍」になった私は、江戸町奉行のお裁きも辞さないつもりで、悪人に立ち向かった。

私の顔が 殺気だっていたのだろう。

担当の社員は、慌てふためきながら本部と連絡を取って、「手違いでござる。お許しくだされ」とテッペンはげの頭を下げた。

せっかくいいお引越しだと思ったのに、最後にケチがついた。

引っ越し業界の常識って、こんなもんなんですかね。

それとも、私の方が非常識なのか?

 

引っ越しを終えたその日の晩メシは、簡単に作れる「ぶっかけうどん」と「豚の冷しゃぶ」だった。

そのどさくさに紛れて、私は家族に懺悔した。

また環境が変わることを申し訳なく思ったのだ。

 

ヨメには、一軒家じゃなくてゴメンと謝った。

26歳の息子には、22歳まで発達障害だと気づけなくてゴメンと謝った。

大学3年の娘には、性格、体質、好みが俺に似てゴメン、と謝った。

「セキトリ」には、広い世界から狭い世界に連れてきてゴメンと謝った。

 

ヨメに、「上を見たらきりがないから。屋根と食べ物があれば人は生きていける」という哲学的なことを言われて、私は泣いた。

息子に、「発達障害で生まれて、ごめんなさい」と言われたときは、号泣した。

「許さんぞい! 一生反省して生きろ、たわけものが!」と娘に言われて、キャイーンと泣き崩れた。

「モンダイニャーイ」とセキトリに言われたときは、ワンワンと鳴いた。

 

ところで、新居は3DKだ。

5畳の洋間が3つと8畳のDK。

おんぼろアパートは、2DKが2つだったから、結構広かった。

広さだけで言えば、30平米近く狭くなったことになる。

だから、いらないと思ったものは、思い切って捨てた。

その量は相当なものだったが、この費用もオーナーが出してくれた。

オーナー様ぁーーー。

 

3つの部屋は、それぞれヨメ、息子、娘が使う。

私はDKの隅っこに仕事道具を置いて、仕事をさせていただいていた。

眠くなったら、メシを食うときに使う横長のソファで寝る。

私は、180センチのガイコツなので、ソファから足首がはみ出てしまうが、モンダイニャーイ。

セキトリは、私のパソコンデスクの横にケージを置いて、そこでお休みだ。

そして、DK以外の部屋には、セキトリ用のキャットタワーが置いてあるので、セキトリが運動不足になることはない。

これは、ひとつは市販のものを買ったが、一つでは飽きると思ったので、私がデザインして、ホームセンターで木材をカットしてもらって組み立てたものを2つ追加したのだ。

自作のキャットタワーは、天井まであるものなので、セキトリは、一日に数十回も駆け上がっていた。

「ウレシイニャー!」

「タノシイニャー!」

「ナンダカニャー!」

 大喜びである。

ただ、家の中だけの運動では精神的に物足りないだろうから(ノラ猫だったので)と思って、この間、セキトリにハーネスをつけて、近所の公園に散歩に行った。

 

話が長くなったので、このお話は、次回に・・・・・。