リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

清水翔太に関するミステリー

2012-04-27 06:03:47 | オヤジの日記
同い年の友人に、流行に敏感な男がいる。

本は、ベストセラーしか読まないし、ファッションなどもすぐ流行りのものを取り入れる。
そして、行列ができる店があれば、2時間でも待って、流行の味を食う。
映画も、評判のものしか観ない。

だから、当たり前のことだが、歌も流行歌しか聞かない。

流行っていれば、アイドルでも聞くし、演歌でも、童謡だって聞く。

好意的な見方をすれば、頭が柔軟。
批判的に見れば、自分を持っていない。
極めてまわりの影響を受けやすい単細胞、と言える。

そんな男が、先日「清水翔太って、いいよな」と言い出したのである。

それを聞いて、私は違和感を持った。

清水翔太は、それなりに有名だとは思うが、流行っていると言えるかどうか。
流行かぶれの彼が好きになるには、知名度が足りないのではないかと思ったのだ。

そこで、どこがいいのか、と友人に聞いてみた。

「まず、歌が上手い」

それは、わかる。
加藤ミリヤとのコラボ曲しか聴いたことがないが、艶があって、いい声をしているし、歌唱力はプロとしてハイレベル。

「それに、ダンスもうまいしな」

はて?
清水翔太は、ダンスを踊っただろうか?
そのイメージはないのだが、コラボしか聞いていない私の知らないところで、華麗なダンスを披露しているんだろう、と思った。

そうか、彼はダンスもうまいのか。
それは、見てみたい気もするな。

「ああ、和製マイケルとも言われているらしいな」

和製マイケル?
清水翔太が?
それも、私は知らなかった。

彼が、マイケルのように華麗に踊る姿が想像できない

で、それは、どこで見たんだ? テレビか?

友人が言う。
「いや、バーでビデオが流れていて、歌はうまいしダンスもすごいから、この人は誰って店の子に聞いたら、清水翔太って言われたんだ」

そうか。
清水翔太が、ダンスをねえ・・・・・。

何となく腑に落ちなかったので、違うことを聞いてみた。

そこには、加藤ミリヤは映っていなかったか?

「誰だ? 加藤ミリヤって?」

知らなかったようである。

ほかの聞き方をした。

そのビデオに写っていた男は、髪が短かったか?

「いや、短くはないな。見ようによっては、韓国の歌手のようにも見える髪型をしていたような・・・」

余計わからなくなった。
ただ、それが清水翔太でないことは、確かだ。

清水翔太は、韓国の歌手のような髪型はしていないはずだ。

そうすると、その清水翔太は、誰だろう。
彼は、誰と間違えたのだろう?

また、聞いてみた。

その人は、一人で歌っていたんだな。
そのバーでは、その人以外のビデオは流れていなかったのか?

「一人で歌っていた。他のビデオも流していたが、印象に残らない歌だったので、忘れた」

つまり、こういうことか。
清水翔太のビデオは流れていたが、友人の印象に残らなかったので、それは憶えていない。
そして、ダンスの上手い歌手のことは憶えていて、バーの女の子が言った「清水翔太」をその人だと勘違いした。


そうすると・・・・・・。


その清水翔太は、いったい誰だ?


思い出だけではつらすぎる

2012-04-22 08:19:14 | オヤジの日記
前にも書いたことがあるのだが、昔の歌を懐かしむという風潮には、馴染めない。

大学時代の友だちとの飲み会で、「昔の歌はよかったよな。それに比べて」という話をされると、じゃあ、お前は今の歌をどれくらい知っていると言うんだ、と必ず問い詰めたりするから、私は完全に鬱陶しい存在として見られているようだ。

さらに、昔の歌は、「思い出」というフィルターを通すから、よく感じるだけなんだよ、と言うと、「思い出を語って何が悪いんだ」と反論される。

悪い、とは言っていない。
過去の記憶が、歌によって美化されることと、昔の歌が優れているということとは、違うと言っているんだ、と言うと、「屁理屈を言うなよ」と最後は、お決まりの殺し文句で、封じ込められる。

自分が、面倒くさいことを言っているというのは自覚しているので、それ以上、議論をふっかけることはしない。
ただ、確実にストレスが溜まる。

だから、毎回のように、昔の歌を懐かしがるなんて、後ろ向きな奴らばかりだな、と心の中で罵っている。


地上波では、最近の歌番組は、新しい曲を放映するより、昔のヒット曲を流すことの方が多いようだ。
テレビ離れした若者より40代以上の「懐メロ世代」をターゲットにしたほうが、視聴率が取れるからだろう。

昔を懐かしがるだけでは、新たな創造は生まれないと思うのだが、目先の視聴率の方が大事だということか。

そんな現象を見ると、私には、テレビ局が音楽産業の衰退に拍車をかけているとしか思えないのだが・・・。


話し変わって、3年前まで得意先だった輸入家具販売会社のことを書こうと思う。

その会社は、3年前に倒産したのだが、そこからは、年に4、5回程度、仕事をいただいていた。

その会社の社長が、大の演歌好き。
私は、演歌が体質に合わないのだが、それと同時に懐古趣味も嫌悪している。

その社長は、演歌好き、懐古趣味という私の嫌いなダブルの要素を持っていたから、お得意様ではあったが、その会社に伺う前は、いつも気が重くて、ほとんど鬱状態のまま、会社のドアを押したものである。

仕事の話が終わるとすぐに、毎回のように「あの頃は、よかったよ」が始まる。

「あの頃」というのは、バブルのころのことである。

「あの歌が流行った頃は、バブルの真っ只中でね。忙しかったけど、儲かったよねえ!」
「あの歌」というのは、ナントカいう演歌なのだが、興味がないので、曲名をすぐに忘れる。

社長は、バブルの頃はどんなに忙しくても、寝る暇を惜しんで、毎月、中国か台湾、韓国に行って、良からぬ場所に出没していた、と自慢。

さらに、駅前のワンルームで安い出物があったので、そこを買って若い女の子を住まわせていた、と自慢。

バブルの頃は、外車を2台持っていて、車庫が華やかだったよね、と自慢。

そんな話を聞いて、「羨ましいですよねえ」と言える人間ならいいが、私は死んでも、そんなことは言わないと決めているので、自慢するだけ無駄なのだが、それに気づかず毎回のように自慢話が続く。


その輸入家具会社が倒産する前のことだ。
(そのときはまだ、私はその会社が倒産することは知らなかった)

「俺は、演歌以外聴かないんだよね。他の音楽は、ゴミだからね」という毎度のご託宣を聞かされた私は、4年間溜まりに溜まったものを吐き出すように、社長に向かって言ったのだ。

ああ、じゃあ、世界的に有名な(ネイティブっぽ発音で)エアロスミスやガンズアンドローゼス、ボンジョビ、U2、オアシスを聴いている人は、みんなゴミなんですね。
カラヤンや小澤征爾、朝比奈隆、コリン・ディビィスを聴いてる人も、ゴミなんですね。

良かったですよ、オレ。
ゴミの仲間で。
ああ、本当に、ゴミで良かったぁ!


そんな私の言葉を聞いたときの社長は、初めてイヌイット語を聞いた人のように、呆然とした顔で、私の顔を見つめたものである。


それから2ヵ月後に、その会社は倒産した。


そのときに、どんな音楽が流行っていたか、私には、その記憶が全くない。
思い出せない。

それはきっと、その倒産が、思い出にするほどの価値がないものだったからだろう。


日本語で

2012-04-13 05:43:52 | オヤジの日記
言葉というのは、どの国の言語でも美しいものだと思う。

人に自分の心を伝えようと思って、工夫をしたものだから、どの国の言語も理にかなったものだと思う。

だから、歌も慣れ親しんだ母国語で歌うのが、一番美しい。

日本人が米国に進出しようとすると、たいていの歌手は英語で歌う。
英語に不慣れな人でも、英語で歌おうとする。
それで、果たして情緒的な部分が伝わるのだろうか、と私はいつも疑問に思っている。

宇多田ヒカルさんは、ネイティブな発音ができるから、彼女が英語で歌うのはわかる。
その方が、彼女にとって、自然な表現ができると思うからだ。

しかし、英語力に乏しい日本人が、英語圏の人が作った曲を歌う場合、相当な努力をしない限り、ネイティブには敵わないだろう。
そんな中途半端な英語で勝負していいのかと、やはり疑問に思う。


たとえば、韓国の歌手が、日本でデビューするときに、ほとんどの人が日本語で歌う。
申し訳ないが、私は、それを醜悪だと思っている。

まず、発音が下手だ。
そして、韓国の歌に無理やり日本語を乗せているから、確実にリズムが崩れる。

さらに、一番の問題点は、何を歌っているか、ほとんど伝わってこないことだ。
韓国語と英語と日本語が交互に出てくる歌詞は、ほとんど伝えようとすることを放棄しているとしか思えない。

日本語で歌ったら、それはK-POPではなくJ-POPだろうと思うのだが、J-POPにもなりきれていない。

K-POPは、韓国語で歌ったほうが、確実に心に響く。
アップテンポの曲なら、気持ちが浮き立つ。

しかし、日本語で歌われた「韓国人が歌う歌」は、中途半端すぎて違和感しか感じないのである。


英語圏のアーティストがいいと思うのは、ほとんどを自国語で歌うところ。

彼らの多くは、自分の歌は、自国語で歌ってこそ、相手を感動させるという信念を持っているからだろう。

たまに、サービスで日本語で歌うアーティストもいるようだが、それはあくまでもサービスだ。
日本語で全曲を歌うことはない。

歌は、生まれ育った国の言葉で歌うとき、一番の力を持つ。

たとえば、日本のベテラン歌手・由紀さおりさんが、英語圏でそれなりの評価を得たようだが、彼女は、ほとんどを日本語で歌ったということを聞いた。

彼女も、自分が歌に魂を込められるのは日本語しかない、という信念を持っていたのではないか。
付け焼刃的な英語で歌うより、自分の感情が確実に込められる日本語で歌ったほうが、気持ちが伝わる。

そして、確かに、それは日本語を知らない外国人の心を打った。


大切なのは、言葉が伝わることではなくて、心が伝わること。


だから、これから日本のアーティストが、外国でデビューする機会があったなら、私はぜひ日本語で歌い通して欲しいと思うのだ。

日本語の表現力に優れた人なら、確実に外国人の心を震わすことができると思うから。


損している?

2012-04-09 10:12:53 | オヤジの日記
自分の意志で聴かない曲。

演歌は、聴かない。
後ろ向きの歌詞と陰気な声。

「演歌は日本人の心の歌だよ」という友人がいるのだが、それなら俺は、日本人でなくてもいい、と思うくらい、胸に響いてこない歌だ。

ジャニーズ系の歌、AKB系(?)、つんく系(?)の歌も避けている。

アイドルが嫌いというわけではない、水準以下の歌を聴く趣味がないだけ。
歌が上手ければ、聴く。
声などに魅力があれば、聴く。

テレビのスポットCMなどに流れているCDの宣伝では、サビの部分だけを流すことが多い。

だから、EXILEや西野カナ、浜崎あゆみ、FUNKY MONKEY BABYS、GACKT、福山雅治などの曲は、サビの部分だけは知っているが、全部は知らない。

サビの部分だけで、満足している。

大御所と言われるアーティストの歌も避けている。

松任谷由実、中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、さだまさし、小田和正、長渕剛など。

それらの歌を好きな人が必ず言う「昔の歌は、よかったよ」というフレーズが好きではないからだ。
結局、懐古趣味ではないか。

友人に、中島みゆきの歌が好きな男がいる。
アルバムは全部持っているし、ライブにも頻繁に行くようだ。

私が、興味がない、というと、その男は「中島みゆきの歌を聴かないなんて、人生の9割を損しているよ」とまで言うのである。
その男は、さだまさしも好きなので、私が聴かない、というと「ああ、7割損しているね」と言う。

悔しいので、私は「THE BAWDIESを聴かない奴は、人生の10割を損しているぜ」と言ってみた。

すると、そいつは「ボーズ? 坊主は、歌うんじゃなくて、お経を唱えるんだろう」と言うのである。

殴ってやろうかと思った。


究極のアンドロイド

2012-04-04 11:36:57 | オヤジの日記
高校二年の娘の影響で、K-POPはよく聴く。

娘は、少女時代、Superjunior、SHINEEがお気に入りだ。

他に、BoA、BIGBANG、2NE1、RAIN(ピ)も好きだ。

私もBoA、BIGBANG、2NE1、RAIN(ピ)がK-POPでは、水準以上のアーティストであることに異論はない。
少女時代、Superjunior、SHINEEに関しては、真剣に聴いたことがないので、わからない。

私の狭いK-POPの知識の中で、BoA、BIGBANG、2NE1には個性は感じるが、他のアーティストには、あまり個性を感じない。

少女時代はすごいんだから、と娘は力説する。
もちろん、少女時代の人気があるのは知っているし、プロ意識の高さも尊敬している。

ただ、私には、彼女たちの姿は、出来のいいアンドロイドにしか見えないのである。

それは、他のグループにも言えることだ。

同じような歌を歌い、同じようなダンスをして、同じような決め顔をする。
それは、素人が、歌舞伎役者が切る「見得」がみな同じように見えるのと同じで、私には、どのグループのパフォーマンスも同じように見えてしまうのである。

「まあ、アンドロイドでも美しければ、よくないか?」
と娘は言う。

確かに、異論はない。

美しさは、全てを凌駕する。

しかし、少女時代が究極のアンドロイドかと言えば、そうではない。

娘と私が、究極のアンドロイドだと思っている韓国の歌手がいる。

それは、G.NAだ。

顔は特別美人というわけでも可愛いというわけでもない。
歌も踊りも平均点だ。

ただ、K-POPの歌手にありがちな、意味もなく声を張り上げたり、音を伸ばしたりという余計な歌い方はしないし、踊りも歌の邪魔をするほど過剰ではないところは評価できる。

楽曲に関しては、平凡な曲が多くて可哀想な気がするが、G.NAの場合は、それでいいのかもしれない。

究極のアンドロイド的なルックスは、あまりパッとしない曲の方が、彼女の良さを引き立てると思うからだ。

「とにかく、パーフェクト・ボディだよな」と娘が言う。

私も異論はない。

まるでCGを見ているような完璧な肉体が、歌っているのを見るだけで、満足すべき存在。
G.NAは、そんな歌手である。

日本や韓国のアイドルは、ほとんどが「数頼み」だ。
つまり、人数で売る。

グループの中で、一人や二人、華のない人がいても、数がそれを覆い隠す。
そして、一人ひとりにそれぞれファンが付けば、ファンの総数は増えるという単純な算数方式で、プロダクションは儲けようとする。
下手くそなダンサーでもいいから、バックに何人か付ければ、そこにまたファンが少なからず群がる。

その点で、ソロのアイドル歌手は、分が悪い。
ひとりの魅力で売らなければいけないからだ。
いま、一人で売れるほど魅力あるアイドル歌手は、数少ないという現実がある。

何か一つ際立った個性を持っていても、ソロ歌手として成功するわけではない。
(グループの場合は、一人ふたりが下手でも成功する例が多い)

一人で売れたアーティストは、作詞能力や作曲能力に優れた人や、ダンスが神がかり的に上手かったり、4オクターブの声が苦もなく出せるような人、あるいは全てが平均点をはるかに超える人など、プロとしての高みを極めた人が多い。

ソロでも瞬間的に売れる人はいるが、それはただ単に目新しさで売れているだけで、長くは続かない。


では、G.NAはどうかというと、どれも平均点だから、本国でも、それほど爆発的には売れているわけではない。
日本では、デビューしていないから、ほとんど知られてもいない。

ただ、その究極のアンドロイド的な肉体を、誰もが考えつかないような奇抜な方法でアピールしたら、売れる可能性はあると私は思っている。

私がプロデューサーだったら、生身のG.NAとCGで作った見るからにアンドロイド的なG.NAをコラボレーションさせることを考えるのだが、それは無理があるだろうか。

娘は、「その世界では初音ミクがいるからな。いくらパーフェクト・ボディって言ったって、初音ミクには勝てないよ」という。

初音ミクのことをよく知らないオジさんは、黙るしかない。