リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

柴咲コウ

2011-11-29 09:46:12 | オヤジの日記
以前、私のアイドルは、宇多田ヒカルと椎名林檎だ、と書いたが、ひとり忘れていた。

柴咲コウだ。

本職は女優なのだろうが、私には、歌手としてのイメージの方が強い。

柴咲コウの存在感は、女優としても歌手としても、揺るぎないもののように私には思える。
そこにいるだけで何かを表現している、と思わせる際立った存在感は、何ものにも代え難いものだ。

女優としての柴咲コウは、役の中で、柴咲コウという存在感を放つだけで、まわりを納得させる力を持っている。
それは、芝居が上手い下手の領域を超えた独特の才能である。

では、歌手としての柴咲コウは、どうだろうか。

柴咲コウの歌が認知されたのは、映画「黄泉がえり」の挿入歌「月のしずく」だということは、異論がないと思う。

それは、2枚目のシングルだったらしいが、私は、まず彼女の声質の良さに惹かれた。
そして、日本語の持つ優雅さを表現する能力にも惹かれた。

今の歌手のほとんどが、なぜか言葉を崩して歌っている。
そのことは、正確な発音で歌うことが、まるで歌手として恥ずかしいことだというように、私には聴こえるのである。

歌詞を聴き手に、聴こえやすいように伝えるというのは、歌手にとって一番大事なことであるはずなのに、その手段を放棄して、歌をただ感情を伝えるだけの道具にしている歌手が多過ぎる。

歌に感情移入は必要だが、何ごとも過剰は良くない。
一曲だけならまだいいが、すべてがそれだと、耳障りに聴こえる。


柴咲コウは、自分で歌詞を書いていることもあって、自分が編み出した言葉を丁寧に歌うことができる人だ。

それは、大きな才能と言っていいのではないだろうか。

だから、柴咲コウは、特別思い入れたっぷりに、過剰に感情表現をしなくても、聴き手に自分の音楽世界を伝えることができるのである。

柴咲コウは、プロとしては当然のことであるが、音程を外さない人だ。
それは、過剰な感情表現をしないから、安定しているのだろう、と私は思っている。

音程が外れても、感情をぶつけるように表現して歌う歌手が好きだ、という人は多いようだ。
その方が、聴いている自分が、感情移入しやすいからだろう。

それは好みの問題であるから、私は、それを否定しようとは思わない。

ただ、私は、その種の歌い方をされると、「重いな」「鬱陶しいな」と思ってしまうタチである。
押し付けがましいな、とさえ思うことがある。
そして、聞いたあとは、確実に疲れる。

音楽を聴いて疲れる、という楽しみ方はしたくないので、結果的に私は過剰な感情表現をしない歌手を選ぶことになる。

その意味で、柴咲コウは、私にとってパーフェクトに近い歌手だ。


だから、柴咲コウは、私にとってアイドルなのである。




天性の声

2011-11-26 09:03:29 | オヤジの日記
歌手が演技をする。

俳優が、歌を歌う。

どちらも才能を必要とするが、歌手が演技をする方が、クォリティが高いような気がする。
どちらも何かを表現する職業ではあるが、歌手が蓄積した歌としての表現力は、そのまま演技に生かせる。
しかし、俳優が蓄積した演技力は、歌にそのまま活かせないことが多い。

俳優にも歌の上手な人はいるが、それは上手に聞こえるだけで、音域は狭いし、リズム感のない人がほとんどだ。
俳優には、囁きかけるように歌う人が多い。
それは、表現方法として間違ってはいないが、ただ彼らは、その歌唱方法しかできないから、そうしているだけだろう、と私は思っている。

その歌唱方法を周りが上手いと評価するから、彼らは歌手として、それ以上進歩しない。
囁き歌唱でいいと思っているから、ボイストレーニングなどもしていないように思える。

だから、俳優たちの歌は、一曲聴けば充分という気がする。


今井美樹は、モデル、俳優として世に出てきた。

そして、その後、歌手デビューをした。
テレビの深夜放送で、2枚目のシングル「野性の風」のPVを見たときは驚いた。

声の表情が豊かで、そのうえ透明感があった。
さらに、声がミドルテンポのリズムに完璧に乗っていたから、曲全体が、流れるように滑らかだった。

今井美樹は、女優が片手間に、歌を歌うというレベルの人ではない。

天性の澄んだ伸びやかな声とリズム感。

その際立った才能は、正当に評価されるべきだと思うが、「Piece of my wish」「Pride」や多くのアルバムなどがヒットしても、その才能ほどは、今井美樹が高い評価を受けているとは思えない。

最初からミュージシャンではなかったからだろうか。

あるいは、日本人の好むジャンルではないからか。
もしくは、思い入れ過剰に歌うバラードか、某人気集団のように下世話な音楽の方が、リスナーは感情移入しやすいからか。

ヒットしている歌しか興味がない私の友人は、「全然、心に響いてこないな」という、あからさまに否定的な感想を述べた。

それは、正直すぎて、笑ってしまうほど単純な感想だった。

歌謡曲好きの人の心には、響かない歌。

確かに、今井美樹が作り出す音楽は、いわゆる流行歌とは一線を画しているように思える。

しかし、だからこそ、今井美樹の音楽は聴けば聴くほど、その音楽世界が独特のものだと思えるのだ。

ヒット曲しか聞かない私の友人は、こうも言った。

「あれは、女どもが聴く音楽だよな」

つまり、カラオケで自分が歌える歌だけが「いい歌」だと思っている男どもには、今井美樹の音楽は、わからないということだ。


となると、今井美樹が好きな俺って・・・・・。




天才歌手の元旦那

2011-11-20 10:56:55 | オヤジの日記
私にとってのアイドルと言えば誰かというと、宇多田ヒカルと椎名林檎だ。

二人ともデビュー曲を聴いて、すぐに気に入った。

アルバムは、すべて持っている。

何をしても許される存在。
そして、どの歌を聞いてもガッカリすることのない存在。

それが、私にとってのアイドルの定義だ。


ただ、宇多田ヒカルさんに対しては、ひとつだけガッカリさせられたことがある。

離婚した前夫・紀里谷さんに関してである。

彼はかつて、宇多田ヒカルさんのプロモーションビデオの数々をてがけ、「映像の魔術師」などと言われた存在らしい。

だが、私はいつも疑問に思っていたのだ。

宇多田ヒカルさんのビデオを観て、いつも「何、これ?」という疑問符しか頭に浮かばないのである。
曲の良さをぶち壊しているだろう、という怒りさえ感じることがある。


色が、うるさい。


私の友人は、そこに彼一流の芸術的な表現があるのだよ、と彼を擁護するが、うるさい色のどこに芸術があるのか、と私はいつも訝しく思っている。

私は、フリーランスのデザイナーだが、三流である。
だから、一流の芸術家の感性が理解できないのかもしれない。

宇多田さんが選んだ人なのだから、彼には絶対に才能があるに違いない。
そのように思って、自分を納得させようとしているのだが、どんなに心を落ち着けても、あの色のうるささを肯定することが未だにできないでいるのである。


その紀里谷氏が、映画監督として、2本の大作を撮った。

彼の才能は、映画にこそ生かされるのではないか、と期待して、DVDを観た。

しかし、そこでも私はガッカリさせられた。

相変わらず、色がうるさい。
表現手法が、独りよがりである。
役者を生かそうと思って撮っていない。

物語や人物像より、映像を優先させている。

そこが、致命的だ。

2本鑑賞して、私は絶えず苛々し、さらに失笑を禁じ得なかった。

これは、たとえば大学の芸術学部の卒業制作レベルの映像である。

優れた役者を揃えたところだけがプロの領域で、ほかの部分に関しては、習作(エチュード)でしかない。

壮大な金の無駄遣いだ。


天才アーティストであり、私のアイドルでもある宇多田ヒカルさんが選んだ人だから、贔屓目に評価したいのだが、評価するべきところが、ない。


そこが、とても残念だ。




リフレインが叫んでる

2011-11-17 08:52:33 | オヤジの日記
昔の話で、恐縮ですが。

4年ほど前、駒沢公園で聴いた歌声について、書こうと思う。


結婚する前、中目黒に住んでいた私は、土・日は用がない限り中目黒から駒沢公園をジョギングで往復する習慣を持っていた。
だから、駒沢公園は、自分の庭のようなものだった。

それを懐かしく思って、4年前の9月の終わり、20年ぶりに駒沢公園を走ることにした。

一周2.1キロのジョギングロードを5周。
走り終わった満足感に浸りながら、公園の石畳に座ってミネラルウォーターを飲んだ。

そのとき、アコースティックギターの音が聞こえたのである。

そのギターの音色は、チューニングが少し狂っているのではないかというくらい、雑音に近いものだった。

しかし、そのあとに聞こえた声に、心を奪われた。
女性の声だ。

すべて英語の歌詞だった。
聞いたことのない曲が、5、6曲続いた。

もしかしたら、オリジナルの曲かもしれない。
メロディは、R&B調で、メロディアスなものだった。

彼女の声が、そのR&Bの曲調に合っていた。
外人かもしれないと思った。

ハスキーだが、ビブラートのない、よく伸びた声。
ゴスペルシンガーのような肉感的な声質。
そして、リズム感。

それは、下手くそなギターを補って余りある魅力的な歌声だと言えた。

声に聞き惚れ、秋の風の心地よさに、体を撫でられているうちに、その歌声は突然に止んだ。

耳に、余韻だけが残った。

そして、ギターをギターケースに仕舞う音が、微かに聞こえた。


終わりか、と思った。


しかし、そのあとで、また声が聞こえたのだ。


どうしてどうして僕たちは 出逢ってしまったのだろう


アカペラだった。

「リフレインが叫んでる」
ユーミンの歌だ。

ユーミンの曲は、私は荒井由実の初期の頃のものしか知らないが、その曲は、むかし何かのCMで流れていたので知っていた。


乾いた伸びのある声が、目の前の空気の中を漂っていた。

その声は、まるで包み込むような柔らかさで、私の周りを漂った。


どうしてどうして私たち 離れてしまったのだろう
あんなに愛していたのに


他に音は存在したのかもしれないが、私の耳には、その歌声しか入ってこなかった。

皮膚の表面が歌声を感じ、からだ全体の粘膜、毛穴までもが、歌を感じていた。

つまり、全身で、歌を感じていたと言っていい。

そんなことは、初めてだった。

自分の吸う息、吐く息さえも、音を奏でているような錯覚。

それは、とても心地よい瞬間と言ってよかった。

いつまでも、その瞬間、空間に身を委ねていたいと思った。


だが、歌声は、また突然に止んだ。


どうしてどうしてできるだけ 優しくしなかったのだろう
二度と会えなくなるなら


時が、止まったような気がした。

静寂。

左手に持ったミネラルウォーターのボトルが、微かに震動したような気がして、私は我に帰った。

首を巡らしてみたが、音の気配は感じられなかった。


立ち上がって、先ほど音がした方向に歩いていった。

階段の下には、芝生があったが、そこにはもう誰もいなかった。

歩いている人はいたが、ギターケースを持った人はいなかった。



柔らかい風が、鼓膜を揺らした。

取り残された私の耳に、リフレインが叫んでいた。



ビジュアル系好きな娘

2011-11-15 09:06:28 | オヤジの日記
ビジュアル系バンドというのは、私の一方的な解釈では、見た目重視のバンドのことだ。

着飾ったり、メイクを施したり・・・・・。
ただ、ビジュアル系という割には、驚くほどのイケメンはいない。


何年前だったかは忘れたが、いま高校一年の娘とアニメ「ブラックジャック」を見ていたとき、その挿入歌で流れていた曲を聴いて、「この歌、いいね!」と、娘とふたり顔を見合わせたことがある。

番組のクレジットを見ると「ジャンヌ・ダルク」となっていた
曲名は、「月光花」。

翌日、ツタヤに行って、最新アルバムを借りてきた。
聴いてみると、演奏の上手い下手はともかく、バンドとしてのまとまりはあったし、何といってもボーカルの存在感が良かった。

娘も同じ意見だった。

そして、娘は、このバンドがビジュアル系と言われていることに興味を持ち、ビジュアル系バンド全体に興味を持つようになったのである。

アンティーク・カフェというバンドが、まず気に入った。
そして、プラスティック・ツリー。
ナイトメア、Rynch、アリスナインがお気に入りのバンドになった。


当時、ビジュアル系の専門誌が数冊出ていて、そのうちの「SHOXX」「FOOL'S MATE」を発売日ごとに買わされる羽目になった。

書店で、これらの本をレジに持っていくと、必ず「何? このオッサンがビジュアル系の雑誌を読むって!」というような顔をされた。

も、申し訳ございません、というような顔をして、毎回ひったくるようにして、本の入った紙袋を受け取った。
そして、逃げるように、書店を後にした。


なぜ、娘がビジュアル系バンドにはまったのか。
それは、「おまえの影響だろうが!」と娘は言う。

「だって、X-JAPANが、世界で2番目に優れたロック・バンドだって、いつも言ってたろ? あれは、もともとはビジュアル系じゃないのか? だから、俺は(娘は自分のことをオレと言う)ビジュアル系を極めようと思ったんだよ」


あら、まあ!


そんな展開で娘がビジュアル系を好きになるなんて、バカオヤジの頭では、想像もできないことだった。

「それに、あのマイナー感が、さらに興味深いんだよな」
そんな風に、したり顔で言うのである。

そのヒネクレ感は、なんか、俺そっくり!

こいつは、間違いなく、俺の血を引いた娘だ。
それを再認識した。


娘と私のビジュアル系への評価は、ほぼ同じ。

歌も演奏もアマチュアレベルだが、ビジュアル系全体を一つの個性と看做せば、とりあえず許せる、というものだ。

X-JAPANやラルク・アン・シエルは、特別な存在。

あの方たちは、始まりはビジュアル系のくくりだったかもしれないが、今は確実に単体のアーティストとして、それ自体がジャンルといっていい存在である。

あの方たちの立っている場所は、「選ばれし人」だけが達した極みだと言っていい。


しかし、すべてが、あの方たちと同じ領域に達する必要はない。

たとえアマチュアレベルだったとしても、エンターテインメントとして、それなりの域に達していれば、彼らはバンドとして存在価値があるのではないか、と私は思っている。

それは、娘も同意見だ。

「あれは、一つの個性。その個性を認めるか認めないかで、ファンの立ち位置が決まる。俺は、認めてるよ。きっと、これからも認めると思う」


高校一年の娘は、キッパリと言い切ったのだった。