リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

アンビリーバボーな馬鹿ふたり

2015-12-27 08:48:00 | オヤジの日記
アンビリーバボーなのか、ただの偶然なのか。

大学時代の友人との不思議な付き合いを。

彼、ノナカとは、大学1年のとき、同じクラスになって親友になった。
彼との最初の出会いは、まったくおバカを絵に描いたようなものだった。

私は大学で、第2外国語として「フランス語」を選択していた。
初めてのフランス語の授業を受けるため、講義室に入って待っていると、ヒョロッとしたヘチマ顔の男が隣の席に座った。

横目で見てみると、彼は隣で「フランス語」の教科書を広げて、左脇に辞書を置いていた。
その時、私も同じように教科書の左脇に辞書を置いていたから、「ああ、同じか」と単純な感想を持った。

そして、このヘチマ顔が同じクラスなら、俺が一番先にあだ名を付けてやろう、と思った。
ヘチマ。
これで決まりだ、と思って心の中でニヤついているとき、講師が入ってきた。

講師は、黒板にいきなり字を書き始めた。
漢詩らしい、というのはわかった。
そして、講師は、それを本格的な中国語で読み始めた。

この人、中国人か。中国人が「フランス語」を教えるのか。
そう思っていると、講師が思いがけないことを言った。

「中国語は、日本人にとって大変なじみ深いものです。そして、漢字のルーツですから、習得することは決して難しくありません。この一年間、楽しみながら一緒に学びましょう」

中国語!
隣のヘチマと同じタイミングで顔を見合わせた。
真正面で見ると、さらにヘチマに似ている(?)。

「ここ、何号室?」
「842号室だよね」
「そうだよな、間違いないよな」

その会話を聞いていた後ろの女の子が、小さい声で「852」。

階を間違えたのだ。
私とヘチマは、慌てて教室を飛び出した。
教室の表示板を見ると、確かに「852」となっていた。

二人揃って、教室を間違えるなんて、なんておバカなふたり。
これが二人の出会いだった。

ヘチマ、いや、ノナカと私は、性格はあまり似ていない。
彼は、薄っぺらい顔から受ける印象と違って、皮肉屋で、言葉に鋭いトゲを持っていた。
愚かな人間が我慢できないタイプだ。
おそらく、頭が良すぎるせいだろう。

評論家になったら、さぞ舌鋒鋭く攻撃するタイプになったに違いない。
彼は今、故郷の仙台で塾を経営し、街の名士になっている。

しかし、性格は違っても、どこかで繋がっているのではないかと思うほど、彼と私は波長が合う。

大学2年の春、友人3人と京都に旅行したときのことだ。
西本願寺の境内を歩いていると、庭園の池のそばに見覚えのある顔を見つけた。
間抜けなヘチマ顔で、口笛を吹いている男。
ノナカだった。

お互い、春に京都を旅するとは言っていなかったが、偶然にも出くわしてしまったのだ。

さらに、その夏、陸上部の合宿が終わって、友人3人と合宿の疲れを落とそうと「妻籠・馬込宿」に寄った。
そこの「梅の家」という民宿に泊まったのだが、食堂で夕食をとろうとしたとき、入口寄りのテーブルにヘチマがいたのだ。

このときも、お互い「妻籠・馬込宿」に行くとは、ひとことも言っていなかった。

まだまだ偶然がある。
これも大学時代だが、銀座の「ニュートーキョー」で皿洗いのバイトを募集していたとき、面接会場にヘチマ顔があった。
社会人になってから、お互い勤めている会社は全く違う場所なのに、昼間、銀座の旭屋書店の同じコーナーで出くわしたこともあった。

そして、極めつけは、これだろう。
25、6歳の頃、私とノナカは、たまに駒沢公園でジョギングをすることがあった。
駒沢公園のジョギングコースを5周走ったあとで、いつもクーリングダウン(心拍数を緩やかに落とす)のため、サイクリングをした。

駒沢公園のサイクリングロードを、自由自在にペースを変えながら漕いでいたときのことだ。
4周目だったと思う。
坂道のちょっとした勾配。全く同時に、二人の漕ぐ自転車のチェーンが切れたのだ。

「うわぉっと!」
掛け声まで一緒だった。

これは、偶然としてはかなり高度な偶然だろう。
自転車を買った時期が違って、メーカーも違うのに、全く同じ時間にチェーンが切れるなんて、かなりレアな偶然に違いない。

お互いの息子が全く同じ時期におたふく風邪に罹ったこともあった。


5年前に、ノナカは胃に腫瘍ができて、胃の3分の2を切除する手術を受けた。
そのときは、偶然は働かず、私の胃に変化は起きなかった。

これは似なくてよかったことの一つだ。

ただ、先週末ノナカが仙台から東京に出てきた日のことである。

私は激辛カレーを食ったあとで10年ぶりに鼻血を出した。
たいした鼻血ではなかったが、上着が少し汚れた。

そのとき、ノナカから電話があった。
「なあ、鼻血を止めるにはどうしたらいい?」

激辛カレーではなく激辛ラーメンを食って鼻血を出したらしいのだ。

私は、右の鼻の穴にディッシュを詰め、右手で小鼻を押さえながら言った。

あるったけのティッシュを鼻に詰めて、息を止めて待て。

「息を止めるのか? どれくらい止めればいいんだ?」

死ぬ寸前までだ。

「わかった。やってみる」

15分後に、ノナカから電話があった。

「止まったよ。本当に息を止めると止まるんだな。助かったよ」



どうやら、馬鹿のレベルは違っていたようだ。



犬のフォース

2015-12-20 08:51:00 | オヤジの日記
それは、私が29歳のときのことだった。

当時私は、体の衰えを少しでも先延ばしするために、住まいのある私鉄沿線のボクシングジムに通っていた。

当時は今と違って「ボクササイズ」などというものはなくて、私以外の人はすべてが現役ボクサーかプロ志望の練習生だった。
ボクサーというと、アンチ沸騰の亀田三兄弟のように闘争心丸出しのイメージを持つ人が多いと思う。
しかし、むしろ彼らは例外で、リングの外ではシャイで優しい人が多い。

ジムに練習生が何人いたかは忘れたが、しばらくすると、その中の一人とよく話をするようになった。
彼は18歳のプロ志望の青年で、ジムに来るとき愛犬を連れてきていて、練習が終わるまで、近所の骨董屋に預けていた。

犬は中型の雑種だ。
名を「サム」と言う。(本当は「サムライ」と名付けたが、面倒くさいので縮めて呼んでいるらしい)
立派な巻き尾をしていて、雑種といえども凛々しさを感じさせるハンサムな白い犬だった。
私も動物が好きなので、ジムの帰りに、犬の散歩に一緒について行ったりした。

彼の家は、ジムのある駅から2つ目だが、いつも家から愛犬と走りながら来ていた。

事件は、彼と犬の散歩に付き合うようになって、2ヶ月が過ぎたころに起きた。
いつも通りジムに行くと、しょげて憔悴した彼がいて、私にこう言ったのだ。

「サムがいなくなったんです」

前日、多摩川の土手道を一緒に走っていたら、リードが手から離れた。するとサムは、全力で走って行った。
名前を呼んでも、一度も振り向くことなく、すぐに彼の視界から消えていった。
だが、そういうことは今までにも度々あって、いっとき姿が見えなくなっても、走ったり探検するのに飽きたりすると、必ず戻ってきたという。

だから彼は今回も慌てず、犬との待ち合わせ場所でずっと待っていた。
しかし、3時間待っても、サムは姿を見せなかった。
もしかして、車に轢かれたのかもしれない。
彼はそう思って、周りの道路を探し回り、最寄りの交番に行って聞いてみたが、それらしい事故はなかったという。

家に帰ったのかもしれない、と思い直して、帰って犬小屋を除いたが、サムの姿はそこにもなかった。

リードが着いたままだから、飼い犬だということは分かる。
首輪に「サムライ」の名と「電話番号」が彫ってあるから、親切な人が電話をしてくるかもしれない、そう思って昨晩は一睡もせずに待っていたそうだ。

今日はジムに行くのを止めて、心当たりを探し回ろうと思ったが、ジムの周りも犬の縄張りなので、一縷の望みを託して来てみたという。
彼の落ちくぼんだ目を見ると、私も練習に身が入らず、練習を中断してジムの半径1キロを探索した。
しかし、犬は見つからなかった。


そして、それからさらに1ヶ月。
「もう、あきらめましたよ」と彼は言うが、顔には「未練」が貼り付いている。

電柱に『迷子犬』の張り紙でもしてみたらどうかな。
可哀想になって、提案してみたが、彼は弱々しく首を振った。

「誰かがきっと持っていったんだと思いますよ。そうだとしたら、帰ってくる確率は低いでしょう。もういいです。本当に諦めましたから」

そんなとき、奇跡が起きた。

私が当時住んでいた賃貸マンションは、彼の住む最寄り駅から7つ目にあった。
途中、多摩川を渡る。
線路際の緩やかな坂の途中に、マンションはあった。
駅から歩いて5分。いい物件である。

ある日の夜11時過ぎ。
仕事帰りで疲れた私が見たものは、マンションの入口に背筋をピンと伸ばして座る犬。

一目見て、それがサムだということが分かった。
リードは取れているが、首輪は見覚えのあるものだった。
だが、それをわざわざ確かめなくても、私にはわかった。
凛々しい姿、特徴のある巻き尾、そして雰囲気。すべてがサムのものだった。

なぜ、サムがこんなところに…、という疑問より、とにかく嬉しくて、私はサムに抱きついた。
サムも当然のことながら、私を覚えていた。
両方の前足を私の膝の上にのせて、私を見つめている。

「ゴー」と言って、指を指すと、サムは私が指さした方へ30メートルほどダッシュして、すぐに戻ってくる。
反対側へ「ゴー」というと、同じようにダッシュして戻ってくる。
私が教えたことを覚えていたのだ。

それから、彼へ電話をした。
私の話を聞いても、彼は半信半疑だったが、車を飛ばしてすぐにやって来た。

彼の顔を見た途端、サムは飛ぶようにして抱きついた。
さすがに、私に対する態度とは違う。
私の場合は、あくまでも知り合いに対する接し方だった。
しかし、飼い主には、思い切り甘える。

感動の再開のあと、残ったのは、「なぜサムがここに?」という疑問だ。
彼の家からここまでは、10キロ近く離れている。
しかも、1ヶ月以上たった今、なぜサムは私が住んでいるマンションの入口に現れたのか。

多摩川ではぐれたのなら、彼の家の方が近いはずだ。道筋もよく知っている。
何もわざわざこんな遠いところまで来ることはない。
迷ったとしても、なぜ私の住むマンションまで来ることができたのか。

この謎は今も解けない。
彼も考えたが、納得のいく答えは見つからなかったようだ。

「帰って来てくれただけで、俺は満足ですよ」
サムの体を撫でる彼の顔は、とても嬉しそうだった。


犬の能力は、人間には計り知れないものがある。

そんな常識はずれの能力を見たら、この宇宙には、間違いなく「フォース」が存在するのではないか、とお伽話的なことを考えてみた。


そんなとき、STAR WARSかぶれとしては、こう言うしかない。


「フォースとともに あらんことを」



神話の国の不思議

2015-12-13 08:33:00 | オヤジの日記
前回と同じく私の経験した不思議な出来事を。

これは大学2年のときの出来事で、いまだに私の中で解決できない不思議な体験だった。

祖母の墓参りに、島根県出雲市に行ったときのこと。
このときは一人旅だった。

墓参りを終えたあと、私は島根県の名所「日御碕(ひのみさき)」に行くことにした。
「日御碕」には、(当時としては)東洋一高い灯台があった。
そして、海猫の繁殖地としても、知られていた。
中学3年の夏、祖母の納骨に来たとき、親類の人に一度連れて行ってもらったことがあった。

海猫の鳴き声と潮騒が奏でるハーモニーは、他の海とは違った趣で、何となく神々(こうごう)しい印象を持ったことを覚えている。

以前は車で連れて行ってもらったが、今回は「一畑電鉄」に乗って、一人で行こうと思った。

かなり昔のことで、うろ覚えであるが、「電鉄出雲市駅」から「川跡(かわと)」までは、10分程度。
「川跡」で乗り換えて、「出雲大社駅」まで、やはり10分程度。
そして、「出雲大社」から「日御碕」までは、路線バスで30分程度。乗り換え時間を入れて、1時間強といったところか。

昼食を摂ってから電車に乗った。
時刻は1時15分過ぎだった。
それは、駅のホームの時計を確かめたから覚えていた。
私の腕時計でも確認した。

普通に乗って、普通に乗り継げば、「出雲大社駅」までは30分もかからない行程だ。
乗り継ぎの時間も5分とかからなかった。

つまり、1時45分には、「出雲大社駅」に着く計算になる。

途中、電車が停まった記憶もない。
車窓の景色を見ながら、鼻歌交じりの、のどかな気分で電車に揺られて「出雲大社駅」に着いた。

かまぼこ型の美しい屋根を内側から見上げると、壁のくすみが窓から射す光と調和して、思わず見とれてしまった。
これが「旅情」というものなのだろう。
肩の力が抜けて、脳がアルファ波で一杯になったような気がした。

そして、ここから先は、「日御碕」までバス。
駅構内を出て、バスの時刻を確かめた。
乗り継ぎを考慮してダイヤが組んであれば、電車が到着してから、それほど待たずに乗れるバスがあるはずだ。

見ると、1時50分発の「日御碕」行きのバスがあった。
これに乗れそうだ。
そこで、自分の腕時計を見てみた。

2時25分。

えっ! 2時25分?
時計が狂ったか?
1時15分過ぎに「出雲市駅」発の電車に乗ったのだから、ここまで30分程度しかかかっていないはず。
私の感覚では、1時45分から47分くらいだ。

そこで、近くを通った人に時刻を確かめてみた。
「2時25分だね」

嘘だ。

「出雲市駅」からここまで1時間もかかるはずがない。
「出雲市駅」では、定刻通りに出発したのは覚えている。

途中、電車は停まらなかったことは確認した。
乗り換えもスムーズにいった。
ここまで30分程度しかかかっていないはずなのに、なぜ今「2時25分」なんだ。

もう一人掴まえて、時刻を聞いてみた。
「2時25分過ぎかな」

これは、どういうことだ。
時間の落差。
この空白の30分は、いったい…!

駅に戻って、もう一度駅員に聞いてみた。
「本当に、電車、遅れていませんでしたか?」

まったく正常運転だったそうだ。

これが、神話の国「出雲」で遭遇した不思議な出来事。


誰にこの話をしても、「おまえ、寝ぼけてたんだろ」と言われる。

しかし、私は真夜中に寝ぼけて「ごちそうさま」を言ったことがあっても、昼、寝ぼけたことはない。


得体の知れない寒さを体全体に感じた私は、停留所で立ち尽くした。


立ち尽くす私の耳元で「よく来ましたね」という祖母の声が聞こえた気がした。

もちろんそれは幻聴だったと思うが。



祖母が導いたもの

2015-12-06 08:49:00 | オヤジの日記
15年前に体験した少し不思議な出来事を。

15年前の初夏、横浜の得意先に行くために、渋谷から東横線に乗ったときのことだ。

朝は地獄のような混み具合の東横線も、昼間はすいている。
始発なら、急行でも悠々と座れる。

私が座ろうとした、桜木町行きの急行1両目も、思った通りすいていた。
そして、2両目寄りの座席に座って、文庫本を読み始めたとき、私の隣に人が座った。
気配から察すると、年配の男の人だ。70歳過ぎだろう。

電車に乗っているとき、隣に老人が座るのは、日常では当たり前のことだ。
だから、そのときの私は、ほとんど気にも留めなかった。

電車は定刻に走り始め、私は文庫本を読み進んでいた。
そして「代官山駅」を通過する寸前、隣から老人の声が聞こえた。
「久しぶりですよ、東横線に乗るのは」

まさか、私に向かって話しかけたとは思わず、私はそのまま文庫本を読み続けた。

「一番最初の結婚の時、菊名に住んでいましたからねえ。横浜で教師をやっていたんですよ」
その話し声に、誰も答えを返さないのを不思議に思って、私は隣を何となく見てみた。

70年配の丸顔の老人が私の顔を見て、微笑んでいた。
顔のシワは深いが、血色が良くて、健康そのものに見えた。

私の方を見ているということは、私に話しかけたということか。
しかし、本を読んでいる人に向かって話しかけるというのは、あまり常識的な態度とは言えない。
知り合いならわかるが、初めて見かける顔だ。

そもそも、東横線に乗るのは、年に数回しかない。
しかも、老人の知り合いは一人もいない。
私は少し身構えた。

「今の家内は3番目。つまりバツ2ですな。結婚するたびに相手は若くなる。今の家内は、23歳年下ですよ」

赤みがかった元気な顔は、奥さんが若いからか。
そう納得したが、なぜ私に話しかけたのか? その疑問は解けない。
老人特有の、「話したがり症候群(?)」か。
「息子の嫁が私につらくあたるんですよ…ウウウ(泣)」という、あれか。

しかし、この血色のいい顔には、そんな湿っぽさは微塵もない。
人生を楽しんでいる顔だ。
彼は構わず話し続ける。

「僕の連れ合いになった人は、三人とも島根県出身でしてね。いやあ、島根の女性は日本一ですな」
ここで、なぜか私の心臓は、ドクンと一拍早くなった。
何かの予感がした。
それが何かは、そのときはわからなかった。

「島根県は地味な県ですから、県庁所在地を知らない人がほとんどじゃないでしょうか。僕は県庁所在地の松江というところの出です。失礼ですが、あなたはどちらのご出身?」

「私は東京ですが」と言って、私は次のことばを言うのを少しためらった。
今度は、心臓の鼓動が心持ち早くなった。

老人はそんな私の顔を見つめながら、次の私の言葉を待っていた。
このとき、なぜか私はほとんど確信に近いかたちで、この先の成り行きを想像することができた。

老人の目の奥に、祖母の顔が見えたような気がしたからだ。

私は老人の目を見通すように、話を続けた。

「私の母と祖母は、島根県出雲の出身です」
そして、まるで重大な秘密を打ち明けるように、こう言った。
「私の祖母は、松江で師範学校の教師をしていました」

「ああ」
ここまで来ると、老人も話の筋が読めたのかもしれない。
納得するように、大きくうなずきながら、今までと違った少々かすれた声で、私に問いかけた。

「お祖母様は、M先生ですね」
「そうです」

それから、老人が「日吉駅」で降りるまで、私たちはこの不思議な出会いについて語り合った。

「僕は普段、見ず知らずの人に話しかけることはないんですよ。
むかし教師をしていましたから、人と話をするのは好きなんだけど、見ず知らずの人に話しかけるほど図々しくはない。若い人に嫌われたくないですからな。
しかし、今日はまるで導かれるように、あなたに話しかけてしまった。
不思議です。M先生が導いたとしか思えない」

聞いてみると、ご老人も、この東横線に乗ることは年に数回しかないという。

そんな二人が、同じ日同じ時刻に、隣り合わせで座る確率というのは、どの程度なのだろう。
しかも、ただ隣り合わせになっただけでなく、初対面で自分のことを話す確率というのは、どれくらいなのだろう。
それは、確率という味気なく薄っぺらな統計学の範疇を越えて、違う領域の出来事だったような気がする。


15年たった今も、そのご老人はご顕在で、私たちは年賀状と暑中見舞いだけのお付き合いを続けている。

そして、ご老人は、最初の暑中見舞いでこんなことを書いてきた。

「あなたのお祖母様は、公平な方でした。
今で言う『落ちこぼれ』の私を、呆れることなく、見捨てることもなく、他の生徒たちと同じように扱ってくれました。
自分でも気付かなかった僕の長所を、M先生は教えてくれた。
これが本当の教師というものです。
僕も教師をしていたから、よくわかりますが、簡単なようで、これが一番できないことなのです」



不思議な体験だった。

私が老人の話に付き合っていなかったら、私たちは永遠に交わることのない関係だった。
そんな押しつけがましい老人のことなど、電車を降りた途端に忘れていたことだろう。

誰かが書いたシナリオをなぞるように、老人と私は出会って、不思議な時間を過ごした。

それは、「偶然」と呼ぶには、お互いを導く糸が太すぎて、時空を超えた運命のようなものを感じた時間だった。


これを「奇跡」と呼んでいいか悩むところだが、そこに「祖母の力」が働いたのは間違いないのではないか、と今も私は思っているのである。