リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

立ち会ったひと

2017-09-23 14:57:00 | オヤジの日記

iPhoneが震えたのでディスプレイを見た。

 

知らない番号だった。

知らない番号の場合は、出ないようにしている。

しかし、このときは何か感じるものがあったので出た。

大学時代の同級生オノからだった。

オノに関しては、コチラに書いたことがある。

オノは、携帯電話を持っていない。

「彼女のを借りて、かけているんだ」とオノ。

そして、いきなり「結婚の立ち会いをしてもらいたいんだけど」と続けた。

 

結婚の立ち会い? 結婚式ではなく?

「結婚式なんかする余裕はないよ。婚姻届を出すところを見届けてほしいんだ。ケジメが欲しくてね」

立ち会いなんかしなくても、婚姻届が立派なケジメになると思うが。

「彼女が一人でも祝ってくれる人が欲しいって言うんだ。でも、俺の方には肉親はいないし、いま働いている総菜屋のオヤジさんに頼もうとも思ったけど、負担をかけるような気がしてやめたんだ。すると、マツしか残らなくてね。ダメかい」

めでたいことなので引き受けた。

 

墨田区役所に、一緒に行って、出すところを見届けた。

ただ、それだけのことだった。

お役所の人に、「おめでとうございます」と言われたパートナーのシズコさんは、涙を隠そうとしなかった。

「絶対に泣くと思ったから、今日はお化粧をしてこなかったんですよ」と面白いことを言った。

オノも泣きそうだった。

 

婚姻届の立ち会いだけでは素っ気ないと思った私は、二人にご馳走をすることにした。

オノの家で、寿司を振る舞おうと思ったのだ。

出前ではなく、私が握る素人寿司だ。

我が家では、よく寿司を握った。

我が家はビンボーなので、寿司ネタはほとんど野菜だ。ニンジンやエリンギ、カボチャ、パプリカ、カニかまなど。

しかし、今回は奮発して、魚も買ってきた。マグロの赤身、サーモン、ホタテ、オノの大好きなイカ、他に玉子と太巻き寿司を作る。

家でよく作るから、最近は重さ、形、シャリの空気の量をほぼ均一化できるようになった。

 

あらかじめ、ご飯は炊いておいてもらった。

しかし、完成までには一時間はかかる。だから、散歩ついでに駅前まで行ってきてくれ、とオノに言った。

これが終わったら、帰ってすぐ仕事をしなければならない。だから、ケーキを作る暇がなかった。

来るとき、駅前のケーキ屋にケーキを注文してきたので、それを取ってきてもらおうと思った。

正式な夫婦になってからの初めての散歩も兼ねて。

 

にぎり寿司は慣れているので、簡単にできた。太巻きは、具は玉子とツナ、カニかま、レタスだ。巻き簾は、おそらくないだろうと思ったので、自宅から持ってきた。

実は巻き寿司は苦手だ。うまく具が中央に寄らない。こんな大事な日に失敗したらケチがつくと思ったので、慎重に巻いた。でも、ちょっとだけ外側に寄った。

申し訳ねえ。

おすましは、素麺があったので、素麺にエノキダケ、三つ葉を入れたものを作った。

出来上がった頃、うまい具合に新婚さんが帰ってきた。

 

ケーキ入刀。

幸せそうな、そしてはにかんだ二人の笑顔がよかった。

その場面をデジタルカメラで撮って、じゃあ、俺は仕事があるので、と立ち上がった。

「え?」「え?」と二人は、いいリアクションで驚いてくれた。

 

「新婚さん、食べんしゃーい」と言って、私は消えた。

 

お幸せに。

 

 

 

さて、私事ですが、ヘモグロビンの数値が11.4まで劇的に回復した。

ですので、これから、娘と娘のお友だちのミーちゃんと東京駅から深夜バスで大阪に行ってきまする。

串カツを食いまくるのだ(ちなみに、串カツは東京でも食えると文句を言う人がいるが、食い物は空気感が大事だ。大阪で食うからこそ、串カツは串カツなのだ。わかんないかなあ)。

 

 

ああ、もう楽しみで仕方がない。

 


高田純次化

2017-09-17 06:12:00 | オヤジの日記

微妙な結果だった。

 

ヘモグロビンの数値が10.3だったのだ。

11に届かなかった。

昨日の土曜日は、夜行バスに乗って、娘と大阪に串カツツアーに行く予定だった。

私は、大丈夫だと主張したが、娘が「今回は延期しよう。向こうでなんかあったらヤバい。台風も来てることだし、来週まで待とう」とストップをかけた。

私は他人の言うことは聞かないが、娘の言うことは素直に聞く。

だから、延期することにした。

 

日曜日は、完全にオフの予定だったので、丸一日が空くことになった。

そこで、娘と立川ららぽーとに行くことにした(台風が来ても行く)。

娘だけではなく、娘のお友だちも一緒に行くことになった。

娘のお友だちのミーちゃんは、中学3年から高校1年にかけて、我が家に居候をしていた時期があった。

ご両親の離婚騒動に耐えられなくなって、我が家に避難してきたのだ。

ミーちゃんと娘は、同じ高校に進学した。

ちなみに、大学はお互い目指すものが違うので、違う大学に進んだ。

 

娘とミーちゃんは、顔も体型もよく似ていた。

双子に間違えられることは、しょっちゅうだ。

教師もたまに間違えることがあったという。

ただ、一番違うところは、娘は小食だが、ミーちゃんは大食いだというところだ。

タラコ1腹とゴマ塩で、米を三合も食うのである。

とても米が大好きな子で、米さえあれば、おかずは何でもいいというタイプだった。

ただし、こだわりがあって、味のついたチャーハンやピラフは嫌いだった。白米の味が純粋に好きなのだ。

食いっぷりは、ほれぼれするほどだ。

高校1年の4か月ほど、二人に弁当を持たせた。

娘は一段だったが、ミーちゃんの弁当は三段重ねだった。下二段が白米。それを毎日、米をひと粒も残さずに食べてくれた。嬉しかった。

 

居候をし始めた頃、ミーちゃんの衣類は、気を使って我々とは別に洗っていた。

しかし、「大変だから、みんなと一緒に洗ってくださいよ」と言われた。

洗った下着などを干していても、ミーちゃんは、まったく平気な顔をしていた。

それどころか、夏などは、娘と同じように下着姿で室内を平気で動き回った(私はパンイチですが・・・ガイコツのパンイチ・究極のクールビズ)。

娘がもう一人できた気がした。

中学3年の5月から高校1年の7月まで、ミーちゃんは我が家にいた。

合計で14か月。

 

私としては、娘のつもりでいたから、嫁に行くまで家にいてもらいたかった。

しかし、高校1年の7月に突然、立て続けに児童相談所と高校の校長から電話があった。

ミーちゃんの母親が、児童相談所と高校に相談に行ったようなのだ。

ミーちゃんは、父親と暮らしたかったが、ミーちゃんの親権は母親が得た。その結果はミーちゃんにとって不本意なものだった。

離婚調停は3か月で結論が出たが、その後も11か月間ミーちゃんは我が家にい続けた。

それが、イレギュラーな状態だということは私にもわかっていた。

しかし、ミーちゃんが帰りたがらなかったのだ。

 

児童相談所の人は、紳士的な言い方をしてくれたが、高校の校長はとても高圧的だった。

私を犯罪者扱いした。

「あんたには、常識がないんですか! これは、言ってみれば犯罪ですよ!」

犯罪を3回繰り返した(子どもを人質に取っているから、低能な教育者ほど強気だ)。

腹を立てた私は、モンスター・ペアレントになった(世間はモンスター・ペアレントに対して批判的だが、モンスター・ティーチャーの方が数が多いことを忘れている)。

では聞きますが、14か月間一度も挨拶に来ず、電話もしてこない母親は常識があるんですか。こっちは何度も電話しているのに、相手は出ないんですよ。父親に電話をしたが、「娘の好きにさせて」ですよ。それを知っていて、あんたは言っているんですか。この電話は録音してありますから、あんたを名誉毀損で訴えることもできますよ。犯罪という言葉を今すぐ撤回しなさい。

校長は、渋々だが謝ってくれた。

 

そのあと、ミーちゃんは「迷惑をかけてごめんなさい」と泣きながら頭を下げて、母親の元に帰っていった(迷惑なんかかけていないのに)。

全員でハグをして別れた。

そのあと、家族の誰もが、しばらく無口になった。

ミーちゃんのいない生活に慣れるまで、かなり時間がかかった。

しかし、母親と折り合いの悪いミーちゃんは、その後も月に最低2回は、我が家に泊まりにきた(いつかミーちゃんのお母さんに誘拐罪で訴えられるかもしれない)。

ミーちゃんが来ると、家が華やかになった。

そして、その度に、ミーちゃんが私に言った。

「パピーは、だんだんと高田純次化してきてるよね」(ミーちゃんは私のことをパピーと呼んだ)

「顔もそうだけど、テキトーなところと言葉に心がこもっていないところがそっくり」

 

そう言われると私は、いつも嬉しくなる。

20年前から言っていることだが、私の尊敬する人は、高田純次師匠、志村けん師匠、出川哲朗師匠、江頭2;50師匠だ。

口先だけで笑いを取らず、人の悪口も言わず、体を張って笑いを取る芸人さんが私は好きだ。

高田純次師匠に似ているというのは、最高級の褒め言葉だ。

嬉しい。

だから、その度にミーちゃんの頭をポンポンした。

ミーちゃんは「馴れ馴れしいんだよ」とは言うが、いつも顔は笑っていた。

 

私は、娘の結婚式とミーちゃんの結婚式では、号泣する自信がある。

これだけ濃密な時間を過ごしているのだ。

泣かない理由がない。

 

どうやら来週の串カツツアーに、ミーちゃんも来る気配だ。

アルバイト代が入ったばかりだというので、交通費は自分で出すという。

しかし、食費は私持ちだ。

きっと常識外れの数の串カツを食うのだろうな。

久しぶりにクレジットカードを使うことになりそうだ。

 

幸いにも、一週間延期したことで、楽しみが増えた。

 

ヘモグロちゃん、今度こそアゲアゲでお願いします(アゲアゲって、もう死語?)。

 


気まぐれなヘモグロちゃん

2017-09-10 06:27:00 | オヤジの日記

看板が、突然友だちになった。

 

国立駅まで歩いていく途中で、世界がクルンと回った。

看板にしがみついたのだ。

 

それを見ていた若い女性が心配して、「大丈夫ですか」とミネラルウォーターを渡してくれた。

飲んで、復活した。

 

ありがとうございます。

 

得意先での打ち合わせを終えて、抱きつきやすい看板を探しながら、掛かり付けの医院に行った。

 

「ヘモグロビンの数値が8まで下がってますよー!」

女医さんが、真ん丸目で大袈裟に驚いた。

 

「これは、入院ですね。検査をしましょう」と深刻に下まぶたを覗き込まれた。

 

いや、私は、入院と東急インは嫌いなんですよ。

昔、大阪の東急インに泊まったとき、寝起きドッキリに遭ったんです。

寝ていたら、いきなり掃除のオバちゃんが入ってきたんです。

連泊で、「ドント・ディスターブ」の札もかけていたのに、いきなりですよ。

どんな従業員教育をしているんでしょうかねえ。

あれ以来、私は東急インは無理です。

おや、女医さんが険しい顔をしているぞ。

まさか、女医さんも東急インに恨みがあるとか。

 

「では、3日連続の点滴と普段の倍の鉄剤を飲んでください。本来なら、胃カメラや大腸内視鏡をやりたいところですが、少し様子を見ましょうか」

険しい顔は、まだ続いていた。

 

3年前の6月。

ヘモグロビンの数値が5.9まで下がったことがあった(一般の男性の平均値は14らしい)。

内臓の出血を疑われて、胃カメラ、大腸内視鏡、MRIなどという高尚な検査をしていただいた。

そのときも「入院! 死にますよ!」と脅かされたが、今回のように東急インを持ち出して、入院を免れた。

内臓からの出血は見当たらなかったので、医師も入院を強行できなかったようだ。

5日連続の点滴と1回の輸血で、ヘモグロビンが11まで持ち直した。

しかし、それ以来、私は貧血用の鉄剤が手放せなくなった。

鉄剤を飲んだことがない人にはわからないでしょうが、ウンチがマックロクロスケになるのですよ。

あ、食欲がなくなりましたか?

 

今回は、3日後に検査したら、数値が9.6まで上がった。

これは、バンザーイじゃないですか。

「バンザイなんかじゃありません!」と女医さんに怒られた。

「鉄剤をいつもの2倍。それと、絶対安静。栄養のあるものを摂ってください。この数値では、心筋梗塞と脳梗塞のリスクが高まりますから、ゼッタイに無理をしないでください」

 

はい、無理をしない程度に、昨日の夜、5キロウォーキングしてきました(本当は走りたかったが、女医さんの顔を立てた)。

ウォーキングのあとの爽快感がたまりませんなあ。ビールも美味いし。

4日連続、自宅で丼パーティをして、栄養も付けたし(エビ天丼、鶏天丼、かき揚げ丼、サンマ蒲焼き丼)。

 

ただ、ウンチがねえ・・・・・。

 

また、月曜日に血液検査です。

11まで上がれば、ラッキー。

 

来週の土曜日は、大学4年の娘と夜行バスに乗って、大阪に行く予定だ。

串カツを食いまくるのだ。

 

それは、娘が高校1年からの恒例行事だった。

毎年続けていたが、昨年は、娘が韓国に留学していたので行けなかった。

だから、今年はゼッタイに行きたい。

気まぐれなヘモグロちゃん、ゼッタイに11まで上がってくれ。

11まで上がれば、ノープロブレムだ。

 

一週間、いい子でいますから、ぜひ上がってください。

 

ヘモグロちゃん、よろしくお願いします!

 

 


アカペラで見送る

2017-09-03 06:29:00 | オヤジの日記

ヨメの大親友が死んだ。

 

高校3年間、同じクラスだった二人は、進学した短大も同じ、就職先も同じ大手の信販会社だった。

三人兄弟の長女だったナミエ。三人兄弟の末っ子のヨメ。しっかり者のナミエとお気楽なヨメ。

二人とも気が強いので、絶えず喧嘩はしたが、仲直りも早かった。つまり、強い絆を持った大親友だった。

私もナミエとは気が合った。

3人で、よく旅をした。

北海道函館、青森奥入瀬、仙台七夕祭り、草津でスキー、伊豆半島、富士山、黒部立山アルペンルート、上高地、岐阜高山、京都大阪神戸、北九州、奄美大島など。

私が27歳のときの正月、岐阜高山の本陣平野屋別館で、「なんで結婚しないの」とナミエに聞かれた。

もちろん、したい気はあったが、ヨメもヨメのご両親も巨大宗教の信者だった。ご両親が、自分の娘の夫には同じ信者を、と希望したので、大反対されたのだ。

「それなら、駆け落ちしかないね」とナミエが、仰天するようなことを言った。

 

愚かな私たちは、ナミエのその提案に乗った。

当時法律事務所に勤めていた私は、法律事務所のボスの弟さんが神戸で法律事務所を開いているのを知り、少し武者修行に出させてください、と非常識なお願いをした。ヨメが勤めていた会社は神戸に支社があったので、異動願いを出した。

神戸に駆け落ち。

ナミエは1か月に1度は必ず神戸に来た。そして、毎回、3人で有馬温泉月光園に泊まった。

その後、ナミエは、我々より2年遅れて結婚した。相手は信用金庫に勤めている人だった。

子どもは、男の子を3人授かった。

我々は、家族ぐるみの付き合いをした。

ナミエのところは、音楽一家と言ってよかった。

ナミエがピアノ。旦那が、マリンバ。長男次男がギター、三男もピアノが得意だった。

家族で、よくサザンオールスターズのコンサートに行っていた。

 

昨年の10月終わり、ヨメが、目を泣きはらして帰ってきた。感情の起伏が激しいヨメは、些細なことでも泣いたが、泣きはらすということはなかった。

私の仕事部屋に入ってきたヨメの顔は、私が初めて見る顔だった。涙ですべてを洗い流したのか、ヨメの顔は無表情だった。人は「無」になると、危険な空気を醸し出すようだ。背筋が寒くなった。

ヨメは、私の前で「ナミエが・・」と言ったあと、しゃがみ込み、膝を抱えた。

そして、私を見上げて震える声で言った。

「ナミエが手術するって・・・とても確率が低いんだって」と顔を両手で覆った。ナミエの夫に聞かされたという。

私も蒼ざめた。

 

だが、そのときの手術は奇跡的に成功した。

それを喜んだ私たちは、普段は500円程度のワインしか飲まないのに、3500円のワインを買って乾杯した。

ナミエは快方に向かい、今年の春は二家族でピクニックに行った。

そのとき、私たち夫婦は、とても感動させられた。

ナミエが、ナミエの息子三人とアカペラを歌ったのだ。

ナミエの長男の結婚式のときに歌うために、かなり練習したらしい。

曲は斉藤和義氏の名曲「歌うたいのバラッド」だった。

ナミエの長男がボーカル。ナミエがコーラス。次男がベース。三男がボイスパーカッションだった。

まわりの人たちも聴き入って、終わったら大きな拍手をしてくれた。

長男のボーカルが透き通っていて、よかった。愛を声にしたら、こうなるんだと思った。

 

今年の7月半ば。ナミエの容態が悪化した。転移したのだという。

もう手術はできない、と言われた。

ヨメが言う。

「実はね、去年の10月から、ナミエも私も覚悟していたの。いつもは気丈なナミエが、悲観的なことばかり言っていた。予感はしていたのだと思う。私は否定したけど、私も嫌な予感がしていた。一番当たってもらいたくない予感って、当たるものなのかもしれない」

ヨメの顔には、表情がなかった。

 

悲しい葬儀の日。

出棺前、夫の挨拶のあとに、息子たち三人が、アカペラを歌った。

生前にナミエは言っていたという。

「お葬式では、あの歌を歌ってね」

「歌うたいのバラッド」だ。

ナミエの長男がボーカル。次男がベース。三男がボイスパーカッション。

ナミエのパートは、ヨメが歌った。

いつ練習したのか、私にはわからない。そんな時間は、なかったはずだ。

だが、ヨメは歌った。

 

そして、私には、ヨメの歌う姿がナミエに見えた。

ヨメは、完全にナミエと同化していた。

歌うヨメは、無表情ではなかった。

ナミエが乗り移っていると思った。

歌い終わって、誰もが嗚咽した。

私の目からも水が出たが、ナミエの姿をしたヨメを目に必死で焼き付けた。

 

ヨメは、そのあとも気丈に振る舞っていた。

無表情になることは、もうなかった。

昨晩も笑顔を見せた。

大親友は失ったが、ナミエはきっと、今もヨメのすぐそばにいた。

 

不謹慎な言い方になるかもしれないが、ナミエの夫や息子さんたちよりも、確実に私は、ヨメの方がナミエを愛していると思った。

ナミエの親兄弟よりも、長い間、濃密な関係を築きあげてきたのだ。

 

 

「歌うたいのバラッド」の最後の歌詞、「愛してる」が、今も耳を離れない。