リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

BoA

2011-07-30 09:25:50 | オヤジの日記
K-POP花ざかりの今、極端に飽きっぽい性癖を持つマスメデイアやリスナーから、忘れられてしまった女性歌手がいる。

BoAだ。

AVEXという、お手軽音楽集団は、簡単にCDを作ってバラまき、売れたら有頂天、売れなかったら途端に熱意が醒める、ということを繰り返すアマチュア的な会社である。

そんな会社を選んでしまったBoAの不幸。

私が「BoAは、リスペクトできる歌手だよ」とまわりに言うと、必ず否定的な意見が帰ってくる。

それは、BoAをアイドル歌手としてしか扱わなかったお手軽音楽集団の浅い戦略に、すべて責任がある。

与えられた楽曲が、BoAという歌手の天性の素材を殺してしまっていた。
そして、おそらく日本的な悪弊に染まった歌唱方法をBoAに押し付けたために、それがBoAが持つ天性のリズム感を削ぐ結果になった。

日本語は元々リズムに乗りにくい言語である。
まともに韻を踏めない日本語のラップなどを聴けば、そのことは簡単に理解できるだろう。

ただでさえ、リズムに乗りにくい言語を、間延びしたメロディに乗せて歌うから、モタモタ感が拭えない歌になる。
さらに、なぜか、フレーズの最後の音を無闇に引き伸ばすから、よけいリズムが損なわれる。

例えば、和田アキ子などは、歌がうまい歌手と評価されているが、私には言葉のモタモタしたリズムのなさと、無駄に伸ばす最後の音が耳障りなので、少しも上手に聴こえない。
日本人は、短絡的に、声量があれば歌が上手い、と思う人がなぜか多い。


MISIAと比べると、それがよくわかる。
MISIAは、伸ばす音にもそれぞれ抑揚をつけてリズムに乗せている。
言葉の一つ一つをはっきり表現しているから、モタモタ感がない。
一流の歌手というのは、そういうものだと思う。


BoAは、天性の才能を持った優れた歌手だが、お手軽音楽集団のプロデューサーが、日本語のモタモタが好きな人だったようで、彼女のハスキーながらフラットに伸びる声を活かすことができず、「普通の日本人歌手」に育ててしまったのだ。


BoAの本領。
それは、そのハスキーでフラットに伸びる声と、体に染み込んだリズム感である。

14、5歳の頃のBoAのハングルや英語で歌い踊るMV(日本ではPV)を見て、私は目が釘付けになった。
そこに、紛れもなく優れた音楽の表現者がいたからだ(まだミドル・ティーンなのに)。

リズムに乗って躍動する若いアーティスト。
これが、あのBoAかと目を疑った。

日本語を歌うBoAには、ほとんど感じることがなかった爽快感が、そこにはあった。
全身でリズムを表現するアーティストがいた。


昨年、BoAは、母国で5年ぶりとなるアルバムをリリースした。

それを聴くと、同じバラードでも、魅力的なハスキーな声が一つ一つの音を正確に表現しているのを感じて、やはり爽快になるのだ。
ダンスナンバーは、日本語で感じたモタモタがひとつもなく、一音一音が、気持ちよく切れていた。
つまり、最高のリズムを刻んでいた。


アルバム全編を聴いて、私は思う。
BoAは、日本では、その実力の半分も出していなかったのだ、ということを。

(それが、BoAのやる気の問題なのか、あるいは、お手軽音楽集団の制作力の問題かどうかは、わからないが)



米米TUBE

2011-07-26 06:06:01 | オヤジの日記
米米CLUBは、人気バンドだった。
TUBEは、今も人気があるようだ。

米米CLUBは、ファンキー・ミュージック。
TUBEは、ロックに括られているらしい。

しかし、私には、この二つのバンドのボーカルは、どちらも音楽がわかっていない、としか思えないのである。

具体的な指摘をすると、二人とも、フレーズの最後の音を引きずりすぎる。

ロックやファンキー・ミュージックで、フレーズの最後の音を引きずっていたら、間延びしすぎて、リズムに乗れないだろう。

多くのロックは、意図的なものを除いて、フレーズの最後の音は伸ばさない。
きっちりと切る。
あるいは、伸ばしたとしても、音階を変えることが多い。

フレーズの最後の母音と次のフレーズの最初の母音が重なったときは伸ばすことがあるが、これは例外である。


それなのに、TUBEのヴォーカルと米米CLUBのボーカルは、最後のフレーズを伸ばす回数が多い。
次のフレーズが来ても、引きずっていることがあるから、まったくリズミカルに聴こえない。

だから、私には、二人の歌が、演歌か民謡にしか聴こえないのだ。

特に米米CLUBのボーカルは、ネチネチと粘る声質を持っているから、バックのファンキー・サウンドとまったく合わない。
ボーカルだけが、浮いて聴こえる。

TUBEのボーカルは、粘ってはいないが、自分の声量によほど自信があるのか、同じ音程のまま音を引きずる度合いが多い。
彼らは、夏のバンドと言われているらしいが、無闇に音を引きずるその声は、少しも夏の眩さを感じない。


彼らは、ロック・バンドとファンク・バンドではなかったのか?


演歌ロック、民謡ファンクと言ってくれれば、私は納得するのだが。



ファニー・カンパニー

2011-07-24 08:38:26 | オヤジの日記
伝説のバンド・キャロルと同じくらいの時期に、ファニー・カンパニーというバンドがデビューした。

当時、ムッシュ・かまやつがDJをしている番組があって、キャロルが、まずムッシュお薦めの新人バンドということで出演した。

ムッシュの「目指すは、ビートルズかな?」という問いかけに、矢沢永吉は「いや、僕たちはあくまでもキャロルを目指してますから」と、お馴染みの矢沢の口調で、力強く答えた。

その後、ムッシュがどんな質問をしても「僕たちキャロルの音楽は・・・」で始まる矢沢の主張に、ムッシュが苦笑していたのを覚えている。

日にちを置いて、ファニー・カンパニーが出た。
「どんな音楽を目指しているの?」というムッシュの質問に、ボーカルの桑名正博は、「俺たち、目標なんてありませんわ。俺たちは、ライブバンドなんで、お客を目の前にして歌うことが、好きなんですよ。だから、客によって、同じ曲でも全く違う曲になってしまうんですわ」と屈託のない調子で語っていた。

キャロル・ブランドにこだわる矢沢と、ただただライブにこだわるファニー・カンパニー。

デビュー・アルバムを聴き比べると、外側の衣だけがロックを装ったキャロルと、骨太で荒削りなファニー・カンパニーの音作りは、まったく対照的と言ってよかった。

ドライブ感あふれるギターと、ソウルフルな桑名正博のボーカル。
ほとんどが大阪弁で歌われる、どこかルーズなファニー・カンパニーのサウンドには、ルーズではあったが、そこには間違いなく「魂」がこもっていた。

つまり、ロックだった。

同じようにロックン・ロールを模倣していながら、キャロルは形だけがロックで、根本にあるべきはずの「ロックの魂」が見つけられなかった。
おそらく、オリジナリティにこだわるばかりに、曲に「魂」が宿らなかったのだろう。

それに対して、ファニー・カンパニーは、オリジナリティにはこだわらずに、「俺たちのやりたいことをやる」ということに徹していたから、その単純さが、彼らの歌に「魂」を与えた。

たった2枚のオリジナル・アルバムを出しただけで解散したファニー・カンパニー。
おそらく、ほとんどの人が、その存在を知らなかったと思う。

メンバーの中に、一人でも矢沢永吉のような商売人がいれば、名を残すことができたかもしれないが、彼らは心底ロックンローラーだったから、疾走しただけで終わってしまった。


野暮ったく疾走するだけのロックンロール・バンド。

私は、そんなファニー・カンパニーが、好きだった。



カリスマ・永ちゃん

2011-07-22 06:48:45 | オヤジの日記
なぜ売れているのか、なぜ売れたのか、わからないアーティストというのが、いると思う。

私にとって、それは、カリスマ・矢沢永吉だ。

私は、音楽を聴くことなしに、批判はしない。
AKBやエグザイル、SMAPの歌は聴かないから、批判しないし、批判できない。

しかし、矢沢永吉の作る曲は、むかし聴いたことがある。
永ちゃんを神と崇める友人からレコードを借りて聴いたことがある。

まずは、キャロル。
伝説のバンドだ。

ロックンロールと言いたいのだろうが、そのサウンドは、私にはロックンロールに聴こえなかった。

「ロックの魂」がない。

サウンドは、確実に英国ロックの模倣だ。
メロディも、そう。

変な喩えだが、私には、フライドチキンを食べたのだが、いつまでたっても衣を食うばかりで、最後まで中身にたどり着けなかった物足りなさが残った。
衣は洋楽ロックかぶれで、本家のチキンがない音楽。


その後、キャロルは解散して、矢沢永吉は、ソロになる。
「I LOVE YOU,OK」というアルバムを出した。

これも、友人に借りて、聴いた。

これは、確実にロックじゃなかった。
アメリカの寂れた保守的な音楽を踏襲して、全編が老化した、あるいは退化したサウンドに終始していた。

外国のプロデューサーがプロデュース。アレンジも外人がしているのだが、途中で匙を投げてしまったのではないか、と思えるような投げやりさを感じさせる仕上がりになっていた。
声も演奏も、悲しいくらい薄いのだ。

ソロ・デビューアルバムで、こんな老成したものを出す必要があったのか。
ロスで録音したというが、その意味が、全く感じられない「ウェストコースト」の香りのしないアルバムだった。

「凡庸」という表現が、一番ピッタリくるアルバムだった。


その後、「THE STAR IN HIBIYA」というライブアルバムを、やはり友人から借りて聞いた。

これも衣だけが厚くて、中身のないパフォーマンスの詰まった似非ロックの観が、拭えなかった。
バックのサポートメンバーである、高橋幸宏、高中正義、後藤次利だけが目立ったアルバムだとも言えた。

それ以来、ガッカリしたくないので、矢沢栄吉のアルバムは聴いていない。


矢沢栄吉は、いま幾つかのCMに出ている。

それを見て、私は思うのだ。

彼は、ロック・ミュージシャンではなく、アーティストでもなく、儲かりまっかの「商売人」なのだと。
そして、特定の人々だけのカリスマなのだと。


だから、おそらく、彼はこれからも、そんなカリスマであり続けるのだろう。



ラブ・サイケデリコ

2011-07-21 11:13:13 | オヤジの日記
LOVE PSYCHEDELICOの音楽を初めて聴いたとき、「ああ、ビートルズがいる」「たまにギターフレーズがジミー・ペイジ調になる」「歌詞に少しだけ、ボブ・ディランの香りがする」と思った。

つまり、骨の髄まで、1960~70年代のロックテイストを持ったユニットだと思った。

デビューアルバムが、「THE GREATEST HITS」。
確かに、洋楽のヒット曲の要素が、密度濃く詰まったアルバムだった。

フレーズのあちこちに隠れる、「いつか聴いたような」という既知感が、洋楽ファンの郷愁を誘って、アルバムは、150万枚以上のセールスを記録した。

日本の洋楽ファンにも受けたが、おそらく海外の日本音楽好きの人にもネイティブな英語と、独特な日本語の歌唱は、耳に馴染んだのではないかと思う。

海外でも売れる要素を持ったユニットだと思ったが、私の知る限り、海外に積極的に進出したという話は聞いていない。
いいレコード会社とプロモーターを得れば、それなりの注目を浴びる音楽性は、持っていると思うのだが、音楽を聴く限りでは、あまりガツガツしていないサウンドなので、ご本人たちも、ガツガツしていないのかもしれない。

私がプロデューサなら、イギリス人の実力あるサポートメンバーを揃えて、大規模のロック・フェスに参加することを選ぶ。

今の音楽スタイルを崩さず、英語と独特の日本語で、力業(ちからわざ)で押し切るパフォーマンスを見せたら、ゴツい海外のロック・ファンの度肝を抜かせることができると思うのだが、それは妄想が過ぎるだろうか。


イメージとしては、ガツガツしているように見えないLOVE PSYCHEDELICOは、今のままガツガツせず、洋楽テイストが好きなファンのためだけに、曲を作り続けるのだろうか。

それは、LOVE PSYCHEDELICOらしいとも言えるが、「才能の出し惜しみ」にも思える。



LOVE PSYCHEDELICOは、どこへ向かっていくのだろうか?