リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

神の懲罰を受けた国

2013-05-26 08:27:00 | オヤジの日記
韓国の「サムスン」系列の中央日報という新聞が、広島・長崎への原爆投下を「神の懲罰であり人間の復讐だ」と論評したという記事をネットで見た。

今回の中央日報の記事は、戦前の日本の細菌戦研究部隊「731部隊」にこじつけたものだったらしい。
それは、安倍首相が最近、被災地視察したときに乗った自衛隊訓練機の機体番号がたまたま「731」だったことに反応して、それを「過去の大戦の侵略美化」と騒いだというのだ。

記事を書いた人は、有名な論説委員らしいが、ここまで非論理的なこじつけで「神の懲罰」などと断定されると、申し訳ないが、パラノイアではないかと疑いたくなる。


原爆を作ったのは神ではない。
人間だ。
そして、投下のボタンを押したのも人間だ。
神ではない。

まして「731部隊」と航空機の機体番号「731」と神は、何の関係もない。

その過程に、神につながるものなど何もない。
それが、論理的思考方法というものだ。

もし日本の新聞が、朝鮮半島が38度線を境に分かれたのは「神の懲罰だ」などと言ったら、世界中から笑い者にされる。

朝鮮半島が南北に分かれたのは、アメリカとソビエトの対立によるものである。
自由主義と社会主義。
それは、大国のイデオロギーが生み出した結果としての「38度線」だ。

そこに、神などいないことは、まともな論理を持った人だったら、すぐにわかる。

恥ずかしいから、誰もそんなことは言わない。

しかし、日本に関しては何でも批判していい風潮の昨今の韓国では、その恥ずかしいことが平然と論議される。

たった一人の非論理的パラノイア的意見が、多くの人に当たり前のように受け入れられて、増殖したパラノイアが、日本を「神の懲罰を受けた国」にする。

しかし、この「神の懲罰を受けた国」に、毎年多くの韓国人が観光に来て、ミュージシャンや俳優もたくさん訪れて、円、ウォンを落とし、円を稼いで帰っていく。

「神の懲罰を受けた国」に、家電製品を売りつけ、ドラマ、映画を売り込む。

「神の懲罰を受けた国」など相手にしなければいいのに、と思うのだが、金儲けとなると「神の懲罰を受けた国」は大きなお得意さんだから、彼らは金儲けの論理で、それを正当化する。


「神の懲罰を請けた国」は、なんとも都合のいい使われ方をする国ではないか。


要するに、論理性は、非論理性には敵わないということか。


地雷を踏んだ橋下氏

2013-05-19 07:30:00 | オヤジの日記
維新の会が、右往左往している。

なぜ今ごろ、従軍慰安婦問題という「地雷を踏む」ようなことを橋下徹氏が提議したのか、理解に苦しむ。

橋下氏の今までの手法は、かつての小泉純一郎元総理のように、無理矢理抵抗勢力を作って、それに立ち向かうポーズをして有権者の興味を惹くというものだった。

それは、既得権にしがみつく権力的なものや閉塞感を漂わせた社会に対して不満を持っていた人の琴線をくすぐることで、何かしらの期待を政治家に対して抱かせる手法だった。

勢いのある、ワンフレーズの言葉。
あるいは、耳に心地よいキャッチコピー。

私の個人的な感想だが、そのような言動をする人を日本人は好むような気がする。

小泉純一郎氏、長嶋茂雄氏、北野武氏、石原慎太郎氏、そして橋下徹氏。

彼らは、キャッチコピーを作るのは上手だが、その後に続く本題を聞いてみると、キャッチコピーを展開するほどの理論性はなく、唯我独尊的、あるいは自己陶酔型の意見を開示していることが多い。

その方式は、国内では通用しても、彼らに対してシンパシーを持っていない海外の理詰めの為政者やマスメディアには、通用しないのではないだろうか。


歴史問題、侵略問題は、国によって定義が異なる「自己都合」のテーマだと私は思っている。

とりわけ、戦争に勝った国は敗戦国に対して、永久に心理的に優位でいられるものだ。
だから、彼らに無理に議論を仕掛けるのは、賢いやり方とは言えない。

人間の心理として、勝者は、いつまでも勝ち誇りたいものだ。
その歪んだプライドに、無理に挑む必要はない。

どの国だって、為政者が劇的に変われば、歴史問題、侵略問題は、違うステージに行くか、「自己都合」で定義が180度変わることもあり得る曖昧なものだ。
そんな曖昧な定義に対して、ムキになることはないのではないか。

歴史問題は、長い期間をかけて歴史に埋もれさせた方がいい。

アメリカが奴隷解放を綺麗事の歴史にしたように。
イギリスがアヘン戦争を列強各国の侵略戦争の中に埋もれさせたように。
そして、欧州列強が、アフリカ切り取り合戦によって作り上げたアフリカの負の遺産を知らんぷりしているように。

従軍慰安婦問題は、歴史に埋もれさせるには、まだ新しすぎるテーマだ。
無理に掘り起こす必要はない。


今回、国内でしか通用しない理論、手法をとって、物議をかもした橋下氏。

彼が、キャッチコピーだけの政治家ではないことを示すには、今回のことはいいチャンスかもしれない。

ネットの記事で見る限り、氏の言動は右往左往、朝令暮改している。
何があっても受け入れる橋下シンパに対しては強気の姿勢は有効でも、このままでは理詰めの「自己都合」を主張する他国の政府、メディア相手には、分が悪いのは間違いない。


この窮地を多少の傷だけで乗り切れたら、彼の政治家としてのステージは、確実に一つ上がるのだが。

剛力彩芽

2013-05-12 08:31:21 | オヤジの日記
同業者との飲み会で、剛力彩芽が気に入っている、と言うと5人の同業者から一斉に「どこが!」と突っ込まれる。

なかなか心地のいい反応である。

我が家に遊びにくる高校3年の娘の友だちに、「剛力彩芽、可愛いよね」と言うと、娘以外の5人から、「ちっとも!」と全否定される。

それも心地いい。

同業者は、30歳から56歳までの男。
娘の同級生は、17~18歳の女子。

理由は、ほとんど伝説化されたもの。
「だって、事務所のごり押しじゃないか」

しかし、ごり押しというなら、某男性アイドル事務所や大人数ガールズグループたちだって同じだ。
ジャンルは違うが、某野球集団だって、新聞社とテレビ局のごり押しがあるから、人気がある。
ただ、彼らがアイドルたちと決定的に違うのは、一軍の選手たちは、プロとしての力量を持っていることだ。

アイドルたちの多くは、発展途上だ。

しかし、事務所の力関係で、彼、彼女たちは、プロのレベルに達していなくても、人気を得ることができる。

もちろん、そんなことは、本人もわかっているだろうし、ファンの方たちも同様だろう。

ファンは、わかっていて応援する。
本人も、ファンの後押しを受けて、プロレベルに達するように努力する。

そうやって、かなりのハイレベルに達したアイドルがいる。
ハイレベルではないが、欠かせない存在になった人もいる。

それは温かい応援があるからこそ、できることだと思う。

しかし、いま、剛力彩芽さんは、ネット媒体の中で、否定的な意見を寄せられることが多いような気がする。
ネット社会は、普通の社会と違って、少数の否定意見が幅をきかす世界だ。

それは、ネットの中で、そういう「否定の道筋」を持った人が多くいるからだろう。

「どうせ事務所のごり押しなんだろ」

そのことばが、あちこちで共鳴して、ネットでは、その意見や批判が、同じ道筋に乗って「ごり押し」という箇所に集中する現象が起きている。
意見の偏ったネット社会の当たり前の現象、と言っていい。

少し話はそれるが、たとえばお笑い芸人さんや女性タレント、女性議員などが、ネットの人たちの考えと違う話や行動をすると、ブログやツィッターが炎上したりする。

同じことをイケメン俳優やイケメンタレントがしたら、炎上することはないのに、芸人だと、する。

それもきっと、そんな道筋を作った人が、ネットの中に数多くいるからだろう。

その道筋に乗りたい人が、意味もなく批判し、炎上する。

要するに、「嫌い」という感情を、その道筋に便乗して伝えたいだけなのだと思う。

その「嫌い」という感情を、私は否定はしない。
「好き」「嫌い」は、人間の感情として、当たり前すぎるほど、わかりやすいものだと思うからだ。

「剛力彩芽のどこが、可愛いの?」

可愛いから可愛い。

それに、理由はない。

それはおそらく、「嫌い」という感情に、明確な理由がないのと同じだ。

ごり押し、などというのは、理由にならない。
前半に書いたように、どれも事務所の力関係で「ごり押し」が発生するのだから、剛力彩芽さんだけに「ごり押し」を適用する理由がないからだ。

「誰それが好き嫌い」というのは、人の感情として、当たり前すぎるほど当たり前なものだ。

だから、剛力彩芽、可愛いよね、という私の意見が全否定されても、私は一向にかまわない。
むしろ、心地よささえ感じる。


ただ………数ヶ月前、何かの記事のコメント欄に、「剛力彩芽なんてさあ、渋谷を普通に歩いていれば、50メートルに一人の割合で、あれ以上の可愛い子に会えるよ」というのがあった。


そのコメント主は、相当に運のいい人だと思う。

私は、仕事の関係で頻繁に渋谷に行くが、50メートル歩いても、剛力彩芽さん以上に可愛い子に、ほとんど出会ったことがない。


きっと……私には、運がないのだろう。



日本国征服

2013-05-05 10:48:39 | オヤジの日記
「日本国」という名の山があるとは、知らなかった。

標高555メートルだという。
ゴーゴーゴー、とは、できすぎた高さではないか。

その555メートルの「日本国」が、小さな騒動を起こしているというのをネットの記事で読んだ。

新潟県村上市と山形県鶴岡市にまたがるゴーゴーゴーの小さな山。
5月5日の山開き前に、新潟県が登頂に成功した人に「日本国征服証明書」という登頂証明書を出す企画を発表したら、約50件の批判が寄せられたという。

村上市では、30数年前から、ゴーゴーゴーの山の高さにちなんで、5月5日の山開きを「征服登山」と呼んでいたらしい。
その延長線上に、今回は「日本国征服証明書」という登頂証明書の発行を企画した。

「出来のいいシャレ」とは思えないが、私の感覚では、それは「悪ノリ」とも言えない。
市のオッサン、オバサン、若者たちが、それなりに知恵をしぼって、地域振興を真剣に考えた結果だと思うのだ。

だが、「征服という言葉には違和感がある」「(尖閣問題など)領土問題で揺れている時期に不謹慎」などの否定的な意見が、メールや電話で寄せられた地域振興局は、その反応に慌てて、証明書の名を「日本国登頂証明書」に急遽変更した。

50件の否定意見は、重いのか軽いのか。

どんな小さな意見も汲み取るのが民主主義、という観点に立つなら、50件は、相当に重いと見ることもできる。

しかし、その企画に肯定的な人は、おそらく「いいね」などというメールは寄越さないだろうから、強い肯定も弱い消極的肯定も含めて、「まあ、いいんじゃねえの」の意見がほとんどだと思う。
しかし、その無言の肯定は、表面には出てこない。

ただ、50件の否定の意見の陰には、「百倍の否定が存在する」という考え方もある。

しかし、それは統計学的にはアバウトすぎて、それでは、否定的な意見への評価が高すぎるという問題点を残す。

「富士山征服」「エヴェレスト征服」などは、昔から普通に使っている。
「槍ヶ岳征服」などとも言う。

だったら、「日本国征服証明書」だって許容範囲ではないか、と私は思うのである。

「(尖閣問題など)領土問題で揺れている時期に不謹慎」というご意見は、もっともらしく聞こえるが、市地域振興局は、登山成功の証として、前例に倣って「征服」という文字を使っただけである。
まったく次元の違う話だ。

それを領土問題に絡めて批判するという感覚が、私にはとても威圧的な恐ろしいものに感じられる。

「登山成功」を「征服」と表現する話と「領土問題で揺れている時期だから不謹慎」との意見には、接点がない。
それは、ただ単純に「征服」という言葉に反応しているだけではないか。

「日本国」というのが555メートルの山だと気づけば、ただの「笑い話」で終わる。

「おれ、日本国征服したんだぜ」
「エーッ! ほんとかよ! すげえな!」
「まあ、山なんだけどな」
「ハハハ」

領土問題と登山成功の話は、全く関係がない。
それを結びつける人の意図は、どこにあるのだろう。

無理矢理「領土問題」と関連づけて、騒ぎたいだけのように思える。
ただ「煽りたい人」なのか。


それは、私にはまったく理解できない感覚である。