リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

若旦那

2011-10-31 06:52:05 | オヤジの日記
女性のレゲエ歌手と言えば、MINMI。

メジャーデビュー前から注目していた。

2002年頃だったと思うが、J-WAVEで、その艶のある声を聞いたとき、軽い衝撃を受けた。
特に高音の艶が、耳に心地よかった。

リズミカルで伸びやかな高音は、かなりの武器になる、と思った。

デビュー・アルバムとデビュー・シングルは、レゲエの分野としては、かなりのヒットになった。
テレビなどの露出は少なかったが、確実にMINMIは認知されたし、同時にレゲエも、それなりに認知された。

MINMIと同時期にデビューしたグループに湘南乃風というのがいる。
こちらも、レゲエに分類されているようだ。

熱狂的なファンも多くいると聞いている。

湘南乃風ファンの方には、申し訳ないが、「覇王樹」や「巡恋歌」「睡蓮花」を聴いて、そのあまりにもパターン化した音楽に、私はどうしても馴染めない。

あるいは、どのミュージシャンもパターン化はしているものだから、彼らの音楽が私好みではない、と言い替えたほうがいいかもしれない。


私は加藤ミリヤが好きである。
その加藤ミリヤの歌の中に「LALALA」というのがある。

加藤ミリヤっぽい曲ではないが、新鮮な感覚で聴ける歌だ。
ただ、それも途中までである。

途中に、湘南乃風の若旦那のパートが入ってから、曲調がガラッと変わるのである。
それも悪い方に。

加藤ミリヤの曲が、突然湘南乃風になってしまうのだ。

曲のクレジットを見なくとも、それが「フィーチャリング.若旦那」だというのが、すぐわかる。

それを聴いて、私は、ミュージシャンに個性は大事だが、他人の曲でここまで個性を主張しなくてもいいのではないか、と思った。

おそらく加藤ミリヤが頼み込んでゲストに招いたと思われるから、加藤ミリヤも承知のことなのだろうが、私としては、ぶち壊された、という感覚の方が強い。

だから、他の加藤ミリヤの曲には愛着を持っているが、私は、この「LALALA」を最後まで聴く勇気がない。

それ以来、この曲を避けて通っている。

加藤ミリヤの曲には、「FUTURECHECKA」というのがあって、これは「フィーチャリング.SIMON, COMA-CHI & TARO SOUL」となっている。
この曲は、ゲストミュージシャンと加藤ミリヤの声のバランスが、うまく調和していて、私は気に入っている。

加藤ミリヤの声は、少しハスキーではあるが、日本語にも英語にもマッチした明確な艷やかさを持っていると私は感じている。

その艷やかな声には、明らかに若旦那の意図的に野太く押し出した声は、似合わない。

そして、彼の奥さんであるMINMIの艷やかな声にも、似合わない。
彼は、いくつかのMINMIの曲にも参加しているようだが、私にはミスマッチに思える。

さらに、彼には、なぜかコラボ曲がたくさんあるようだが、私は、どれも失敗していると思う。
失敗というのが言い過ぎなら、その声は、とにかくパターン化しすぎていて、私好みではない。
どの曲も、同じに聴こえる。


彼の声は、ソロで歌うか、同じようなトーンを持った湘南乃風の中でしか、良さを発揮しないと思う。

それなりの地位を築いている人だと思うので、彼は、自分の似合った場所だけで彼の歌を完成させた方がいいと思う。



余計なお世話だとは思うが・・・・・・。



トラウマから洋楽に

2011-10-28 11:51:55 | オヤジの日記
わざと汚い声で、汚い歌い方をする。

それが、私が演歌に対して持っている最初の印象である。


小学校高学年の頃、近所のボーリング場で公開録画があって、当時の流行歌手が来て歌を歌うコーナーがあった。
当時の私は、歌にはまったく興味がなかったが、ミーハーな友だちに強引に誘われて何度か公開録画を見に行ったことがある。

当時の流行歌の半分は、演歌だったと記憶している。
その公開録画でも演歌歌手が来ることが多かったようだ。

しかし、私は歌に興味がなかったから、演歌を知らなかった。

だから、初めて生で演歌を聞いたとき、何であんな汚い声で歌うんだ、と思った。
そして、歌い方も汚いと思った。
その歌い方が、コブシと言われるもので、演歌はそれがあるから演歌なんだよ、というのを後で歌に詳しい友だちに聞いても、今ひとつ理解できなかった

あんな汚い声と汚い歌い方、ぜんぜん楽しくないだろ、と私が言うと、友だちは、私と同い年にも関わらず、妙に悟りきった表現で「ああやって日本の心を歌っているんだよ。演歌は、日本人の心なんだ」と言うのだ。

それを聞いて、私は言った。


ああ、じゃあ、俺は日本人じゃなくても、いいや。


私がそう言うと、友だちは「バカヤロ」と本気で怒るのである。
「そんなこと言ったら、バチが当たる」とも言われた。

しかし、そんなことを言われても、汚い歌い方、という私の感覚は拭い去りようがない。

俺の中に、こんな汚い歌い方を受け入れる日本人の心なんか、絶対にない、とさえ思った。


子どもの感情というのは、単純なものである。

それだったら俺は、外国の音楽を聴こう。
そう思ってしまったのだ。

いきなり、ジミヘンやクリーム、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック、ダイアナ・ロス&シュープリームス、スティーヴィー・ワンダーなどを聴き始めたのである。

それらの音楽は、私が体験する初めての異文化だった。

だから、興奮した。
興奮させられた。

それらに没頭することで、私は、あの「汚い歌」の呪縛から確実に解放されたと言っていい。

今にして思うと、あの「汚い歌」があったからこそ、私は洋楽や音楽に目覚めたのだと言える。

それを思えば、「汚い歌」には、感謝してもいいのかもしれない。


私の目の前で、その「汚い歌」を歌った歌手は、今も現役で活躍している。
おそらく誰もが知っている有名歌手だ。
大御所と言ってもいい。


ただ、子どものときのトラウマで、その人の顔が画面に映ると反射的にスイッチを切ってしまうので、それ以来私は、その人の歌は聴いたことがない。



歌っていない歌手

2011-10-23 09:16:53 | オヤジの日記
音楽番組やライブ映像を見ていると、口は動いているのだが、実際に歌っていないという場合がある。

観ていて恥ずかしくなる。

むかし日本の音楽番組で、ENYAやマライヤ・キャリー、ブリトニー・スピアーズが、堂々と「歌う演技」をしていたのを観た。
音と口が、微妙にずれているから、とても違和感を覚えた。

日本の歌手の中にも、ダンスをしながら歌う人や大人数のグループ、アイドルグループなどは、「ん? 歌ってない?」と感じさせる人たちがいる。


それを好意的にとらえる人は、下手な生歌を聴かされるより、歌っているフリの方がましだ、と考える。

もっと好意的な人は、顔が見えるだけで有り難い、と考える。


確かに、ファンは、それでいいのかもしれない。

だが、歌手というのは、歌を歌うのが仕事のはずである。
歌っているフリをするのが、プロの歌手だというのなら、誰でもプロの歌手になることができる。

それでは、プロのハードルが、低すぎないだろうか。

たとえば、ライブというのは、生で歌い、生で演奏し、生身の肉体が動くから、ライブなのである。

お顔を拝見し、お上手なダンスを観るだけのステージは、ただのパフォーマンスの場でしかない。


私の偏見かもしれないが、外国から日本にやってくるミュージシャンが、プロモーションで日本のテレビ番組に出ると、高い確率で「歌っていない」場合が多い。

日本の歌手より遥かに高額の報酬を受け取っている人が、そのお声を聴かせない、という現実は何を意味するのだろう。

もともと来日の契約条項に、その種の約束があるからか。
あるいは、外国のプロ歌手は、テレビでは口を動かすだけでいいという暗黙の了解があるとか。
または、「CDと違って下手」と言われるのを恐れているのか。
まさか、日本の視聴者を馬鹿にしているなんてことは・・・・・。


たとえば、オペラ歌手の中には、俺様はタバコを吸っているが、関係なく歌うことができるぞと豪語する人もいるが、プロ意識に徹したほとんどのオペラ歌手は、タバコを吸わないようだ。酒を飲まないという人も多い。

聞くところによると、B'zの稲葉浩志は、タバコを吸わず、コーヒーなどの刺激物もとらず、夏は冷房も避けて、加湿器、吸入器などで、喉を保護しているのだという。
中には、それをストイックすぎる、と揶揄する人がいるようだが、高額の報酬をもらうプロの「自己管理」として、それは当たり前のことのように、私には思える。


ライブや音楽番組の収録に合わせて、体調を整える。

それは、オリンピック出場選手が、オリンピックに合わせて調子を整えるのに似ている。
ボクシングの世界タイトルマッチで、チャンピオンが調子をピークに合わせることと同じだとも言える。
企業のコンペで、プレゼンテーションに備えて、すべての準備をして万全の体制で臨むのと一緒である。

マラソン選手が、五輪本番で走るフリはできない。
世界タイトルマッチで、お互いがシャドー・ボクシングをするだけなんて、ありえない。
資料も説明もないプレゼンテーションなんて、ない。

毎回準備しないで登板し、毎回KOされる投手は、首脳陣からもファンからも信頼されない。
普通なら、プロとして失格、の烙印を押される。

ただ、プロ歌手を、それらと同列に厳密に規定しなくてもいいだろう、という考え方は、あるかもしれない。
歌手というのは、競うものではなく、楽しませる職業だ。
受け手側が、それを観て楽しくなれば、その人はプロとしての素質があるのではないか、と思う人もいるだろう。

その考え方を否定はしないが、私は、それを認めたくはない。


テレビの音楽番組に出て、本当に「歌っていない歌手」は、ライブでも「歌っていない」のではないか、と私などは思ってしまう。

高額のチケット代を支払って、時間のやり繰りをして、遠いライブ会場まで足を運び、開演前に胸をときめかせる。

しかし、幕が開くと、その歌手は「歌っていない」のである。

その姿を見たら、私は楽しめない。


裏切られたような気になる。




型にこだわる天才

2011-10-20 08:54:19 | オヤジの日記
むかし、CREAMというロックバンドがあった。

大御所ギタリスト、エリック・クラプトンが在籍したグループだ。

私の記憶に間違いがなければ、ロックバンドとして、初めてインプロヴィゼーション(即興演奏)を取り入れたグループだ。

クラプトンのほかに、ベースにジャック・ブルース、ドラムにジンジャ・ベイカーがいた。
つまりスリーピース・バンドだった。

クラプトンのギターが卓越していたのは、もちろんのこと、ベースやドラムの技術も卓越していた。

ジンジャ・ベイカーのドラムは、当時のドラマーの中では「おかず」(メインのリズムパターンと少し違うリズムを叩くこと)が多い人だった。
そして、「おかず」が多いにもかかわらず、リズムの破綻が極端に少ない人だった。

ジャック・ブルースは、即興演奏に三連符を多用して、神がかり的な音を編み出す人だった。


だが、この天才たちのグループは、長くは続かなかった。
おそらく活動期間は、2年程度だったと思う。

それぞれが、自分の技を誇示しあったため、曲としての完成度はともかくとして、3人の心のうちに、お互いをリスペクトする心がなくなってしまったのではないか、と私は推測している。

「俺がリーダー」という意識が、3人とも強すぎたのかもしれない。


このグループの中で、エリック・クラプトンは、特別目立ったわけではなかった。
みんなが同じようなハイレベルのパフォーマンスを繰り広げたから、彼一人のテクニックだけがクローズアップされたわけではない。
つまり、それほど密度の濃いバンドだったとも言える。

ただ、テクニックだけの他の二人に比べて、音楽的なセンスは、クラプトンが確実に抜け出ていたと思う。

その音楽センスが、彼を今のようにビッグにした最大の要因だった、と私は思っている。


短かかったが、ロックの歴史に大きな足跡を残したクリームは、結局いま「クラプトンがいたバンド」という位置づけになってしまっている。

同じように最高のテクニックを見せたブルースとベイカーは、クラプトンの輝かしい歴史に、彩を添える存在として記憶されているに過ぎない。

それは、たとえその時代、至高のテクニックを誇っていたとしても、そのテクニックは、いつか追いつき追い越される運命にあるからだ。
演奏技術は、楽器の進歩に合わせて、時代とともに進化、進歩している。

ブルースとベイカーのテクニックは、その時代は卓抜したものではあったが、その技術を目標としたら、才能を持った人が追いつくのは、決して難しいことではない。

しかし、音楽センスだけは、なかなか追いつけるものではない。
クラプトンには、そのセンスがあった。


私は、音楽センスというのは、「時代を読み取る才能」だと思っている。


ロックの即興演奏で、新しいロックの道を開いたクラプトンは、今度は即興ではなく、枠にはまった音楽を目指したように思える。

その後、オールマンブラザースと競演した傑作アルバム「デレク&ドミノス」では、ブルースの枠からはみ出さない良質のサウンドを作り上げた。
ゲストとして参加した幾つかのセッションでは、彼はサポートに徹して、「型どおり」のブルースギターを披露した。

完全にソロになって出したアルバムでも、彼は枠を決してはみ出すことなく、その制約の中で、自分のギターとヴォーカルを研ぎ澄ますことに懸命だった。

その型どおりの音楽を作り上げることがストレスになって、重いコカイン中毒になってしまったのは、彼の真面目さゆえだったと思う。


コカイン中毒から抜け出た彼が作ったアルバムの数々は、どれもやはり型どおりだったが、音楽センスは失われていなかった。

アンプラグド・ライブを流行らせたのも、クラプトンだ。
電気楽器をなるべく排除して、アコースティック主体の音を形作るのが、アンプラグド。

型どおりの音楽にこだわるクラプトンにとって、これほど「はまる」パフォーマンスは、ない。

そこでの彼は、ロック・ミュージシャンではなく、アコースティック・グループをバックに従えたシンガーなのである。


それはつまり、自分を「シンガー」の枠に閉じ込めた、究極のアーティストの姿であると言っていい。


その方式が、歌手の個性を引き出す一つの魔法であると気づいたミュージシャンたちが、その後アンプラグド・ライブを行ったが、その方式が成功した例を私はあまり知らない。

何十年も自分の型にこだわり、麻薬中毒になるまで自分を追い込んだ音楽センスに秀でたミュージシャンには、誰も適わなかったようだ。


60半ばを過ぎた伝説のギタリスト。

彼には、過去の歌を歌う伝説の人としてではなく、また新たに「新しい型」を持った音楽をぜひ世に送り出してほしいと思う。



音楽センス抜群の彼なら、絶対にできる、と私は確信している。



安売りの歌姫はいらない

2011-10-17 09:49:30 | オヤジの日記
昨今は、少し有名になると、女性歌手は「歌姫」という称号を得る。

女性が歌っているのだから、「姫」なんだと言われればそれまでだが、何となく「歌姫」の安売りのようにも思える。

外国でも、「DIVA」だらけなんだろうか。

よくわからないところだ。


私は、リスペクトする女性歌手を「歌姫」とは呼ばない。

「女王」と呼ぶ。

たとえば、「POPSの女王」は、安室奈美恵だ。
「R&Bの女王」が、MISIA。
「歌魂(うたたま)の女王」が、COCCOと元ちとせ。
「自作自演の女王」が、宇多田ヒカル。

この話を人にすると、「なんじゃ、そりゃ! 女王って、美空ひばりじゃ、あるまいし」と必ず馬鹿にされるのだが、歌手ご本人を冒涜しているわけではないから、いいだろう、と私は思っている。

ただ、呼び方を変えただけじゃないか、と言われたら、ごもっともです、と答えるしかないが。


先日、数年ぶりにCDショップに行ったら、「歌姫コーナー」というのがあった。

セリーヌ・ディオン、ホィットニー・ヒューストン、マドンナ、ビヨンセ、テイラー・スイフト、レディ・ガガなどの洋楽とともに、日本の歌手のコーナーもあった。

予想通り、宇多田ヒカル、安室奈美恵、MISIA、Superfly、倖田來未、中島美嘉、浜崎あゆみがあった。
だが、そのほかに、山口百恵、松田聖子、中森明菜、岩崎宏美、広瀬香美、綾戸智絵、中島みゆき、和田アキ子などがあった。


歌姫の大安売りだ。


クラス全員が百点を取ったら、百点のありがたみがない。


ただ、その中に本田美奈子の名前を見つけたときには、妙に納得してしまった。

亡くなったから言うわけではないが、命の火を燃やしながら、そして燃やし尽くして歌い続けた彼女こそ「歌姫」の称号にふさわしい歌手ではないか、と思ったのだ。

正直のところ本田美奈子さんのCDは、持っていないし、聴いたことがない。

しかし、以前、NHK教育テレビだったか、衛星放送だったかは忘れたが、「レ・ミゼラブル」というミュージカルを放映していたのをたまたま観たことがある。

テレビをザッピングしていて、偶然たどり着いたという状態だったから、いつでもチャンネルを変えることができるよう、右手にリモコンを握り締めながら、観た。

すぐにチャンネルを変えるつもりだったが、本田美奈子さんの演技に魅せられて、結局最後まで観てしまった。

それほど素晴らしい演技だった。

華奢な体で、声を振り絞り、時に感情を抑え、体全体を使って表現する姿には、「歌の神」が宿っているような気がした。

そのとき、ああ、この人は「ミュージカルの女王」だと思った(他のミュージカルは観たことないが)。
あるいは、この人こそ「歌姫」だ、と確信した。


その印象が強すぎたため、その印象を消さないためにも、私は歌手・本田美奈子の歌を真面目に聴いたことがない。
おそらく、これからも聴くことはないだろう。


ただ、一度しか聴かなくても、あれほど歌に圧倒されたのは、初めてである。

私は、そのときの感動を大事にしたいと思う。
本当の「歌姫」の存在を忘れないでいようと思う。


だから、安売りの「歌姫」は、私にはいらない。