リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

団塊タバコ

2019-06-30 05:09:03 | オヤジの日記

最近の飲食店は、禁煙のところが増えた。分煙だけではなく、完全禁煙もある。

タバコの煙の苦手な人には、住みやすい社会になりつつあると言っていい。

 

大昔の話だ。いま28歳の息子が1歳を過ぎたころだった。大宮で買い物をした私たちは、駅の近くのドトールに入った。

1階は満席だったので、席を求めて2階に上がった。客は白人が4人と若いサラリーマンが3人の合計7人。

白人は、全員がタバコをすっていた。当時は、禁煙席はポピュラーな存在ではなかった。特にカフェは、タバコを吸うために入る人が多かったから、空気が澱んでいた。

そのとき、店の窓際に座っていた白人グループが、意外なことをした。我が息子の姿を見た白人たちが、一斉にタバコを消したのだ。そして、立ち上がって窓を開けた。さらに、タバコの煙が我々にかからないように、でっかい8本の手で煙を窓の外に、掻き出したのである。

それを見ていたサラリーマンたちも、慌ててタバコを消し、スーツの上着を使って、煙を掻き出してくれた。

恐縮した。

そんな経験は、初めてだった。

申し訳ないと思った。

この場合は、カフェに赤ん坊を連れて入るという馬鹿者夫婦が悪い。非常識極まりない。責められるのは、私たちの方だ。

しかし、彼らは、そんな大バカものに白い目を向けることなく赤ん坊優先の行動を取ってくれたのだ。

センキュー、ありがとうございます、と言ったあとで、我々は一番邪魔にならない階段近くのテーブルに座って、高速で飲み物を飲んだ。

その間中、7人はタバコを吸わなかった。

席を立ったとき、白人さんに「ガンバッテ、ガンバッテ」とウインクされた。

タバコで、いま真っ先に思い出すのは、そのことだった。

 

他に思い出すのは、小学校1年の時の「ワルさ」である。

家の近所の寺は、我々の遊び場所だった。悪ガキが4人。バカの盛りだ。

そのバカの盛りのうちの1人が、鐘つき場でタバコのケースを拾った。開けてみると4本のタバコが入っていた。さらに、ご丁寧にマッチも落ちていたのだ。

バカの盛りは、全員で顔を見合わせた。そして、頷きあった。近所の燃料屋のバカが、全員のタバコに火をつけた。

そして、「せーの!」。

バカの盛り全員がむせた。タバコを放り投げて悶絶した。

 

小学校6年のとき、バカ1人は学校の職員室に入った。担任に報告することがあったからだ。しかし、職員室に異変が。

教師が1人もいなかった。無人の職員室。当時は、教師の喫煙率が異常に高かった。タバコを吸わない教師を探す方が難しかった時代だ。

ほとんどの教師の机の上に、タバコや灰皿が置かれていた。私の担任の机の上にもタバコ、灰皿、ライターがあった。

誰もいない職員室。目の前には、タバコ。これって、吸えよ、って誘いだよな、とバカ1人の耳に悪魔の囁きが聞こえた。

ハイライトだった。ハイライトを一口吸ったバカ1人は、悶絶した。

あれ以来、私は禁煙に成功している。我ながら、大したものだと思う。

 

高校1年のとき、学食で私の顔にタバコの煙を吹きかけた同級生2人に、右ストレートと右フック、頭突き2発をお見舞いして、鼻血タラタラにした黒歴史があった。

大学1年のときも、居酒屋で私の端正な顔に、タバコの煙を吹きかけたやつを、腰の入った右ストレート一発で粉砕した。

良い子のみんな、タバコの煙は、人の顔に吹きかけるものではありませんよ。そんなことをされたら、温厚で人から普段「仏」と呼ばれている人でも、ほとんどの人がライト級のボクサーに変身します。やめてください。

 

今週の火曜日、WEBデザイナーのタカダくん(通称ダルマ)の荻窪の事務所に行った帰りだった。

ダルマのブサイクな顔を見て疲れてしまったので、国立駅前の大学通りの木のベンチで休んでいた。

すると、そこはかとなくタバコのにおいが漂ってきた。

国立駅前や歩道などは、全面禁煙である。タバコが吸いたい人は、どこかの喫煙所に行くか、タバコの吸えるカフェに行くのが決まりになっていた。

しかし、タバコのにおいは、確実にした。試しに、右隣のベンチを見てみた。

 

堂々と吸っとるやないか〜〜い!

 

推定年齢71から78くらいのお爺さんだ。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、上半身もヤンキースのユニホームを着て、下は灰色のタイツっぽい細いズボンを履いた粋なお爺さんだった。

何を恐れることもなく、当たり前のように全面禁煙のベンチでタバコをふかしていた。

そこまでいくと、むしろ格好いいですな。感心して見ていたら、お爺さんと目があった。

自然な仕草で、タバコを勧められた。「お兄さん、団塊ですか」。

いやあ、団塊からは外れてます、と言いながら、首を振った。

「僕たち団塊は、たいてい吸ってますけどね。だって、吸わないと馬鹿にされたもの。お兄さん、若い頃は吸ってたでしょ?」

いや、全然。

私がそう言うと、「勇気あるなあ」と感心された。「タバコは、団塊では、アイデンティティの重要事項ですよ」。

だから、オレ、団塊じゃないんです。

 

話が面倒臭い方向に行っているので、私はバッグから銀河高原ビールを取り出した。

ダルマは、私が銀河高原ビールが好きだというのをわかっていた。年に何回か賄賂を贈ってくるのだ。今日は、荻窪の事務所から、4本直接強奪してきた。

それをお爺さんの方に掲げた。乾杯しましょうか。

しかし、いつもダルマにいただくのは、瓶ビールだ。栓抜きがないと飲めない。

残念ですね。栓抜きがあれば乾杯できたんですけどね、と明らかに無理な話をお爺さんに振った。

 

すると、お爺さんが何の力みもない顔で言ったのだ。

 

「栓抜き、持ってるよ〜」

 

団塊って、すげえな。先輩って、すげえな!

 


セキトリ

2019-06-23 05:36:01 | オヤジの日記

先週の日曜日が、父の日だということをすっかり忘れていた。

 

晩メシのときに、子どもたちから袋を渡された。これは賄賂か? 私に賄賂を贈っても何の得もないぞよ、と言った。

「おまえに全世界的に権限がないことは、生まれたときから気づいているわい。それは奉仕品だ。ありがたく受け取れ」

ははー(土下座)。

私は、子どもたちが幼いころ、この家に父親はいない。目の前にいるのは宇宙人だ。だから、父の日はない、と説得力のある言葉で、父の日を否定した。プレゼントする金があるのなら、他のことに使いたまえ。

しかし、なぜかわからないが、毎年父の日になると、ハンカチやらベルトやら財布などが増えていくのだ。

そのたびに私は、スパシーパ、グラシアス、多謝、ダンケ・シェーン、メルシーなどと言って受け取るのだが、最近は、土下座が一番楽だということに気づいて、土下座で通している。

 

中身を開けてみた。

あーら、不思議。2つの袋から出てきたのは、ジーンズだった。それもワークマンプラスの機能性重視のジーンズだ。2つは同じものだが、色が違った。息子が買ってくれたのはブルーという名の青、娘のは茶色という名のブラウン。

示し合わせたのか、と聞いたら、グーゼンだという。ただね、君たち、値札くらい取ろうよ。バレバレざんす。

さらに、一番細いウエストサイズのを買ってくれたのはいい。でもね、Sサイズが75センチって何? いつから日本人は、ウエストまわりに、そんなに肉を溜め込むようになったのだい。

ブッカブカで、腰パンになっちまうじゃありませんか。駅の階段を登ったら、確実に脱げてパンツ丸見えになるわいわいわい。捕まるぞぞZOZOTOWN(剛力彩芽さん、私は何があっても、あなたを応援します。先進国では恋愛は自由ですから)。

 

「ベルトをすれば、済むことじゃ」娘に言われた。

はい、確かに。  ありがたく頂戴いたします。動きやすいな、これ。

 

この先は、突然、懺悔文になります。

誰に懺悔かというと、我が家のブス猫・セキトリに対してだ。

セキトリとは、東日本大震災の4ヶ月前くらいに出会った。オンボロアパートの庭に置いた段ボール箱を解体しようとしたら、でっかい猫が入っていた。それもテラ級のブスだ。

はじめまして、と言ったら、ニャーと喋った。試しに、抱っこしようとしたら、抵抗せずに抱かせてくれた。

カニカマと笹かまを湯がいたものを皿に盛ったら、完食した。それ以来、朝メシ、晩メシの苦労が、セキトリの生活からなくなった。

大震災2ヶ月前に、セキトリを動物病院に連れて行った。顔でオーディションを落とされるかと思ったが、医師は、普通に見てくれた。

血液検査と去勢手術。エイズも白血病もセーフだった。「一歳くらいですかね」。

セキトリにとっては、不本意だったろうが、ノラちゃんが社会で生きていくには、ルールを守らなければいけない。

自由というのは、ルールの延長線上にあるのだよ、セキトリ。ごめんな。

 

恐ろしい大地震を経験したあとも、セキトリはダンボールハウスで暮らした。

ダンボールハウスは、夏と冬を繰り返すたびに、リニューアルした。冬は内部を二重構造にして空気の層を作った。さらに、毛布と細長い枕を置いた。冷気が入らないように、外側にプチプチも貼った。雨の日は防水シート。私は、ダンボールハウスで暮らした経験はないのだが、おそらく外よりは暖かいと思う。

夏は直射日光が直接当たらないように、三角の庇をつけた。そして、ジェル状の敷物を置いて地面からの熱を遮断した。私は、ダンボールハウスで暮らした経験はないのだが、おそらく外よりは涼しいと思う。

 

その当時、セキトリを家猫にするつもりはなかった。

朝メシを食ったあとで、広い場所で遊びまくって、夜になったら、晩メシを食いに帰る。そして、真夜中にまた冒険の旅に出る。

それは、ノラちゃんの醍醐味だ。それを奪う権利は誰にもない。

オンボロアパートは、武蔵野の高台にあった。空気が澄んだ日は、富士山が見えた。

セキトリと2人並んで、富士山を見ることが、たまにあった。

富士山はキレイだな。日本に生まれてよかったな。また見られるといいな。そんなことをセキトリと語り合った。

 

しかし、ここで、環境が一気に変わる。オンボロアパートが壊されることになったのだ。

国立市への引越しが決まった。

セキトリをどうしようか。ノラのまま置いていくか。家猫になってもらおうか。

ある日、世田谷区下馬の叔母の家に行った帰りだった。夜、オンボロアパートに、伯母の婿さんが運転する個人タクシーで帰った。降りたとき、私のジーンズの裾に、生暖かいものを感じた。セキトリだった。私の帰りを待っていてくれたのだ。

それを見たとき、セキトリに家猫になってもらおうと思った。

 

ただ、私の一存だけでは、地球は回らない。

地球を回す役割の1人である、当時韓国に留学中の娘にSkypeのビデオ電話で、お伺いを立てた。

娘は「いいぞい」と言ってくれた。

ヨメと息子は、「あんなブス猫、嫌だ」「飼うのなら、可愛いのがいい」と抵抗した。

ここで私は、試しに1週間だけ家に入れてもらえないか外科小児科耳鼻咽喉科と土下座した。2人は渋々承諾してくれた。

そのとき、セキトリは「媚び売り大作戦」を展開した。媚び媚び媚び媚びの4乗を展開した結果、「ブスだけど、いいよ」というお許しが出た。

セキトリは、すぐに環境に慣れた。ひっきりなしに訪れる娘のお友だちにも媚びを売って、セキトリはKNT(クニタチ)01のセンターを務めた。

 

ただ、セキトリも、推定ではあるが、今年10歳になろうという年齢である。

オッサン?

体のキレはいい。ベランダでは、天敵カラス相手に「かかってこいやー」と挑発する元気は、まだあった。

 

5月初めのことだった。セキトリの体重が落ちた。

6・8キロが、6・6に落ちたのだ。セキトリは、夏に体重が落ちる傾向があった。暑い時期が続いたから、季節を先取りしたのかなと、そのときの私は楽観的だった。

しかし、よく観察すると、食欲はそれほど落ちていないが、水を飲む機会が増えた。

私はセキトリの水分量も管理していた。1日250cc。食事で摂る量と合わせると300前後。セキトリの体重からしたら、それは適正だったと思う。

だが、5月終わりごろには、1日に100cc近く増えていたのである。

まさか腎臓病? 猫が一番かかりやすいのが腎臓病だと聞く。

私は蒼ざめた。考えている余裕なんかなかった。すぐに動物病院に連れて行った。

9年ぶりの血液検査。

1週間後、「腎臓に来ていますね。ステージ2くらいでしょうか。これからは、塩分やリンを控える食事を与えてください。そして、薬も」と若い医師に言われた。

 

私は、家族の健康状態には、絶えずアンテナを高感度で張って、未然に防いでいた。

しかし、今回のセキトリに関しては油断していた。体重が少々落ちていたとしても、セキトリの動きを見たら、3年前、5年前、8年前のセキトリと変わらなかったからだ。

医師は、「今の状態を維持すれば、5年生きることもできます」と言った。

ふざけてもらっては困る。

10年だ。セキトリには、最低あと10年生きてもらいたい。

 

セキトリには、申し訳ないことをした。

すべては、ポンコツの私の責任だ。

セキトリには、「ノラのままの方が良かった」と思ってもらいたくない。

先週から、「セキトリ10年長生き計画」が、始まった。

薬、食事療法、日光浴など、仕事よりも真剣にやっているかもしれない。

 

10年経つ前に、私の方がくたばっちまいそうだが、それはそれでいい。

私は、セキトリが死ぬ姿は見たくない。

 

それは、嫌だ。

 

顔は刺激が強いので、隠しました。でも、かけがえのない息子です。

 


赤玉さん伊蔵さんカアちゃん

2019-06-16 05:16:01 | オヤジの日記

前回、酒の話を載せたので、さすがに2回連続では飽きると思った。なので、今回も酒の話を。

 

社会人2年目の娘に聞いた話。

娘の部署は仲がよくて、月に1回以上飲み会を開いているようだ。場所は新宿が多い。

2日前の金曜日、西武新宿駅近くの居酒屋で、飲み会をした。9人が出席した。楽しく飲んでいたら、店の奥から「イッキ、イッキ!」のやかましい声と手拍子が聞こえた。全員が白けたという。

今ごろ、一揆って何? 江戸時代じゃあるまいし。鍬や鎌でも持ってきたのか。いくら、安倍政権に不満があるからって、暴動はいかんぞ。

娘に頭をコツンとされた。イッキ違いだそうです。

 

娘は、イッキを見たのは、初めてらしい。聞いてはいたが、想像以上にやかましい、と思った。

そのやかましい声を聞いて、そのフロアの客のほとんどが眉をひそめた。彼らは、その行為が周りに迷惑を及ぼすということが、わからないのだろうか。

ここにも「日本全国どこにでもいるバカ」が生息していた。イッキバカだ。

しかし、幸運にも、このイッキバカは、店の従業員によって制圧された。屈強の従業員2人がやってきたのだ。

「お客様、イッキはおやめください。もし、これ以上続けたら、お帰りいただくことになります」

イッキバカは、抵抗することなく、白旗を揚げた。すぐに、静かになったという。

お奉行様の見事なお裁きだった。

 

まったく今どき一揆なんて、時代錯誤も甚だしい。飲み屋に鍬なんか持ってくるなよ。いくら、安倍政権が・・・。

頭をコツン。

 

イッキから一気に話が変わって、酒の話を(変ワッテイナイ)。

これから先は、不道徳な話になるので、「不道徳はけしからん」という主義主張次長課長のお方は、ご遠慮ください。

6歳の時、私は我が家の押入れに隠してあった赤玉ポートワインの一升瓶を発見した。4本あった。

おそらく祖母と母が飲んでいたのだと思う。それを見た私は、ブドウジュースだな、と想像した。ブドウは好きだ。デラウエアは大好物だ(もう10年以上食っていないが)。コップに半分ほど注いで飲んだ。

想像した味とは少々違ったが、甘くて美味かった。おかわりをしようと思った。しかし、祖母と母が押入れにしまっているということは、大事なものだと幼心に判断した私は、思いとどまった。

今日は、これくらいにしておいた方がよかろう。バレたらマズいぞ。意外と理性的な子どもだったようだ。

ただ、美味かったので、私は祖母と母がいないときに、1週間に1、2回はグラス半分の赤玉ポートワイン泥棒に変身した。

 

6歳のとき、私はそれが酒だとは思わなかった。酒というものの存在を知らなかったからだ。それに、飲んでも私の体に何の変化も起きなかった。

それが酒だとわかったのは、酒という漢字と存在を覚えた小学校2年の時だった。

ああ、あれって、お酒だったんだ。

それでも私は赤玉ポートワイン泥棒を続けた。とても美味かったから。

ただ、今にして思う。おそらく、祖母と母は、この家に赤玉ポートワイン泥棒がいるということに気づいていたのではないか、と。

1週間にグラス半分を1、2杯だとしても、トータルで見れば、明らかに減っているのだ。たとえば、2人で今まで一升瓶を10日間で消費していたとして、最近は8日や9日でなくなる。それが1回限りなら、「今回は飲みすぎたのかしら」で済むが、毎回続けば、おかしいと思うはずだ。

泥棒は、アイツだな。

だが、若い頃、教育者だった祖母と母は、私を問い詰めなかった。わかっていても知らんぷりをした。

 

わたしは、祖母と母に、叱られたことが一度もなかった。それほどいい子ではなかった私を祖母と母は、余計なことは言わずに放牧してくれた。

ただ、一度だけ、祖母にアドバイスされたことがあった。

それは、小学校の入学式前日のことだった。

「いいですか、あなたはバカで怠け者だから、学校を休んではいけません。そして、授業をよく聞きなさい。そうすれば、あなたはわかるようになります」

祖母の言いつけ通り、私は今に至るまで休むことを拒否して生きてきた。その結果、わかることが増えたし、できることが増えた。

祖母は、正しいことを言ったと思った。

 

中学に上がると、元旦に日本酒を飲むことを許された。大学に上がると、突然、近所の酒屋さんから、ビール瓶のケースが届いた。

母が言った。

「今日から晩酌に一本飲んでいいですよ。もう大人なんだから」

まだ18歳だったが、母からは大人扱いされた。母の行為は、常識はずれだったかもしれないが、それは「これからは大人として自分で責任を持ちなさい」という母のメッセージだったのだと思う(赤玉ポートワインを飲まれるのが嫌だったのかもしれない)。

 

母のメッセージ通り、酒に関しては、私は責任を全うしていると思う。

酒を飲んで、人に迷惑をかけたことが一度もない。それは、偉そうに言うことではない。ほとんどの人が、迷惑をかけたことがないはずだからだ。

ただ、ほとんどの人との違いは、飲む量の違いだ。おそらく、5倍以上の量を飲んでいると思う。

そして、静かに飲む。人に酒をすすめることはしないし、突然凶暴な「酒オバケ」になることもない。

「おごるよ」と誘われてついていった場合も、大量に酒を飲んだとしても節度は守る。絶対に醜態は見せない。

とは言っても、意地汚い大酒飲みであることに変わりはないが。

 

話は一気に飛んで、杉並の建設会社・顔デカ社長の酒の飲み方になる。

顔デカ社長は、普段はガサツだが、酒はキレイに飲む。酒を飲んだからといって、余計に顔がでかくなるということはない。むしろ、声のトーンが落ちて、話しやすくなる。

先々週の月曜日、毎週恒例の社長と私の「ムダ話会」が、会社で開かれた。そのあと、社員全員で同じ昼メシを食ってから私のスピーチという気持ち悪い儀式が続いた。

さらに、そのあと、顔デカ社長に社長室に連れ込まれた。何をなさいます、お代官様。

「俺は午後仕事がねえから、ちょっとだけ酒に付き合ってくんな」

年に数回、そんなことがあった。社長室での禁断の飲み会。飲む酒は、高級焼酎の森伊蔵だ。社長は炭酸割り、私はストレート。酒は自分で勝手に注いで飲む。「どうぞ、どうぞ」などという面倒くさいことはやらない。お互い勝手に飲んで、段ボール箱に入ったナッツ類を勝手に手にとって、ポリポリ食うのだ。

建設会社だからといって、建設的な話が出るわけではない。社長は、フィリピンパブのネエちゃんの話やよく行く料理屋の女将が、どれだけ色っぽいかという話をした。私はモンスター井上尚弥のモンスターっぷりと椎名林檎様が、どれだけ音楽モンスターなのかと柴咲コウ様のモンスター的なスケールの美しさを熱弁した。

 

しかし、今回の顔デカ社長は、ちょっと違った。

社長室に入った途端、目尻が下がったのだ。それは、いつものエロ親父の目の下がり方ではなかった。喜びの目尻だった。

社長は、いつも通り焼酎の炭酸割りを勝手に作り、私は勝手にグラスに森伊蔵をなみなみと注いだ。乾杯なんてことは、したことがない。とにかく勝手に飲み、勝手にナッツを食う。

いつもと違うのは、今回の社長からは、幸せオーラが薄〜〜〜〜く出ていたことだ。

そして、ヘッヘと笑ったあとで、焼酎をグイッと飲み、でかい顔を近づけた。

ズームイン! (って、まだやってますか?)

「俺の会社、だいぶ前から結婚ラッシュでな。おめでたいことなんだが、仲人を頼まれると困るんだよな」

社長の奥様は、10年前に事情があって、家を出て行った。結婚式の仲人は、やはり夫婦揃ってがおめでたい。だから、いつも最初は断るのだが、社員から「是非」と頭を下げられると断りきれない。

その結果、変則的な1人仲人ということになる。誰もが違和感を持っていたが、言い出せなかった。

 

出て行ったカアちゃん。

だが、離婚はしていない。10年間、別居中ということだ。学校の関係で、社長側に残った息子のうち長男は就職が決まって、家を出た。大学2年の次男は、家から大学に通った。母親とは、頻繁に会っていたらしい。

その次男から、母親は「1人仲人」の話を聞かされた。

それを聞いたカアちゃんは、社長に久しぶりに連絡を取った。2年ぶりだという。

「仲人は、やはり2人揃わないと、相手の親御さんにも失礼ですよね」とカアちゃんは言った。

そして、社長にとって、とても意外なことを提案したのだ。

「結婚式のときだけ、隣にいてもいいですよ」

い、いいのか、おまえ・・・いや、サヤカさん。

「可愛い社員のためじゃないですか」

 

6月22日、社員の結婚式がある。

式の前日は、久しぶりに社長の奥さんが家に泊まるという。長男も帰ってきて泊まる。

顔デカ社長が、でかい顔をキャッチャーミットのような両手でゴシゴシとこすった。

「まるで、10年前に戻ったみたいだよ。待ちどうしくてしょうがねえぜ、先生」

 

社長、可愛いですね。

絶対に、社員の前では見せない顔だ。

 

「なあ、先生、あんたも招待するからよ、スピーチ頼んだぜ」

 

えーーーーーーー、聞いてないよぉ。

でも、いいか。社長の可愛い顔を見るのは楽しい。

顔が2倍でかいだけに喜びも2倍でかい。

 

コップにまた森伊蔵を注いだ。

 

森伊蔵が喜んでいるような気がしたのは、気のせいか。

 

 


日本全国どこにでもいるバカ

2019-06-09 05:36:00 | オヤジの日記

パーで叩くか、グーで殴るか。

 

今週の火曜日、東京神田のイベント会社に打ち合わせに行ってきた。

担当者は、中村獅童氏似のチョイ強面だ。

いつもながら、仕事の話の前に雑談を。

「久しぶりに、うちに新卒が入ってきた話しましたよね」

知っている。英語と中国語が話せる即戦力だ。声が小さいことだけが唯一の欠点で、仕事の飲み込みが早く、フットワークも軽い掘り出し物だという。

「でも、アクシデントがありましてね」と獅童氏似が、右手で頭をかきむしった。そして、ため息。

獅童氏似の会社は研修期間が、1ヶ月と短い。研修が終わったら、すぐに実践だ。新人さんは、獅童氏似の班に組み込まれた。

しかし、ここでアクシデントが起こったという。新人歓迎会だ。

先週の金曜日、新人のオバタさんのために、歓迎会が開かれた。場所は、会社の会議室。獅童氏似が勤める会社では、歓迎会に限らず、新年会、忘年会は会議室でとり行われる。

幹事が、酒や食い物を揃えて、会議室で1時間だけ開かれる。

 

獅童氏似の部署は、班ごとに分かれていた。班は全部で5つ。それぞれの班は、リーダーの名前を付けて呼ばれる。例えば、獅童氏似の班は「中村班」というように。

他に、「フビライ班」「舞妓班」「天津班」「ひょっこり班」があった(嘘だろ)。

「ひょっこり班」は、遊軍だ。他の班で手が足りない場合、ひょっこりと現れて、助ける役目だ。新人は最初は、「ひょっこり班」に配属され、適性を見たのち、どこかの班に配属される。オバタさんは、獅童氏似の班がいいと判断されたようだ。

 

歓迎会。

乾杯のあと、日本社会の悪しきしきたりとして、「新人が先輩にお酌をする」という時代錯誤の光景が繰り広げられた。

獅童氏似は、私と同じで、そういうのが嫌いだ。

「行かなくていいから」と止めたが、新人のオバタさんは「形だけでも」と言って、フビライ班、舞妓班、天津班、ひょっこり班のテーブルを回った。

そして、お決まりの「お前も飲めよ」だ。

オバタさんは、酒は強くもなく弱くもなくという程度だったらしい。普段、酩酊するほどは飲まないという。

5つのテーブルを回って、グラス9杯のビールを飲まされた。30分足らずで9杯である。子どものころから「中目黒の底なし」と言われた私には、ちっとも応えない量だが、多くの人にとっては、確実に脳から足にまでアルコールが回る量だと思う。

危険だと判断した獅童氏似は、ちょうど、ひょっこり班のリーダーが、10杯目を注ごうとしたとき、グラスを取り上げた。

しかし、ひょっこり班のリーダーは、しつこかった。新しいグラスにビールを注いで、オバタさんの目の前に差し出したのだ。

 

「こういうときは、最初に世話になった俺のところに、真っ先に来るもんだろ。それが、社会人としての礼儀だ」

 

日本全国どこにでもいるバカ。

酒が楽しく飲めないバカ。

酒をマウンティングに利用するバカ。

 

覚悟を決めて、オバタさんは、グラスビールを一気に飲んだ。

そのとき、オバタさんの体が揺れた。獅童氏似が、支えようとしたが、オバタさんが崩れる方が早かった。

救急車。

急性アルコール中毒。

オバタさんは、病院で意識を取り戻した。しかし、倒れたときに左肘を強く打った。粉砕骨折だった。オバタさんは、今も入院していた。

 

次の日の土曜日、出社日だったので、全員が出社した。

ひょっこり班のリーダーも来た。

リーダーの姿を認めた獅童氏似は、早速応接室にリーダーを引きずり込んだ。

そして、平手で頬を叩いた。ひょっこりは、抵抗しなかった。むしろ、「ゴメン」と謝った。

だが、獅童氏似の怒りは、収まらない。

ひょっこりの方が、1つ年上だったが、獅童氏似は、「ひょっこり」と呼び捨てにした。

「あんた、どのツラ下げて、今日会社に来たんだ。2回目だぞ、何人うちの社員を潰せば気がすむんだ。帰れ、とっとと帰れ!」

応接室は、曇りガラスで囲まれただけの簡単なものだった。その怒鳴り声は、当然のことながら、事務所全体に響き渡った。

そのとき、部長が出社してきた。歓迎会には、上司は参加しないしきたりがあったので、部長は現場にいなかった。だが、獅童氏似に報告を受けていた。

応接室に顔を出した部長が言った。「ひょっこり、今日から3日間自宅謹慎だ。だから、帰ってくれ」

 

そして、部長は社員全員を集めた。

部長が言う。「ひょっこりには、厳罰を加えたが、悪いのは、ひょっこりだけではない。オバタに酒を飲ませた人は、正直に名乗り出て欲しい」

正直に9人が名乗りをあげた。9人にはペナルティが課された。ひょっこりを含む10人で、オバタさんの入院費、治療費を折半で支払うように言われた。

そして、今後、歓迎会、忘年会、新年会は、永久に中止することが告げられた。

 

「酒は怖いっすねえ」獅童氏似が、大きなため息をついた。

違いますよ。酒は怖くない。人が怖いんです。バカが怖いんです。

重苦しい雰囲気の中で、打ち合わせをした。

私は、そういう空気が苦手なので、獅童氏似に「ホットコーヒーが飲みたいですねえ」とおねだりをした。

5分11秒後に、私の前にホットコーヒーが置かれた。獅童氏似は、コーラっぽいものを手に持っていた。

 

たとえば、他人に、俺の入れたコーヒーが飲めないのか、って強制する人っているんですかね(カフェイン苦手なんです)。俺の作った味噌汁が飲めねえのか(塩分控えているんで)。俺が買ってきたタピオカドリンクが飲めねえか(カエルの卵みたいで気持ち悪くて)。今搾ったばかりの牛乳が、なんで飲めねえんだ(低脂肪乳でなくちゃイヤだ)。

 

俺の酒が飲めないのか!

不思議ですよねえ。酒のときだけ、日本全国どこにでもいるバカは、本当のバカになる。

酒の強要を受けて、今まで何人の人が命を落としただろう。逃げろ、というのは簡単だが、日本全国どこにでもいるバカは、バカだから、自分が悪いことをしていることに気づいていない。

つまり、自覚がない。それが、パワハラ、虐待だということに気づかない。自覚のないバカほど危険な生き物はいない。

こんなことを言ってはいけないだろうが、獅童氏似の会社にも、そんな日本全国どこにでもいるバカが最低10人いたということになる。

私は、そんな酒強要場面を自分が体験したら、相手の襟首掴んで引きずり回すという暴挙に出て、周りの空気を白けさせるのが趣味である。

テメエの汚ねえ酒なんか飲めるか!  控えおろう!

私がそう言うと、獅童氏似が頭を下げた。「俺の判断が甘かったんです。俺が嫌いなことを部下がやっているのだから、俺が責任を持ってやめさせるべきでした」

コーラを持つ手が震えていた。

 

私は、人を慰めるのが苦手なので、ピントのずれたことを言って、フォローした。

獅童氏似さんが、ひょっこりを叩いたのは、俺はいいと思いますよ。窮屈な考えの人は、暴力はいかん、と非難するかもしれませんけど、俺は応援しますよ。

ただ、獅童氏似さんは優しすぎる。俺だったら、グーで殴っています。しかも、腰の入った右フックを。

 

「Mさんだったら、本当にやりそうで怖いなあ。いま一瞬鳥肌がたちましたよ、ほら」

人の鳥肌を見るのは趣味ではないのだが、目の前にあったので、見てあげた。気持ち悪かった。

 

 

まあ、グーで殴るは、冗談ですけど・・・・・ハハハ。

(実は、今までに1発ありました。私は、人の酒の楽しみを奪うバカが、機雷帰来嫌いなんですよ)

 


ジジイとせんせー

2019-06-02 05:05:00 | オヤジの日記

私が親しみを込めて「ジジイ」と呼んでいる人がいる。

 

きっかけは、近所の噂だった。埼玉から東京武蔵野に移ってきたとき、私に関して「あの人無職よねえ」というヒマな疑問が、ご近所で浮かび上がったのだ。

たまにスーツを着て出かけるが、通勤帰宅の時間が一定していない。平日の昼間からランニングをしている。日曜日は、自転車の荷台に食材をどっさりと積んでいる姿を見かける。スーツ以外のときは、無精ひげを生やしている。

怪しい。

余計なお世話なんですけど。

 

私は、他人の生態に全く関心がないので、ご近所に、どんなに胡散臭いと言われても気にならない。

近所の自治会の副会長さんとオンボロアパートのオーナーが、私を知ってくれればいいと思っていた。

だが、ヨメは違った。

「世間体が悪いから、お願いだから、しばらく朝8時半くらいに家を出て、夕方に帰ってきてくれる?」

それからは、しばらく規則正しい生活をした。マクドナルドでコーヒーを飲みながら仕事をし、サイゼリア、スターバックス、イトーヨーカ堂地下のフードコート、図書館などでも仕事をした。

そのことがあったせいか、私は、外でパソコンカチャカチャがトラウマになった。

そんなとき、私は、ある日森の中  クマさんに出会ったあとで気づいたのだ。

カフェを転々とする方が、よっぽど不審者ではないか。普通に怪しい人だ。

そのあと、花咲く森の道でクマさんに出会ったとき、「お嬢さん、お逃げなさい」ではなく「チラシを配布してみたらどうでしょうか」というヒントをもらった。

 

私はすぐにB5判サイズのチラシを400部プリントして、近隣一帯にポスティングした。

仕事をしているとアピールするためだ。

デザイン引き受け候  ホームページ作り候  パソコン教え候  という雑なチラシだった。

それに反応したのが、当時71歳のジジイだった。

「パソコン完全初心者のジジイだけど教えてくれるかい」

ジジイの家は、オンボロアパートから150メートルくらいの距離にあった。一軒家だ。50過ぎに熟年離婚をしたジジイは、独り暮らしだった。子どもは3人いたが、皆独立していた。

中肉中背。頭には毛がほとんどない。いつもジャージだ。さらに、剣道2段。ご近所に入ったコソ泥を、竹刀を持って追いかけてボコボコにしたという武勇伝があった。

「金は余ってないけど、時間は余っている。1年間くらい、みっちり教えてくださいな。せんせー」

1週間に1回、3時間教えることになった。教えてみると、見事な初心者だった。両指が、思うように動かず、人差し指タイピングが基本になった。マウスの右クリック「アンドゥ」など基本操作を覚えるのに、半年以上かかった。ただ、後半からは、急にスピードアップして、一年未満で、ブログと画像加工ができるようになった。

「思った以上に楽しいな、せんせー」

ジジイの努力の賜物ですよ。

わたしは、ジジイのことを、初めはサワキさんと呼んでいたが、ジジイが会話の中で「ジジイ」を連発するので、いつのまにか、ジジイになった。そのことに関して、ジジイに怒られたことはなかった。

 

パソコン講習が終わったのちも、たまにジジイの家に行って、安否確認をした。孤独死されては、困るからだ。

ジジイの家に1時間程度いて、ジジイが挽いて淹れてくれたコーヒーを飲んだ。ジジイのコーヒーは美味かった。ほとんどが濃厚なエスプレッソだったが、何杯でも飲める豊かなコクがあった。

おそらくジジイの心が豊かだから、ジジイは、そんな豊かなコーヒーを淹れられるのだと思う。

ジジイは、福井県の高校を卒業して、東京で専門学校に通い、東京の大手航空会社に勤めた。55で辞めた後は、清掃事務所に5年勤めた。そのあと介護会社に10年。

働き者のジジイは、ほとんど無遅刻無欠勤で70まで働いて、日本社会に貢献した。

 

天晴れなジジイだ(偉そうに言ってゴメンナサイ)。

 

ジジイとの付き合いが9年を超えた今年の5月、ジジイから電話があった。

私たちが、武蔵野から国立に越してからは、距離が遠くなったので、頻繁に会うことはなくなった。年に2回程度、私が訪問するだけだ。あとは、1ヶ月に1、2回の電話。

ジジイはこの2年間、私に遠慮して、電話をかけてくることがなかった。しかし、先週の火曜日に電話があった。

「せんせーともお別れだな」

お別れ?  あっちの世界からお迎えが来たの?

「まあ、近いものがあるな」

ジジイが説明するには、ジジイの別れた奥さんは、高齢になって長男に引き取られた。その元奥さんが、昨年の7月に亡くなった。

長男は、あまり真剣に母親の面倒を見られなかったことを後悔していたらしい。

そこで「一緒に相模原で暮らそうよ」というラブコールを今年80になるジジイに送った。

ジジイは、もともとない毛を引きちぎるほど悩んだ。悩んだ結果、その誘いを断った。

だが、神奈川県相模原市に移ることは、決心した。

どういうこととと?

「俺が相模原の老人ホームに移るってことよ。幸い武蔵野の家が売れて資金ができた。それに、俺、年金けっこうもらっているんだよね。子どもたちに、迷惑はかけない」

「せんせー、引っ越す前に、俺と会ってくれないかな。一緒にご飯を食べたいな」

 

そのジジイの要望を汲み取って、私はジジイを我が家に招待することを提案した。我が家族全員でだ。

一応、ご近所のよしみで、ジジイと家族は面識があった。

娘は、ジジイのことを尊敬を込めて「ジジイさん」と呼んだ。

「嬉しいな、せんせー。お言葉に、甘えさせてもらうよ。最後の晩餐ってやつだな、いや昼だから午餐か。なんかドラマチックだね」

何が食べたいですか、と聞くと、「まるで子どもみたいで恥ずかしいんだけど、ハンバーグが食べたいね。俺、ハンバーグが大好きなんだ」ジジイがへへへと笑った。

 

今日の昼、ジジイが我が家にやってくる。

とびきりのハンバーグを作って、おもてなしだ。

そして、ジジイは明日の朝、神奈川県相模原市に旅立つ。

 

もう会えないかもしれない。

 

 

だから、最後は、達者でなジジイ!  と家族全員で、笑って送り出そうと思う。