リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

排他的な人たち

2014-02-23 08:39:00 | オヤジの日記
前回も書いたが、冬季オリンピックの採点競技は、不透明で納得のいかないことが多い。

先日の女子フィギュアで、金メダリストの点数に関して「疑惑」が持たれている、と書かれたネット記事を見た。
実際の競技を見ていないので、どこが「疑惑」なのか、私にはわからない。

ただ、キム・ヨナ選手が銀メダルに終わったことをキム・ヨナ選手の母国の方々が怒っているというのは、記事を呼んで理解した。

採点競技は、協会側が、どんなに「厳正に採点した」と主張しても、採点者の主観が想像できたり、大国の横やりが想像できるから、その主張にあまり説得力を感じない。

しかし、理性ある抗議はいいが、強圧的な感情の勝った抗議は、あまり気持ちのいいものではない。

キム・ヨナ選手の母国は、勝てば大騒ぎをするが、負けたら人のせいにする、という例が過去何度かあった。
抗議は、人としての権利だが、数を恃んだ理性の欠けた抗議は、正当な世論とは認められないのではないか。

排他的な国は、スポーツの世界でも排他的な感性で、価値観を歪めようとする。

採点競技は、うさん臭いので、私は見ないようにしているが、ネットの記事を見て、運良く日本がメダルを取ったのを知ったときは「アッパレ」をさし上げるようにしている。

私だけの考えだと思うが、運がよくても悪くても、その結果を受け入れるのが、採点競技だと思っている。
私も排他的な男だが、その程度の運命を受け入れる覚悟はある。


キム・ヨナ選手が表彰台で、銀メダルを持って微笑んでいる姿をネットで見た。

美しいな、と思った。

ロシアの選手も美しいな、と思った。
もちろん、イタリアの選手も。
(そして、浅田真央さんも)

技の美しさを見せる「ショー」で、美しい3人が栄誉を受けた。

それが、女子フィギュアというものではないか、と私は思っている。



少し話は変わるが、関東地方に2度目の大雪が降った日の夜、大学時代の友人の息子から、突然電話があった。

友人の息子は19歳の1浪。
「テレビのニュースで東京の雪の場面ばかり流すのは無駄じゃないか。大雪が降っていますなんて一度流すだけでいい。こっちだって雪は降っているんだ」
「俺たちには、東京の雪なんて関係ないし、そんなニュースはいらない。雪が降るたびに大騒ぎして電車が止まるなんて情けないと思わないのかね」
「こっちじゃ、20センチ程度の雪は当たり前すぎて何を甘ったれてるんだと思うよ。東京、ざまあ!」

若者らしい、偏ったご意見である。
それに対して、私は東京コンプレックスもいい加減にしろ、と説教した。

もちろん、そんなことを言われて「はい、わかりました」と答える素直な19歳など、おそらくこの地球上にはいない。
「俺たちの生活には、あんなニュース関係ないでしょ! 俺のとこは新潟だもの。東京のニュースなんかいらないよ!」と反発された。

ニュースは、フミヤ(友人の息子)のためだけに、あるのではない。
すべての人のためにある。

たとえば、遠くに暮らす親が、自分の息子が働いている東京で大雪が降っているのを知ったら、心配になって、もっと詳しいニュースが見たくなるだろう。
あるいは、東京に出張しようとしている人が、関東地方の交通機関の状況を詳しく知りたくなるのは、当然のことだ。

俺の友だちは、今回、法事に帰った名古屋で雪に遭遇し、さらに東京の交通機関が麻痺しているのを知って、俺のところに頻繁に連絡をしてきたよ。
俺は、テレビやラジオのニュースを聞いて、新しい情報を逐一メールで知らせた。
テレビやラジオがあるから、できることだ。

テレビのニュースは、フミヤのためにあるんじゃない。
新しい情報を知りたい、みんなのためにあるんだ。
東京だから、地方だから、というのは関係ない。

もちろん、普通の19歳が、父親の友人の説教がましい話を素直に聞くわけはなく、ほとんど無言のリアクションしか返ってこなかった。

父親に電話を代わってもらったあとで、友人に、ごめんな、余計なこと言っちまった、と謝った。

「いや、謝るのは俺の方だ。俺が相手をしてやらないから、おまえに不満をぶつけたんだろうな。まあ、何も言われないよりかは、いいんじゃねえか」
4年前、偶然東京駅地下のカレー屋で、20年ぶりに再会して付き合いが復活した、かつお節製造会社の経理部長は、豪快に笑った。

「若いやつみんなが、そうじゃないが、排他的なやつが多いからな。俺の息子も排他的なんだよ。自分のまわりのことにしか興味がないから、未知のものに対して臆病なんだ」

まあ、それはわからなくはない。


私も排他的だから。



オリンピックは大人の事情

2014-02-16 09:12:00 | オヤジの日記
41歳のレジェンド、銀メダル、おめでとうございます。


連日、テレビではソチ・オリンピックを中継している。

日本人選手の活躍が気になるので、インターネットの記事で結果だけはチェックするが、中継は見ない。
冬季オリンピックの採点競技の多さに、どうしても馴染めないのが一番の理由だ。

スピードスケートやスキーの滑降などは、単純に速さを競うものだから、わかりやすい。
天候などの運に左右されたとしても、国同士の不条理な力関係が不自然な結果を招くことは稀だ。

歴然とした不正でもない限り、その結果には、納得がいく。

だが、採点競技は、不透明だ。

もちろん、公正な採点者が、規則に則って厳格に評価をしているのだとは思う。
一つ一つの技をチェックして、技の優劣を決めているのだと思う。

しかし、私は採点者個々にもレベルの違いがあると思っている。
IOCから認められた公式の審判員だったとしても、全員が同じレベルではない。
少しでも採点技術の劣った人がいたら、その競技自体、公平性が怪しくなるのではないか、と私は疑っているのだ。

さらに、主観の強い採点者がいた場合、その競技の公平性は、かなり不確かなものになるのではないか。

それに、これは言いがかりになるかもしれないが、欧米人には、冬季スポーツというのは、欧米人のものであるという意識が強いように思われる。

冬季スポーツの主役は、俺たちだ。

だから、欧米人が勝てなくなると、頻繁にルールを変える、ということが、過去に何度かあったような記憶がある。
(スキーの長さやウェアの密着性、採点の比率を変えたりなど)

もちろん、彼らはそれを「合理的なこと」として、ルールを変えたのだと思うが、欧米人の「合理的」は、他の人種にとっては「不合理」であることが多い。

要するに、私の目には、冬季スポーツにおける欧米人の「合理性」に対する多人種の「不合理性」がバランス悪く映るのである。


ただ、オリンピックをスポーツではなく、ただのショーである、あるいは祭りである、と割り切るなら、4年に1度の見せ物としては、悪くない。

色々な人種を見ることができるし、新しい種目もショーとしてみるなら、新鮮でいいものだ。

大国のナショナリズムが鼻につくこともあるが、それも小学校の運動会で、父兄が自分の子を懸命に応援しているのと同じだと考えれば、目くじら立てることはないのかもしれない。
小学校の運動会だって、学校や教師の都合で、種目やルールが変えられることがある。
すべては、大人の都合だ。

オリンピックも大人(欧米人)の都合で、欧米人の祭りに、多人種がゲストで招かれているだけ、と捉えればいいのだろう。


次回のオリンピック開催地は、韓国の平昌(ピョンチャン)だという。

開催地はアジアだが、主催者は紛れもなく欧米国である。

韓国の方には、くれぐれも自分たちが主催者だとは思わずに、欧米人の顔を立てて、見事なショーを作って欲しいと思う。


そうしないと、将来、大人(欧米人)の都合で、アジアの国が開催地から外されてしまうこともあるかもしれないから。



また、これは、余計な話だが、オリンピック中継を見ない理由が、私にはあと2つある。

オリンピック中継は、NHKがメインである。
しかし、私には子どもの頃からNHKを見る習慣がない(受信料は払っています)。
だから、見ない。

では、民放の中継を見ればいいではないか、というご意見もあるのだが、どういうわけか、民放のキャスターは、大手男性アイドル事務所の方がやっていらっしゃることが多い。

言い方は悪いが、素人キャスターの中継は見たくない。

もちろん、普段の彼らの仕事ぶりから察すると、事前にかなり勉強してから中継に望むことは想像できる。
だが、それでも、私にとって、彼らは素人なのである。

ただ、この場合も、オリンピックがショーなら、オリンピック中継もショーだよ、という考え方もできる。

祭りは、楽しければいいんだよ。
アイドルが、キャスターでもいいではないか。
そんな考え方もある。

しかし、彼らがキャスターとして起用された裏にも「大人の事情」があるのだろうな、と考えたとき、私は見る気がなくなってしまったのである。



インターネットで結果さえ抑えておけば、人との会話に困ることもないし………。


これは、「大人の事情」ではなく、「私の事情」ですが。



公園の砂場

2014-02-09 08:38:00 | オヤジの日記
東京都知事選は、雪景色の選挙になりそうだ。

投票率は、かなり下がるかもしれない。
その場合、組織票を多く持っている候補者が強いだろう。
舛添氏と宇都宮氏の一騎打ちになるか、舛添氏のワンサイドゲームになる可能性もある。

だから、こんなつまらない展開には、興味がない。
投票にいくのを一瞬ためらったのだが、いままで折角積み重ねてきた、「投票皆勤賞」をここで終わらせるわけにはいかない。
とりあえず、投票所に行ってみて、投じる相手を、その場で決めようかと思う。


話変わって、任期途中で、また辞めると言っている大阪市長。

そして、市長は、市長選にかかる税金を「民主主義のコスト」と詭弁を聾し、対立候補を出さない政党は「卑怯だ」と言っている。

自分が任期途中で辞めることは、卑怯だと思っていないようだ。

自分の政策を邪魔する人がいるから、市長を辞めて再び市長選をやる。
自分は人気があるのだから、勝てば民意を得たことになる。
そうすれば、「正義は俺にある」とでも強弁したいのだろうか。

「独裁者」を好む人は、自分の頭で考えることが苦手な人が多いと私は思っている。
自分で考えるのをやめて、「独裁者」の言うことを聞いていた方が楽だからだ。

だが、歴史的に、いい「独裁者」がいた例は稀少だ。
そして、その稀ないい「独裁者」でも、その末路はいつも破滅だ。

彼が、どの末路を歩むかは、私は予言者ではないので、わからない(当たり前)。

大阪市民の方々には、申し訳ない言い方になるが、お好きなように、と言うしかない。


大阪市長選には興味がないが、市長の性格には興味がある。

小沢一郎氏、石原慎太郎氏に、とてもよく似ていると思うからだ。

お三方の共通点は………協調性がない。
調整能力がない。
議論ができない。

このお三方は、マスメディアに対して、いつも高飛車である。
押しつけるような有無を言わせぬ物言いで、相手の言論を封じる。
最初から、議論をするつもりはないのか、と思っていたが、最近では、人と議論する能力がないのではないか、と思うようになった。
あるいは、議論をして、言い負かされるのが怖いのか。

喩えは少し違うかもしれないが、臆病な犬ほどよく吠える、の類いなのではないか、と私は思っている。
相手に威嚇される前に自分から威嚇する。
そうしないと、自分の優位が保てない気がして安心できないのだろう。

そして、お三方とも、報道陣の質問に対して、よくこの言葉を使う。
「もう少し勉強してきなさい!」

この言葉は、報道陣にとっては「殺し文句」になる。
その効果は、絶大だ。
そう言われたら、たとえ有意義な質問でも取り下げるしかない。
しつこく質問したら、おそらく次の記者会見で、質問をさせてもらえない可能性がある。

要するに、「勉強しなさい」は、恫喝だ。
勉強不足かどうかは関係がない。
答えられない質問には、「勉強しなさい」と答えておけば、質問封じになる。

つまり、俺の記者会見に、これからも参加したいのなら、もう黙れよ、ということだろう。

マスメディアの何割かは、勉強不足かもしれないが、お三方より、知識の深い有能なジャーナリストもいるに違いない。
彼らは、有能であるが故に、強面のふりをした政治家に、本気でぶつかることはしないのだと思う。

そんな政治家のイメージを定着させたまま、政治家の意に添うようなイメージ通りの記事を書いて油断させる。
そして、その政治家が、大きな失態を演じたときに、ここぞとばかりに叩く。
溜飲を下げる。

臆病が故に、強面の振りをする政治家たち。
それを怖がる振りをする「勉強不足」を装うジャーナリストたち。

もちろん、これは妄想だが、こんな妄想でもしない限り、自己中心的な政治家たちの存在を直視することはできない。


最後に、もう一つ言わせてもらうと、このお三方に小泉純一郎氏を足した四人には、私は「大人」を感じない。
大人の味わいが欠片もない。

自分が手にしたおもちゃは、絶対に手放さない。
それに手を伸ばす人がいたら、口汚く威嚇して、他者を容赦なく攻撃する。
そして、理論の欠落した行動で、その場を支配しようとする。

まるで公園か幼稚園の砂場を、そのまま政治の場に持っていったような光景がそこにある。



ただ、公園の砂場が、まだましなのは、ガキ大将が得意げに「もっと勉強してこい!」と言わないところだろうか。


無視が一番いい

2014-02-02 08:45:00 | オヤジの日記
ファミリーマートのコンビニ弁当は食ったことがない。

最近のコンビニ弁当は、かなり研究されて作られているから、安い割には美味いと聞く。

フォアグラを使った弁当も美味かったのだろうな、と想像する。

ファミリーマートが工夫して作った「フォアグラ添えハンバーグ弁当」は、高級食材を使っているにもかかわらず、600円台で販売される予定だったらしい。

しかし、消費者などからクレームが来て、販売中止に追い込まれた。

ネットの記事を見ると、「22件のクレーム」が寄せられたという。

22件なんて、少ないじゃないか、という人もいたが、それは浅薄なご意見だ。
「クレーム」という強硬手段に出る人は、ごく限られた特殊な人だが、その裏には同じことを思っていても抗議しない人がたくさんいる。

何かに対するデモなども、参加する人は少数でも、同じように抗議の意志を持っている人は、その何十倍もいることが多い。

たった22件なのに? ではなく、抗議という手段に出た人が複数いたことが重要なのである。
会社側は、そのことを尊重したのだと思う。

ただ、販売を中止することはなかったのではないかと思う。

抗議が来た。
面倒くさいことになりそうだから、中止にしよう。

私には、会社側の対処の仕方が、投げやりに思えてしまったのだ。

フォアグラという食材が、もともとガチョウの肝臓を無理やり肥大させることから、「残酷だ」と非難する欧米の国もあると聞く。
今回は、会社側が、そんな欧米の風潮も加味して、早々と白旗を揚げたのではないだろうか。

「大問題」にならないうちに、やめてしまおう。
その方が、傷口が小さくて済む、という臆病な危機管理が働いた可能性もある。

あるいは、高級食材は他にいくらでもあるのだから、厄介なフォアグラはサッサと切って、他を探した方が次の展開が早くなると現実的に考えたのか。


しかし、今回のように、クレームが来たら即座に取りやめる、という風潮が他の業界にも蔓延してきたら、制作側のモチベーションは確実に下がるだろう。

ありふれた無難なもので商品を作る方が安全だ、ということになれば、奇抜な作品が生まれにくくなるのではないか。

私だったら、この場合どうするか、と考えた場合、答えは一つしかない。


無視する。


食べてから「まずい」とクレームをつけられるのは我慢できる。
まずいものを作った方が悪いからだ。

しかし、食べもしないで、食材が「残酷だから」では、全く論理的ではない。
私の中には、熊の右手の料理やヤギの脳みその料理など、あるいは牛に無理やりビールを飲ませて肉を柔らかくする手法と比べて、フォアグラは本当に「残酷」なのか、という下世話で喧嘩的な論争をしたくなる願望がある。

だが、下世話過ぎて、自己嫌悪に陥りそうなので、この場合は無視した方が得策だ。

不毛なクレームには、無視が一番いい。


あるテレビドラマが、物議をかもしているが、この場合も、「最終回まで観てから文句を言ってくれ」と無視する。


米国駐日大使が、「イルカの追い込み漁」に関して、苦言を呈したという。

欧米人は、異文化に対する許容能力が低い。
それは、彼らの脳の中に、侵略と略奪で、自国の文化を他国に押しつけてきた歴史が刻み込まれているからだろう。
文化は俺たちが与えるもので、相手を理解するものではない。
他国の文化には価値がない、という意識が強いのだと思う。

環境保護という大義名分を掲げ、クジラやイルカと共存したいと考える、おとぎ話好きの欧米人は、合理的な人たちでもある。
いつか、クジラやイルカが増え過ぎて、欧米社会に害を及ぼそうとしたら、彼らは、ためらうことなく「アイツらを排除せよ!」と騒ぎ立てるに違いない。

要するに、異文化を介在して、欧米人と価値観を共有するのは無駄だから、無視した方がいいということだ。


ファミリーマートの弁当やテレビドラマの件も含めて、「無視」が一番いい「戦略」である、と私は思っている。