リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

トンだボーズ

2018-11-25 06:08:00 | オヤジの日記

今週の金曜日、大学時代、2学年下だったカネコからLINEが来た。

「話したいことがあるのだが、時間は取れるか」

とれない、あばよ〜〜(豚がバイバイしているスタンプ)

 

今度は、LINE電話が来た。

「俺が国立に行く。1時間でいいから頼む」

頼まれる。国立駅南口から213メートルのところにあるロイヤルホストで2時に集合。1時間だけ時間をくれてやるのだから、おまえの奢りでいいな。

「もちろん」

 

このロイヤルホストは、月に一回、カネコの娘・ショウコが二人のガキを連れてやってきて、強制的に私に昼メシを奢らせるところだ。

人呼んで「ガイコツいじめのショウコ」。とても可愛い娘だ。

この日は、その仇をとってやろうかと私は目論んだ。店のメニューを片っ端から平らげてやろうと思ったのだ。

 

ここで補足説明。

カネコは、私が大学3年の時、新人として私が所属する陸上部に入ってきた。800メートルと1500メートルが専門の線の細い男だった。

カネコは体型が細いだけでなく、心の線も細かった。結局、陸上部になじめず、半年足らずで部をやめた。

才能があるのに、惜しいなと思った。

カネコのことが気になった私は、キャンパスで彼を見かけると必ず声をかけた。最初の頃は、反応の薄かったカネコだが、1年の後期終わりには、学食でメシ食おうぜ、と誘うとついてくるようになった。

そして、陸上部の仲間との飲み会にも、誘えば2回に1回はついてくるようになった。一番端っこで、黙って飲むだけだったが、内気なカネコとしては大きな進歩だった。

おまえは、未成年者に酒を飲ませたのか、というご批判には、私は左耳を手で覆うことで答えることにする。

 

そんな気持ち悪い付き合いが、それからのち1年間続いた。

私は、他の大学のことは知らないのだが、私が通っていた大学では、規定の単位を取得すると卒業できるシステムになっていた。

私は、不覚にも取得してしまったので、大学を追い出されることになった。

卒業式の前の日。カネコから電話があった。

「マツさん、卒業おめでとうございます」

それから、沈黙が続いた。面白いので、何も言わずに放っておいた。

沈黙。おそらく1分6秒くらいだっただろうか。でかく息を吸う音のあとに、カネコの叫び声が、私の耳の鼓膜を震わせた。

「卒業しても、会いたい!」

とんだ愛の告白だ。言う相手を間違えているんじゃないか。

こんなワタクシで、よろしいのかしら?

「ボクは、真面目です!」

このときまで、カネコは冗談の通じない、つまらない男だった。

 

しかし、時は流れて、いま目の前にいるカネコは・・・・・。

芋洗坂係長に似た滑稽な男に変身していた。

初めて見たときは、173センチ、60キロのアスリート体型だった。それがいま、100キロ弱の家畜体型になっていた。

私は、他の大学のことは知らないのだが、私が通っていた大学では、規定の単位を取得すると卒業できるシステムになっていた。

カネコも、その結果、大学を追い出された。そして、中堅の住宅設備会社に就職した。

就職というのは、内気なカネコに、相当な試練とストレスを与えたようだ。カネコは、仕事帰りに食い物を大量に口に入れることで、自分の心をコントロールすることを覚えた。だが、体型だけはコントロールできなかった。

ほとんどの人は、食べれば太る体質を持っていた。カネコは、3年間で25キロの肉を体に巻きつけた。85キロになったのだ。逆RIZAP状態だ。

 

話は遡って、私が大学を卒業して2ヶ月経った頃、カネコと酒を飲んだ。そのとき、私はカネコに言った。

俺は、先輩風を吹かすのが好きじゃないんだ。俺は、おまえより2年早く産まれただけだ。たいした違いはない。だから、友だちとして付き合おうぜ。「マツ」って呼んでいいから。

カネコは、最初のうちは遠慮して、私のことをいままで通り「マツさん」と呼んだ。しかし、25キロの肉を巻きつけてからは、少しづつ態度が変わってきた。

「俺は、85キロ。こいつは58キロ。こんな貧弱な男より、俺の方が上等なんじゃないか」

カネコが、そう思ったのかどうかはわからない。

しかし、デブになってから、あきらかにカネコの私に対する態度が段階的に変わってきた。

「マツさん」から「マツ」、そして「おまえ」に。

カネコが、30を超える頃には、もう2歳差など無いに等しかった。むしろ、私の方が負けていると言ってよかった。

カネコは、内気を克服したのだ。よかったね!(怒り)

 

その後、カネコは35歳で結婚した。この結婚には、数々の偶然のロマンスがあったのだが、豚のロマンスを書いても美しくないので、当然ながら割愛する。

この結婚で、カネコは最初から6歳の娘を手に入れた。

ショウコだった。

ハッキリと物を言い、頭の回転が早く、とても母親思いの大人びた子だった。

結婚披露宴で、初めて私の顔を見たショウコは、「おじさん、ビョーキ? やせすぎじゃない?」と容赦のない声を私に浴びせかけた。

この日のご馳走のために、昨日の朝から何も食べていないんだ。

「ハハハハ、バーカ」

 

その披露宴で、ショウコは、私の膝に座りっぱなしだった。ずっと座りっぱなしだったから、スピーチもショウコを膝の上に乗せてやった。

ショウコとの出会いは、そんな感じだった。

ショウコとは、それからのちも、それなりに濃密な時間を過ごしていたが、この回は、それがメインではないので、以下省略。

 

目の前の芋洗坂係長(私は密かに『紅の豚』と呼んでいた。サングラスをかけるとソックリになるので)は、サーロインステーキとライスセットを頼んだ。

私は、生ハムとソーセージグリル、一番搾りを頼んだ。お代わりするのが面倒くさいので、いっぺんに三杯頼んだ。

一杯目を飲み干したあと、紅の豚に私は言った。

話ってなんだ。

紅の豚は、あっという間にサーロインの半分を胃に収め、ライスも収めて、ライスのお代わりをした。心なしか、ブヒブヒという声が聞こえたような・・・。

豚がライスを頬張りながら言った。

「女房と喧嘩したんだブヒブヒ。もう四日間、口をきいてくれないんだブヒブヒ」

「仲直りの方法を教えてくれないかブヒブヒ」

 

普通の人だったら、喧嘩の理由を聞くところだろうが、私は、そんな面倒くさいことはしない。

よその夫婦喧嘩の理由になんか、興味がない。そもそも紅の豚の夫婦関係が仮面だったとしても、世の中の大勢には何の影響もない。そのままで、いいのではないか。

だが、そんな心とは裏腹に、私はカネコに親切心を出した。

おまえのうちは、犬を飼っていたよな。たしか、コーギーだ。

「ああ、昨年の暮れに死んでしまったが」

奥さんは気落ちしたろ。

「声もかけられない状態だった。そのせいで、正月は暗かったな」

奥さんは、今もボランティアに行っているのか。

カネコの奥さんは、災害の大小に関わらず、困った状況の人がいたら、お友だちを募って四駆で駆けつけた。

そして、普段はご近所の一人暮らしのご老人たちの様子を見に、頻繁に動き回っていた。

ボランティア精神あふれた人なのだ。まあ、カネコと結婚したこと自体が、ある意味ボランティアではあるが。

 

私は3杯目の一番搾りを飲み干したあとで、カネコに向かって空のグラスを振った。

カネコは、まるで豚のように短い指で、3を表現した。器用な豚だ。

3杯の一番搾りが目の前に並んだのを確かめた私は、カネコに言った。

奥さんとふたりで、保護犬を飼うってのは、どうだい。ふたり協力して、不幸だった犬の面倒を見る。夫婦の絆が深まるとは思わないかい?

これは、最近、極道コピーライターのススキダが、保護猫を飼い始めたのをヒントに、適当に言ったことだった。

私は、一部の中国人のように、他人のものをパクることを何とも思わない恥知らずだ。パクリは文化だ。

私のいい加減な提案に、カネコは小さい目をパチパチさせて、興味を示した。そして、ライスのお代わりをまた頼んだ。

それから、鼻息をブヒブヒと吐き出した。

「いいな、それ。まさしく、女房好みのブヒブヒじゃないか」

そうだな、ブヒブヒだな。

 

3杯目のライスを食い終わったあとで、カネコが突然バッグから包みを取り出した。

「おまえ、誕生日が近かったよな。もらいもので悪いが、これ受け取ってくれないか。BOSEのヘッドフォンだ。おまえ、音楽好きだったろ」

(ため息をつきながら)カネコ、おまえ、俺にまったく興味がないだろ。

「どういう意味だ?」

覚えてないのか。俺は、右耳が聞こえないんだ。だから、25年間ヘッドフォンを使ったことがない。右側の音が聞こえなかったら、音を楽しく聞けないからな。

目の前の紅の豚の口が大きく空いた。そして、その口がパクパクと動いた。おお! これが噂に聞く「紅の豚金魚」か。額から汗が急速に吹き出してきたぞ。

「とっぱつせいなんちよ〜〜」

紅の豚が、汗を手の甲で拭きながら、頭髪の薄くなった頭を下げた。

「すまん、本当にすまん、うっかり忘れていた。それは、取り下げる。何か欲しいものはあるか? 何でも言ってくれ、すぐに買うから」

では、そのヘッドフォンをくれ。

「はあ?」

俺の娘が、昔からそのヘッドフォンを欲しがっていた。しかし、高くて手が届かなかったんだ。絶対に娘が喜ぶから、くれ。

「ああ、いいぞ、もらってくれ」(紅の豚が嬉々)

 

誕生日  BOSEもらって  まるもうけ     高浜キョンシー

 

その日の夜8時前に、カネコからLINE電話があった。

「女房と仲直りした。保護犬の話は効果絶大だったな。ものすごい乗り気だった。前のめりすぎて、ブレーキをかけるのが大変だったよ。しかし、助かった。本当に、ありがとう。礼をしたいんだが、何がいい?」

 

今年の暮れ12月30日に、娘が正月休みで東京に帰ってくるんだ。ものすごく米が好きな娘でな。おいしい米を食わせてあげたいんだ。年の瀬で悪いが、お願いできないか。

「年末年始は、予定がないから構わない。米のうまい店だな。任せてくれ」

 

しかし、そのあとで、カネコが「うーーーーーーん」と唸った。

「あれ? おまえの娘、東京の鉄道会社に勤めているって言っていなかったか」

 

電話を切った。 

 

 

 

はっぴばーすでー  じぶん〜  🎶

 


天涯孤独のひと

2018-11-18 05:42:00 | オヤジの日記

慢性の寝不足が続いていた最近だったが、今週水曜日はグッスリ眠れた。だが、寝たら普通はスッキリするはずなのに、微妙な違和感があった。

 

その違和感を取り除くために、ランニングをしようと思った。LINEでランニング仲間のフリーランス・ドクターTに都合を聞いた。しかし「午後からオペなんで」と逃げられた。

仕方ない。一人で走ることにしよう。私を振った憎い一橋大学前の並木道を走ることにした。木々の葉は、100パーセント色づいてはいなかったが、紅葉を目に入れたことで、体の違和感が消えた。

 

水曜日は、2ヶ月ぶりの完全オフだった。今まで忙しくて先延ばしにしていたことを、昼メシの焼きオニギリと豚汁を食ってから決行することにした。

川崎の介護施設に入所している遠い遠い親戚のタカシさんに、原付バイクで会いに行くのだ。

タカシさんは、よく系譜は理解できないが、死んだ母の親戚だった。

今年の2月に、母が死んだことは知らせた。しかし、まだ実際に会っての報告はしていなかった。

タカシさんには、身内が一人もいなかった。母と私が、細いなりにも繋がっていただけだ。

タカシさんは、2年以上前、新潟で一人暮らしをしていたとき、火災に遭い、右足首に火傷を負った。足首は壊死状態だった。家は半焼したという。

一人では生活ができなくなった。だから、介護施設を探して、入ることにした。新潟には彼に適した施設がなかったので、医師の勧めで、新潟からは遠い川崎市高津区の施設に入ることになった。家も畑も全部売って施設に入所した。もう帰るところはない。

 

介護施設の談話室で、タカシさんに会った。

タカシさんに会うのは、今回で8回目だ。最初に母と一緒に会ったとき、気難しそうな人だな、と思った。口がへの字に曲がっていたから、そう思ったのかもしれない。いま、71歳。痩せ型、猫背で、絶えず貧乏ゆすりをしていた。

苦手なタイプだ。我が家系に、こんなタイプの人がいるとは、思わなかった。付き合うのは嫌だな、と思った。

今回会ったときも、口が曲がっていた。

そのタカシさんが、すぐにこんなことを言った。

「俺、若いとき、中学校の社会科の教師をしていたんだ。意外だろ」

意外だった。タカシさんに一番ふさわしくない職業だと思った。

「学校の教師の中で、生徒に一番嫌われていたんだ」と口を歪めながら自虐的に言った。

他の学校に転任しても、絶えず1番の嫌われ者だったらしい。

失礼だが、わからないこともない。

生徒に絶えず、辛辣なことを言っていたようだ。

たとえば、タナカ、おまえ社会科で二回連続で赤点とったろ。担任の俺に恥をかかせるなよ。それなのに、昼休みに校庭で遊ぶんじゃねえ。さっさと、教室に帰って勉強しろ!

ヤマグチ、セーラー服が皺くちゃじゃねえか、セーラー服は女の顔だ。まわりみんなが、おまえのこと、だらしない女だと思っているぞ、など・・・。

そんなことを、本人だけでなく、みんなの前で言うのだ。なかなか、いい教師だったようだ。

 

タカシさんは、公立中学校に勤めていた。住居も私の中目黒の実家から、500メートル程度の距離の借家だった。

しかし、偏屈者のサトシさんは、決して我が家には近ずかなかった。我が家には、元教育者の祖母がいたからだ。

普通の人には、とても優しい祖母だったが、教育者には厳しかった。

「教師は、生徒を最優先に考えるものです。誰もが親にとっては、大切なお子さんです。教師は、クラスを支配してはいけません。生徒の個性を見なさい。あなたは我が強すぎます。教師には向きません」

祖母に、そう言われて以来、中目黒の家には近ずかなくなった。

ただ、私の母は、ときどきタカシさんの家に様子を見に行っていた。いつも東急ストアで買った惣菜を5パック携えて。

「君の母さんは、穏やかな人だったね。分け隔てがなく、優しかった。誰をも平等に扱った。俺には絶対にできないことだ。俺は人をみんな敵かゴミだと思っていたからな」

 

タカシさんは、40歳で教師を辞めた。突然飽きてしまったと言うのだ。

「生徒に嫌われるのにも飽きてしまったし、孤独にも飽きた。目黒での暮らしにも飽きてしまったんだ」

そこで、新潟の実家に帰ることにした。身内も知っている人も誰もいない新潟に。

新潟に帰る日、母が見送りに来た。上野駅の売店で、母は弁当など色々な物を買って、タカシさんに持たそうとした。しかし、あまりにも多すぎて、手に持てなかった。

そこで、母は手に持ったビニールバッグを開けて、買ったものをバッグに入れ、タカシさんに渡した。

「たまには帰ってきてね」と母に言われて見送られた。

「俺は、情に流されない男なんだ。だから、ほとんど泣いたことがない。でも、このときは泣いたな」

座席に座っても、涙が止まらなかった。電車が走り出してからも10分くらいは泣いていたという。

泣いたあと、お腹がすいたので、弁当を食べようと思ってバッグの中を探ったら、封筒を見つけた。

中には、「体に気をつけて」の紙片と一万円札が2枚入っていた。それを見て、また泣いた。

 

新潟県では、幼稚園の事務員の職を得た。しかし、タカシさんは、そこでも孤独だった。偏屈な彼に近ずく人はいなかった。

そして、新潟の豪雪。雪かきだけでヘトヘトになった。疲れた。

人は心が疲れ、体も疲れると、死にたくなるようだ。

新潟に移り住んで2年が経った42歳のとき、タカシさんは、死のうと決意した。そして、死ぬ前に、私の母の声を聞きたいと思った。

電話をした。

母は、その電話で、全てを悟った。今まで一度も電話をしてきたことがない男が、突然電話をしてきた。母の勘が働いた。

母は、タカシさんが話す前に、こう言った。

「死んでもいいですよ。あなたは、親も奥さんも子どももいない天涯孤独のひと。死んでも誰も悲しまない。だけどね・・・あなたが死んだら、少し私が悲しみます」

それを聞いて、タカシさんは、死ぬのをやめた。

「だって、君の母さんを悲しませたくなかったから」

 

「だけど、俺は薄情な男だよ。君の母さんが死んだのを聞いても涙が出なかった。少しは悲しかったけどね」

そのあと、沈黙が続いた。

あまりにも沈黙が長かったので、車椅子のタカシさんの顔を覗き込んだ。

タカシさんは、声を出さずに泣いていた。そのあと、体を折るようにして、両手で顔を覆って泣いた。今度は、声を出して泣いた。

 

談話室の柱時計が4つ鳴ったとき、タカシさんが、顔を覆ったまま掠れた声で言った。

「サトルくん、俺は・・・」

そのあと、いくら待っても、タカシさんから言葉は出てこなかった。

私は、タカシさんの背中をさすりながら、「また来ます」と言って、施設を後にした。

 

 

「サトルくん、俺は・・・」

 

そのあとタカシさんは、何を言おうとしたのだろう。

 


ラーメン

2018-11-11 06:11:36 | オヤジの日記

少し前のことだが、11月3日に、娘と2人で駒沢公園の東京ラーメンショーに行ってきた

私は、2015年から通っているので4回目。娘は初めてだ。

娘は最近、会社の同僚と仕事帰りに、よくラーメン屋さんに行くという。

その中でも新宿の蒙古タンメン中本が、お気に入りらしい。

帰りにラーメン屋さんに寄っても、10時過ぎに帰って普通に晩めしは食う。それで40キロをキープしてるから、間違いなく私のガイコツのDNAを継いでいるなあ、と思う。お互い、新陳代謝が良すぎるのかもしれない。

 

私は、ラーメンは嫌いではない。しかし、店に入るのは、年に3回から4回だ。千円もするような高級ラーメンを食う気にはならない。大抵は、390円のラーメンを食う。

外出先で、ラーメンが食いたくなったら、スーパーで日清のラ王のカップ麺とチャーシューを買って、お湯を借り、イートインのコーナーで食うことが多い。

これで、十分満足なのだ。

「貧乏くさい話だな」と娘。

「でも、ボクも昼ご飯は大学のコンビニで、よくラ王を買って食べたな。最後にスープに塩むすびを入れて、雑炊にすると美味いんだ。なんか、貧乏くさい親子だな」

 

渋谷からバスに乗って、駒沢公園へ。

駒沢公園は、陸上部の頃、競技大会が開かれたところだから、フランチャイズだ。それに、社会人になってからは、ほぼ毎週土日は、駒沢公園でランニングをした。中目黒の自宅から4キロ先の駒沢公園まで走り、駒沢公園のランニングロード2,1キロを2周して自宅まで帰った。

約12キロを50分から55分で走った。四季の移り変わりを眼や肌で感じて走るのは、とても気持ち良いものだった。

 

「ところでな」と娘が言った。

「それほど、ラーメンが好きではないお前が、なんでこのラーメンショーには、毎年行くんだ」

それは、こちらに書いたことがあった。

高校3年の時、ダースベイダーのように、フォースの暗黒面に落ちそうになった私を救ってくれた教頭先生がいたのだ。

まるで、ダンブルドア校長のように、その人は、ピンチに陥った私を救ってくれた。

「わかりづらい例えだな」

その教頭先生がいなければ、今の私はいない。

本当に恩師と呼べる唯一の人だった。

だって、考えてごらん。学校には800人近い生徒がいたのだ。800人のうちの1人でしかない私を教頭先生が知っていたとは思えないのだよ。

まわりは、イケメンで運動神経がよく成績もいい私のことを尊敬していたが、教頭先生のところまで噂が届いていたとは思えない。

娘にケツを殴られた。なんでだ!  本当のことを言ったのに。

 

そのあと、一応父親らしくもっともなことを言った。

「人生には、必ず、ターニングポイントがある。それを見逃すな」

「・・・・・・・」

あれ?  スルーされたか。

 

話題を変えた。

実は、お父さんには、1つ汚点があるのだよ。

一橋大学の受験をしくじったのだ。模擬試験では、合格率75%と出ていたのに、しくじっちまった。

教頭先生に、しくじりのブルースを報告したあとで、教頭先生は、おったまげることをしたのだ。

「Mくん、僕に付き合ってくれないかな」

教頭先生の後をついていった。

ついていった先は、井の頭線渋谷駅のそばにある赤ちょうちんだった。

「入ろうよ」となんの力みもない顔と声で言われた。

「こんなときは、ヤケ酒だよ」

あのー、私、未成年なんですけど。

(このときは、制服ではなく私服だった。私は、背が高かったので、20歳に見えなくもなかったたたたた)

教頭先生が、豪快に言った。

「ヤケ酒に、未成年も成人もないですから」

いまだったら、SNSで全世界的に叩かれただろう。

でも、私は、6歳の時に、祖母や母が押し入れに隠していた赤玉ポートワインの一升瓶を、こっそり飲む日常を送っていた前科がある。

ヤケ酒、上等!

「おや、Mくん、いけるクチだね」

炎上覚悟で、私は、ハイボールをヤケ酒した。恩師はもう亡くなっているし、私も先は短い。

許してくだされ。

 

「まあ、要するにはみ出しもので、ひねくれ者のおまえは、その教頭先生がいなければ、まともな人間にはなれなかったということだな」

そんな話をしているうちに、ラーメンが出来あがった。

教頭先生の故郷の長野県の安養寺ら〜めんだった。食レポをするつもりはないので、濃厚で中太麺によく絡んだスープが、いいね! とだけお伝えします。

一口、二口、三口食った後で、教頭先生も、これを食べたのかな、と言っているうちに、目から水が流れ出た。ついでに、鼻からも流れ出て、味がわからなくなった。

いまだに、教頭先生ロスが激しい。

汚いオヤジだ、と思いながら目の前に座る娘を見たら、娘も目から水を流しながら、ラーメンを食べていた。

 

娘が言った。

「ボクたち、変な親子だな」

そうだな。

「でも、来年もまた来ような」

 

うん、ありがとう。

 

 

 

 


ドスコイ夫婦

2018-11-04 06:34:01 | オヤジの日記

「お人好しにもほどがある」と言われた。

 

さいたまのメガ団地に住んでいた頃は、「Mac出張講座」と題して、人にパソコン操作を教える仕事もしていた。延べ30人以上に教えていたと思う。

その中で、プロになったのは、浦和の一流デザイナー・ニシダ君と荻窪のWEBデザイナー・タカダ君(通称ダルマ)、仙台在住のデザイナー・イトウ君の3人だ。

他は20代から60代が色々。

 

その色々の中に、某明治大学に通うイトウ君がいた。イトウ君は変わった人だった。教え始めて2ヶ月が経った7月の日曜日の昼前に、突然電話をよこしてきたのだ。

「先生、誕生日パーティーをしましょう」

誕生日? 我が家では、7月生まれはいないけど・・・。

「もちろん、僕のですよ。ピザと誕生日ケーキとプレゼントは用意しましたから、ご心配なく。これから、先生のところに、ピザの宅配が届きます。いいですか」

いいですかもなにも、完全に事後報告になっていないか。そこまでされたら、断れないだろうが。

「ありがとうございます。すぐ行きます」

本当に、ケーキとプレゼントを持って来やがった。

誕生日の歌まで、歌わされた。それも家族全員で。

イトウ君。某明治大学では、こんな誕生日が流行っているのかい?

「流行っているわけないじゃないですか。先生もおかしな人だなあ」

 

イトウ君には、大学1年の5月から、翌年の3月まで教えた。物わかりのいい優秀な子だった。ただ、とにかく変わっていた。

3月で終わったのだから、2年次の誕生日パーティーはないものだと思っていた。しかし、7月になったら「誕生日パーティーしましょ」だ。

なんだ、それ?

結局、4年まで付き合わされた。

ちなみに、イトウ君が買った自分への誕生日プレゼントは、1年のときは、電気で焼くピザ釜、2年は、スポーツサイクル、3年は柔道着、4年は、iPhoneだった。

よく、わからん。

そして、「就職が決まりました。就職祝いしましょ」というスットコドッコイな提案もあった。

就職が決まったのはめでたい。しかも、大手通信会社だ。祝うのは、当然だろう。このときには、我が家族は、完全に、イトウ君のペースにはまっていた。

さすがに、めでたい就職祝いをイトウ君自らに出させるわけにはいかないので、食事もプレゼントも我が家で用意することにした。

何が食いたいかと聞いたら、「ボク、昔から釜飯が好きなんです」とのお答えが帰って来たので、海鮮釜飯とブリ大根、みる貝のお吸い物を作ることにした。

プレゼントは何を、と聞いたら、イトウ君は若い男性には珍しく、オペラとクラシックバレエの完勝干渉鑑賞が趣味だと言った。

「図々しいお願いですが、そのチケットを1枚貰えたら」

1枚でいいの? この場合は、2枚なんじゃないの。たとえば、彼女を誘うとか。

私がそう言うと、イトウ君は、「僕、彼女いない歴22年ですから」と胸を張った。

本当に、変わっている。

 

就職をしたら、とても忙しくなる。だから、こちらからは連絡を取らないようにした。

我が家も、その一年前に、さいたまから東京武蔵野に帰ってきたし。

しかし、10月の終わりにイトウ君から連絡があった。

「先生に、紹介したい人がいます。会ってください」

紹介したい人がいるという場合、普通は彼女だろう。しかしスットコドッコイなイトウ君の場合、意表をつく場合がある。

たとえば、会社の同僚だとか上司、あるいは大手通信会社の社長ということもありえる。もしかしたら、ペットのイグアナのアナちゃんとか。

油断はできない。

私は、緊張したまま、待ち合わせ先の渋谷の釜飯屋に出向いた。

そこで私を待っていたのは、意表をついて、イトウ君の彼女だったのである。

小柄でポッチャリ、笑うと目がなくなる愛嬌のある子だった。

「紹介します。リンちゃんです」

 

話を聞くと、イトウ君とリンちゃんの間に共通点が、いくつかあった。まず、小柄でポッチャリ。彼女彼氏いない歴22年。釜飯が好き。そして、オペラとクラシックバレエの完勝環礁鑑賞が、趣味だということ。

よかったね、イトウ君。これでひとりぼっちの完勝感傷鑑賞は終わったね。

2人は、会社の同僚だった。入社してすぐ付き合い始めたという。付き合って、もう半年以上が経つ。

余計なお世話かもしれないけど、結婚なんか考えてるのかい。

「ああ、もう結婚しました。さっき、入籍届出してきたんです。できちゃったんで。いま3ヶ月です」

リンちゃんが、あっけらかんとした顔で言った。

おい、あんたもスットコドッコイだったのか。

「まずは、先生に真っ先に報告しようと思いまして」とイトウ君。

さらに、「初めてなんですよね、人に報告するのは。親にも言ってないですから」

はーーーー、それは、まことか。

「まことです」と2人。

あんたら、ドスットコドッコイだな。このときから私は2人を「ドスコイ夫婦」と呼ぶことにした。

K Oを食らった私に、イトウ君が平然とした顔で言った。

「明日、この場所でお互いの親に報告して、認めてもらう予定です。今日のは、その予行演習ですね。すいません、先生。さすがに、いきなりは勇気が出なかったので」

隣でリンちゃんが、どこに目があるのだ、というおぞましい顔で笑っていた。

 

翌日は、さぞ修羅場になるかと思ったが、お互いのご両親は、あっさりと認めてくれて、大喜びしたという。

 

ドスコイの  親も結局  ドスコイだ    小林 ISSA

 

その後、リンちゃんは無事に女の子を出産した。さらに、1年5ヶ月後に、2人目が生まれた。2人とも女の子だった。

長女は「スット子」、次女は「ドッ恋」と名付けられた(嘘です)。

そのあとも、イトウ君は、たまに近況をメールやLINEで送ってくれた。かならずスット子ドッ恋の画像を添付して。

 

それから、7年の月日が7年分過ぎた今年の10月初め、私の元に悪魔の手紙が届いた。

招待状だった。

披露パーティーの招待状だ。末尾には、ドスコイ夫婦の名が記されていた。

私は早速、イトウ君にLINEを送った。

君たち名義のいたずらハガキが来たが、心当たりはアルマジロ。

すると、29分後にイトウ君からLINE電話が来た。

「先生、お久しぶりです。おひさしブリーフ。僕は、トランクス派ですが。いえ、トランプ派では、ありません」

何を言ってるのだ君は。楽しいけど。

 

「そのハガキは、イタズラではないです。僕たち夫婦は、できちゃったマリッジで、しかも立て続けに子どもが生まれてしまい、結婚式も披露宴もできず、新婚旅行も行ってません。子育てに忙しくて、余裕がありませんでした。でも、今年30になったのを区切りとして、お世話になった人たちに挨拶をしようと思って、披露宴をすることにしました」

 

まあ、それはわからないではないわけではないわけではないが、1つ間違っていると思うぞ。俺は、君のお世話をしたことは、一度もない。だから、俺を招待するのは、おかしい。

「何を言っているんですか、先生。先生は、僕にパソコンを教えてくれたじゃないですか。いま、それが仕事に、とても役立っていますよ。間違いなくお世話になってます」

パソコンなんてものは、パソコンを持っていれば、誰でも教えられる。いま君は、パソコンが得意だ。その君が、誰かに「パソコンを教えてください」と言われて、その人に教えたとしよう。そのとき、君は、その人をお世話したと思うかい。

「思いませんね」

だろ? だから、この招待状は、没にしていいね。

「いや、でも、あの・・・・・・」と言った後で、スットコドッコイなイトウ君が、突然話を変えたのだ。

「先生、貧血は、大分良くなりましたか」

 

こいつ、痛いところをついてきたな。

4年ほど前、重い貧血に手を焼いていた私の体を案じたイトウ君に「先生、スッポンは、どうですか。僕は、たまに食べるんですけど、あれを食べると2週間は疲れ知らずですよ。1度食べてみませんか。僕がご馳走します」と言われて、2回ご馳走になったことがあった。

確かに、それはよく効いて、体長隊長体調が持ち直した。

つまり、イトウ君には、恩があった。

「恩は返さなければいけません」と鶴も言っているではないか。

私は、機織りはできないが、披露パーティーに出ることはできる。

「わかった」と鶴は鳴いた。

 

昨日の夜、ヨメに、明日、イトウ君の披露パーティーに行くから、と言った。

 

ヨメは、綿棒で耳をほじくりながら言った。

「本当に行くの? 私は、そんな薄い付き合いだったら、たとえ招待状が送られてきたとしても行かないな。適当な口実を見つけて、断るけどな。ほとんどの人が、そうすると思うよ。お人好しにもほどがある!」

 

そうですか。

結局、1番スットコドッコイなのは私だった、というオチか。

 

 

誰か、六本木欅坂を、今日だけ封鎖してくれませんか。