リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

3匹目の孫

2019-02-24 05:22:00 | オヤジの日記

毎年1月になると、大学時代からの友人・カネコの娘ショウコがガキ2人を連れてやって来る。

自分の分とガキ2人分のお年玉を分捕りに来るのだ。

 

しかし、今年は来なかった。

その理由については想像がついたが、私の想像は外れることが多いので、気にしないでいた。

気にしなくなったら、いきなり来た。

ニャンニャンニャンの日の金曜日、午前11時36分。

「ロイヤルホストにいるから来て」という絶対に断ることのできない悪夢のお誘い。

早足で行ってみると、珍しいことに、ショウコたち以外にデブが器用に椅子に座っていた。

芋洗坂係長にしか見えない紅の豚・カネコだ。

「久しぶりだったかな」と言われた。

無視して、ショウコたちにお年玉をあげた。代わりに、ショウコも私の子どたちの分をくれた。毎年の儀式だ。

すると、カネコも何やら小さな封筒2つを私の前のテーブルに置いたではないか。

なんだ、これ?

「お前の子どもたちに、一度もお年玉をあげたことがなかったことを思い出してな」

おまえ、突然いい人になったな。まさか賞味期限が38年すぎた焼き芋を食ったんじゃないだろうな。

「ねえよ!」

 

しかし、俺の子どもたちは28歳と23歳だぞ。今さらお年玉は、おかしくないか。

「今回は年は無視だ。とにかく受け取ってくれ」

あっそう(カネコの気が変わらないうちに高速でバッグに入れた)。ところで、生ビールが飲みたいんだが。

「好きなものを飲み食いしていいぞ。俺の奢りだ」

おまえ、まさか賞味期限が・・・・・。

「食ってねえよ!」

 

カネコ一家は、全員和風ハンバーグを頼んでいたようだ。

私はソーセージのグリルを2つと生ビールを頼んだ。

しかし、なんでカネコがいるのか意味不明。

そんな私の疑問に、ショウコが答えた。

「いつもはサトルさんに無理やり支払わせていたから、たまにはパパが払うのもいいかなと思って」

紅の豚が、嬉しそうに和風ハンバーグとライスを口に放り込みながら、頷いた。そして、ライスのお代わり、パンのお代わり。

豚は、本当に美味そうにメシを食う。本人は100キロは超えていないというが、それは無駄な抵抗というものだ。

 

唐突だが、カネコとショウコの間に血の繋がりはない。ショウコは奥さんの連れ子だった。ショウコは、カネコと私の前に突然6歳の女の子として現れた。

カネコが言う。

「ショウコがいることで、どれだけ俺の人生は豊かになっただろうか。宝物って本当にあるんだな」

その宝物は、大学1年のとき、結婚した。

「ショウコが結婚した」

私はカネコからの電話を大宮駅のホームで受けた。10年前のことだった。

お互い事務的な受け答えだったが、カネコは落胆を隠せず声が震えていた。

電話を切る寸前に、カネコがため息を吐き出すように「幸せになってくれたら」と囁いた。

私も、その電話を受けたあと、駅のホームのベンチで30分以上放心状態のまま、落ちてくる雨粒を見つめていた。

頬にソバカスの浮いたショウコの顔を思い浮かべながら、私も「幸せに」と願った。

 

「サトルさん、ビールがないね。頼もうか」

2人のガキとショウコの笑顔。

カネコと私の願いは、きっと叶ったはずだ。

2杯目の一番搾りを飲んだ。

カネコが孫たちが食い残したハンバーグをかき集めて、口に入れた。また、ライスのお代わりだ。

豚になり上がるのは簡単だ。人の残したものを食い漁ればいい。

 

豚になり上がる前のカネコは、アスリート体系だった。陸上の中距離の選手だったのだ。

カネコは、私が大学3年のとき、新入生として陸上部に入ってきた。

そのカネコは小さい頃から窮屈な人生を歩んでいた。歩まざるを得なかったと言った方がいいかもしれない。

カネコは日本生まれの日本育ちで、ご両親もすでに日本国籍を取得していたが、ご両親ともに韓国生まれ韓国育ちだった。

今の時代、排他的な差別主義者は、いくらでもいる。そして、昔もいた。どこで探ったのか知らないが、同じ新入生の中で、カネコのことを吹聴する学生がいたのだ。それに同調する人もいた。

窮屈に感じたカネコは一年の前期で陸上部を辞めた。

私はカネコの優しさと一途さを愛していたから(え? ホモ?)、辞めたあともキャンパスで見かけると必ず声をかけたし、学生食堂や居酒屋に誘うこともあった(18歳に酒を飲ませたことをここに懺悔します)。

そして、私が大学を卒業する前日に、私はカネコから愛の告白を受けるのだ。

「卒業しても、会いたい!」

 

それから、時は過ぎて、カネコは豚になり上がって、今に至る。

カネコがブタっ鼻で言った。

「妻がいて、子どもがいる。孫もいる。妻と共通の釣りという趣味もある。俺の晩年は幸せだよな、ブヒブヒ」

 

ああ、それに、もう一つ幸せが増えたしな。

 

「ああ?」

 

おまえが言わないなら、ショウコに直接聞いたほうがいいか。

ショウコが、オレンジジュースを飲み干して言った。

「パパ、サトルさんは、お見通しみたいだよ」

またもブタっ鼻が言った。

「なんで、わかったんだ?」

毎年来ていたショウコが正月過ぎても来なかった。理由があると思うよな。俺が考えられるのは、一つだけだった。

お腹の中の子は、まだ3ヶ月前後だろう。ショウコとしては、安定期になったら、俺に報告しようと思っていたはずだ。

だが、ホノカとユウホが「シラガジイジにお年玉をもらいたい」と駄々をこねた。そこで、ショウコの体を案じたおまえが、付き添いとして一緒に付いてきたわけだ。

ショウコが醸し出す空気で、なんとなくわかったんだよな。3人目がいるって。俺もショウコの保護者のつもりだからな。

「驚いたな」とカネコが、鼻をフガフガさせた。

 

5日前に、賞味期限を3週間過ぎたチーズをヤケクソで食っちまったからな。4ヶ月過ぎたキムチも食った。それぐらい、俺の感性はいま研ぎ澄まされているってことよ。

「意味がわからんが」

おまえも食ってみればわかる。

38年過ぎた焼き芋を食うよりは、体にいい。

 

「食わねえよ!」

 

 

ショウコ、マサ(ショウコの夫)、カネコの奥さん、カネコ、おめでとう。

 

 


面倒くさい本気の彼

2019-02-17 05:01:01 | オヤジの日記

いつか来る日だと思っていた。

覚悟していた。

 

1月28日午後11時3分。

この日予定していた仕事が終わったので、風呂のあとでクリアアサヒを飲もうと思った。

そのとき、娘が仕事スペースに近づいてきて言った。

「話がある」

 

来たか、と思った。

 

娘は、両手に私の好物の銀河高原ビールを持っていた。おそらく賄賂と思われる。

「一緒に飲もうぜ」

ソファに座って、乾杯をした。

そのあとで、私は娘に、アキツ君に会わせてくれるのか、と聞いた。

アキツ君というのは、娘の「本気の彼」のことだ。ただ、本当はアキツという苗字ではない。東京都東村山市秋津に住んでいるから、便宜的に2人でそう呼んでいるだけだ。

娘は、昔から、「本気の彼ができたら会わせるから覚悟しておけよ」と私を脅していた。

 

とうとう来たか、「本気の彼」。

 

私は、アキツ君の情報は、かなり詳しく持っていた。

なぜなら、娘が聞きもしないのに、話してくれたからだ。

アキツ君とは、大学4年のとき、バイト先のコンビニで知り合った。しかし、出会ったときから辞めるまで、大きな接点はなかった。

ただ、店のバックヤードで品出しの準備をしているときなど、重い飲料を運んでいる娘を見て、「おい、姉さん。そんな華奢な腕でこれは運べないよ。俺が運んでおくから」と、さりげなくサポートはしてくれていた。

それだけだった。

 

そのとき、その店には大学4年が3人いた。娘がバイトを辞めるとき、前後して他の2人も辞めることになった。そこで年下のバイトたちの発案で「お別れ会」をしようということになった。

娘はアキツ君に「お別れ会やるけど行く?」と聞いた。

そのときのアキツ君の答えは、こうだった。

「俺はいいよ。そういうの面倒くさいから」

その答えを聞いて、娘は「おや?」と引っかかるものを感じた。しかし、そのときは、それが何なのかわからなかった。

 

娘は、卒業後、鉄道関係の会社に勤めた。

アキツ君は、H橋大学を卒業して、誰もが名前を知っている世界的な電機メーカーに勤めた。

卒業後の2人は、別々の道を生きた。

お互いの家も携帯の番号も知らず、なんの接点もないまま、忙しい新入り人生を歩んでいた。

 

昨年の12月。娘は、勤務先の部署の忘年会で新宿の居酒屋に来ていた。

私の娘の名は「夏帆」というのだが、部内では全員から「カッポー」と呼ばれていた。全員に認知されていたようだ。

「カッポーは、口を開かなければ、まともなのにね」

「シラフのときに、サンシャイン池崎は、やめな」

「くしゃみのあとの『チクショー』は、オッサンだぞ」

適度に、いじられていたようだ。

 

部内の12人で騒いでいるとき、娘の目線の先に、店の入り口からアキツ君が入ってくるのが見えた。アキツ君は同僚らしき人と2人連れだった。

娘は、咄嗟にアキツ君に向かって手を振っていた。

アキツ君が、娘に気づいた。

ためらうことなく、忘年会の輪にやってきて、いつものような無表情で「久しぶり」と言った。

この店は、アキツ君の馴染みの店だったようだ。

知り合いなら、一緒に飲もうよ、と言われたアキツ君は、無表情に娘の隣りの席に座った。

 

話してみると、アキツ君は、つまらなそうな顔で冗談を連発した。相手の話にテキトーな相槌を打って、まわりを笑わせた。

アキツ君に、そんな一面があったことを知って、娘は驚いた。

改めて見てみると、アキツ君はヒョロヒョロだった。そして、テキトーな冗談をよく言った。

「それって、誰かに似ていないか?」

さあ・・・。

そのとき娘はアキツ君とLINEの交換をした。

クリスマスが過ぎてから食事に行った。ドライブにも行った。映画を観たあと、「これからもよろしく」と言われて、頭をポンポンされた。

要するに、付き合い始めたということだ。

 

「アキツ君はな」と娘が言った。

「大企業に勤めているのに、スーツは夏物冬物一着ずつしかないんだよな。靴も一足だ。普段着は、春夏秋冬2着ずつを交互に着るんだ。一足しかないスニーカーもボロボロ。頭はいつもボッサボッサで、オシャレにはまったく興味がないんだ。そして、酒好き。『面倒くさい』が口癖だ。これって、誰かに似てるよな」

ちょっと何言っているかわからない。

 

私は、話題を変えた。

俺は、男女の付き合いに、家族は関係ないと思っている。よく結婚は家と家との結びつきだというが、俺はそうは思わない。個人の結びつきだけだ。

俺は、ママの家族や兄弟に深く関わったことがない。それは、宗教上の問題もあったかもしれないが、罰当たりの俺に宗教は関係なかった。そのことに、こだわったのはママの親族だけだった。

俺は、アキツ君の家族がどんな暮らしをしているかについて、興味がない。だから、アキツ君のご両親のことを俺に教えなくていい。

君たち二人が幸せなら、俺は他のことはどうでもいい。

俺は、君が選んだ男を信じる。

極端なことを言えば、俺はアキツ君に会わなくてもいいとさえ思っている。

「本気の彼」の前では、親に出番なんかない。俺たちのことは、気にしなくてもいいんだぞ。

 

「でも、会って欲しいんだよね。おまえは、絶対に反対しないと思っているけど、ボクには、おまえのお墨付きが欲しいんだ。それが、勇気になるからな」

わかった。だけど、うちに呼ぶのはやめよう。

「嫌なのか」

いや、アキツ君にとって、我が家と我が家族は完全なアウェイだ。それは、フェアではない。

国立のバーミヤンで会おう。H橋大学の学生だったのだから、アキツ君にとって、バーミヤンはホームに近いのではないか。

俺もバーミヤンはホームだ。W餃子と生ビールは、俺の大好物だ。お互い、ホームとホームで会おうじゃないか。

 

2月11日、午後2時。我が家族とアキツ君が初めて出会った。

私は娘に画像を見せてもらっていたから顔は知っていたが、生アキツは初めてだ。

嬉しいことに、アキツ君は普段着だった。自分の彼女の両親に会うからといって、わざわざスーツを着てこない姿勢には共感できた。

私もこんなとき、スーツは着ないと思う。

しかし、娘の隣りに座ったアキツ君の目には、かすかに緊張が見て取れた。

私は、そんなアキツ君の目を見るともなく見て言った。

正直に言って欲しいんだが、自分の彼女の家族に会うなんて、面倒くさいとは思わなかったかい?

アキツ君は、意外な質問だとも思わず、「ああ、正直言って、面倒くさかったです」と言いながら、水を軽く口に含んで、笑みを見せた。それでアキツ君の目の中の緊張が消えた。

 

娘とは、話が盛り上がらなかったら、20分でお開きにしようと決めていた。盛り上がっても、60分で切り上げようと話を合わせていた。

しかし、思いがけず、話が盛り上がった。

名探偵コナンの話で盛り上がったのだ。

アキツ君も我が家族も、全員が名探偵コナンのファンだったのである。

娘と私は、劇場版コナンをすべて観ていた。そして、アキツ君も観ていた。

毎週のテレビアニメも録画して観ているというのだ。盛り上がらないわけがない。

劇場版のどこの場面が良かった、とかキャラクターのここが好き、という話題が次から次に出てきて時間を忘れた。

いつまでも話していられたが、我々のまわりの空気がいくらか澱んでいるのを感じ取った私は、今日はここまで、と熱い空気を遮断した。

「コナンコナンってうるせえんだよ」というSNSという怪物くんが暴れ回るのを恐れた私たちは、素早い動きで店を出た。

出たところで、アキツ君が、「忘れていました」と言って、ヨメに紙袋を渡した。それは、和菓子の葛餅だった。

ヨメは、葛餅が大好物だった。「地球最後の日には、私は絶対に葛餅を食べたい」と言うほどだ。

コーヒー好きの息子には、コーヒー豆のプレゼント。気を遣わせてしまったようだ。

私には、すでに娘経由で銀河高原ビールが賄賂として届けられていたから、今回はない。

 

娘とアキツ君は、我々とはそこで別れて国立駅方面に歩いて行くことになった。

そのとき、アキツ君が振り向いて私に言った。

「今度は、お宅にお邪魔させてください。ぼく、猫が大好きなんですよ。世界で2番目にブスな猫を見てみたいです。いけませんか?」

いいけど・・・・キミ、変わってるな。

「お互い様だと思います」

 

その答え、ゴウカクー!

 

家に帰って、リビングでブス猫と戯れていたら、娘が帰ってきた。別れてから1時間もたっていない。

早かったな。晩メシを2人で食ってくると思ったぞ。

「カフェに寄っただけだよ。明日の仕事に備えて、早く帰りたいんだと」

私は、娘の目を覗き込んで聞いた。

アキツ君、面倒くさかったって言ってなかったか。

「ああ、言ってた。でも、珍しく嬉しそうだったな」

娘も嬉しそうだった。

「なあ、晩メシ作り、手伝うぞ。今日のメニューはなんだ」

オージービーフステーキのタルタルマスタードソース。クズ野菜のスープ。ベビーリーフと生ハムのサラダ。ロールパンだ。

「よし、作ろう!」

いや、まだ、晩メシまでには時間がある。6時半になったら作り始めよう。

その前に、銀河高原ビールだ。

 

 

娘と2人、並んでソファに座り、銀河高原ビールの瓶をラッパ飲みした。

ブス猫が、娘の足の横で、丸まって寝ていた。幸せそうだ。

 

一口飲んだあとで、そんなブス猫の寝顔を愛しむように眺めながら、娘が「なあ」と言った。

娘の方を見ると、娘の目には水が盛り上がっていた。

 

「今まで一度も言ったことがなかったけどな」

声がかすれていた。

娘は深呼吸したあとで、少し上を向いた。目から水がこぼれそうになったからだろう。

 

なんだい?

 

「ボクは・・・わたしは・・・パピーの・・・お父さんの・・・働いている姿が大好き・・・・・です。これからもずっと」

 

 

・・・そうか・・・・・・あり・・が・・。

 

 



ノープランで苦笑

2019-02-10 05:10:00 | オヤジの日記

杉並の得意先の建設会社に、去年の4月、大学新卒の女性が入った。

 

会社としては、初めての大卒だ。

大学中退は1人いたが、卒業は初めて。

しかも、某一流大学建築学科出のエリートだ。さらに、イタリアと日本との混血。

混血とは言っても、よほどイタリア人の母親の血が濃いのか、外人にしか見えない。

ルックスの容姿の見た目は、誰が見ても「モデルでしょ」としか思えない bella donna だ。身長は179センチあるというから、ほとんど私と変わらない。

街を歩いていると、その姿を見て、みなが外国人だと思う。そのため、日本古来のチャラ族に下手くそな英語で話しかけられることが多々あった。要するにナンパ。

それに対して、彼女・ナガシマ(仮名)さんが、ネイティブのイタリア語で答えたあと、ネイティブの日本語で返事をすると、「ウソ!」と目を剥いて驚くという。

しかも、生まれも育ちも東京日本橋だから、江戸っ子気質で威勢がいい。その見事な巻き舌を聞いたチャラ族は、完全に腰が引けて逃走するヘタレ族に退化するらしい。

 

「大卒って、物事を多面的に見られるんだな」と顔デカ社長が、珍しくご機嫌な顔で言った。

「いつも感心させられるよ。俺んところのやつは、中卒、高卒ばかりだからな。勉強熱心なやつが多いが、ほとんどが一方向からしか物事が見られねえ」

「まあ、俺も中卒だから、偉そうなことは言えねえけどな」

 

社長は、高校2年で学校を辞め、そのあとはいくつかの建築会社を渡り歩いて、28歳のとき、今の会社を立ち上げた。

「前だけを向いて猛進することしかできねえから、視野が狭いんだよな。先生(恥ずかしながら私のこと。私の方が10歳上だから)と出会って、少しは力を抜くことを覚えたが、まだまだ狭いな。何かが足りねえ。」

「だから、先生に加えて、ナガシマに来てもらったのさ」

 

そんなことよりも私は、一流大学出のエリートが、申し訳ないが小規模の建設会社に入ったことが信じられないのだが。

「それは、ナガシマが俺の愛人だからだよ」

隣で、ナガシマさんが「ドヒャヒャヒャ」と大きく開けた口を隠すこともなく笑った。江戸っ子らしい豪快な笑いだった。

「それは、冗談だけどな」

 

わかってます。

 

ナガシマさんのお母さんは、赤坂で一級建築士事務所を開いていた。だから、ナガシマさんは、卒業後はお母さんのもとで働きたいと思った。

しかし、お母さんに「武者修行」を勧められた。今の自分は、娘を厳しく鍛えられる自信がない。自分の仕事だけで精一杯だからだ。

できれば、他人に厳しく育ててもらいたい、そう思ったそうだ。

それなら、大手の設計事務所で育てもらうのが、合理的ではないだろうか。仕事の質も量も、修行に相応しいものが与えられるはずだ。

 

だが、ここで顔デカ社長が、突然現れる。

社長とナガシマ母は、ダーツで知り合っていた。2人とも赤坂のバーの常連だったのだ。

さらに、顔デカ社長は、外人好きというスケべ男だった。社長の場合は、主にフィリピンの女性を好んだから、このスケベ心は膨らまなかったが、ダーツを競い合っているうちに、お互いの素性がわかり、話をするようになった。

話をしているうちに、ナガシマ母は、このスケベ男が、それなりに有能なのを悟って、娘を預けることを考えた。

うちの娘が、いくら美人だとしても、社長の好物はフィリピンの妖精たちだから、手は出さないだろうとナガシマ母は確信を持った。

社長は、最初は「とんでもない。俺には荷が重すぎますよ」と珍しく当たり前のことを言った。

だが、お母さんから「とりあえず面接だけでもいいからしてくれませんか」と頭を下げられて、会ってみた。

会って、顔デカ社長は、すぐに陥落した。

「ごごごごご合格ーっ!」

 

そして、いまナガシマさんは、ここにいた。

顔デカ社長のスケベ心は膨らんでいないようだが、かなりのお気に入りのようだ。

ナガシマさんに仕事を頼むときには、社内の誰もが社長の口から聞いたことのない「申し訳ありませんが」という枕言葉をつけるらしい。

まったく男ってやつは・・・・・。

 

話は変わって、私は2年以上前から、この会社で、まわりから「先生」という名で呼ばれる堕落した生活を送っていた。

そして、週に1回、社長と4時間テキトーな無駄話をして報酬を頂いていた。さらに、昼メシを社員全員に囲まれて食うという気持ち悪いこともさせられていた。

それに加えて、昨年の10月に、私は顔デカ社長から「先生よー、うちのやつらは無学だから、俺の教えた仕事以外のことをあまり知らねえんだよな。だから、食事のあとの10分くらいでいいから、こいつらに話をしてくんねえかな」と脅されたのだ。

「仕事話は、いつも俺がしているから、先生がよく言う仕事以外の『バカ話』ってのを聞かせてやってくれないかな。何でもいいんだ。つまらなくてもいいからよ」

一眼レフに300ミリの望遠をつけてファインダーを覗いたときのような超アップで、その顔は私の前にズームしてきた。

本音を言えば、ナガシマさんにズームしてきて欲しかった。

はい、私もスケベですけど、それがなにか?

 

まあ、つまらないのが前提であれば、お受けしますけど・・・・・。

私がそう言うと、望遠レンズが標準に戻った。

 

ということで、毎回バカ話をするようになった。

いつものことだが、毎回ノープランだ。

私は、あらかじめ原稿を書くというのが面倒くさい「原稿書くのが面倒くさい星人」である。あらかじめ原稿を書いたり、プランを立てたりすると、人前に立ったとき、むしろ緊張してしまうのだ。

プランを立てて、もし受けなかったら、どうしよう、と思ってしまう。ノープランなら、どうせノープランなんだから受けなくて上等、と開き直れるから緊張しない。

一種の逃げである。

 

今回は、バカな男の話をした。

まず、友人のテクニカルイラストの達人・アホのイナバのことだ。

彼は以前、石垣島の別荘に行ったとき、子どもたちと近所のレストランに入った。彼は、そこでシーフードカレーを頼んだ。

食った。

そして、その数分後、医者に搬送された。

イナバ君は、イカアレルギーだったのである。まず大抵の場合、シーフードにはイカが入っていると思う。

しかし、イナバ君は、そのことを簡単に忘れてしまうのだ。

たとえば、デパートで北海道物産展をした場合、魚介の宝庫である北海道の名物には、イカが入っている頻度が高い。

それを忘れて、物産を買ったイナバ君は4口ほど食って、気分が悪くなる。イカの量によっては、小さな反応しかしない場合があるが、多く入っている場合は、悶絶することになる。

ただ、アホのイナバの場合は、とても恥ずかしがり屋だ。救急車を呼ぶことはせず、係員にお願いしてタクシーを呼んでもらい、ひっそりと馴染みの救急病院に駆け込むのだ。

「アンラァ、またあああ!」看護師さんに、呆れられれれれるらしい。

 

大学時代の友人に、新宿でコンサルト会社を経営している男がいた。オオクボという。

オオクボは、卵アレルギーだ。

3年前、オオクボと他の友人と私で、東京駅の地下街のレストランに入った。昼メシを食おうと思ったのだ。

オオクボともう1人はオムレツを頼んだ。私はナポリタンをオムレツで包んだものを頼んだ。

すぐに、オオクボに変化が現れた。いかにも呼吸が苦しそうだった。救急車を呼んだ。

そして、つい最近のことだが、オオクボの自宅近くに料理屋ができた。日曜日に、家族3人でランチを食うために料理屋に入った。

3人とも同じセット料理を頼んだ。朴葉焼きと飛騨牛がメインで、副菜に茶碗蒸しが出た。

食べた。

また、救急車を呼んだ。

 

オムレツと茶碗蒸しが卵を原材料としているのは、誰でもわかる。想像しなくてもわかる。

しかし、卵アレルギーのオオクボは、それを忘れて食うのである。

こんなやつがコンサルタントをしているのだ。

私なら、こんなバカなコンサルタントを見たら、「コンサルタント・アレルギー」になる。

 

この話を仕事の打ち合わせのあと、神田の得意先の人にした。

バカですよね、と言ったあとで、私の口から何の脈絡もなく、テレビのCMで流れる細川たかし氏の「イッキュウパッ」が鼻歌で出た。

それを聞き止めた得意先の人に、「あれ? Mさんって、演歌アレルギーじゃなかったですか。細川たかしは演歌歌手ですよ。ついに演歌アレルギーを克服しましたか」と突っ込まれた。

 

う・・・・・何と言ってごまかしたらいいのだろうか、と焦った。

 

答えに窮した私は、苦し紛れに、まあ・・・ええんか(演歌)な〜、と答えた。

 

 

まわりから、苦笑が漏れた。

「ただのダジャレだよね」という声も聞こえた。

 

しかし、ナガシマさんだけは、手を叩いて大爆笑だ。

いつもナガシマさんだけは、私の話に爆笑してくれる。

ありがたいことだ。

 

 

最近では、社員さんたちは、我々のことを密かに「大卒は、お笑いのレベルが低すぎる」と、最大限に褒めてくれているようだ。

 



母が死んだ日

2019-02-03 06:02:15 | オヤジの日記

母が死んで一年になる。

 

だから、納骨に行った。

長旅だった。

東京から島根県出雲。

 

長年の友人の尾崎がワゴン車を運転してくれた。

尾崎と我が家族4人。

日曜の夜は岡山に泊まった。

色々な場所に顔が広い尾崎の勧めで、その日は有名なラーメン屋でメシを食った。普段なら絶対に食わない1200円のラーメンを食った。

いつも食う390円のラーメンと違って、とても味は濃厚だった。魚介の味がはっきりとしたラーメンだった。満足した。幸せだった。

ラーメンを食って幸せになったのは、久しぶりだ。目の前に尾崎がいたからかもしれない。

 

岡山に泊まった次の日、朝早く出雲市内の寺に行った。

我が家の墓がある寺だ。

私の祖父と祖母、姉が納められていた。父はここにはいない。その理由は言わない。

祖父は日本画家だった。33歳で肺結核で死んだ。「生きていれば相当な画家になったのに」とよく言われた。だが、仮定の話をしても肉親には響かない。

「寿命だったのだから、運命と思うしかないです」と私が尊敬する祖母が、いつも言っていた。私もそう思う。

その祖母は、師範学校の教師をしていた。祖母の葬儀のとき、島根県からたくさんの教え子が東京に来てくれたことに驚いた。そのあと、夏休みに出雲で葬儀を開いたときも、呆れるほど多くの人が来てくださった。

祖母の偉大さを強く感じた。

姉は、中学高校を長期休学したあと、18歳から引きこもり生活に入った。そして、59歳で死んだ。

そんな姉の人生を、可哀想な人生だった、と思うことがあった。しかし、幼い頃から、姉とほとんどまともに関わったことのない弟が、それを言うのは自分を「人でなし」と言っているようなものだ。

私は、確かに人でなしだが、これ以上、人でなしになりたくはない。だから、もう言わない。

姉は、今だったら、きっと「発達障害」と言われただろう。本人も苦しかったはずだ。

 

ご住職には、半年以上前から連絡してあったので、朝から待っていてくださった。母の教え子の住職さんだった。

罰当たりな私は墓前に手を合わせせせなかったが、尾崎と家族は手をあわせた。

きっと母は幸せだったと思う。

 

長旅の2日目。

我々は、浜松市に泊まった。息子と娘は、有給を取っていた。

息子は、5年半の会社生活で初めて会社を欠勤した。

「でもさあ、会社休んでも給料がもらえるって、すごいよね。日本ってすげえな」と単純に喜んでいた。

 

浜松市の大きな墓地の前に来たとき、尾崎が「悪いな」と言って、車を降りた。

なんだよ、おまえ。

 

「俺の両親の墓があってな」

 

初めて聞く話だった。

尾崎の両親は尾崎が6歳のときに、事故で亡くなっていたのだ。

それ以来、東京中野で尾崎は母方の伯母に育てられ、若い時代を過ごした。優秀だった尾崎は、偏差値の高い私立高校に入学したが、2ヶ月足らずで辞めた。

 

「俺は、こんな学校にいちゃいけないって思ったんだよな」

 

それからの尾崎は、アンダーグラウンドの世界で暮らした。

「ヒモに近いこともしてきたし、後輩に家賃を払わせて、生活費をせびったこともあった。最低の男だった」

 

「でもな」と尾崎が両親の門前で言うのだ。

「俺を育ててくれたのは、間違いなくおまえの母さんだ。地下に潜っていた俺を24歳のとき、救い上げてくれたのは、おまえの母さんだ。

 

「俺が6歳のときから、ここに眠っている親よりも俺はおまえの母さんに恩を受けているんだよな」

「なあ、おまえの母さんは、なんで俺に、あんなにも優しかったのかな」

 

そんなことは知らねえ。

ただ、母が色々な人に優しかったのは事実だ。

 

本当に、あの人は優しかった。

 

なあ、尾崎、と私は言った。

おまえのご両親もきっと優しかったと思うぞ。俺の母さんに負けないくらいにな。

 

「ああ、そうかもな」

 

しかし、おまえのご両親の眠る寺を前にして、俺たちに素通りしろって言うのか。おまえは俺の母さんの墓前で手を合わせてくれたじゃないか。

なぜ、俺たちに、それをさせない。

俺たちを人でなしにするのか(私は人でなしだが)。

 

私が、どれほどの罰当たりでも、友人のご両親の墓の前では手を合わせた。

駿河湾の高台にある墓地だった。

寒かったが、墓地から見える景色に見とれた。

海が光っていた。

 

「悪いな、無理やり連れてきて」尾崎が言った。

 

「無理やりだったとしても、いい経験だったな。親のありがたさがわかる旅だったよ」と娘が言った。

 

私の右手を握った娘の手が、温かかった。

 

左手で抱いた尾崎の肩も温かかった。