リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

「待て」のできない大人たち

2013-06-30 08:39:00 | オヤジの日記
最寄り駅のATM出張所でお金を下ろそうとしていたときのことだった。

赤ん坊の声が聞こえたので振り向くと、私の30センチほど後ろに、30歳前後の女性が立っていた。
赤ん坊をおんぶしていた。

少し鳥肌が立った。
普通は、ATMで順番を待つ場合、1メートル以上の間隔を空けて立つものではないだろうか。
それが、わずか30センチ。
彼女の後ろには、順番を待つ人はいなかった。

こんな経験は、初めてだった。

そして、イトーヨーカ堂で買い物をしていたときのことだ。

レジで精算をしていた。
その精算をする私に、肩を接するようにして立っていたのが、30歳前後のサラリーマンだった。
弁当とペットボトルの飲み物を持っていた。

スーパーのレジの場合も、次に精算を待つ客は、たいていは1メートル程度は慣れた位置で待つのが普通である。
そんなに密着して順番を待つ人は、まずいない。

「待て」のできない大人たち。


話は飛ぶが、先日ネットの新聞記事を読んでいたら、怖い記事に出会った。

朝日新聞の投書欄「声」に掲載された読者の投稿が、投稿主の詳しい住所と電話番号が加えられてインターネットの掲示板やブログに無断転載されたというのだ。

新聞の素人投稿欄には、名前は載っているが、住所や電話番号は載っていない。
つまり、ネットの電話帳などを使って調べたらしいのだ。
しかし、電話帳で投稿主を特定する精度は高くないから、投書した読者と同姓同名の別人の住所などが書き込まれたケースもあったという。

間違えて掲載された人こそ、いい迷惑である。
個人情報の侵害だ。

30人の個人情報が掲示板にさらされて、そのうち、14人の家に嫌がらせや無言電話がかかってきた。
怪しげな郵便物も届いた。

投稿主の投稿内容のほとんどが、政権与党の改憲姿勢に疑問を呈する内容だったという。

それを読んだ「誰か」が、電話で「売国奴」と罵り、「お前の家はわかっているぞ」と脅した。

要するに、それは自分の意見と違う意見を持つものを排除するという幼稚な悪意。

人は、それぞれ意見が違うのが当たり前なのに、それを許さないという性情は、社会不適格者に近い。

政権与党、とりわけ総理大臣は、批判されるのが当たり前。

以前、首相が元外務審議官の田中均氏を名指しで非難したことがあった。
田中氏から「国際会議などで、日本が極端な右傾化をしているという声が聞こえる」「中韓に日本を攻撃する口実を与えてしまっている」と安倍政権の外交政策を批判されたかららしい。

それに対して、小泉進次郎氏が「個人の名前を挙げて反論、批判はすべきではない。政治家がいちいち批判に反応していたらきりがない。批判はあって当たり前だ」と苦言を呈したという記事を読んだ。

私は、政界一家の中で、石原一家と小泉一家はあまり好まないのだが、これを読んだとき、私の考えと全く同じなので、小泉進次郎氏に、心の中で百点を差し上げた。


アッパレ!


総理大臣は、何をやっても批判されるのが当たり前。

批判が気に食わないからと言って反論していたら、応酬合戦になって、本業の政治がおろそかになる。


彼の支持者が彼のやることを何でも賞賛することは、ファン心理として容認できるが、反論されたからと言って、他者を攻撃するのは、贔屓の引き倒しに近い。

ファンは、支持だけしていればいい。

愚劣な行為は、彼らの偶像(アイドル)を貶めるだけだ。

多くの大人は、怒りが沸騰点に達しても、自らそれを沈める方法を知っている。
それは、たとえば、気分転換だったり、あるいは、単純に、怒りが収まるのを我慢強く「待つ」という方法だ。


大人は、何よりも「待つ」ことが、重要だというのを知っている。


「時間」が、怒りを抑えてくれる。
その時間を有効に使えるのが、「大人」であるということ。


「待て」のできない人は、人がATMを操作しているすぐ後ろでしか待てない。
レジで精算をする人のすぐ横でしか待てない。


そして、自分の意見と違う意見を持つ人間に憎悪の炎を燃やして悪さをする人は、「待て」の能力が著しく欠如している人だ。


占領族

2013-06-23 08:46:13 | オヤジの日記
奇妙な現象がある。

いま母が、心臓を悪くして川崎の病院に入院している。

その病院は、最寄り駅から5~6キロの距離にあるから、最寄り駅から無料のシャトルバスが出ている。
だから、いつもそれに乗る。

マイクロバスの定員は、おそらく30人前後。
2人席と1人席、それに混んでいるときは補助椅子を使って30人程度が座れる勘定だ。

混んでいる時間帯は、朝早い時間の行きのバスと昼前後の帰りのバスだ。

この混んでいる時間帯に、いつも奇妙な現象が起きるのである。

二人席に座り、片方の席に荷物を置いて、座席を占領している人がいるのだ。
60~70年輩の男性だ。
同じ人ではなく、毎回違う人。

彼らは、混んでいて座れない人がいるのに、平気で荷物を置いていつも座席を占領している。

気の強い人は、男性に「荷物をどけてくれませんか」と言って、自分の席を確保する。
しかし、多くの人は、何も言わず15分ほどの病院までの時間を立って我慢している。

たまに見かねて、運転手さんが、「お荷物は膝の上に乗せてください」とアナウンスをするが、男性がその意見を受け入れることはない。
かたくなに座席を占領し続けている。

電車で荷物を座席においている人をたまに見かけるが、たいていは、車内が空いているときだ。
満員電車で座席を占領している人を見かけることは、ほとんどない。

路線バスでは、「占領族」がたまにいるが、運転手さんが「お荷物は膝に」と言えば、ほとんどの人が素直に荷物を移動させる。

なぜ病院行きのシャトルバスでは、毎回「占領族」がいるのだろうか。
それも、同じような年輩の男性だけ。

テリトリー意識だろうか。

人には、それぞれ自分の領域があって、何十センチ以内に他人が近づくと、不快感を持つという。
その距離は、人によって許容範囲が違うようだが、それは、どの人にも確実にある感情らしい。

他人を寄せ付けたくない距離。

つまり、「占領族」は、その距離が極端に短いから、荷物を置くことで自己のテリトリーを守ろうとしているのかもしれない。
そうしないと、気持ちが落ち着かないのだろう。

大げさな言い方をすれば、排他的。
他人を許容しない心。

しかしなぜ、病院のシャトルバス内でだけ、そんな現象が起きるのだろうか。
それも60~70歳くらいの男性だけ。

「そんなのは、ただの偶然だよ」と友人たちは言う。
「そんなつまらないこと気にして、おまえ、病んでいるんじゃないか」とも言われた。

確かに、たいしたことではないかもしれない。
「現象」と言うほど、明確なものではないかもしれない。

ただ、もう一つ気になるのは、そのシャトルバスをおりるとき、多くの人が運転手さんに「お世話様でした」「ありがとうございました」と声をかけるが、「占領族」全員が、無言でバスを降りることだ。

自己のテリトリーを侵されたくない彼らは、非日常的空間である病院に行くことは、決戦場に行くのと同じことと感じているのかもしれない。
つまり、心に毛筋ほどの余裕もない。
感謝の気持ちを表す余裕さえもない。


今度の水曜日に母が退院するので、しばらくはシャトルバスに乗ることもなくなるだろう。
だから、あの奇妙な現象ともお別れかと思った。

しかし、昨日のお昼どき、「餃子の満州」に行ったときのことだ。
12時過ぎだったから、店内は満席。
全く空きがない状況だった。

しかし、よく見ると、カウンター席が一つだけ空いていた。
だが、さらによく見ると、その席の上には、大きな紙袋が置かれていた。

大きな紙袋を挟んだ両隣には、60年輩の男性の後ろ姿が。
つまり、それは、どちらかの男性の荷物なのだろう。


そこにも「占領族」は、いたのである。


生真面目な幻想・統一球

2013-06-16 08:01:01 | オヤジの日記
統一球問題が騒がしい。

日本のプロ野球に、あまり興味がない私は、騒ぐ意味が今ひとつ理解できない。

「統一球」「飛ぶボール」「飛ばないボール」

ネットの記事を見ると、「飛ぶボール」ではホームランが出やすく、国際試合で使われるボールとの落差が大きいから、選手が国際試合に対応できなくなる。
そこで、「飛ばない」統一球にした……らしい。

私は全く知らなかったのだが、それまでは球場によって、使うボールが違っていたという。
たとえば、投手力に優れたチームは、飛ばないボールを使ってもよく、打撃力に優れ、かつ球場が狭いチームは、飛ぶボールを使ってもいいということだろうか。

要するに、フランチャイズチームの都合で、どの球を使ってもいいということ?

プロ野球はショーなんだから、客を楽しませるために、それくらいのことはしてもいいと私は思うが……。
生真面目なファンから、大量のクレームでも寄せられたのだろうか。

そのへんのことは、よくわからない。

そして、「統一球」というのが、もっとわからない。

国際試合で通用するように……といっても、野球というのは、もともと世界的な視野で見たら、マイナースポーツである。

アメリカ、キューバ、台湾、韓国、そして日本が「野球大国」で、あとはプロリーグがあったとしてもメジャー扱いされていないスポーツだ。

オリンピックでもマイナー扱いである(今は除外中)。
現状を見ると「国際化」とは、ほど遠い。

だから、私は、野球はショーに徹すればいいと思っている。

これから野球が「国際化」に向かうかと言えば、それは疑問だ。
プロ・ベースボールの元祖、メジャーリーグが、天上天下唯我独尊を貫いていて、「メジャーリーグこそが世界一」という理念を持っているから、野球が国際化するには、メジャーリーグの意識を変える必要がある。

しかし、世界一の称号を手放す気がないメジャーに、野球を国際化する意思はないものと思われる。

メジャーが一時的にでも野球を国際化するのは、金儲けをしたいときだけである。

それは、メジャーが、ベースボールをショーだと割り切っているからだろう。

だから、ついこの間まで、ドーピングには無関心で、重量級の選手がポンポンとホームランをかっ飛ばすのを「ショーとして最高のシーン」に位置づけ、国際的なドーピング禁止化の波に逆らってきたのだ。

メジャーリーグ機構は、アメリカ国内だけで繁栄を続けていても十分に満足なのだと思う。
ベースボールは、もともと色々な面で「世界一」なのだから、メジャー自身はベースボールに「国際化」などは求めていないだろう。

野球の大元であるメジャーが、そんなスタンスなのだから、日本の野球も生真面目にならずに、ショーに徹すればいい、と私は思っている。

ドーピングは問題外だが、それ以外のことは客が喜ぶのなら、ある程度のことはしてもいいと思っている。

狭い球場でホームラン花火をポンポンと打ち上げるのも商売。
優れた投手が、飛ばないボールで三振とアウトの山を築くのも商売。

それぞれのチームが、それによって選手の個性を伸ばせるのなら、そして、客が喜ぶのなら、ボールが飛んでも飛ばなくても問題ないのではないか。


「飛ぶボール」に変えたことを隠していたことが問題視されている。

しかし、素人のコミッショナーと、特定の球団の集客力に寄りかかっているチームの球団代表に、崇高な理念とリーダーシップを求めるのは、あまりにもお人好しすぎる期待である。


国際化の期待が持てないプロスポーツは、メジャーリーグのように、自国内だけの繁栄だけで満足すべきだと私は思っている。


プロ野球に、生真面目な幻想を持つべきではない。


口は災いのもと

2013-06-09 09:04:00 | オヤジの日記
サッカー、ワールドカップ5大会連続出場、おめでとうございます。

めでたい話題に、サッカーとは直接関係のない「言いがかり」を述べることをお許しいただきたい。

この話は、友人、同業者、家族からまったく賛同を得られなかったものである。
唯一賛同してくれたのが、我が高校3年の娘だった。

つまり、ほとんど総スカンの状態だ。
だから、ここで述べることに意味はないのだが、悔しいので、あえて述べたいと思う。

初めにお断りしておくが、私は本田圭祐選手のような「ビッグマウス」は、ボクシング•ヘビー級のカシアス・クレイの時代から好きである。
スポーツ選手に、聖人君子、優等生的発言を求めるつもりはない。
言いたいことは、ハッキリ言うべきだと私は常々思っている。

そして、今回の主旨であるが、あらかじめ断っておくが、このときの私は仕事の締め切りに追われていて、ゲームを見ていない。
スポーツニュースも見ていない。

結果は、すべてネット経由で知った。
そして、本田氏の発言もネットで読んだだけだ。
そのネット記事に、どれだけの信憑性があるか疑わしいのだが、いくつかの媒体が同じ内容の記事を載せていたので、ある程度は正しいのだろうと判断した。


まず一つは、本田氏が記者会見で、代表選手たちを名指しで批判したというもの。
そのタイトルを見て、批判、とは随分大げさだな、と思った。
もしかしたら、実際の会見では、冗談のつもりで言ったのかもしれない。
友人をからかうようなニュアンスを含ませていたかもしれない。

活字になってしまうと「批判」のニュアンスを強調されたように感じることがあるからだ。

しかし、どちらにしても、私は思うのだ。
あのような内容の話は、報道陣を前にして言うことではないだろう、と。

個々の選手に、プライベートで言えば済むのではないか。
あるいは、練習の合間に指摘すればいい程度の話である。

報道陣の前で言ったら、それは「パフォーマンス」になる。
相手のためを思って言ったことばだとしても、パフォーマンスになると「俺」が主役になる。

だから、私は、本田氏の会見を「劇」として捉えてしまったのだ。
しかし、「劇」としては、あまり上等なものではないな………と。


次に、決戦の前に、本田氏がロシアから帰国したときのことだ。

本田氏は、子どもを抱えていた。
もちろん、本田氏の子どもだと思う。

報道陣は、本田氏に子どもがいたことを知らなかったらしい。
当たり前のことだが、私も知らなかった。
おそらく、多くの人が知らなかったと思われる。

なぜ、子どもがいたことを隠していたのか。
芸能人ではないのだから、家族を下世話な興味の対象にされたくないのか、と私は推測した。

だが、よく考えてみると、それなら、空港に現れたときもお子さんの存在は隠すべきだろうと思った。
生まれたことだけを報告して、家族の姿を最後まで隠せば、三流メディアからの下世話な視線からは逃れることができる。

しかし、本田氏は、今回子どもを抱えて、空港ロビーに姿を見せた。
つまり、隠す気はなかったということになる。

そこで、私は三流週刊誌的な下世話なことを考えてしまったのだ。

本田氏は絶妙のタイミングで、子どもがいたことをアピールしたかったのではないか、と。
空港ロビーで、さりげなくアピールすることで、何かしらの効果を狙ったのではないか、と。

そんなことを言うと、「おまえ、どこまで、ひねくれてるんだよ。そんなに本田が嫌いなのか」と、友人たちからは強く罵られた。

私は、ワールドカップ出場で熱くなっている友人や同業者たちに、冷水を浴びせかける非常識なヒール(悪役)という扱いだった。

自己主張が過ぎると友人たちを失うので、臆病な私は、その意見を撤回はしなかったが、それからはW杯の話題には加わらないようにした。

貝になった。
そうやって、逆風が通り過ぎるのを待った。


こんな「言いがかり」ふたつ。

ひねくれ者の言う「言いがかり」など、笑い飛ばして欲しいと思うのだが、いまだに友人から、あのときのことを電話やメールで非難される。

その度に、気が滅入る。

本田は、日本代表のキーマンだ。
彼がいなければ、日本のサッカーは機能しない。

そんなことを力説しても、「おまえの言うことなんか、信じねえよ。どうせ、嫌いなんだろ」と悪態をつかれる。


まるで、犯罪者のような日々だ。



そんなこんなで、口は災いのもと、をいま実感している私でございます。



IOC様の紋所

2013-06-02 09:08:00 | オヤジの日記
オリンピックの競技除外問題をネット記事で目にしたとき、IOC(国際オリンピック委員会)というのは、何様かと思った。

スポーツショーとして、地味な競技はオリンピックにふさわしくないから外す。
外されたくないなら、わかりやすくルールを変えるか、組織改革をしろ。

まるで、すべてのスポーツの上にIOC様が君臨しているかのような傲慢さではないか。

スポーツは、IOCのためにあるのか。

もっと極端なことを言えば、IOCの金儲けのために存在するものなのか。

オリンピック候補地に多大な金を使わせてプレゼンテーションをさせ、「一つの金づる」を選ぶ。
それは、その国に多くの経済効果を及ぼすから、どの国もIOC様の御威光に感謝して、下僕のようにひれ伏す。

その繰り返しが延々と続いて、IOCはスポーツ界で神のような存在になった。

つまり、「俺がルールだ」という恐ろしい勘違い。

スポーツ界は、IOC様の顔色をうかがって、五輪で高視聴率が取れるように競技のルールを変え、選手や関係者に不都合を強いる。

本来、スポーツのルールは、競技者やファンのためにあるのであって、一組織の威厳や財布を保つためにあるのではない。

現実問題として、オリンピックは必要だと思うが、「王様として君臨したいだけの組織」は、必要ないのではないかと思う。

招致にあたって、多額の金を要求しない仕組み。
その競技本来の個性を殺すような無理なルール改変を要求しない仕組み。
そして、たった数十人の「会議は踊る」的な疑似王侯会議のような密室談義をなくす仕組み。

それができない限り、各競技は、オリンピックの紋所をかざすIOC様によって、まったく違う形に構成された別競技になるという悲劇が繰り返されることになる。

おそらく、IOCの理事様たちは、スポーツに愛を持っていないのだろう。

懸命に競技に励むアスリートたちを「金をもたらす道具」だと思っているのかもしれない。


「提案」という名の「命令」。


その「命令」を完遂するために、多くの人たちが多くの犠牲を払って、IOC様の意に沿うような案を出し、ひれ伏す様は、痛々しすぎて、スポーツが可哀想になる。


そんなこともあって、本当に組織改革が必要なのは、各競技界ではなく、IOC様なのではないか、と思っている私です。