リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

事変解散 その2

2012-01-28 11:22:00 | オヤジの日記
東京事変の話の続き。

椎名林檎は、ソロ・アーティストの時は「和のテイスト」を個性的に表現したアーティストだった。
ベースになっているのはロックだが、クラシックの要素もジャズの要素も混在した曲作りをしていた。

それは、時に輝きを放つこともあったが、音のまとまりということを厳密に考えると、成功しているとは言い難い楽曲もあった。
私は、その未完成な部分も好きだったのだが、本人は、どうだったのだろうか。


自分に足りないものは、何か?


絶えず、それを考えていたのではないだろうか。

音楽に大事なものは、アンサンブルである。

そのように椎名林檎が考えたかどうかはわからない。
しかし、強力なサポートメンバーを得たら、自分に足りないものを補ってくれるのではないか、と椎名林檎が考えたとしてもおかしくはない。

そして、ただのサポートメンバーとしてではなく、ひとつのバンドとして活動したら、もっと完成度の高いアンサンブルが実現する、と考えたのではないか。

東京事変・第一期のメンバーは、技術的にはロックのテイストを色濃くもっていた。
それは、椎名林檎がソロで消化してきたロックをそのままバンド・サウンドとして表現したものだった。

ロックバンドとしてのアンサンブルは、頂点近くまで上り詰めていたと思うが、ただその方向性は、椎名林檎の音楽の延長線上にあった。
つまり、その時点ではまだ、東京事変は「椎名林檎のバンド」だった。


東京事変・第二期のメンバーは、第一期よりも多彩(多才)である。
技術的に、さらに向上したということもあるが、メンバー間で曲作りを分け合うなど、バンドとしての個性を全面に出したことで、音楽ユニットとしての個性がさらに際立った。

要するに、少しではあるが、椎名林檎のテイストを弱めることで、東京事変がバンドとして確立されたということだ。
その点で、最初からの椎名林檎ファンには不評を買った部分もあったが、余計な音をかぶせることなく、メンバーの作り出す音だけで作り出されたその作品群は、確実にハイレベルなものへと昇華した。

東京事変メンバー個々の演奏技術、作曲・編曲能力、そしてバンドとしての調和。
第二期のメンバーが最初に作ったアルバム「大人(アダルト)」を聞いたとき、ロック・ユニットとしては、頂点に近いバンドではないかと感じた。


ただ、前回書いた、「欧米のロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して排他的であるという『壁』」により、東京事変がどんなに優秀なアンサンブルを作り出したとしても、彼らは外部に受け入れられることはないだろう、と私は思った。

彼らが創り出す、高級デパートの品揃えのような音楽は、民族主義的・排他的思考の持ち主には、なおさら理解できない音楽だろうとも思った。

音楽の全てのアイディアを、白人たちがサポートしたら、もしかしたら受け入れられるかもしれないが、そうなったら、それはすでに東京事変・椎名林檎の音楽ではなく、白人のポップスでしかない。


第二期・東京事変のナンバーには、英語の歌詞のものが多い。

それは、彼らが世界のマーケットを意識して作ったものではないかもしれないが、私は「意識したもの」として、それらの音楽を聴いていた。

それらの楽曲の完成度は、高いものもあるし消化不良のものもある。

その意味で、東京事変のメンバーには、やり遂げた部分と「未だ到達せず」の部分があったと思う。

そこで、私は推測するのだ。

椎名林檎は、その消化不良の部分を一度リセットし、「とりあえずお終い」とすることによって、東京事変の音楽を「ふりだし」に戻したかったのではないか。



「ふりだし」に戻った東京事変のメンバーが、これからどんな活動をしていくかは、わからない。

表看板だった椎名林檎でさえも、きっと白紙なのではないか。



ただ、第三期・東京事変が、数年後にスタートしたとしても、私は少しも不思議に思わない。

過去には、2年半、何の活動もしていない時期があったのだ。

解散という「ふりだし期間」が、たとえ5年続こうとも、絶対に私は待っていられる。



事変解散 その1

2012-01-19 13:37:42 | オヤジの日記
東京事変のことを書こうと思う。


と言いながら、少々脱線する。

日本のミュージシャンは優秀な人が多いという話。
日本のミュージシャンは、クラシックやジャズの分野では、世界的に認知されている人が多い。

しかし、ロックやポップスの分野では、優秀なアーティストが世界的に必ずしも認知されないという現実がある。

それに関して、少し偏見が混じっているとは思うが、私は、こう思っている。

クラシックという音楽には、どこかハイソサエティの自尊心を満足させる要素がある。
それは歴史であったり、長年培われたリスナーのマナーであったり、殊更に厳かな演出などが、聴く側にクラシックを聴くことによって、ある種の特別感を抱かせ、自尊心、優越感をくすぐるからなのだと思う。

そういう人たちは、形式として、「柔軟性のある思考」を表に出したがる傾向にある。

つまり、優れた才能に国境はない、という思考方法だ。

だから、クラシックの嗜好者は、国境の垣根を取り払って、優れたアーティストに対し、惜しみない賛辞を贈る(振りをしている部分も多少あると思うが)。


例えば、ジャズは、虐げられた黒人音楽をルーツにしているが、その根本は、「自由へのこだわり」にある。
自由に、音楽を仲間と共有すること。
それが、ジャズという音楽だ。

ここにも、国境はない。

黒くても、白くても、黄色くても、音楽を共有できれば、仲間と認める。

それは、クラシック嗜好者の柔軟性とは根本的に違うものだが、ジャズの場合は、より自由を取り込んだ柔軟性がある。

だから、優れたアーティストは、容易に認知される。


では、ロックやポップスはどうかというと、大衆性の強いこれらの音楽は、大衆的であるが故に、全体主義的、排他的な部分をリスナーが持つ傾向が強いと思う。

これらは、流行歌だから、その国の現状(あるいは、時々の流行)を歌うことが多い。

他国の人が、共感できない現象が歌われることも多いだろう。
つまり、ポピュラー音楽は、その国固有の文化、現象を歌われた場合、垣根ができてしまうのである。

だから、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して、排他的である(あるいは、その音楽に共感しようとしない)。


日本には、ロックやポップスの分野で優れたミュージシャン、クリエイターが、たくさんいる。

しかし、クラシックやジャズの分野ほど、世界的に認知されていないのが現状だ。

それは、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者が、自国以外の優れたアーティストのパフォーマンスに、共感する能力に乏しいからである。

そして、他の理由として、各国の音楽市場の性格による場合もある。

世界の音楽の2大マーケットは、アメリカと日本。
この2つの音楽市場は、巨大だから、自国だけで市場が完結している。
言ってみれば、成熟した内向きの市場だ。

韓国のように、外に市場を広げなくても、とりあえず日米は内部だけで、マーケットを維持することができる。

ただ、同じ内向きでも、性格はかなり異なる。
アメリカは、世界の音楽市場をリードしているから、特別なことをしなくても、アメリカの流行が世界の流行になるという配信力を持っている。

それに比べて、日本は、アメリカに比べて配信力が弱い。
そして、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者は、他国(アメリカの音楽以外)の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在する。

K-POPが世界的にブームであるという報道があるが、私は、K-POPはいまだ認知途上の段階であると判断している。
少なからぬマニアが、会場に足を運んだのは事実だとしても、各国の音楽チャートを賑わしているという報道は聞いたことがない。

各国のベストテンに数度ランクインしたからといって、それは流行とは言わない。
だから、K-POPにも、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在すると私は判断している。


前置きが長くなった。

そこで、東京事変である。

私は東京事変は、世界最強のユニットの一つだと確信している。
そのアンサンブルの強固さは、英米の幾多のバンドと比べても、遜色がないと私は思っている

ただ、英米のロック嗜好者が、東京事変の音楽を認めることに関しては、先の理由で、私は絶望的な確信を持っている。

どんなに優秀な音楽を構成しても、ロックやポップスの嗜好者の排他性に勝つことは出来ない。


と、ここまで書いたところで、話が脱線しすぎたので、この項は、次回に続きます。



1.11事変

2012-01-13 15:47:48 | オヤジの日記
我が家の高校一年の娘は、6歳の時、椎名林檎の「罪と罰」を聴いて、ロックを感じた。

それ以来、椎名林檎のファンである。

もちろん、東京事変を結成したときも娘はまだ9歳だったが、「林檎様の今度のバンド、スゴイ!」と喜んでいた。

その東京事変が、解散を発表した。

娘がまた言う。
「東方神起が別々になったときもショックだったけど、これは、そんなレベルじゃない。世界最高のバンドがいなくなるなんて、考えたこともなかった。夢であってほしい」


私は、いつも東京事変のことを世界最強の音楽ユニット、と呼んでいた。
そうやって、東京事変に興味のない友人たちを徐々に洗脳し、ファンにすることを生き甲斐にしてきた。

同じく娘も私の真似をして、お友だちを洗脳していったようだ。

娘が「なんか・・・気力が・・・湧いてこないな」と力なく言う。


私もだ。


東京事変に関しては、書きたいことがたくさんある。
伝えたいことがたくさんある。


だから、少し頭を整理してから、書くことにします。


とにかく、ショックで・・・・・。



JUJUはJUJU

2012-01-09 11:29:47 | オヤジの日記
JUJUに関して最初は、完全に食わず嫌いだった。

女心を歌う、女性にしか共感できない歌を歌う人、という偏見を持っていた。

青山テルマや西野カナなど、女性の心象風景を好んで歌う歌手は、私の最も苦手とするところだ。
歌詞に共感はできないし、歌唱方法も空回りの情感を押し付けられているようで、歌声が素直に入ってこないのである。

JUJUの「明日がくるなら」を聴いたときも、「この路線は苦手なんだよ」と先入観が勝って、ワンコーラス聴けなかった。
歌は上手いと思ったが、やはり「空回りの情感」の押しつけを感じた。

おそらく西野カナと同じように、俺はこの種の歌は一生聴かないだろうな、と完全に食わず嫌い状態だった。

しかし、その印象が少し変わったのが、ドラマ「ギルティ 悪魔と契約した女」の主題歌として聴いた「この夜を止めてよ」だった。
女の「情感」路線はそのままだったが、いきなりサビから始まる歌い出しで、「愛してる」と「さよなら」を歌い分ける巧さに、耳を奪われた。

サビが終わってメロディに移ると、抑え気味ながらも息の強弱で抑揚を付ける歌唱は、情感が少しも空回りせず、次に来るサビへの橋渡しまでを完璧な表現で繋いでいた。

それを聴いて、この人は、優れた歌手なんだ、と思った。

そして、同シングルに収められていた、オフコースの「言葉にできない」のカバー曲を聴いて、完全にこの歌を自分の持ち歌にしている彼女の歌手としての力量に感心させられた。

カバー曲が、自分の持ち歌になる、というのは簡単なようで簡単ではない。
それがヒットした曲であれば、聴く側は、オリジナル曲のイメージを頭から消すことは出来ない。
つまり、オリジナルの残像が邪魔をする。

そして、力量のない歌手は、自分でもその残像を持ったままカバー曲を歌うことが多い。
その結果、その歌は敢えて歌う必要のなかった歌、というレッテルを貼られる。
オリジナルの方が良かった、という結論になる。

しかし、JUJUの歌う「言葉にできない」は、確実にJUJUの曲になっていた。

そこが、すごいと思った。

同じようにカバー曲である「Hello, Again ~昔からある場所~」も聴いてみた。
この歌は、大ヒットした曲であり、オリジナルが独特の雰囲気を持っていたから、表現力に乏しい歌手だったら真似に走るところだが、これもJUJUの曲になっていた。


最近リリースされたJUJUのアルバムは、JAZZのカバーである。

JAZZシンガーを目指していた、というから、もともとJAZZには愛着があるのだろう。
このアルバムを聴いてみて、JUJUが本当の意味でのジャズ・シンガーであるという評価はできない。
ジャズのリズムに乗り切れていない部分が、多々ある。

英語は達者だが、発声が平坦になって、日本語で歌う時ほど声に抑揚が感じられない部分もある。
ジャズを意識するあまり、表現が淡々としすぎていると思われる部分がある。

だから、これを厳密な意味でのジャズ・アルバムと呼ぶには、私には抵抗がある。

ただ、JUJUのアルバムであるという解釈をするなら、間違いなくこれはJUJUのアルバムだ。

つまり、ジャズっぽい曲を歌うJUJUのアルバム。
JUJUは、いい意味でも悪い意味でも、何を歌ってもJUJUのものにしてしまう能力を持っている。

その点で、彼女は、極めて優れたシンガーであると言っていいと思う。


何を歌ってもJUJUはJUJU。

これは、歌手として大きな武器ではないだろうか。



うねり

2012-01-06 15:05:45 | オヤジの日記
ネットを検索していたら、どのキーワードがヒットしたのか不明なのだが、昨年末の紅白歌合戦に関するコラムに行き当った。

そこには、「aikoの歌が超下手すぎ。出演歌手の中で上手かったのは、演歌歌手だけ」という演歌礼賛の文が書き連ねられていた。

文章の表現方法を見ると稚拙ではあるが、何となく老人くさい表現も見受けられたので、文の主は年配の方だろうと推測した。

演歌歌手の筆頭に天童よしみさんの名があったから、彼女のファンなのかもしれない。

音楽は好き嫌いで聴くものだから、そのご意見は、尊重したい。

また、私は紅白歌合戦を観る習慣がないので、その歌番組内のaikoの歌は聴いていない。
それに、私はaikoのファンではないので、aikoの歌唱に関して詳しいわけではない。

ただ、10曲くらいは、聴いたことがある。
ライブ映像も観たことがある。

その程度の浅い知識をもとに言わせてもらおうと思う。

aikoは、特別歌唱力に秀でた歌手ではない。
しかし、超下手すぎ、という歌手でもない。
彼女を表現するとき、「個性的」という言葉が、一番似合う歌手だと思っている。

そして、私は彼女のアーティストとしての才能をリスペクトしている。

男にはわかりにくい情景を切り取って曲を紡ぐaikoではあるが、彼女の作曲家としての能力は、素直に認める。
aikoの作るメロディラインは、秀逸である、と言っていい。

スコア(譜面)を見ると、彼女の作り出す旋律が、J-POPの中では一種独特のうねりを持っていることが、よくわかる。


天童よしみさんは、演歌歌手として、偉大な足跡を残した人だとは思うが、果たしてaikoほど独創的なうねりを持っているだろうか。
天童よしみさんの歌を聴いたことがない私には、それは想像できないが、私が知っている演歌をベースに考えると、スコアとしての演歌は、極めて画一的な形態しか持っていないように思われる。

画一的なスコアは、馴れ合った歌唱を作り出すから、安定感はある。
その安定感を上手いと感じる人は、慣れ親しんだものだけを受け入れる人でないか、と私は勝手に分析している。

そして、これも勝手な想像であるが、コラムの主は、音楽のスコアに慣れ親しんでいない人ではないかと思う。

自分の耳に慣れ親しんだ音階だけが、「上手い」の基準の人。

おそらく、その種の人には、aikoの旋律の「うねり」は理解できないだろう。
そして、理解できないから「超下手すぎ」という表現になるのではないだろうか。

彼が上手いと思っている天童よしみさんに、おそらくaikoの作り出す「うねり」は歌えない。
様式美しかない演歌には、その「うねり」がないからだ。

その意味で、天童よしみさんとaikoを比べるという比較方法の稚拙さは、音楽を好悪だけで捉える素人の発想だと言える。

それは、お金をいただいてコラムを書くプロとしては、恥ずかしい行為である。


感想文を書くだけなら、公にしないで、己のパソコンの中に忍び込ませておくか、日記のように机の引き出しにしまい込んでおくほうが、対応としては大人だ。
これは、その程度の駄文だ。



しかし・・・まあ、そんな感想文に、強く反応するのも、大人げない行為ではあるが・・・。