リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

折り合いの悪い二人

2015-11-29 08:48:00 | オヤジの日記
東京に帰ってきて、もう5年半になる。

東京に帰ることになったきっかけは、傍から見ればバカバカしいものだった。

その前は、さいたま市のメガ団地に15年間住んでいた。

いま25歳の息子は東京生まれだが、幼稚園から大学1年までをさいたま市で過ごした。
いま大学2年の娘は、埼玉で生まれて埼玉で育った。

なぜ東京から埼玉に越したかというと、私に甲斐性がないので、東京の住環境を維持できなくなったからだ。
子どもが生まれて、3DKの住環境を求めたとき、現実的に見ると私の稼ぎでは東京に住むのは無理だったのである。

しかし、子どもたちは父親の不甲斐なさとは関係なく、さいたまのメガ団地でのびのびと育った。
それは、親として嬉しいことだった。

さいたまで暮らした14年間は、家族それぞれに友だちができて、貧しいながらも楽しい時間を過ごせたと思う。
ただ、最後の15年目は、私にとっては最悪の年だった。
それがなければ、私たちは、まださいたまの団地に住んでいたはずだ。

その年、我が家に、一人のご老人が来た。
ご老人は、ご主人をなくしてから一人暮らしを一年ほど続けていた。

80歳のご老人に、東京三鷹で一人暮らしをさせるのは虐待である。
そう思ったご老人の長男次男は、ご老人を私の家に預けた。

「だって、俺たちには、世話のかかる子どもがいるし遠いしね」

私にも育ち盛りの子どもがいたが、その言葉は無視された。

微かに認知症が進んだご老人。
多くのご老人は、人生のファイナルステージを悟って穏やかに暮らすものだと私は安易に考えていた。

しかし、そのご老人は、心に頑強な鋼鉄の鎧を着ているような人だった。

まず、私の仕事を理解しなかった。
パソコンでデザインをするという私の仕事を全く受け入れることができない人だった。
そんな仕事があることが想像できない人だった。

「働きもしないで、一日中パソコンでゲームをしている」
「嫁さんに働かせて、平気な顔で生きている」
「働くというのはスーツを着て毎日同じ時間に家を出て夜帰ってくるものでしょ。家にばかりいて何が仕事よ」
「子どもたちが可哀想だ」

ご老人は、若いときから、ある宗教を信心していた。
そして、その宗教で繋がった団地のご老人たちに、私のことをそのように吹聴したのである。

宗教で繋がった人たちの結束は、私の想像を超えて強固だった。
私が団地を歩いていると、ご老人の知り合いのご老人たちに、「あんた、嫁さんを働かせて、ゲームばかりしてるんだって。罰当たりな男だねえ」と何度となく説教された。

呆れることに、得意先に行くために自転車で団地内を抜けていこうとすると、週に数回呼び止められて、そうやって説教されることがあった。

私のヨメは、確かに働いていた。
週に4回、朝の6時から午前11時半まで、花屋さんで働いていたのである。

生々しいことを書くようだが、ヨメがパートで稼ぐ金では、公団の家賃さえも払えない。
(ついでに言うと、ヨメがパートで稼ぐ金は、ヨメの老後の蓄えだから生活費には加えていない)
しかし、ご老人は、月に90時間のパートタイムで、ヨメが一家四人を養っているというメルヘンを信じきっているのだ。

宗教を信じるだけならまだしも、メルヘンまでも信じて疑わず、それを周りに触れ歩くという現実に直面したとき、私は無力だった。

窮地に陥った私は、ヨメに、あのお方にわかるように説明してくれないか、と頼んだ。
しかし、ヨメはこう言うのだ。
「あの人は思い込みが激しいから、一度思ったことを覆すのは〇〇先生(ご想像にお任せします)じゃないと無理だわ。いいじゃないの、思わせとけば」

実は、ヨメも幼い頃から、その宗教を信心していたから、私よりもご老人の方にシンパシーを感じていたのかもしれない(実の親だから当たり前か)。

だから、私がノイローゼ寸前だということに気づかなかった。

家族の中で、唯一私の異変に気づいたのは、当時中学2年の娘だった。

娘は、家族の前で、こう言ったのだ。
「おばあちゃんに、三鷹に帰ってもらおうよ。一人暮らしが危ないって言うなら、アタシたちがおばあちゃんちのそばに引っ越して、面倒見ればいいじゃない」

しかし、ヨメと息子は、当たり前のように反対した。
「ここには大勢友だちがいるし、あなただって学校を変わるのは嫌でしょ」
要するに、一刀両断に却下された。

あとで娘と二人きりになったとき、無理をするなよ。でも、ありがとうな、と礼を言った。

私のその言葉に対して、娘は毅然としてこう言ったのだ。
「アタシは諦めないよ。いい考えがあるから」

それから数日して、私は娘の「いい考え」の中身を知って、大いに驚くことになった。

娘は、まず吹奏楽部の友だちに「アタシ、東京に引っ越すから」と言い回ったらしいのだ。
次は、同級生たち。
そして、吹奏楽部の顧問、担任にも「引っ越します」と宣言した。

伝え聞いたヨメは怒って、懸命に火消しに回ったが、残念ながら、ヨメの知り合いよりも、はるかに娘の友だちの数の方が多かったから、火消しは間に合わなかった。

つまり、娘は既成事実を積み重ねるという思い切った手を使ったのである。
そして、自分で転校先の情報を仕入れ、私とふたりで東京三鷹に出向き対策を練った。

ただ、ひとつの大きな問題点は、東京三鷹近辺のアパートの家賃が想像以上に高かったということだ。
覚悟はしていたが、さいたまの公団と同じ家賃では、せいぜい1DKを借りるのがやっとだった。

厳しい現実に直面して絶望的になった二人だったが、ここで幸運にも救世主が現れた。
私の得意先の人で、東京で美容院2軒と理容室1軒を経営するオーナーが、東京武蔵野にアパートを所有していたのである。

ただ、そのアパートは築30年近く経っているから、近いうちに取り壊すことになるかもしれない、とも言われた。
それは時期が決まっているのですか、と聞くと「いや、今すぐではないけどね」とオーナーに言われたので、取り壊すまでの間、住まわせてもらうわけにはいきませんか、と非常識なお願いをした。

私が頭を下げたことよりも、中学2年の娘の必死のお辞儀が効いたのかもしれない。
オーナーは、「まあ、知らない人でもないことだし」と承諾してくれたのである。

そればかりか、101号室と201号室の2DK・上下2世帯を格安で貸していただけるというのだ。
いささか強引ではあったが、契約をすぐに済ませ、既成事実を積み上げた上で、東京に引っ越すことをヨメと息子に納得させた。

引っ越した当初は、アパートがボロいなどと文句を言っていたふたりだが、もともとヨメと私は東京生まれ東京育ちだ(ヨメは中野、私は目黒)。
東京なら、どこでも馴染める自信があった。
それに、人気の吉祥寺が近いということも、いい方に作用して、ヨメの文句はいつの間にか消えた。

娘は、当初予定していた三鷹の中学ではなく、武蔵野の中学に転校することになったが、すぐに友だちが出来て、その友だちの何人かとは高校も同じところに通うほど仲良くなった。

そして、ノイローゼ寸前だった私の日常も平穏なものになった。

ご老人が暮らす三鷹のマンションでは、相変わらずご老人が私の悪口を言ってるようだった。
だが、さいたまのご老人たちには悪いが、三鷹のマンションの住人たちは情報量や情報の理解能力が違うせいか、誰もご老人の私に対する悪口に同調する人はいなかった。
つまり、トラブルの元がなくなったということだ。

私たちは、春夏秋と穏やかな日々を過ごした。

だが、年が明けた1月半ばを過ぎた日の夜11時過ぎ、ヨメの携帯に電話があった。
「あなたのお母さんの部屋が燃えているわよ」

駆けつけると救急車がマンションの周りを囲み、ご老人の部屋から煙が出ているのが見えた。
そして、ヨメは、マンションの知り合いに、「もうお母さんは救急車に乗せられているから、早く行きなさい」と急き立てられて、救急車に乗った。

意識不明の重体。
体に炎はかからなかったが、煙を吸ったことで喉が焼けて呼吸困難になっているらしい。

すぐに、ご老人の長男と次男を呼んだ。
だが、そこで私は信じられないものを見るのだ。

担当の医師から、助からないかもしれないと言われた長男次男は、付き添うことをせず、「明日仕事があるから」と帰ってしまったのである。

結局、ヨメと私が交代で夜通し付き添った。
そして、ヨメも、「どうしてもパートを休めないから」と言って、こちらに引っ越してきてから見つけた花屋のパートに、翌日朝5時半を過ぎた頃、出かけていった。

私は一旦家に帰って、子どもたちの朝メシを作り、息子の弁当を作った。
そして、作っている最中に病院から電話があり、「もう一時間もたないかもしません」と言われたので、武蔵野日赤にすぐ駆けつけた。

ご老人は、よほど私のことが嫌いだったのだと思う。
私が病室に着いて5分足らずで、命の炎を消した。

耳元で「逝くな」と叫んでみたが、ご老人が私の言うことなど聞くはずがない。
炎は私をあざ笑うように消えた。


初めて握った手が、とても温かかったことは、いまも鮮明に覚えている。


ご老人と一番折り合いが悪かった私が最期を看取るという陳腐すぎるストーリー。
笑い話にさえもならない。

私は罰当たりにも、ご遺体に直面しながら涙をまったく流さずに立ち尽くすだけだった。


だが、最期を看取った私だからこそ、何かを言う権利はあると思うのだ。


ひとり安置所で葬儀社の人を待つ間、小さな声でご老人に話しかけた。



ごめんなさい

そして おやすみなさい

お義母さん



帰ってきた男

2015-11-22 08:23:00 | オヤジの日記
22歳年下の友人に、フクシマさんというのがいる。

埼玉桶川のイベント会社から仕事をいただくとき、いつも彼が担当だった。
付き合いは、10年くらいだろうか。

通称、おバカなフクシマ。

フクシマさんとは、毎回仕事の打ち合わせを2時間程度したが、そのうちの1時間40分は打ち合わせではなく、バカ話である。

たとえば、桜の季節なら、「ソメイヨシノが咲き始めましたねえ」から始まって、「染井佳乃さんて人、絶対いますよね」とバカ話をフクシマさんが振ってくる。

ああ、確かに日本全国に5人はいそうな気がしますね。

「たとえば、銀行で『染井佳乃様』って呼ばれる声を聞いたら、オレ絶対にその人の下にゴザを敷いて、酒を飲み始めますね」

焼き鳥も食いましょうか。

「そうそう。そして、ああ、七分咲きかな、満開かな、なんて言って、またビールをゴクリ」

いや、もうじき葉桜だろ。
姥桜かあ、なんてね。

「そして、染井佳乃さんに、ボコボコに殴られる、と」

・・・・・というようなおバカな会話をそのときの気分で延々と続けたものである。


そのフクシマさんは、実は繊細で真面目なおバカだった。

東日本大震災の二ヶ月後、彼の勤める桶川のイベント会社の社長が、毎週末ボランティアンのため宮城県を訪問した。
社長は、宮城県塩竈市の出身だったからだ。

そのとき、フクシマさんは、社長から誘われたわけでもないに、志願してボランティアに参加した。
その場所で、フクシマさんが何を見て何を感じたのかはわからない。
聞いたことがない。

しかし、毎週末宮城県に行っていたフクシマさんの顔から徐々に表情が消えていったことが、その現場の凄まじさを物語っていたと思う。

フクシマさんの顔から笑顔が消え、表情がなくなったその夏の8月に、フクシマさんは医師から「うつ病」と診断されることになる。
そして、医師から会社を休むことを勧められたフクシマさんは、同時に社長から無期限休職を言い渡された。

「Mさん、オレ、どこまで行っちゃうんでしょうか」
無表情に、テーブルの1点を見つめたまま、フクシマさんが言ったとき、私は頭が混乱して答えを返すことができなかった。

22歳も年が上なのに、情けない男だ、と自分を責めた。


フクシマさんが、医師と奥さんと子どもさん二人のサポートを受け、鬱からの脱却を図ろうとしている間、半年に一回程度、私はフクシマさんの奥さんに電話をして、病状を聞いた。
そして、奥さんはそんな私に気を使って、必ずフクシマさんを電話口に出してくれたのである。

もちろん会話にはならなかった。
10秒くらい、私がフクシマさんに一方的に言葉を投げかけただけだった。
電話を切るとき、私が、また今度、と言っても返事は帰ってこなかった。

自分勝手だとは思ったが、私はフクシマさんとの縁を断ち切りたくなかったので、迷惑を承知で、その後も半年の時間をおいて電話をかけた。
そして、10秒間だけ話しかけた。

劇的に良くなることはなかったが、フクシマさんは、少しずつ回復していって、昨年の夏から桶川の社長の知り合いの会社に「ゲスト扱い」で勤めることになった。
社会復帰を医師から勧められたからである。

私は、その会社の社長のことも知っていたので、迷惑かと思ったが、何度か状況確認のため、社長に電話をかけた。
その度に、社長に「会いに来たらどうですか。みんなとはそれなりにコミュニケーションをとれてますよ」と言われた。

それを聞いて、砲弾と爆弾を持たなければ安心できないテロリストより臆病者の私は、みんなと順調にコミュニケーションがとれているフクシマさんが、私に対してだけは、よそよそしい態度をとったらどうしよう、と思い悩み、社長の提案を毎回断った。

そして、月日は移って、今年の二月のことだった。
その会社から仕事をいただくことになった私は、通された応接室で、檻の中の虎のようにウロウロと徘徊することを繰り返した。
フクシマさんと会うこともあるかもしれない、と思ったら、落ち着いてケツをソファに下ろすことができなかったのだ。

もし会ったら、俺はどんな態度を取ればいいのだろうか。

そんな風にウジウジと悩み、徘徊していた私の上半身に、突然強烈な違和感が襲った。
腰に絡みつく両手の感触。
それは、3年半ぶりの感触だった。


あの男が、帰ってきた。


それを確信したとき、私はその男の腋をくすぐっていた。

「ギャハハハハハーーーー!」

おバカなフクシマさんの弱点は、脇をくすぐられることだった。
悶え笑うフクシマさんが、目の前にいた。

「Mさん、オレ、帰ってきましたよ」

半年に一度の電話のとき、私は10秒間の話しかけの中で、「帰ってきてくださいよ」と必ず囁いていたのである。
フクシマさんは、それを覚えていてくれて、本当に「帰ってきてくれた」のだ。

おバカなフクシマさんが、昔のおバカ顔で言った。
「親や兄弟、会社の人たちの誰もが『頑張れよ』と言っているとき、女房と子ども、Mさんだけが、『頑張れ』って言わなかった。そして、Mさんの『帰ってこい』のことば。オレ、かなり救われたと思いますよ。だから、帰ってこれたんです。ありがとうございます」

頭を下げられて、また抱きつかれた。
また腋をくすぐった。

3年半の空白が、一気に吹き飛んだ瞬間だった。


おバカに向かって、私は言った。

ほら、「リアルに終らない旅はない」「ガチでやまない雨はない」という、有名な出川哲朗師匠の名言がありますよね。
だから、出川師匠を尊敬するフクシマさんなら、帰ってきて当然です。
それが、あなたの運命だったんです。

「そうそう、確かに、出川も言ってましたよね。聞いたことがあります。あれは、心に響く言葉だ・・・・・・・・お~~い、そんなこと、あるか~~い!


ノリツッコミのクオリティは、以前に比べて落ちてはいるが、おバカが復活したのは間違いがない。


おバカのフクシマ。



ほんとうに お帰りなさい

待ってました


91歳の母ちゃん先生

2015-11-15 08:27:00 | オヤジの日記
母が、今年の10月8日で91歳になった。

母は、川崎で姉と暮らしていたが、3年前、姉が死んだことで一人になった。
川崎で一人暮らしをさせるわけにはいかないので、武蔵野のおんぼろアパートの近くに、バリアフリーのワンルームマンションを借りて、そこにいま住んでもらっている。

おんぼろアパートからは、自転車で4分程度のところだ。

朝晩の食事は、私が大量に作って、日付ごとに分けて冷凍庫に保存したものを、電子レンジで解凍して食べてもらった。
平日の昼はヘルパーさんが作ってくれたものを食べてもらった。

ヘルパーさんの来ない土日の昼間は、私のヨメと娘が掃除と洗濯のついでに昼メシを作って、それを食べてもらっていた。

役所の評価では、一番軽い度数の認知症と判断されたが、理解力は少々落ちていたとしても、人との会話に支障はなかった。
ただ、足腰が弱っていたので、肉体的な部分では、ある動作だけは人に頼らざるを得なかった。

息子の目から見たら、そんな母の人生は波乱万丈だったと言える。
20代前半に肺結核に罹ったため、初めて就職したのは30歳を間近に控えたときだった。

最初は、中学の国語教師。
そして、30半ばを過ぎたとき、受け持っていたクラスの父兄からヘッドハンティングを受けて、給料のいい信託銀行に転職した。

そこでは、当時の女性としては珍しく課長にまで出世して、定年を迎えた。
そのあとの10年間、同じ銀行に嘱託として勤めた。

フルタイムで働いていた母は、いつも帰りが遅かった。

なぜそんなに働くのかといえば、夫が家に帰ってこなかったからだ。
母の夫は、一流会社に勤めていたのに、稼いだ金を一銭も家に入れずに、新橋や銀座に金を捨てた。
夫が金を出さないのだから、病弱な母が働くしかなかった。

そして、母は、もう一つの悩みを抱えていた。

娘が、社会から背を向けて、高校卒業後ひきこもってしまったのだ。
姉は、自分以外の人や物が怖くて、自分で心の檻を作り、すべてを遮断して40年間小さな部屋で暮らし続けた。

今なら、「発達障害」と診断されるところだろうが、当時の社会では「ただのナマケモノ」としか見てもらえなかった。

母は、姉のことをいつも悔やんでいた。
「私の育て方が悪かったのよ」

それは違うと思ったが、母を説得する材料を持っていなかった私は、黙るしかなかった。

家族を養うために、ひとり懸命に働き続けた母の心が休まることはなかったと思う。
冷酷な言い方になるが、母の心が休まったのは、娘が死に、夫が死んだときではないだろうか。

私が母に、父が死んだことを告げて、葬儀には行きますかと聞いたとき、母は「他人様が死んだだけですから」と下を向いたまま顔を上げなかった。
娘が死んだときは、「島根県のお墓に葬ってくださいね」と、私に向かって頭を下げた。

母の本当の心の内はわからないが、二つの記憶を無理やり消そうとしているように、私には思えた。


91歳の誕生日。

友人の尾崎と一緒に、母の好きなどら焼きでお祝いをした。
母の大好きなコカ・コーラで乾杯をした。

尾崎に向かって、母は「尾崎くんは私の次男ですものね」と言った。
尾崎は、その言葉を聞いて、感激していた。

私の友人の尾崎は、私以上の「はみ出しもの」だった。

偏差値の高い高校に入学したにもかかわらず、2週間で学校を辞めた。
そして、そのあと、尾崎曰く「犯罪者にならない程度の悪さはなんでもやった」時代を10年近く過ごした。

私が26歳、尾崎が24歳のとき、私たちは地方の駅で遭遇し、どういうわけか変な化学反応を起こして、二人は友だちになった。

尾崎の外見からは、危ない空気がいつも発散されていた。
今でも、中野や阿佐ヶ谷を歩いていると、すれ違うチンピラが道を譲るほどの危うさを持っていた。

「喧嘩は百戦百勝」と尾崎はいつも言う。
滅法強いのだ。

私は、尾崎の喧嘩の場面に2回遭遇したことがあった。
一度は渋谷宇田川町で、深夜6人の男にからまれたときだった。
尾崎は、あっという間に5人の男を地面に這わせてしまったのだ。
最後の一人は、それを見て戦意喪失し、何を考えたか、財布を放り投げて逃走したのである。

いつでも逃げられる準備をしていた私としては、夢を見た思いだった。

2回目は、新宿の居酒屋。
格闘技でもやっていそうな屈強の男が二人、尾崎に難癖をつけた。
店に迷惑をかけるのを嫌った尾崎は二人を店の外に誘った。
そして、2分後に、苦笑いを浮かべて帰ってきた。

尾崎はそのとき右手の指を二本立てた。
尾崎がVサインをするとは珍しいなと思ったが、違っていた。
「2発だった」と言うのである。

つまり、一人一発で倒したということだ。

170センチ50キロ程度の細い男が、倍くらいありそうな男を一発で倒す。
まるで漫画だが、尾崎は漫画の主人公のように強かった。

その「はみ出しもの」の尾崎を30年近く前のことだが、私の母に紹介したことがあった。
誰もがその姿を注視するのをためらうほど危険な匂いを振りまく尾崎だったが、かつて教育者だった私の母は、絶対に尾崎を気にいるだろうという確信が私にはあった。

その推測は当たって、母は尾崎をすぐに気に入り、尾崎も母に心酔した。
それからの尾崎は、私の母を「母ちゃん先生」と呼んで慕った。

尾崎と私は一年以上合わないことがざらにあったが、そんなときでも尾崎は、私の母には会いに行ってくれたのである。

「母ちゃん先生の91歳の誕生日をやろうぜ」と言ってくれたのも尾崎だった。

尾崎が、母に聞いた。
「母ちゃん先生、いくつになった?」

「91歳」

「今日は、何月何日?」

「10月8日」

尾崎は、嬉しそうだった。
母と話しながら、時折、目に水を貯めることもあった。

そして、母も嬉しそうだった。
母にとっては、今の時間が長い人生の中で、一番楽しいときなのかもしれない。

それは、考えようによっては悲しくも思えるが、母の嬉しい顔を見るのは、息子の私にも嬉しいものだった。


母の人生。

それは、病気との闘いだった。

若い頃の肺結核。
それが再発したのが、70歳を過ぎてからだった。

そして、その治療に使う薬が強すぎたせいで、母は難病の再生不良性貧血になった。
(再生不良性貧血は完治が難しい病気らしいが、思い切って試用医薬品を使ったことによって、母の骨髄は正常に機能するようになった)
そのあとは、鼻の奥にカビが生える真菌症(毎日大量の鼻血を流した)。
さらに、気管支拡張症になり、80歳すぎに3回のカテーテル手術を受けた。

どの段階で死んでもおかしくはなかったが、母は、その都度、病を乗り越えた。
とても強い人なのだ。

なぜだろうか、と私は考えた。

そして、一つの結論を得た。


俺が、親孝行をしていないからだ。


母は、自分の息子が親孝行をするまで死ねない、と思っているのではないだろうか。
その思いが、母を「長寿の道」へと導いているのかもしれない、と私は思った。

母が定義する「親孝行」とは何だろうか、と最近の私は絶えず考えている。
しかし、どれほど考えても答えは見つからない。


俺は母に、どんなふうに感謝したらいい?


尾崎が車を停めた駐車場まで歩いて行く途中、私は尾崎に、そのことを話した。

尾崎が、いきなり私のケツを叩いた。
「おまえ一人で背負い込むなよ。俺は、何のためにいると思っているんだ?
俺は母ちゃん先生の『次男』だぜ。次男は長男を助けるもんだろうが。違うか?」


不意を打たれた気分で、私は尾崎の目を見た。

私たちの会話では、普段ほとんど目を見交わすことはなかったが、このときはお互いを見つめた。

そして、私の目を強い光で射るように見て、尾崎がまた言った。

「俺はおまえの弟だ。
俺はおまえの命令なら何でも聞く。
自分が独りだとは、思うなよ」



尾崎が友だちで良かったと思った。

尾崎となら、ふたりで親孝行できると思った。



はみ出しものの「ありがとう」

2015-11-08 08:11:00 | オヤジの日記
少し前のことだが、駒沢公園の「東京ラーメンショー」に行ってきた。

2年前の9月、ある人から「ラーメンショーに行きましょうよ」というメールをいただいたのだが、そのお誘いを実行することができなかった。
なぜなら、そのメールの主が亡くなったからだ。

私は、その人を「教頭先生」と呼んでいた。
高校時代の教頭だったから、当たり前だが。

私は今もそうだが、クセのある、性格の悪い男だった。
絶えず、人とは違うことをしようと思う「はみ出しもの」でもあった。

学校では、宿題や提出物を出すことをいつも拒んだ。

宿題などというのは、授業をまともに聞いてない人が、それを補うためにやるものだ。
自分は、授業を集中して真面目に聞いているから宿題は必要ない。
だから、提出する意味がない。

いい点を取れば、何の問題もないだろう。

そんな可愛げのないガキだった。

しかし、私は感謝すべきことに、担任に恵まれていた。
どの担任も、そんな私を野放しにしてくれたのである。

きっと、先生方はわかっておられたのだ、と今にして思う。
「こいつは、頭を押さえつけたら、きっと道を踏み外す危ないやつだ。自由に泳がせていれば、絶対に害はないだろう」

そんなこともあって、私は伸び伸び、スイスイと泳がせていただいた。

だが、高校3年の担任だけが、常識的な教師だった。
横並びを重んじ、はみ出し生徒を許さない、そこら辺に大勢いる普通の教師だったのだ。

宿題や提出物を出さない私をクラス全員の前で名指しで断罪した。
「宿題を出さないとテストでたとえ百点をとっても零点扱いにする。成績表も1だ。私は、普段の提出物を重要視する。そうしないと、普段真面目に勉強している生徒が報われないからね。1が嫌なら提出物を出すんだ。俺は例外は許さない!」

それに対しての私の答えは簡単だった。

それなら、俺、学校辞めますから。

そう言い残して、教室を後にした。
小学校1年から続いていた「皆勤賞」が途切れた瞬間だった。

実は、私は学校が大好きで、高熱があったときも学校を休まなかった。
大学に上がってからは、講義のない日でも大学に行くことがあった。

おかげで、変人扱いされたが、「変人」なのは間違いないので反論はしなかった。


私は、家に帰る前に、図書館に立ち寄った。
どうすれば転校できるかを調べるためだった。

今だったらインターネットで簡単に調べられただろうが、当時は図書館で調べるのが一番効率的な方法だった。
というより、それしか選択肢がなかった。

すぐには方法が見つからなかったので、次の日も通い、その次の日も通った。
そして、色々なところに電話をして、根本的な解決方法を教えてもらった。

辞める、と宣言した以上、もう学校に行く気はない。
退学届けは出さなければいけないだろうが、新しい高校の目処が立ってからでいいだろう、と後回しにした。

幸運にも、親切な協会の方に、「編入試験ならできるところがある」と教えていただいたことで、私は決心した。
次の日、母が仕事から帰ってきたら、説得してみようと意を決した。

転校したとしても、その学校が私を野放しにしてくれるとは限らないのだが、もう走り出してしまった以上、覚悟を決めるしかなかった。

だが、そんな人生の一大転機になる日の午後1時過ぎに、予期しない来客があった。

高校の教頭先生が陸上部の顧問を連れて、我が家にやってきたのである。
教頭先生の顔は知っていたが、話をしたことがなかった。

私のことなど知らないはずなのに、なぜ来たのだろう?
そんな風に訝っていたら、教頭先生が「すまなかったねえ」と、いきなり言ったのだ。
言葉だけでなく、頭も下げた。

私は、混乱した。

客観的に考えたら、担任の言うことを聞かない私の方が悪い。
はみ出しものの私は叱られて当然なのに、教頭の方が私に頭を下げたのである。

そして、もう一度「すまなかったね」と教頭先生。
そのあと、教頭先生は私の目をまっすぐ見て、「明日から学校に来てくれないだろうか」と、穏やかだが威厳を感じさせる声で言った。

さらに、「すべて解決したから、君は今まで通りでいてくれていいんだよ」とも言ってくれた。

拒む理由はなかった。
私の心の中にあった20トンの氷が、瞬時に溶けた瞬間だった。

私は、頭を下げた。

そのとき、私の心に暖かい風が入ったのを感じたが、陸上部の顧問の言葉で、その風は少し冷えた。
「みんなが、おまえのことを心配しているんだ。もう授業は無理だが、練習だけでも出ないか。みんな喜ぶぞぉー」

それに対して、私は実に私らしい可愛げのない言葉を返した。
「俺、そういう青春的なことは嫌いなんで、明日から行きます」

教頭先生は、手を叩いて喜んでくれた。

私が在学した学校は、無断欠席が5日続くと停学という規則があった。
私は、6日間無断で休んだが、罰は受けなかった。
そればかりか、その6日間を出席扱いにしてくれたのだ。

だから、私は高校を卒業するまで「皆勤賞」だった。
おそらく、教頭先生が「魔法」を使ってくれたのだと思う。

そのことがあってから、教頭先生は陸上部の練習を頻繁に見に来て、その都度私に声をかけてくれるようになった。

なぜ教頭先生が、一生徒の私をそれほど気にかけてくれたのかは、わからない。
一度も聞いたことがない。

しかし、俺は、先生に恵まれているな、運がいいな、とは強く思った。
感謝した。

教頭先生は、その私立高校で60歳まで教頭を続け、定年後は高校の図書館長として5年を過ごした。
70歳を過ぎてから、独学でパソコンを習得し、デジタルカメラも自在に扱えるようになった。

散歩の途中に立ち寄った蕎麦屋で、大好物の鴨南蛮をカメラに収めて、メールで送ってくれることも度々だった。
そんな鴨南蛮の画像が、私のプライベート・ファイルの中に30個以上ある。
それは、いま私の宝物になっていた。


そして2年前、教頭先生の息子さんの名前で、訃報をいただいた。
その中に「天寿を全うしました」とあった。

それを読んだとき、私は、違う、と首を振った。

教頭先生は全うなんかしていない。
だって、俺に、「一緒にラーメンショーに行こうよ」というメールをくれたのだから。

2年前は、訃報をいただいたとき、もうラーメンショーが終わっていたので行けなかった。
昨年は、私の体がいうことをきかなかったので、行けなかった。


今年は、幸運にも体が動く程度には回復したので、行くことができた。

食うラーメンは、教頭先生の出身地・長野のラーメンと決めていた。

「王国の味噌ラーメン」

一杯目は、教頭先生の分だ。
濃厚な味噌が鼻を刺激するスープと太い麺。
信州の味が詰まったラーメンだった。

食いながら、きっと教頭先生は、こう言ったに違いない。
「Mくん、美味しいねえ。こんなにも美味しいものが食べられるなんて、僕たちは幸せだねぇ」

また行列に並んで、二杯目を食った。
これは、私の分だ。

ふた口食って、味がわからなくなった。

目と鼻から、大量に水が流れてきたからだ。




教頭先生。

はみ出しものを救っていただいたこと、片時も忘れたことがありません。


ありがとうございました。




庭に増えたもの

2015-11-01 08:20:00 | オヤジの日記
前々回に、おんぼろアパートの庭に住み着いた猫のことを書いた。

彼は、庭に住み着いているだけだからペットではない。
お客様、と言ったほうが正確かもしれない。

ただ、どちらにしても動物が身近にいる生活は心に潤いを与える。

私は、28歳で結婚して実家を出るまで、何かしらの動物を飼っていた。
犬、猫、インコ、ウサギとカメ。

ただ、私は動物が好きだったが、私の家族はほとんど動物に関心を示さなかった。

母は、フルタイムで働いたせいで、動物を構っている暇がなかった。
姉は、自分以外の全てが怖い人だったから、動物を寄せ付けなかった。

父は、一流会社に勤めていたが、家に帰ってこず一銭の金も家に入れなかった。
だから、家のペットにも無関心だった。
妻と子どもとペットは、ずっと放置された。

「それなら、何でおまえは家庭を持ったんだよ」と罵ってやりたかったが、帰ってこなかったので罵れなかった。
私の怒りは、いつも不完全燃焼で終わった。

そんな不完全燃焼の私を慰めてくれたのは、動物たちだった。
「あの子たち」がいなければ、私はどうなっていたかわからない。

帰ってこない父。
夜遅くまで働く母。
世間を拒否して引きこもる姉。

私に又吉直樹氏のような文才があったなら、小説を書いていたに違いない。
家庭の中には、ネタにできる話がたくさんあったから、それだけで三部作くらいは書けそうだ。

だが、私は幼いころ文才を枯葉とともに燃やしてしまうミスを犯したので、燃えカスしか残っていなかった。
だから、今は燃えカスで文章を綴っている。


結婚して、数年間は動物から遠ざかっていたが、子どもが出来てからは、子どもにせがまれてハムスターを飼った。
ただ、ハムスターは寿命が短いので、絶えず補充しなければならなかった。
多いときで4匹飼っていたときがあった。

そのあとはカメ。
同時進行でウサギ。
そして、亀とウサギが死んでからは、モルモットを飼った。

しかし、二人の子どもは、動物は見ているだけで十分だと言って、世話をしようとしなかった。
世話は、私と同じく子どもの頃から犬猫を飼っていたヨメが交互に受け持った。

ペットを飼う醍醐味のひとつは、彼らの世話をすることなのだが、子どもたちは、どんなに誘導しても世話をやりたがらなかった。
聞いてみると、偶然にも二人は、ペットに噛み付かれて怪我をした友だちが身近にいたというのである。

だから、触るのは怖い、と言うのだ。

ウサギやモルモットは噛まないよ、と私の指先をウサギたちの口元に持っていって何度か安全をアピールしたが、彼らは頑なに「見ているだけでいい」と拒んだ。

無理強いするものではないので、あえて強く勧めたりはしなかった。
ペットはいつも彼らの身近にいたが、彼らはペットに触ることなく大人になった。

おんぼろアパートの庭に住み着いたセキトリという名の猫に対しても、私の子どもたちは「見ているだけでいい」と言う。
そして、セキトリも子どもたちには無関心だ。
そのほうが、お互い気が楽なのかもしれない。

だが、2年前にモルモットに死なれてからの私は、「ペットロス」である。
心のどこかが満たされていない自覚があった。

繰り返すが、庭のセキトリはペットではない。
彼は、一人の独立した存在である。

彼は、誰かのペットになるつもりはないだろうし、私もペットにしようとは思っていない。
もしもペット扱いしたら、信頼関係が崩れるだろう。

そこの線引きだけは、しっかりとしておきたい。


・・・・・とは思うのだが、何かの世話をしたい気持ちが最近の私は抑えきれなかった。

そんなことを思っていたら、一か月前に我が家に突然の珍客があった。

ヨメが風呂場で絶叫したのだ。
ゴキブリでも出たのかと思ったら、ヤモリだった。

「何で、ヤモリがいるのー!」と涙目のヨメ。

7センチほどの大きさのヤモリを軍手で掴んだ私は、亀の飼育用に使っていた水槽にヤモリを入れた。

「ま・・ま・・・まさか、飼うつもりじゃあ?」

いや、飼うつもりはないが、捨てるつもりもない。

「それって、飼うってことじゃないかぁ!」
非難轟々である。

「早く捨ててきてー!」

家庭が崩壊しても困るので、庭に捨てた。
そこにはセキトリがいたが、変な気を起こさないでくれよな、とお願いしたら、無関心を装ってくれた。

庭には雑草が生えていて、小さな虫が生息していたので、それをピンセットで捕獲してヤモリに餌として与えた。
喜んでいるかどうかは、顔が小さいので判断はできなかったが、食欲は満たされているようだった。

私は、ペットの「人権」には気を使うタチなので、水槽の天板は外して庭に置いておいた。
だから、ヤモリくんは、逃げようと思えば逃げられたはずだ。

しかし、なぜか、この一ヶ月間、水槽から逃げる気配がない。
住み心地がいいのかもしれない。

だが、当たり前のことかもしれないが、大学2年の娘は気味悪がって庭に近づこうとしない。
息子もヨメも「無理無理」と言って、庭には下りない。


最近、朝一番で交わす娘との会話は、百%ヤモリに関してである。

「ヤモリは逃走したか?」

娘がそう聞くと、私はいつも庭を指差しながら同じ答えを返す。


安心してください。
まだ、いますよ。


「安心できるかぁ、ボケェーーーーーーッ!」



なかなか、微笑ましい親子の風景ではないか。



ちなみに、ヤモリの名前は「ヤモちゃん」です。

娘からは、「おまえ、メガ級、ギガ級、テラ級に気持ち悪い男だな」と褒められている。



これもまた微笑ましい親子の風景ではないか。