リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

夏歌の定番

2012-06-28 05:36:17 | オヤジの日記
夏の定番アーティストと言えば、世間ではTUBEらしいのだが、我が家ではあまり評判が良くない。

その理由は、歌詞や曲名にセンスがない。
曲調、アレンジが工夫に乏しい。
無闇に声を張り上げる歌唱が暑苦しくて、カラッとした空気を感じない。
そして、その音楽性にPOPもROCKも感じないという、TUBEファンが聞いたら、確実に怒るであろう「言いがかり」に近い主観で、彼らの音楽を判断しているのである。

つまり、これは我々の一方的な主観なので、このことに関しては、あまり人に突っ込まれたくない。

好みの音楽ではない、ということで誤魔化すしかない。


2年前の夏、家族で伊豆の貸別荘にバカンスに行くときに、どのアーティストのCDを持っていくかで家族会議を開いた。

当然、サザンだよな。
いや、BUMP OF CHICKENでしょ。
MINMIを持ってく?

じゃあ、杏里も。

ということになって、この4つのアーティストのCDを持っていった。

海の見える貸別荘のテラスで、バーベキューをしながら、それぞれのアーティストの音楽を流した。

サザンオールスターズは、王道である。
極めて安定感のあるサウンドだといっていい。
桑田佳祐氏の書く詞とメロディ、歌声が、暮れていく夕陽に同化して、鳥肌が立つほどの臨場感を醸し出していた。

夜に聴くBUMP OF CHICKENの歌詞とメロディラインも、都会と比べて呆れるほど多い星空の下で、夢想的な空間をプロデュースする大きな役割を果たしていた。

南国の夏を思い起こさせるMINMIの歌声、メロディも気持ちをハイにさせて、夏を感じるには充分なテイストを持っていた。

そして、杏里。

2年前、大学2年だった息子は、杏里の歌は、「キャッツ・アイ」しか知らなかった。
当時中学3年だった娘は「オリビアを聴きながら」だけを知っていた。

持っていったアルバムは「CIRCUIT OF RAINBOW」と「MIND CRUSIN」の2枚だった。

そして、この2つのアルバムが、意外なほど、夏の海に合っていたのだ。

朝聴いても、昼聴いても、夜聴いても、見事なほど夏の海の景色に溶け込んでいた。

たとえ失恋ソングでも、杏里の持つドライな声が、詞の世界を重たいものにせずに、明るい未来の希望を持たせるような気分にさせてくれた。

「これが一番合うんじゃないか」と娘。
「これでいいよ、他はいらないよ」と息子。

結局、2日目から帰る4日目まで、杏里のアルバムがヘビーローテーションで流された。

娘は、アルバム2枚の曲の詞とメロディを全て完璧に覚え、今もこの2枚のアルバムは、娘のお気に入りである。


だから、我が家では、夏と言えば杏里。


我が家では、杏里が、完全に夏歌の定番である。



元ちとせ

2012-06-17 08:31:33 | オヤジの日記
元ちとせが好きだというと、友人から意外な顔をされる。

「おまえ、演歌、嫌いじゃなかったか?」

誤解している人が多くいるようだが、元ちとせは演歌歌手ではない。

奄美大島の民謡(島唄)の歌唱方法をとる歌手である。
演歌とは、まったく違う。

初めて聴いたのは、朝のニュース番組(スームイン?)だったと思う。
10年くらい前のことだ。

イベント会場のようなところで歌っているのを聴いて、心が動いた。

むかし、高校時代のことだが、同級生に奄美大島生まれの子がいて、文化祭で奄美の民謡を歌ったことがある。
それを聴いて、何だこれは、と思った。

聴き入った。
そして、聴きいるうちに、自然と涙が出た。

歌を聴いて泣いたのは初めてのことだ。

元ちとせの歌を聴いて、その時のことを思い出した。

単純に、凄い歌手が現れたものだと思った。

そして、それと同時に、これは売れないかもしれないな、とも思った。
個性が強すぎて、この歌唱方法を受け付けない人が多いのではないか、と思ったのだ。

しかし、予想に反して、メジャーデビュー曲は大ヒットした。

そればかりか、ディープ・フォレストのアルバム『Music Detected』に参加して、海外に実力を知らしめるというおまけまで付いた。

その後の元ちとせさんは、二度の出産を経て、マイペースで仕事をしているようだ。

そのマイペースさは、彼女のこれからの音楽人生に、大きな広がりを与えるのではないかと私は思っている。
彼女ほど実力のある歌手なら、歌を歌わせられるのではなく、歌いたい歌を歌って、自分の世界を確立すべきだと思う。

無理にヒット曲を作る必要はない。
それは、元ちとせの個性を間違いなく殺すだろう。

昨今、日本の音楽業界では「歌姫」の大安売りが続いているが、元ちとせにはMISIAとともに、歌の真髄を力むことなく極めていただいて、本当の「歌姫」の地位を揺らぐことなく確立していただきたいものだ。


元ちとせは、そんな無限の可能性を秘めている歌手だ。


カバー曲

2012-06-06 06:11:14 | オヤジの日記
カバー曲、と聞いて思い出すのは、何だろう。

真っ先に浮かんだのは、ホワイトベリーの「夏祭り」だ。
この曲は、ジッタリンジンというロックバンドのカバーだった。
これは、オリジナルより売れたと思う。

好きなのは、ジミ・ヘンドリックスがカバーしたボブ・ディランの「見張り塔からずっと」。
ギターのドライブ感がかっこよくて、哀愁を含んだジミヘンの声もよかった。
ディランのオリジナルよりも、曲の世界観を出していたと思う。

近年では、My Little Loverの「Hello, Again ~昔からある場所~」をJUJUがカバーしたのを聴いたが、これはJUJUが完全に自分のものにして歌っていた。

いい曲は、切り口を変えても、いい曲である。

たとえば、シュープリームスという女性R&Bグループが歌った「ユー・キープ・ミィ・ハンギン・オン」というヒット曲があるが、これをヴァニラ・ファッジというロックグループが原曲を留めないほどのアレンジで演奏したものがある。
まったく同一曲とは思えないほどの斬新なアレンジで、構成力豊かな表現で名曲に仕上げている。

あるいは、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」を男性R&Bシンガーのジョー・コッカーが、やはり原曲を留めないアレンジで、ソウルフルに歌い上げている。
その熱いソウルのほとばしる歌声は、圧巻である。
個人的には、オリジナルよりもジョー・コッカーの歌う「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」の方が好きだ。
おそらく百回以上聴いていると思う。

ここまでメロディとアレンジが変わると、むしろ、どちらもオリジナルなのではないかと思ってしまう。

こういうのが、カバー曲の醍醐味と言っていいだろう。


翻って、日本の歌手が歌うカバー曲は、メロディも歌詞も変えずに、歌手とアレンジだけが変わるというのが多い。

耳に馴染んだメロディだから、聴く側としては、安心して聴くことができるという利点がカバー曲にはある。

日本のカバー曲の場合、原曲を大きく変えるという冒険はせずに、まるで有名歌手がカラオケを歌うような感覚として、存在している。

知っている歌を、お気に入りの歌手が歌ってくれる。
それだけでファンは喜ぶ。

それは、悪いことではないが、私としては、曲の知名度頼みの安易な図式が透けて見えるようで、そんなお手軽なカバー曲は、好きではない。

またアルバム全体をカバー曲で埋めるという方式もある。

徳永英明氏は、それで一時代を築いた感があるが、どの曲も、同じアプローチ、同じ歌唱方法で表現されると、歌手の無個性さが強調されて、原曲の密度が薄くなるような気がする。

耳に馴染んだ曲だからこそ、大胆なアプローチで原曲を凌駕して欲しいと思うのだが、多くは、ただ「俺が(私が)上手に歌いました」の域を出ていない。

まして、アルバム全てをカバー曲で埋めるなら、徹底的に曲を解剖して、思いもよらない切り口で表現して欲しい。
同じ曲なのに、こんな表現方法があったのか、という感動が欲しい。

己れの歌の上手さに酔いしれるだけのカバー曲は、自己満足でしかない、と私は思っている。


平井堅の「大きな古時計」は、意外性と斬新さという点で、日本のカバー曲として群を抜いているのではないか。

私は、そんなカバー曲が聴きたい。