リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

強烈な胃の痛み

2010-12-31 09:20:51 | オヤジの日記
今年もあとわずか。

年末の最後の最後にやって来た、予期せぬ痛み。

29日に挨拶も兼ねて、静岡の得意先に行ってきた。
得意先との打ち合わせは、1時間もかからずに終わった。
パッケージデザインの仕事が2点とそれぞれの商品説明が裏表2枚、そしてロゴのマイナーチェンジである。

これは、私にとって、それほど得意な分野ではないが、クライアントが、かなり具体的な希望を言ってくれたので、イメージが湧きやすく、ストレスを感じない打ち合わせとなった。
仕事を出すとき、クライアントによっては曖昧なことしか言わず、「~の雰囲気で、~的な感じで」という人がよくいて、こういう人に限って、出来上がりを持っていくと「なんか、違うんだよねえ。イメージが、なんかねえ」などと言うのである。

「俺が言いたかったのは、違うイメージだったんだけどねえ」
そう言いながら、また抽象論で、話をまとめようとする。
私が具体的な部分を突っ込んで聞くと、「いや、その辺は察してよ」などと言うのである。

クライアント様は、神様なので、これ以上は言いませんが・・・・・。

しかし、今回はやりやすそうだ。
確実に、クライアントと私のイメージが一致している。
いいクライアント様だ。

だから、気分は、いつになく軽い。
ハミングが出そうなほどだった。

その勢いで、私は、静岡に住む友人のチャーシューデブ・スガ君の事務所に行こうとした。

だが、にぎやかな商店街を歩いているとき、急に私の右腹が痛み出したのだ。
刺すような痛み、というのとは少し違う。
胃の右側に、何か細いものが刺さっているようだが、痛み自体は刺すようなものではなく、胃を長さ20センチのメスのような金属で固定されたような痛みである。

胃の右側が固定されているから、体を折り曲げることができず、しゃがむこともできない、体をひねることもできない、それは、私にとって、初めて体験する痛みだった。

痛いからといって、脂汗が出るわけではない。
気分が悪いわけでもない。
ただ、右腹が固定されて、痛いのである。

昨晩は、自家製ピザと、カボチャと緑黄色野菜のコンソメスープ、それにカニかま、トマト、レタスのサラダだった。
これは、問題ないメニューだと思うし、今日は道端で拾い食いもしていない。
なぜ、腹が痛むのか、理解できない。

息はできる。
大きく息を吸っても、腹は痛まない。
しかし、上半身が動かせないという不思議な現象。

もしかして、何かに、呪われたか。
昨日、アパートの駐輪場で、間違って踏んでしまった季節外れのゴキブリの呪いか。
それとも、友だちから借りたものの10ページ読んで飽きてしまった「池上彰の学べるニュース1」の呪いか。
あるいは、SUIKAでボールペンを買おうとして、「いや、やっぱり現金で払います」と言い直したとき、マジで睨んできた売店のオバさんの呪いか。

それくらいしか、私は呪われることはしていないと思うのだが・・・・・。

しかし、その呪いが合体して、私に天罰を下している可能性はある。

罪深い男だ・・・・・私は。


などと言っている場合ではなく・・・・・痛い!

のた打ち回るほどではないが、とにかく痛い。
幸いなことに、足は動かせるので、私は不自然に上半身を立てたまま、足を出来損ないのロボットのように動かして、商店街を歩いた。
所々にベンチがあるので、座りたいのだが、立つときの痛さを考えたら、座るのが怖い。

どうしたらいいんだ、俺?

7秒ほど考え、スガ君に事情を言って、迎えに来てもらうというのが一番いい、という結論に至った。

iPhoneをポケットから出し、スガ君の携帯に電話をした(この動作は、痛くなかった)。

4コールで、スガ君が出た。

私は、何者かに体を固定されたような呪縛に絡め取られながら、かろうじて言った。

助けてくれ、胃が痛いんだ。

「イ・・・ガイタイ?」

いや、スガ君。
胃が、い・た・い。

「イ・・・ガ・・・イ・・・タイ? タイ?」

スガ君。
俺は、今ここで君とコントをしようとは思っていないんだ。
コントは、またの機会にしてくれないか。

だから・・・・・、
とにかく、迎えに来やがれ!
怒鳴った。

私は、怒鳴りながら自分のいる場所を告げ、両手で右腹を押さえながら、デブが来るのを待った。

デブは、メルセデスでやってきた。

「どうしたんですか。Mさん」

だから、胃が痛いんだよ。
両手で右の腹を押さえた私の姿を見て、スガ君は、やっと納得したようだ。

「ああ、胃が痛いんですか?」

私は、そう言ったつもりだが。
聞き間違いようのない日本語が、なぜ理解できないのか?
とうとう豚に成り上がったか。

「いやいや、Mさん。豚には成り上がれませんよ。ゼッタイに」

まだ、コントをしようというのか、君は。
とにかく、メルセデスに乗せろ。

「あのー、お言葉を返すようですが、ベンツなのでは?」

これは、メルセデスでは、ないのか?

「メルセデス・ベンツです」

だから、コントはいいから、俺を助けてくれ。

上半身を立てた状態のまま、私は宇宙遊泳をするシャトルの乗組員のような動作で、後部座席に座った。

右腹を固定している「何か」は、まだ私の自由を奪っていた。
私の中で、不安が増幅していった。

これは、なにか悪い病気なのではないだろうか。
たとえば・・・・・・・、口にするのも恐ろしいような。

スガ君が、運転しながら私に話しかけてきたが、私はまったく聞いていなかった。
両手で右腹を押さえながら、喉元をせり上がってくる不安と戦うことで精一杯だったからだ。

スガ君の事務所に着いた。
彼は、3階建てマンションの一室を借りて、看板を掲げていた。
そして、そのマンションの3階には、スガ君の住まいがあった。
事務所は1階の1LDK。

そこは、応接セットや書棚がモデルルームのように配列されていて、清潔感を感じる空間だった。

部屋に入るなり、スガ君が言った。
「Mさん、お昼はどうしましょうか。もう1時を過ぎてますけど」

スガ君。
俺は、胃が痛いんだよ。
昼メシどころでは、ないんだ。
常識で、考えてみてくれないかな。

そう抗議したとき、応接セットのテーブルの真ん中に竹編みのバスケットが置いてあるのが見えた。
底には、紙ナプキンが敷いてあって、その上にコロッケが山盛りになっていた。

その山盛りのデザインが、なぜか私の食欲を誘った。
胃が痛いのに、なぜ食欲が・・・・・?

私は、ソファに座り、左手で胃を押さえたまま、右手でコロッケを手に取った。
迷うことなく、口に運んだ。

それは、コロッケではなく、メンチカツだった。
それも、噛むたびに肉汁が出るほどのジューシーなメンチカツだった。

「それ、近所の肉屋で売っているメンチカツなんですけど、美味しいでしょ。俺、小腹が空いたときに、10個ぐらい軽くいっちゃいますから」

小腹が空いて10個というのは常識外だが、確かに美味い。
噛んだときの味は濃厚だが、あとを引かない上品さがある。

私は、立て続けに2個食っていた。
そして、うめえな、これ、と言いながら、スガ君に、ビールを要求した。

そんな私に、スガ君が言った。
「Mさん、胃が痛かったんじゃ・・・」

そう言われて、私は真面目に考えてみた。

今日は、静岡に行くために、朝早く家を出た。
朝メシを抜いていた。

そして、思い返してみれば、昨日作った自家製ピザは、家族プラス居候に大変好評で、私はピザを食うことができず、コンソメスープだけで終わっていたのだ。

そして、今日、昼メシ時。
あまりに腹が減りすぎて、私の胃に、今までにない症状が出たということ(それほどまでに腹が減るのは、私にしては珍しいことだったので、気づかなかったのだ)。

それが、不可解な胃痛の真相だった。


メンチカツのほかに、食い物はないかい?

「お赤飯とフランクフルトくらいしか、ありませんけど」

じゃあ、それをいただこうか。

「いや、それより、外で何か食べましょうよ」


いま食べたいの!
いま食べなきゃ、死んじゃうの!


ということで、お赤飯のパックとフランクフルト2本を食いながら、エビスビールを2本飲んだ私の胃は、何の痛みを訴えることもなく、4回連続のゲップを繰り返し、満足の意思表示をしたのでした。



めでたし、めでたし・・・・・・。



そして、良いお年を。



歴史は繰り返す?

2010-12-30 08:54:04 | オヤジの日記
どうでもいい話だとは思うが・・・・・。


「オレとおまえは、似てるよな」

中学3年の娘が、そう言う。
「ホントに、似てるよな」
それを嫌がっている気配は、まったくない。

父親として、そこが嬉しい。

なぜ似ているかといえば、彼女が幼い頃から、私の影響を強く受けてきたからだろう。

3歳の頃から私のオヤジギャグ的ボケに、的確な突込みを入れるという天才ぶりを発揮した娘。
ヨメと息子が冗談が通じない分、私は、この娘の天分を宝物のように愛した。

この宝物は、音楽好きである。
そして、ここでも、私の影響を強く受けている娘は、小学校2年から椎名林檎を聴いて素直に育った。
東京事変も聴く。
椎名林檎を、「神」と崇めている。

だが、それだけではない。
娘の携帯電話には、クラシックからロック、ジャズ、J-POP、K-POP、環境音楽まで、あらゆるジャンルの曲が入っている。
このグローバルな選曲も、私の影響だ。

そんな娘が、こんなことを言う。
「日本のラップだけは聴かないよ。正確に韻をふんでいないし、ちっとも日本語がリズムに乗っていない。すべてが、あまりにもパターン化していて冒険がない。詞が生きていない。曲が生きていない。だから、聴く気にならない」

これは、いつも私が娘に言っていることだったが・・・・・。


娘が、友だちとどこかに出かけたとき、たとえばお昼にマクドナルドに入ったとする。
他の子は、みなセットを頼むが、娘はポテトだけ。

ケチというわけではない。
「食べるのが、面倒くさいんだよね」
それも、私がよく言うセリフである。

娘と二人で外に出かけたとき、昼メシをどうしようか、というと、お互いが決まって「面倒くさいな」と言う。

「腹は減っているけど、面倒くさい」
そこで、コンビニで菓子パンを一個ずつ買って、歩きながら食うのだ。
貧乏くさいことが、これほど似合う親子もいない。


「人と同じことをするのは、嫌だな。まわりの雰囲気に流されるのは、嫌いだ」
そう言う娘は、私と同じで、何かあると必ず少数派につく。

だから、学校で、一人ポツンと淋しそうにしている子を見ると、放っておけない性質をしている。
押しつけがましくない程度に、その子たちの面倒を見ている姿をよく見かける、と担任が言っていた。

ただ、徒党を組むことは決してしない。
相手が一人の時間を持て余していると思ったときだけ、話しかけるのである。
無理に、立ち入ることもしない。


少数派ということとは関係ないかもしれないが、最近娘は、K-POPのあるグループに入れ込んでいる。
本国の韓国でも、まだそれほど名を知られていないグループだから、日本での知名度はゼロに等しい。
それが、娘の父親譲りの「ひねくれ心」をくすぐるようなのだ。

そのグループの名は、「大國男児(テグンナマ)」。
平均年齢18歳の若いグループだが、どこかの国のアイドルグループと違って、実力は相当なものだ。

娘は、そのグループの追っかけに近いことを、今やっている(私もむかし売れる前の浜田省吾のライブによく足を運んだ)。
今週の火曜日は、新宿歌舞伎町まで「ハグ会」なるものに、行ってきた。

帰ってくると、一緒に行ったお友だちと大興奮しながら、一時間以上、ハグされた時の感触などを大演説していた。
ハグされたときの感触を忘れないようにと、その日は、風呂に入らなかった。
洋服も着替えなかった。

相当なものである。


そして、その娘のお友だち。
彼女は、今年の7月から9割以上の確率で、我が家に住みついている。
同じ中学だが、クラスは違う。
しかし、ふたりは波長が合うらしく、かなり密度濃く、まるで仲良し姉妹のように過ごしている。

そして、二人は容姿も似ているのだ。
教師が頻繁に間違えるらしい。
ときに親も間違うほど、二人は同じ雰囲気を撒き散らしている。

彼女は、メシの食いっぷりがいい。
そして、言う。
「マツコのパピーの料理は、ドンピシャだよね。全部が私の口に合う」

だから、何を作っても、「うまいうまい」と残さず食べてくれる。
米粒一つ残さないのである。

感動する。

朝ごはんを娘と二人で食って、一緒に学校に行く。
学校を終えて、二人で帰ってきて、当たり前のように、おやつを食う。
そして、風呂に入り、当たり前のように、晩メシを豪快に食う。
そして、娘と二人で寝る。

娘が、もう一人できたようなものだ。

しかし、これは向こうの親にしてみれば、「誘拐罪」のようなものではないか、と思うときがある。
大事な娘が、帰ってこないのである。
だから、申し訳なく思うことがあるが、「いいんじゃねえの」と娘が言うから、「いいんじゃないか」と、後ろめたさを感じつつも、彼女の素晴らしい食いっぷりを見たいために、毎日5人分のメシを作っている。

「今日は家に帰る」と言われたときの寂しさは、心に空洞ができるほどだ。


そして、そう言えば・・・・・と、私は昔のことを思い出した。

私の中学時代も、同級生が、私の家に住みついていた。
彼は、6人兄弟の長男だったが、親が自分に5人兄弟の面倒を強制するのに嫌気が差して、私の家に逃げてきたのである。

彼は中学2年のとき、ほとんど我が家に居ついて、風呂掃除や玄関掃除、買い物などを時に手伝いながら、私と一緒に学校に通った。

彼は必ず、ご飯を2杯お代わりした。
その食いっぷりは、見事なものだった。
そして、彼は私の祖母と母に、愛されていた。

我が家に住むもう一人の娘は、ご飯のお代わりは一度だけだが、食べ終わったあとの満足そうな笑顔が、その彼によく似ていた。
そして、同じように、私もヨメも彼女のことを、とても愛している。


子どもの友だちが、何ヶ月も住みつく家。


歴史は繰り返すんだな・・・・・、と小さな運命を感じずにはいられない、最近の私だった。




父親の資格

2010-12-29 10:16:43 | オヤジの日記
空気が凍えていた。

夜7時過ぎ、自転車で、最寄り駅の武蔵境からアパートに帰る途中、ワイシャツの胸ポケットのiPhoneが震えた。

尾崎からだった。

珍しいことだ。
尾崎から電話がかかってくることは、滅多にない。
年に一回、あるかないかだ。

「カナから電話があった」
尾崎が、唐突に言った。
尾崎との会話は、いつもそうだ。

自分を名乗ることもせず、いきなり本題に入る。
それが当たり前になっているので、私は「おまえの最初の子どもだな」と答えた。

尾崎は、三十前に一度結婚して、前の奥さんとの間に娘がいた。
前の奥さんとは、五年足らずで別れた。
別れた原因が何だったか私は知らないが、尾崎に非があっただろうということは、想像がつく。

尾崎の娘のカナは、21歳になっているはずだ。
そのカナが、尾崎に用があるというのか。

「何年ぶりだ」と私は聞いた。

「15年になるか」と尾崎が答えた。

養育費は、欠かさず送っていたようだが、尾崎が元の奥さんと、娘と会わないという約束を交わしていたかどうかは知らない。
立ち入ったことは聞かない。
面倒くさいからだ。

しかし、そのカナが尾崎に電話をしてきた。

「突然だったのか」と聞いてみた。

「ああ、突然の電話だったな」
乾いた声で、尾崎が答える。

「会いたい、と言っているのか」と、私。

「まあ、そうだが・・・・・」
尾崎にしては、歯切れが悪い。
ためらうことを一番嫌う男だ。

父親・・・・・だから、か。

小さく息を吸う音のあとに、尾崎が言葉を吐いた。
「俺は、会ってもいいのか」
声の色が、弱々しい。

尾崎らしくない問いかけだった。
父親であることに、自信がないのかもしれない。
まして、15年間、会わなかった娘なのだ。
養育費を払っていたとしても、尾崎の中で、父親としての確かなものが見出せずにいるのだろう。

尾崎が、ためらっている。
もがいている、と言ってもいいかもしれない。
それが、受話器越しに伝わってくる。

「なあ」と、尾崎が言う。
「俺に父親の資格は、あるのか」

母親は、自分の腹を痛めて子どもを産むから、産んだ時から、母親としての自信がある。
「自分の子ども」という自覚を、身を持って感じている。
その自信は、揺るぎないものだ。
ただ、その自信は、ときに子どもを私物化してしまうが。

しかし、父親は、子どもを一個の人格としていつも意識しているから、母親とは距離感が違う。
父親としての自信が、どれほど経っても持てないのだ。

思春期に、子どもたちが父親を遠ざけるのは、父親が作るその距離感を、彼らが敏感に感じ取っているからだろう。

私も、自信がない。
「俺が父親でいいのか」と絶えず思っている。
そして、怯えている。

きっと死ぬまで、父親としての自信を持てず、私は怯えながら死んでいくのだろうと思う。

そして、それでいいとも思っている。

父親なんて、その程度のものなのだから。

尾崎も、きっとそう思っているに違いない。
だから、尾崎らしくもなく、ためらうのだ。

しかし、私は友だちだから、言わなければならない。
たとえ、恥ずかしい言葉でも、ここは言うべきところである。

だから、私は言った。
「父親の資格を決めるのは、おまえじゃない。子どもだ。そして、子どもが会いたいと言ったとき、それを拒む権利が、おまえにはない」

沈黙。

弱い北風が吹いてきた。
気温が、少し下がったようだ。
iPhoneを持つ手が、冷たくなって、少し感覚が薄れてきた。
私は、人差し指から順番に、指の関節を動かしながら、尾崎の言葉を待った。

「フー」という息を吐く音。
そして、そんな力のぬけた吐息とともに、尾崎が言った。
「父親というのは、そんなものか」

「ああ、そんなもんだ」

もう一度、沈黙。

「わかった」
乾いた笑い声とともに、電話が切れた。

尾崎が、どんな顔をして娘に会うのか。
それは、知りたくもあったが、どうでもいいことでもある。

次に、いつ尾崎から電話がかかってくるか。
半年後か、一年後か。
あるいは、五年後か。


確実に言えるのは、そのときも「父親としての自信」を、尾崎も私も、持てずにいることだ。


それだけは、間違いがない。