リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

6年連続パンチを食らう

2020-08-26 05:28:04 | オヤジの日記

まずは、面白くもない昔話から。

夏といえば、私にとって、野沢温泉での陸上部の合宿だ。高校1年から大学3年まで毎年参加した。
大抵は、6泊7日だ。30人以上が参加した。部屋は大部屋2つ。襖を取り払うと40畳くらいあったから、広い部屋の中で、夜はみんなではしゃぎ回った。
高原にあったから、朝昼晩涼しかった。ただ、グラウンドは、照り返しがあって、太陽が元気なときは暑かった。バテるやつもたくさんいた。
私は昔からひねくれていたので、横並びの体育会系体質に馴染めなかった。みんな体力が違うのに、なぜこのクソ暑い中、横並びで同じメニューをやらせるのだろう。怪我の元だろうに。
私は、陸上部に正式に入る前に、顧問と会った。そのとき、僕は別メニューでやりますから、それでもいいですか、と聞いた。
顧問は完全拒否だった。「そんなことできるわけないだろうが。一人だけ特別扱いはできない。チームワークが乱れる」。
そのチームワークが鬱陶しいので、私は中学でも陸上部を選んだんですけどね。
では・・・チームワークのいらない2番目の選択肢ボクシングを見てみますかね、と呟いたら、顧問がやや前のめりになって聞いてきた。
「おまえのベストタイムは、いくつだ」
私がベストタイムを言うと顧問の鼻の穴が広がった。「それは本当か、本当なのか」
疑うのなら、これから目の前で走ってみますけど。
「やってみろ」
誰もいないグラウンドで、入念な準備運動ののち、100メートルを2本走った。
手動のストップウォッチだから正確性は乏しいが、2回とも11秒1以内で走った。
ストップウォッチの数字を見て、顧問は「うちで1番早い3年のヨコミゾといい勝負だな」と唸った。
そして、顧問は「明日まで考えるから、ちょっと待ってくれないか」と言った。

私はその後、1ヶ月間の体験入部を許可された。体験入部だから、別メニューでも許されるだろうという顧問の配慮だった。
体験入部では、私は半分以上をストレッチに費やした(その当時は、ストレッチという言葉はなかったが)。
みんなは、100メートル5本。50メートル10本、30メートル20本、インターバルトレーニングなど、与えられたメニューを黙々とこなしていた。
黙々とメニューをこなすのは、才能の一部だが、俺には無理だな、と諦めていた。だって、練習は俺だけのものであって、人と共有するものではない。
俺の1番の関心事は、怪我をしない体を作ることだ。
可愛げのないガキだった。

体験入部の最終日。レースをすることになった。有望な1年生4人と競ったのだ。
その結果を見て、顧問が部員に聞いた。「彼を正式な部員にする。ただ、彼はみんなと同じメニューは走らないと言っている。それでもいいか」
4、5人の3年生が反対したが、1年生全員が賛成したので、入部が許されることになった。
きっと、3年生には、私が和を乱す異端者に見えたのだろう。3年生の1部とは、彼らが卒業するまで疎遠だった。

大学でも陸上部に所属した。
このときは、高校と大学が繋がっていたというメリットもあって、まわりが私のことを知っていてくれたので、やりやすかった。
マイペースで、やらせてもらった。
とにかく怪我をしない体、疲れにくい体を作ることに専念した。
だから、私は怪我をしなかった。不慮の怪我であっても怪我は怪我、本人が悪い。記録を向上させる練習は大事だろうが、怪我をしない体を作るのも本人の努力だ。
・・・・_と偉そうに言っていた私が初めて怪我をした。大学3年の11月だった。
左膝側側靭帯損傷。
担当の医師からは、「ギプスをして少し良くなったら、テーピングをして膝を固定すれば、2ヶ月もかからないで普通に歩けるようになります」と言われた。
走れますか。
「とりあえず、歩くことを優先しましょう」
つまり、走れるようになるまで、さらに時間がかかるということだ。
4年生になって、走れるようになっても意味はない。なので、退部届を出した。

ギプスが取れて何日かたったあと、キャンパスで同級生の長谷川と出くわした。隣には1学年下の妹邦子がいた。
「マツ、陸上部やめたんだってな。残念だよ」と言ったのは邦子の方だった。
「マツのことだから、諦めないですぐに復活すると思っていたよ」
俺は、地道なリハビリが嫌いなんだよ。次に早く進みたいんだ。
その会話を聞いていた長谷川が言った。
「妹が、こんな言い方をするのは、マツ相手だけだよ。他の先輩には、敬語を使うのにな」
どういう意味だよ。
「そういう意味だよ」
油断していたとき、邦子のパンチが、腹に飛んできた。
痛さに悶えているうちに、2人とも消えていた。

長谷川は、他の会社で10年以上武者修行したのち、親父が経営していた中堅商社に勤めた。
あとを追うようにして、邦子も武者修行を経て、卒業から3年後に親父の会社に入った。
邦子が30歳のとき、仙台支社ができた。邦子は、志願して支社長の座に就いた。
仙台は、流通が中心だった。10年足らずで、邦子は1つだった倉庫を3つに増やした。順調だった。
しかし、東日本大震災が起きた。
倉庫は、壊滅的とは言わないまでも、かなりのダメージをうけた。流通を元の軌道に乗せるため、邦子は不眠不休で働いた。
その結果、震災から3ヶ月後に呆気なく死んだ。心臓発作だった。
人は死ぬときは死ぬ。だが、これはあきらかに防げた死だった。なぜ人は、自分の命より会社を選ぶのだろう。
そんな責任感なんか、いらないよ。

月曜日に、邦子の墓参りに行った。多磨霊園だ。一緒に行ったのは、邦子の養女・七恵だった。
結婚しなかった邦子は、遠い親戚から7人兄妹の末っ子七恵を養女に迎えた。
七恵は、自分の義母が、全身全霊をこめて働く姿を見て育った。揺るぎない尊敬の念を持っていた。だから七恵も志願して、仙台支社に異動することにした。
「ねえ,マッチん」と七恵が私に語りかけた。ふざけたことに、この小娘は、数年前から私のことをマッチんと呼ぶようになった。絶対に俺を尊敬してないよな。
「私も今年30歳になるんだよね。お母さんが支社長になった年齢と同じだよ。私はまだ管理部の課長にすぎないけど、はやくお母さんに追いつきたいと思っているんだ」
焦るなよ。お母さんの死を教訓にしなければ駄目だ。俺は、長谷川と一緒に、生意気な君をずっと見ていたい。

七恵は、先週の金曜日に来て、世田谷羽根木の長谷川の自宅に泊まり、火曜日に仙台へ帰った。いつもは東北新幹線を利用したが、今回は車で来た。安全面を考えてのことだという。
「ねえ、マッチん、帰りに食べるから、またお弁当よろしくね」
それは毎年のことだ。いつも七恵の好きな鳥そぼろ弁当を持たせた。今回はそれに加えて、最近急に好きになったという漬物をつけた。キュウリ、ナス、ミョウガ、セロリだ。
国立の大学通り脇に車を止めた七恵に、お弁当を渡した。
「ありがとう」と言い終わらないうちに、ボディにパンチが飛んできた。
なんでー!!?
「昨日、私のことを『生意気な娘』って言ったよね。そのお仕置きだ」
これで6年連続のボディパンチだ。以前よりは手加減してくれているようだが、痛いは痛い。
「今年の10月には、全体会議があるからまた来るね。そのときまでに鍛えておいてね」

ごめんだね。そのときは、会わないもんね。

「そんなことが許されると思うの。長谷川のおじさんに、無理やり連れてきてもらうから、無駄な抵抗はやめた方がいいよ」

七恵の車が、遠ざかっていった。


年々怖くなってくるな。
この分だと支社長になるのは、意外と早いかもしれない。

 



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2 コメント

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読んだー。 (はな)
2020-08-26 23:18:53
いつもながら面白かったです。
実話短編小説、楽しみました。

馴染みの町の名が出ると不思議な気持ちになります。
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Unknown (matsu1217)
2020-08-27 12:33:27
はな様

ありがとうございます。
楽しんでいただいて幸いです。

もっと楽しい文章が書けるよう、アルコールの量をキープしながら努力します。

結局、ただの酔っぱらい。
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