国立のバーミヤンでテクニカルイラストの達人・アホのイナバと打ち合わせをした。
レギュラーの仕事の打ち合わせだった。慣れているから時間はかからなかった。
あとは雑談。イナバくんが飼っている犬の話になった。
イナバくん言うところの「ボロ雑巾」だ。正確に言うと、ボルゾイ犬だが、イナバくんはアホなので「ボロ雑巾」と覚えていた。
飼っているのは2頭。どちらも賢いから、犬くんたちは、すぐにイナバ家の序列を理解したという。
序列の一番がイナバくんの奥さん。二番が長女。三番が長男。四番が大谷。五番が大迫半端ない、六番がモンスター井上尚弥、七番がモネ(ボルゾイ犬)。八番がドガ(ボルゾイ犬)、そして、九番がイナバくんだ。
そんな序列でも、めげることなく、イナバくんは犬くんたちを溺愛していた。毎日、犬くんたちに散歩をさせられているのだ。
そんな情けないイナバくんに、私は大きな恩があった。
9年前、引きこもりの姉が盲腸ガンにかかった。すぐに手術をした。そのとき、手術費用は払えたが、入院費と治療費が払えなかった。
母の老後の蓄えを崩せば払えたが、それはしたくなかった。ヨメがパートで蓄えた金を出すと言ってくれたが、それも「なんだかなぁ~」と思った。色々と頭を悩ませた。結果的に、イナバくん以上に情けない私は、借金という方法しか、思い浮かばなかった。
そこで、姑息にも、その2年前にお父さんが亡くなって莫大な資産を受け継いだイナバくんの奥さんに頭を下げることにした。
そのとき、余計なことに、イナバくんは奥さんの相続額を私に耳打ちした。
私は、それを聞いて失神しそうになった。チビりそうになった。そんな経験は、初めてだった。
イナバくんの東京都下日野のお宅に伺って、事情を話した。
しっかり者の奥さんは、すぐ金額を聞いてきた。私は具体的な金額を言った。
すると、奥さんは、「それでは足りないと思います。私の父もガンでしたが、その倍以上かかりました。倍にした方が、いいと思います」と、ありがたいことを言ってくれた。
そして、イナバくんに顔を向けて、「ビリーくん。今すぐ銀行まで行ける?」と聞いた。
イナバくんが銀行に言っている間に、借用書を書いた。その時、奥さんは恐ろしいことを言った。「申し訳ありませんが、返済期限は、2059年の3月31日にしてください」
50年後だ。無期限のようなものだ。たとえば、借用書に返済期限を書かなかった場合、貸し手から突然「明日返してよ」と言われたら、借り主は拒むことができない。それを知っていて、奥さんは気が長い期限を書かせたのだと思う。
ありがたかった。
そのとき、奥さんは、こんなことも言った。
「ビリーくんの手綱を握っているのは私ですけど、調教してくださってるのは、Mさんですものね。だから、あの人脱線しないで走れるんです。いつも感謝しています」
とんでもねえ。
ありがたく大金を貸していただくことができたことで、姉の手術後の治療は、順調にいった。
だが、残念なことに、3年後に肝臓にガンが転移した。また、手術だ。その時点で、イナバくんの奥さんへの返済金額は、まだ40万円近く残っていた。
恥知らずにも、また頭を下げた。
イナバくんの奥さんは、今回も快く受けてくれた。
借金に借金を重ねる甲斐性なし。
今回は、余命宣告を受けていたので、前回の半分の金額をお借りした。おかげで十分な治療ができた。1年と言われたが、1年半生きることができた。
イナバくんの奥さんとイナバくんには、どれだけ感謝してもしきれない。
その1年半の間に、前回の借金は完済した。あとは、2度目の借金の返済だ。1回目は、完済まで5年かかった。今回は3年くらいだろうか。
姉の葬儀が終わって、3週間ほど経った頃、イナバくんからLINEが来た。
「調布のバーミヤンで会いましょ」のあとに、ぐでたまのスタンプ。
バーミヤンで私はダブル餃子と生ビールを頼み、イナバくんは、塩麹の唐揚げを二皿頼んだ。
そのとき、イナバくんが、正月を家族と石垣島の別荘で過ごした話をした。東京に帰る前の日、イナバくんと二人の子どもたちは、別荘の近くのレストランで、昼ごはんを食べた。
奥さんは、島で知り合ったお年寄りたちの家を訪れ、話し相手になっていたから、その場には、いなかった。
子どもたちは、オムライスを頼み、イナバくんは、シーフードカレーを頼んだ。しかし、食べ終わって、イナバくんの体に異変が起こった。
呼吸が苦しくなったのだ。それを見たレストランの店長が、即座に自分の車で医者に連れていった。
実は、イナバくんはイカアレルギーだったのだ。シーフードカレーには、イカが入っていた。それに反応したのである。普通だったら、シーフードカレーにはイカが入っていることが想像できる。自分の体なのだ。わかりそうなものだ。
だが、愛すべきイナバくんは、それをすぐ忘れる。アホの真骨頂と言っていい。そのとき、奥さんがそばにいれば止めたろうが、不幸にもいなかった。
ただ、このときシーフードカレーに、イカが少ししか入っていなかったのは、幸運といってよかった。軽い嘔吐だけで済んだ。点滴をしてもらって復活したという。
「イカって怖いですよね~」ヘラヘラと笑うイナバくんだった。
そのヘラヘラ顔のまま、イナバくんが封筒を私の前に置いた。
これは?
「奥さんが、Mさんに渡して来いって」
中からでてきたのは、2度目の借用書だった。返済期限が、2062年3月31日までの借用書だ。
な~~んですか、これ?
「フチのフォクさんが、エフさんにファタせって」
イナバくんが、唐揚げを2つ口にほおばって言った。
通訳するのも面倒くさいので、だって、まだ返し終わってないもんね、と即答した。
そうしたら、イナバくんが、目を瞬かせながら、困り顔を作った。
「奥さんが言ったんですよ。Mさんが拒んでも、絶対に手の中に握らせてって、それに失敗したら、これからモネとドガの世話は一生させないからって」
「勘弁してくださいよ~。お願いですから、握ってください」イナバくんが、頭を下げた。
いや、それは、反対でしょうが。
「失礼かもしれないけど、これはコウテンがわりだって」と必死のイナバくん。
イナバくん、それは「コウデン」だと思うぞ。
そんなに、甘えていいのか。借金をこんな形で踏み倒していいのか。俺をダメ人間にする気か。
「いえ、とにかく僕にとって大事なのは、モネとドガですから。ダメ人間より、ボロ雑巾でっす!」
イナバくんは、本当に私の手に借用書を押し込んだのである。
そのときから、イナバくんの奥さんとモネとドガ、イナバくんは私の大恩人になった。
ところで、なぜイナバくんの奥さんが、イナバくんのことを「ビリーくん」と言うかというと、それには驚きの理由があった。
イナバくんと奥さんが、付き合い始めた頃、イナバくんは、奥さんの前でマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」のダンスを完全にコピーして踊ってみせたのである。
それから、イナバくんの奥さんにとって、イナバくんは「ビリーくん」になった。
しかし、普通この場合は、マイケルのダンスを完全コピーしたのだから、呼び名は「マイケル」になるのではないか。
でも、奥さんは言う。
「だって、マイケルって顔じゃないでしょ、ヒャヒャヒャ」
イナバくんの奥さんも、少し変わっている人なのかもしれない。
大恩人に言うことではないかもしれないが・・・。