リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

盲腸と関節技

2020-01-26 05:36:01 | オヤジの日記

水曜日、朝9時前にWEBデザイナーのタカダ君(通称ダルマ)からLINE電話が来た。

 

「師匠ーー」

気持ち悪い泣きそうな声だった。鳥肌がたった。

「見舞いに来てくれませんか」

見舞い? 何の見舞い? 俺には見舞いの趣味はないんだけど。見舞いクラブになんて入ってないぞ。

「師匠、病院の見舞いですよ。決まってるじゃないですかー」

泣きやがった。

誰が病院にいるんじゃ。都合が悪くなるとすぐ「適応障害」とか言って、入院したがる政治家か。それとも2年前に白かった毛が突然黒に変異したウサギのハナちゃんか。あるいは、謀反で雲隠れ中の明智光秀殿か。

「オレですって! 盲腸で入院してるんですよ。手術は終わったんですが、誰もいないんです」

ダルマは生意気にも10年前に結婚し、9歳と7歳、1歳のガキがいた。姫ダルマ2匹と坊ダルマ1匹だ。姫ダルマは、幸運にも奥さんのトモちゃんに似ていたので、きっと幸福な人生を歩むだろう。しかし、坊ダルマは、あってはならないことに、ダルマそっくりに生まれた。

お可哀想に。

私は、坊ダルマのために、毎日水をかぶってお祈りをしていた。ルックスで判断されない世の中が来ますように、と。

 

で・・・それはいいのだが、トモちゃんは、どうなさったのだ。面倒を見てくれないのか。まさか、別れたのか。

キミ、その顔で、ウワウワウワ浮気などというハレンチ東出なことをしたのではあるまいな。

「違いますよ、下の子が風邪ひいて熱出したんで、その世話で大変なんです」

そうか、姫ダルマ2が、お風邪でござるか。それは、トモちゃんも大変でござるな。

「だから、師匠に見舞いをお願いしているんじゃないですかー」

泣くなよ。

しかしね、タカダ君、入院と見舞いはセットなのか。朝メシに、納豆定食を頼んだら、当たり前のように味噌汁と漬物が付くセットと同類なのか。俺は、漬け物は受け入れるが味噌汁はいらないんですけど。

「師匠、銀河高原ビール2ダースで引き受けてください!」

痛いところをついてきたな。ダルマは、年に3回程度、私の好物の銀河高原ビールを賄賂として贈ってくるのだ。

いつもは1ダース。しかし、今回は2ダース。これは魅力的な提案だ。

私は、やや焦らしながら答えた。

見舞いに行ってやらんこともないこともないこともない。

「どっちなんですかー」

だから、泣くなよ。

 

今日の午後は、八王子から恐怖の関節技女が、ガキを連れてやってくることになっていた。

メインディッシュが、ゴツい500グラムのレアステーキなので、前菜は、腐ったハマグリの酒蒸しでいいだろう。

ということで、腐ったハマグリのお見舞いに行くことにした。ハマグリは、三鷹の病院で酒蒸しになっていた。

4人部屋というリーズナブルな部屋だった。しかし、今朝偶然にも相部屋の3人が相次いで退院したため、ダルマが4人部屋を占領していた。人がいない病室は、とても広く感じられた。

私は、用意された椅子に座って、バッグからクリアアサヒを出し、早速飲み始めた。

「ちょっと、師匠、ここは病院ですよ。アルコールは、さすがに」

チョットなに言ってるかわからない。確かに患者さんは飲んではダメだろうが、見舞い客には、そんな縛りはないのではないかい。

俺は、自分の子どもが生まれたとき、病室で生まれたばかりの子どもを見て、オイオイと泣きながらビールを飲んだぞ。看護師さんは、そんな私を天使のような笑顔で見守ってくださった。

 

あー、このチータラ美味いわ。で・・・退院は、いつなんだ。

「午後、検査して異常がなければ、明日です」

その1日が待てずに、俺を呼んだのか。

「なんだかんだ言っても、師匠なら絶対に来てくれると思って。それに、入院って、なんか人を不安にさせるんですよね。そんなとき、お気楽な師匠がそばにいたら、こっちもお気楽になれるんじゃないかと思って」

俺は落語家か。笑笑亭お気楽。

手術跡が開くくらい笑わせてやろうか。

 

・・・などと言っているうちに、Skypeのビデオ電話が来た。

八王子の関節技娘、ショウコだ。

「サトルさん、いまどこ?1時半の約束だったけど、1時に国立のロイヤルホストに変更できるかな。ごめんね、3時に用ができたの」

まあ、いいけど。

「本当に、ごめんね。アッレー、そこ病室じゃない?え?サトルさん、入院しているの?死ぬの?」

私はもう死んでいる。

「死んでもいいから、お年玉だけは届けてねえ」

 

ショウコは、毎年1月に私を呼び出して、自分の分とガキの分のお年玉を強奪するのだ。ただ、ショウコは、私の子ども2人にもお年玉をくれるから、去年までは大赤字にはならなかった。

だが、恐ろしいことに、去年ショウコはガキをまた一人追加した。つまり、今年は、4人分のお年玉が必要になる。

4対2。大々赤字ですよ。しかも、これに関節技が加わるという恐怖。拒否もできない。

割りに合わない。

でも、1年に1回の儀式ですからね。素直に受け入れましょう。

悪いね、タカダ君。待ち合わせが早まった。帰るよ。

そう言って、ダルマのガキ3人分のお年玉をサイドテーブルに置いたら、ダルマが「師匠ー」とまた泣いた。

お大事に。

 

ロイヤルホストに行ったら、もうショウコとガキ2人が待っていた。

おや?去年生まれたガキはどうした?

「まだ半年だからね。お母さんに見てもらっているの。冬はウイルスが怖いから」

そして、すぐにショウコは私の子どもたちのお年玉をくれた。

私も4人分をあげた。

ショウコとショウコのガキは、すでにお高いリッチなハンバーグを召し上がっていた。

少食の私は、イカのフリットとソーセージのグリル、ガーリックトースト、一番搾りだ。

そのとき、ショウコが唐突に言った。

「今年から関節技やめるから」

はー? 耳鳴りか。聞き慣れない日本語が聞こえたぞ。関節が、どうしたって?

「私も今年で30歳だから、自覚を持たないといけないと思うの。母親らしくしないとね」

関節技をやめれば、母親らしくなるものだろうか(そもそも、なぜ今ごろ気づくのだ。まあ、嬉しいけど)。私は、両腕の関節を愛おしくさすった。

 

ショウコは、生後半年のガキの画像を私に見せてくれた。

とても嬉しそうだ。慈愛にあふれた母親の顔をしていた。

ショウコのガキは、私にとって孫も同然。

「あれ、シラガジイジが泣いてるぞ」と帆香(ほのか)が私の顔を指差して笑った。それを見た悠帆(ゆうほ)は、ペーパーナプキンで目を拭ってくれた。

いいね、孫って。

気分がホンワカした。

 

ショウコが車を停めた駐車場まで一緒に歩いていった。

車は、ダイハツ・ムーヴ。

それを見た私は、つい余計なことを言ってしまった。

なんだよ、家族が一人増えたっていうのに、こんなチンケな軽自動車にまだ乗っているのかよ。

 

左腕の関節をきめられた。

 

 

ギブ、ギブ、ゴメンナサイ。

 


スポットライト

2020-01-19 05:34:00 | オヤジの日記

アルバイトの面接に行った。

 

信じられないことに、3時間で5万円の報酬だという。それに釣られていった。

面接会場に行ったら、20人ほどが来ていた。破格のギャラにしては、応募が少ない。

予期せぬことに、履歴書を受付に渡して、5分もしないうちに、採用者が発表された。

面接はしないのか。あるいはもう、し終わったのか。それなら、俺はダメだな、とあきらめた。見渡すと、私が一番年を食っているようだから、書類で落とされたのだろう。

帰りにローソンに寄って、Lチキを買い、歩きながら食おうと思って席を立った。

そのとき、私の名前を呼ばれた。

「採用です」

え? 嘘でしょ。

採用されたのは、ほかにナガノ君という20代半ばのチャラそうに見える男だ。

 

二人だけのアルバイト。

怪しいように思えるが、アルバイト内容は、あらかじめ把握していた。怪しい内容ではなかった。

12時から15時までの間に、一流ホテル客室のカーテンを取り替えるのが仕事だ。

チェックアウトからチェックインまでの時間を利用して、すみやかにカーテンを取り替えるのである。

部屋は130室あるという。ただ、そのうち、連泊の宿泊客が30を占めているので、実際カーテンを替えるのは、空室の100だ。

2人で50ずつの計算になる。はたして2人でそんな数をこなせるのか。3時間しかないのに。

実は、ホテルの部屋のカーテンを替えた経験は、大学時代にあった。短期のアルバイトだった。そのときは5人で替えた。

 

私は、世界で2番目に不器用なくせに、物覚えだけはよかった。

すぐに要領を覚えた。

他にも、たとえば、むかし自転車には2分で乗ることができた。水泳も10分ほど水に浸かっていたら泳げるようになった。スキーは20分くらいで滑れるようになった。小学校5年で、原付自転車に乗ることを覚えた(もちろん公道は走らなかった)。パソコンは誰よりも早く覚えて上達した。

話は外れるが、独立したての頃、稼ぎが少なかったので、新橋の大手レストランチェーン店で、週に3日アルバイトをした。フロア係だった。勤め始めて3日目に店に行ったら、店長から「あなた、スジがいいね。今日からフロアマネージャーやって」と言われた。まだ2日しか働いていないのに、滅茶苦茶なことをおっしゃる。

半年経って、仕事が軌道に乗りかけたので、辞めます、と言ったら、店長は慌てた。「正社員採用、昇級あり、ボーナス年4ヶ月!」と言って、血走った目を私の顔に近づけた。その迫力に、思わず、ハイ、と言いそうになったが、留まった。危ねえ、危ねえ!

 

ただ、物覚えが早いと言っても、それが偉いわけではない。たまたま早かっただけだ。

いつか、まわりが、当たり前のように追いついてくるのだから、自慢できる期間はわずかなものだ。

 

相方のナガノ君は、カーテンの交換方法を知らなかったので、実際に目の前で作業して、コツを教えた。

何部屋かやっているうちに、コツをつかんだらしく「よっしゃ、5万円」と言って、ガッツポーズをした。

でっかいリネン用のワゴンにカーテンを詰めて、2人でハイファイブをしたのち、二手に分かれた。

思いのほかスイスイと作業がはかどった。

しかし、しているうちに、一つの疑問が浮かび上がった。

なんで、俺、こんなことをしているんだ。

俺は、本業を持っていたよな。アルバイトをする必要があるのか。

ホテルのカーテンを替えるアルバイトって、どこから聞いたんだろう。思い出せないぞ。

しかも、昼間のホテルって、こんなに薄暗かっただろうか。節電しているのかな。

さらに、このホテルの名前が頭の中から消えてしまっていた。さっきまでは覚えていたのに。でも、人間は忘れる生き物だ。忘れるから生きていける。上等ではないか。

 

なんだかんだ言っても、2時間足らずで50部屋のカーテンを替えたから、ノルマは達成だ。疑問なんか、どうでもいい! 5万円!

軽やかな気持ちで、チャラノ君の進行具合を覗きにいった。まだ20部屋しか終わっていなかった。おいおい。

あと1時間しかないんだぜ。仕方ないので鉄だった手伝った。

 

結局私が70の部屋のカーテンを替え、チャラノ君は30だった。

これで同じ5万円かよ、などという、みみっちいことは私は言わない。リネン用のワゴンやその他もろもろの道具はチャラノ君が片付けてくれたから、おあいこだ。缶コーヒーも奢ってくれたし。

チャラノ君は、その5万円で、台湾人の彼女に会いに行くという。すっ飛んで帰った。

さあ、私も帰らなければ。

入るときは、地下一階の従業員用の通路から入って、業務用エレベーターで最上階の面接会場に行った。

業務用エレベーターを探した。お客様用のエレベーターの裏に業務用があったのは覚えていた。

エレベーターまで行った。裏を覗いてみた。しかし、業務用エレベーターは、そこにはなかった。この階だけないのかもしれないと思って、非常階段で下に降りた。

なかった。6階、5階、4階と降りて探したが、業務用エレベーターはなかったのだ。

ミステリーだナッシー、とは思ったが、私は考え直した。このまま非常階段で地下一階に降りればいいガッキー。

そうすれば従業員用の通路に行けるネッシー。

 

3階まで降りた。

そのとき、3階だけ造りが変わっているのに気づいた。

廊下の左右全面が、ガラス張りになっていて、外も内も見渡せるようになっていたのだ。

外を見ると神々しい佇まいをした明治神宮の森が見えた。その上を飛行船が飛んでいた。船体には「Amazon」と書かれてあった。明治神宮の上に、飛行船を飛ばしていいのだろうか。ドローンより、遥かにデカいぞ。

でも、実際に飛んでいるのだから、許可を得ればいいのだろうと単純に考えた。

東京は、美しいなあ。しばし、見とれた。

次に、ホテル側を見てみた。3階から2階が見下ろせた。吹き抜けになっていたのだ。

2階は、広々としたレストランだった。50席くらいのテーブルが、余裕をもって配置されていた。調度品もバロック仕様の豪華さだった。

 

レストラン全体を見渡してみた。

著名人が食事をしているのが見えた。

ノーベル化学賞の吉野彰氏がいた。テニスの錦織圭氏、アニメーション監督の新海誠氏、青山学院大学陸上部監督の原貢氏、お笑い芸人の山里亮太氏、蒼井優夫妻などもいた。豪華な面々ではないか。きっと何か催し物があったのだろう。

かなり有名なレストランと思われた。俺には別世界だな。

その中で、なぜかわからないが、薄くスポットライトが当たっているテーブルがあった。

目を凝らすと、四人家族が食事をしていた。お父さん、お母さん、息子、娘の4人だ。ごくありふれた家族に見えた。

豪華な洋食を幸せそうに口に運ぶ家族。いいものではないか。

その光景を見て、私も腹が減ってきた。階段を駆け下りて、レストランの入り口に向かった。

入り口もバロック建築調だった。こんな豪華な入り口は見たことがなかった。

高いだろうな、と思ったが、私の財布には、5万円があるのだ。どんな高級ホテルでも、ランチで5万円をふんだくることはないはずだ。

堂々と入った。

私は迷わず、薄いスポットライトが当たっているテーブルまで歩いていった。

不思議なことに、そこにお父さんはいなかった。

私は、ためらうことなく、お父さんの席に座った。

隣に座った娘が、ぶっきら棒に言った。

 

「遅かったな。トイレが混んでいたのか」

 

まあね。

 

スポットライトが消えた。

 

 

今朝、そんな夢を見た。

 

 

 

年賀状ふたつ

2020-01-12 05:35:00 | オヤジの日記

年賀状が2枚きた。

 

私は8年前に年賀状を出すのをやめた。

得意先と友人に宣言した。

これから年賀状は、なしよ。

思い切って宣言した割には、反響が少なかった。誰も私の年賀状を期待していなかったってこと?

まあ、いいけど。

毎年50枚以上出していた年賀状が消えただけで、ありがたいことに余計な時間を浪費せずに済んだ。経済的にも少し楽になった。

マナーにうるさい人からは、あれこれ言われそうだが、幸いにも私のまわりには、マナーにうるさい人がいないので助かっている。

 

正月とは関係ないが、お中元とお歳暮も10年前からやめていた。

やめます、と宣言しても得意先から仕事をしくじることはなかった。今も付き合いは正常に続いていた。

マナーにうるさい人からは、あれこれ言われそうだが、幸いにも私のまわりには、マナーにうるさい人がいないので助かっている。

儀式は儀式で尊重するが、自分にとって必要のないものは、選択肢から外してもいいと思う。

日本古来の正月のおせちなどは、とっくの昔にやめてしまっていた。元旦に食うものが単純におせちですよね。何を食ったっていい。

 

私の友人に、とても儀式にこだわる男がいた。

大学陸上部の同期、デッパだ。

デッパは、温厚な男だった。優秀で調整能力に優れていた。

大学卒業後、疎遠だった新宿でコンサルタント会社を営むオオクボと私の仲を取り持ってくれたのもデッパだった。

そして、デッパは勤勉だった。仕事の関係で海外勤務が2回。上海とイタリアに赴任した。その都度、中国語を賢明に学び、不得意なイタリア語も学んだ。

海外赴任中に、3人の男の子を授かった。

「マツ、俺、生きてきた甲斐があったって、今すごく思うぞ」とエアメールで、子どもの写真を何度も送ってきた。

ちっとも可愛くないガキの写真だったが、なごんだ。

 

デッパは、儀式を重んじる、つまらない男でもあった。

いらないよ、と断っているのに、「人間には、節目が必要なんだよ」と毎年必ず年賀状を送ってきた。お中元、お歳暮もくる。

会うたびに私は、いらねえんだよ、歯出男、と言いながら、デッパの薄くなった頭を両てのひらで叩いた。それが挨拶代わりだった。

 

そのデッパが、昨年の12月23日に死んだ。

急死だった。

持病はあったが、死ぬほどの症状ではなかった。だが、複数の病気を併発して、突然死んだ。

デッパのことだから、人知れず体を酷使していたのだろう。

陸上部同期が死ぬのは、初めてだった。

心に穴が開く、という表現がある。

本当にあいた。

それは、埋めることはできない。

だって、デッパの代わりは、どこにもいないのだから。

デッパというのは失礼だ。シミズと呼ぼう。

シミズは、本当にかけがえのない男だった。

彼の一つ一つの言葉や仕草を思い出すたびに、「友」というのは、ありがたいものだと思う。

「マツ、悩み事があったら、なんでも相談しろよ、だって俺たちは友だちだから」

 

でも、もう、おまえはいないんだよな、シミズ。

 

心に、穴があいているぞ。

おまえが死んでから、俺の心は穴だらけだ。

シミズが、この世界にいないなんて。

 

その死んだシミズから、元旦に年賀状が届いた。

律儀なシミズのことだから、死ぬことを知らずに、当たり前のことのように出したのだろう。

「今年も よろしく」

どう、よろしくすればいいんだよ、シミズ。

もっとおまえとよろしくしたかったよ、俺は、俺たちは・・・・・。

 

 

打ちひしがれている私だったが、もう一人、年賀状を頂いている永年の友人のミズシマさんから、今年も年賀状をいただいた。

ミズシマさんは、60歳を過ぎて初めて結婚をした。

その都度、ミズシマさんのお母様の写真を年賀状に載せてくれるのだ。

90を過ぎたお母様。和服を着た笑顔の写真をいつも送ってくださる。

そして、そのお母様は、今年99歳になられる。

さらに、ミズシマさんが結婚なさった奥さんのお母様が、今年81歳になられる。

おふたりが並んで写った年賀状が、今年送られてきた。

 

そこには、「2人合わせて180歳」と書かれていた。

人間の生命力は、すごい、と感心させられる。

 

おふたり、もっと長生きしてください。お願いします。

来年は、182歳の年賀状をください。

 

 

シミズ、キミにも長生きして欲しかったな。

シミズ、あんなに楽しみにしていた次男の結婚式、ボブ・ディランの東京公演、東京オリンピック、阪神タイガースの優勝・・・・・。

シミズ、俺はこれから、キミの代わりに阪神を応援し続けるぞ。六甲おろしを覚えるぞ。

 

どれだけ泣かせるんだよ、デッパのバカヤロー。

 

 


おけまる水産

2020-01-05 05:41:02 | オヤジの日記

あけまして おめでとうございます

皆様の本年が 幸せな年で ありますように

 

12月30日の朝、大食いのミーちゃんが、嫁ぎ先の金沢から帰ってきた。

旦那様の若ちゃまと深夜の高速バスで来たのだ。

朝7時に新宿に着いて、若ちゃまの友だちが運転する車で国立にやってきた。8時前だった。

「パピー、マミー、ただいま」と言って抱きついてきた。

頭をヨシヨシした。顔の色艶がよくて、肌の温もりから幸せな生活を想像できた。

「パピー、おなか空いたー」

もちろん用意しておきましたよ。オニギリ30個と自家製タクワン、豆腐とほうれん草、ワカメの味噌汁だ。これを我が家族とミーちゃん、若ちゃま、若ちゃまの友だちの7人で食べる。オニギリの具は、鮭、タラコ、エビマヨ、自家製梅、カツオ昆布だ。

ミーちゃんが12個食べた。若ちゃまが5個。残りを5人で食った。ミーちゃんは、その他に大きな飯わんで味噌汁を3杯飲んだ。

ミーちゃんが、でかい口を開けてオニギリを次々に頬張る姿を、若ちゃまは優しい笑顔で眺めていた。

キミ、完全にミーちゃんに惚れとるな。

「あー、落ち着いた」とミーちゃん。

食べている間、ミーちゃんが、新婚生活を雑に語った。なぜ、雑かというと、まだミーちゃんは仕事を辞めていなかったから、若ちゃまと接する時間が短かった。すれ違いではないが、若干生活のリズムが違うからだ。

本当は、結婚を機に仕事を辞めるつもりでいたが、会社から「もう少し続けてもらいたい」と懇願されたので、残った。自分としても、2年も勤めていないのに辞めるのは申し訳ないと思い直して、続けることにした。

若ちゃまも「いいよ」と快諾してくれた。若ちゃまのスーパーマーケットは、とりあえず人手が足りているし、野菜農家もご両親と若ちゃまの弟で、手が足りているということもあるだろう。

 

朝メシを食ったあとは、ミーちゃんと若ちゃまは、別行動だ。

ミーちゃんは、このまま我が家にとどまる。若ちゃまは、東京杉並の親戚の家で過ごす。大学時代の友だちと会ったり、初詣に行ったり、買い物をしたりするようだ。

ミーちゃんは、30、31日は、我が家でまったりと過ごす。

実際、「パピー、ごめん、寝かせて」と言って、娘の部屋で2人仲良く眠った。

2人とも12時過ぎに起きて、家族みんなと中央線立川の食べ放題の店で、昼メシを食った。ミーちゃんは、相変わらずまわりを驚かせるほどの食欲を発揮した。

晩メシは、寄せ鍋と米四合。大晦日朝のメシは、鮭茶漬け。ミーちゃんは、みんなよりでかい飯わんで、4杯食った。昼は、ラーメンライス。米三合を食った。夜は、年越し蕎麦ではなく、年越しスパゲティ。ペスカトーレと明太子バタークリーム合わせて12人前を全員で食った。もちろん、その6割をミーちゃんが腹におさめた。

年越しは、ミーちゃんお気に入りのサンドウィッチマンのライブDVDを見ながら、みんなでチーズをつまみにして赤ワインで乾杯。

元旦は、我々は普通にお雑煮。ミーちゃんは、お雑煮が苦手なので、焼き餅を14個食った。おせち、などという高尚なものは食わない。ちょっとお高いシャンパンは、飲みましたが。

 

そのあと、出かけた。ミーちゃんが、雷門に行きたいと言ったからだ。

ミーちゃんは事情があって、あまりファミリーの生活を経験してこなかった。家族でどこかに行くという経験が少なかった。ミーちゃんの記憶の中にある家族体験は、3、4歳の頃に井の頭公園に花見に行ったことだけだという。

それを聞いた私は、ミーちゃんが中学3年で我が家にやってきたとき、ミーちゃんのことを完全にファミリーとして受け入れようと思った。

普通の家族が行くはずの遊園地、動物園、水族館などの経験をするスタートとして、まず、ディズニーランドに一緒に行った。

ミーちゃんは、ディズニーランドのアトラクションを経験するたびに、「あー、これは夢だ、夢だ」とつぶやいた。園内にいる間ずっと、ミーちゃんの目は、乙女になっていた。

それからも、サンシャイン水族館、上野動物園、お台場、横浜みなとみらい、横浜中華街、江ノ島、鎌倉などに、一緒に行った。

横浜みなとみらいでは、初めて食べ放題の店に入った。目の前に、40種類の食べ物があった。それを見て、ミーちゃんの目が輝いた。

「これ、全部食べていいの?」

全部は無理だと思うけど、食べられるだけ食べていいんだよ。

「頑張ります!」

40種類は無理だったが、きっと25種類くらいを食べたと思う。

ここでもミーちゃんは、食べながら時々「あー、これは夢だ、夢だ」とつぶやいていた。

「ああー、コンプリートできなかったぁ」とミーちゃんは悔しがった。そのあと、急に、「パピー、ありがとう」とミーちゃんが抱きついてきた。

その瞬間、ミーちゃんと家族になった気がした。

 

雷門に行った。

外人が思った以上に多かった。でかいな、君たち。日本をこれ以上狭くするなよ(でも、俺だって負けてないぞ。ただ、横幅で負けているだけだ)。

ここでは、ゲストとして、娘の友だちのユナちゃんも参加した。ソウル生まれの日本びいきの子だ。

「オットーさん、あけまして おめでとう」

生き生きとした顔をしていた。日本の生活に完全に慣れたようだ。

ユナちゃんも雷門は、初めてだという。

31歳だが、独身なので、お年玉をあげた。公衆の面前で抱きつかれた。照れまんがな。しかしガイコツオヤジは、油断も隙もない。そーっと若い娘のエキスをいただいただいた。2歳若返った。

ミーちゃんは、焼けたばかりの煎餅を10個ゲットして、仲見世を歩き、煎餅を食っている間も色々なものを立ち食いして食欲を満たした。

しかし、昼メシどきになると「お腹すきません?」とミラクルなことを言うミーちゃん。

食い放題の店を探したが、なかったので、洋食屋さんに入った。

ミーちゃんは、ナポリタンとハンバーグ、大ライスを頼んだ。大ライスを3回追加注文したとき、店内がざわついた。

ミーちゃんが、主役になった。

 

1月2日朝10時前に、若ちゃまが迎えにきた。

これからバスで金沢に帰る。北陸新幹線が大変なことになっているので、バスの方が予定がたちやすいからだ。

新宿まで、みんなで見送りに行った。

バスの中で簡単に食えるように、特大オニギリとタクワン、唐揚げの弁当を持たせた。若ちゃまの弁当は、ミーちゃんの半分以下の量だった。

それ、夫として、どうなの?

新宿バスタの構内で、ミーちゃんが、私の両手を握りながら言った。

「帰る場所があるって、いいね」

実家には帰りたくないのか、と聞きたかったが聞けなかった。人には、いろいろな事情がある。私にだってある。ほじくってもらいたくない部分は誰にでもある。

「家族の正月って、いいね」ミーちゃんは涙目だった。

その涙が何を意味するのか、詮索しても意味はない。

ただ、私はこの子を娘として愛していた。

それで、いいのではないか。

 

「パピー、マミー」と馴れ馴れしく若ちゃまが言った。

なんでい、若造。

「今度は、ゴールデンウィークに来ます。僕も来ますけど、いいですか」

 

いいともー!

 

あ、あれっ、白けたか。

新宿の空気が、突然重くなったぞ。

平成2年ごろなら、ドカンドカンと受けたのに。

 

おけまる水産、とでも言えばよかったのか。

 

涙目で、令和2年を突っ走っていく高速バスを見送りながら、「ゴールデンウィーク、おけまる水産」とつぶやいた俺だった。

 

 

(娘曰く『おけまる水産』は、もうすでに死んでいる言葉らしい)