リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

PUSHIM

2011-08-31 10:36:38 | オヤジの日記
PUSHIMは、女性レゲエ歌手である。

初めてその歌声を聞いたとき、外人が日本語で歌っているのかと思った。

東洋人が決して持っていない声質とリズム感。
真似しようとしても、なかなか真似できない生まれながらの黒人的な音感。

PUSHIMの歌を聴いたとき、それを感じた。

韓国人だというのを聞いて、さらに驚いた。

パク・プシン。
生まれは、大阪だという。

私の知る限りでは、ヒット曲はない。
だから、きっと知名度も低いと思う。

昨今の風潮である、韓国、と聞いただけで毛嫌いする人には、絶対に受け入れられない音楽かもしれない。

韓国の香りは微塵もしないのだが、在日、と聞いただけで耳を両手で塞ぐ人に、PUSHIMの音楽は理解できないだろう。

ただ、音楽は、いろいろな要素も含めて「好き嫌い」で聴くものだから、私はそれを否定しない。
音楽の嗜好の範囲が狭まったら、つまらないだろうな、とだけは思うが。


むかし、真夜中、仕事をしながらJ-WAVEを聴いていたら、PUSHIMの「悲しくてやりきれない」が、流れた。

マウスを持つ手が、止まった。

これは、1960年代、フォーク・クルセイダーズが歌って流行った歌だ。

それ以降、何人かの歌手がカバーしていたと思う。

しかし、PUSHIMの「悲しくてやりきれない」は、誰よりも悲しく響き、誰よりも切なく感じた。
彼女の生い立ちは、詳しく知らない。
どんな暮らしをしているかも、わかるわけがない。

ただ、その歌には、確実に「悲しみ」が凝縮されていたし、歌声には、確実に「魂」があった。

泣く、とまではいかないが、鳥肌が立った。


何年か前、渋谷のNHK放送センターのそばの野外ステージで、たまたまPUSHIMがフリー・ライブをしているところに遭遇した。

当時高校一年だった息子と、そのライブを観た。

そのとき、浜崎あゆみしか真面目に聞いたことがなかった息子は、生のプロの歌手の歌を聞いて、驚いたようだ。

圧倒的な歌唱力。
リズム感。
魅力的な声質。

PUSHIMの「I Pray」を聴いたときには、「スゲエ!」を連発していた。

そして、「悲しくてやりきれない」を聴いたら、「オレ、涙が出そうだよ」とまで言った。


息子にとって、浜崎あゆみは神だったが、神がもう一人増えた瞬間だった。



ドリカム

2011-08-27 08:26:07 | オヤジの日記
吉田美和の歌唱力は、文句のつけようがない。

吉田美和より歌のうまい人は、数多くいると思うが、歌の理解力、表現力は群を抜いている。
そして、歌手としての迫力も際立っていると思う。

この歌手としての迫力。
これが、歌手を一流か、そうでないかを判断する一番の条件なのではないか、と常々私は思っている。

どんなに音程がしっかりしていても、ただ歌っているだけでは、人の心は動かない。
楽器もそうだ。
ピアノやバイオリンを音符通りに正確に弾けたとしても、そこに感情が入らなければ、それは「よくできました」で終わってしまう。

「たいへん よくできました」のハンコをもらうためには、人間としての感情、経験が入り込むことが必須条件だ。


たとえば、写実派の絵画は、写実とは言いながら、時に現実を無視した光の当たり方や遠近法を取り入れていることがある。

それは、現実の世界を忠実に模したものではなく、画家の頭に浮かんだ風景を素直に表現したから、そうなる。
現実世界をそのまま写し取る能力では、絵画は写真にかなわない。

そのままの景色を残したいなら、写真で残せばいいのだ。


吉田美和の歌は、絵画で言えば、写実派とは遠いところにある。
自分の書いた歌詞、書いたメロディを忠実に歌おうとは、決して思っていないように思える。

そのときの自分の感性そのままに、自分の歌世界を表現する。

たとえば、私の好きな歌「何度でも」は、歌うたびに、歌の表情が変わる。
一度として、同じ表情にはならない。

ときに、伸びる音に抑揚を付け、ときに突然音を切ったりもする。
それは、どの歌手もしていることかもしれないが、凡庸な歌手がそれをすると破綻することが多い(確実にリズムが乱れる)が、吉田美和は、たとえ乱れたとしても、それさえも表現の一方法として、歌に命を与えることができるのである。


その歌手としての力量が、つまり「迫力」ということだ。


吉田美和のプロフェッショナルとしての技量の全ては、この「迫力」に支えられていると思う。

ドリカムの歌には、ラブソングでさえも「迫力」を感じる。

元気になる。


そこが、好きだ。



真心ブラザース

2011-08-25 09:13:59 | オヤジの日記
真心ブラザースは、キャリアの長いバンドだから、名前だけは知っていたが、昔は興味がなかった。

友人からは「結構ブッ飛んだ歌を歌うんだ」と聞かされていたのだが、その「ブッ飛んだ」の意味が理解できないので、どこがブッ飛んでいる、と聞いてみても、友人の説明がわからなかったので、尚さら興味を持てないでいた。

だが、メンバーの一人・倉持陽一(YO-KING)が、ジュディ・アンド・マリーのYUKIと結婚したというのを聞いて、突然興味を持った。

しかし、その頃には、真心ブラザースは、解散寸前だった。

ただ、YUKIの旦那様の在籍するバンドはどんなものかと、いかにもゲスの興味をもって、一応その音楽を聴いてみた。

初めて聴いたのは、「KING OF ROCK」。

「ブッ飛んでいる」という印象はなかったが、二人ともいい声をしていると思った。
この声は、商売になる声だと思った。

そして、なんでもあり、の音楽のデパートだとも思った。

ロックに限らず、ファンクやソウル、ラップも、自分たちなりに消化して、オリジナリティを出しているところは、楽をして画一化の呪文にかかった似非ロック歌手より、数段カッコいいと思った。

形だけで「俺はミュージシャン」と言い張る有名歌手より、その音楽は、はるかにアーティストとしての存在証明を持っていた。
色々なジャンルに手を出していながら、なぜかブレない方向性。

それは一本芯の通った骨太のサウンドに、メンバー二人の音楽への純粋な思いが込められているからだと思う。


つまり、真心ブラザースの作り出すサウンドには、確実に「魂」があるということだ。


本当の「魂」が込められた歌は、敬遠されることが多い。

似非ロック、似非ラップ、似非ソウルの方が、受け手側は簡単に聴くことができるから、リスナーは、どうしても簡単な方を選びたがる。

カラオケで自分が歌えない歌は、名曲ではない、という概念を持っている人は、真の音楽家が曲に篭める「魂」を鬱陶しいと感じるだろう。

もちろん、そういう人は、そういう音楽を聴いたり歌ったりすればいいだけで、そのことには何の問題もない。

ただ、その種の人は、決して真心プラザースの歌は聴かないだろう、ということは想像できる。
そして、その種の人には、音楽好きな人が、好きな音楽を好きなように表現するという世界が、理解できないかもしれない。


真心ブラザースは、その種の人のことは気にも留めずに、「似非」とは違う世界で「魂」を込めて音を楽しむ人たちだと、私は勝手に解釈している。

そこが、気に入っている。


YUKI

2011-08-21 06:35:38 | オヤジの日記
YUKIが好きだ。

ジュディ・アンド・マリーの頃から好きだった。
グループの時もソロになってからのアルバムも、全部聴いた。

最高得点はないが、ハズレのないアルバムばかりを出すアーティストという印象だ。
つまり、平均点が高い。

飛び抜けて歌が上手いわけではない。
声がいいわけでもない。

ただ、その存在感は、群を抜いている。

そして、YUKIのその存在感の基礎となるものは、何だろうかと考えてみた。


それは、女であること、ではないのか。


もちろん、人類の半分は女性なのだから、YUKIが女であることが、特別なこととは言えない。

だが、普遍的な女なのか、特別な位置にいる女なのか、でその人の女としての存在の密度が変わるのではないか、と私は思っている。


ジュディ・アンド・マリーは、プロのユニットとしては、完璧に近いロック・バンドだったと思う。

「パンク・ロック」としてジャンル分けされることがあったが、そのジャンル分けが無意味なほど、ジュディ・アンド・マリーは、確実にジュディ・アンド・マリーそのものだった。

YUKIが言葉で表現する数々の作品は、YUKIの声を通したときにだけ、まるで良質のウィルスのように拡散的に増殖する。
その心象風景は、表現者としてのYUKIの個性があってはじめて、聴く人の心の中に何かを焼き付けられる。

そして、その細やかな表現は、YUKIが女だからこそ可能なのではないか、と思うのだ。

つまり、YUKIは、母性の歌手なのではないか、と。


ソロになってからのYUKIのアルバムを聴くと、その思いがさらに強くなる。

YUKIの口から出る言葉のほとんどが、娘として、女として、妻として、母としての真実に満ちているように感じる。

「女の魂」を感じる。

その魂の粒が、私の脳細胞を通り、あるいは血管を通り、内臓に到達し、全身にまわったとき、私の頭と体は、心地よさを感じる。

その心地よさが、YUKIを特別なアーティストにしているのだと思うのである。


母性の歌手であり、魂の歌手でもあるYUKI。


そんなアーティストは、おそらく、他にいない。



SALYU/小林武史

2011-08-18 08:09:56 | オヤジの日記
SALYUは、極めて優れた歌手だが、知名度が低い。

それは、ヒット曲がないからだが、その責任はプロデューサの小林武史の力量不足にある。

世間では、小林武史は、有能なアレンジャーであり、プロデューサだという評価だが、私には腰が定まっていない印象がある。

彼は、Mr.Childrenのプロデューサとして、その名が世間に広く知られている。
ただ、アルバム・アーティストとしてのMr.Childrenは、その腰の定まらない小林武史の影響もあってか、アルバムに一貫性を欠いているように思える。

コンセプト・アルバムを作っているつもりなのだろうが、成功したのは「深海」だけのような気がする。

才能がありすぎて、それを整理できないのか。
それとも、自己満足の意識が強くて、おのれの作品を俯瞰する能力がないのか。

たとえば、クイーンの「オペラ座の夜」や、ピンク・フロイドの「ザ・ウォール」は、コンセプト・アルバムとして全編に一本芯の通った主張がある。
しかし、小林武史がプロデュースしたMr.Childrenのアルバムには、「深海」だけに、かろうじてそれがあるだけだ。

ここまでビッグになってしまったMr.Childrenだから、冒険ができないのかもしれないが、冒険のできないプロデューサを有能とは呼ばない。

ただ、アレンジャーとしての小林武史は、卓抜な才能を持っていると思う。


そのプロデューサとして有能でない小林武史が、プロデュースすることの多いSALYUの知名度が上がらないのは、当然といえば当然のことだと言える。

小林武史は、先程も書いたように、アレンジャーとしては優れているのだが、作詞家、作曲家としては、並の人である。

いくつかのヒット曲を世に送り出しているが、優れた歌というのは、数えるほどしかない。
きつい言い方になるが、ヒットした曲は運が良くてヒットしたものが多い。

だから、SALYUに提供した歌も、並の歌しかない。

たとえ、歌手の力量が抜きん出ていたとしても、アレンジがいいだけでは、その歌は名曲とは言えない。
詞と曲に訴えるものがなければ、聴く人の心を動かすことはできない。


SALYUの歌手としての力量は、かなりのレベルにあると思う。
言葉を正確に伝える能力、音程の確かさ、声量、曲の理解力、どれをとっても、一級品だと思う。

しかし、作品に恵まれなければ、それは陳腐な言い方になるが、「宝の持ち腐れ」だ。

これほどの歌手を活かすことのできない小林武史は、少なくともSALYUのプロデュースからは手を引くべきだ。
ビッグなアーティストのプロデュースでお茶を濁していれば、その名声は、途絶えることがないだろう。

だから、彼は、SALYUには、関わらないでもらいたい。

そして、SALYUは、セルフプロデュースなどしないで、たとえば有能な外人などのプロデュースも選択肢にして、その歌手としての有り余る才能をぜひ開花させて欲しいと思う。



私は、いつかSALYUの時代が来ることを信じている。