天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

札幌宿泊先ホテル10階『なだ万』朝食時外窓の菖蒲池は、31年前の緑豊かな夏の日ではなく冬の雪景色

2009-11-30 22:16:27 | 日記
今日の日記は、28日札幌旅行の宿泊先であった老舗ホテルの、今回再度訪問した時の私の印象です。夜にチェックインしたホテルフロントは、昔改修した当時とは違って、とてもシンプルな内装になっていました。今は昔と違い、コンピューター管理しているのか?棚や引き出し等収納BOXが何処にも見当たらなかったです。でも、客室の施錠のしかたは、今流行のカードリーダー方式ではなく当時のままのキーホルダー方式でした。そして、そのキーホルダーは昔のままで、小さな革製のとても洒落たものでした。入った客室は、当然のことリニューアルされていて、トイレ等水まわりは、温水ウォシュレットに改装され、設置されている大型液晶TVには、外国人観光客の為か?韓国語や中国語や英語CNN放送がそのプログラムに入っていました。
次の29日朝、私は10階にある和食『なだ万』で朝食を取りました。窓から見える中島公園の菖蒲池は、降っていた雨が夜半過ぎに雪に変わったのか、一面の雪景色でした。31年前私が貸しボードに乗った舟着き場も、真っ白でひっそりとしてしました。だから、私はその頃の出来事を思い出す真夏に、もう一度このホテルに来て、緑豊かな池面にボートを浮かべ、昔十分に出来なかった昼寝を思う存分したくなりました。
このように、札幌の町は「私の心のふるさと」です。
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私の『希望の光』は、古代中国の故事『百年河清を俟つ』の如く空しく絶望的な思いなのか?

2009-11-29 23:28:10 | 日記
今日の日記は、私は札幌帰りですが、悪行親衛隊のことです。私が関連するネット掲示板の私のレスの一部は削除されましたが、以前残っているレスには今だ、悪行親衛隊が書き込みしています。ここに、その投稿文を転載します。
『昨夜の削除依頼に応じていただいてありがとうございました。>大和のおじさんはもう劇場客ではありません。>このスレの削除もお願いします。』
『今週末、札幌に行くと公言。警戒されたし。発見した場合報告求む。』
『隣に座って欲情したから触りました。だろ?それに、おやじの宿敵なら、普通にリボン投げてるぞ。劇場に行けないから、知らないんだろうけど。12頭、渋谷に行けばいいじゃん。』
これら悪行親衛隊は今だに「発見した場合報告求む」と自分が目撃しなくても、卑劣な密告をするつもりです。また、リボンを拒否されたある悪行親衛隊の応援行動を何も問題にせず、正当化する書き込みまでしています。とても残念なことですが、今だにこの劇場世界から、これら悪行客が排除されていません。私の微かな『希望の光』は、古代中国の「春秋左氏伝」の故事『百年河清を俟つ』如く空しく絶望的な思いなのでしょうか?とても悲しいことです。
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私の劇場での行動をアインシュタイン名言と密教の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』が良く解明

2009-11-27 22:13:53 | 日記
私は、アルバート・アインシュタイン博士の有名な名言を、以前ネット掲示板で紹介しました。今日の日記は、その名言と真言密教の経典「般若理趣経」の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』の相関性について、私的所感です。
その名言とは、『熱いスト-ブに1分間手を載せて見てください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子と一緒に1時間座っていても、1分ぐらいにしか感じられません。それが、相対性というものです。』という「一般相対性理論」(時間=空間の幾何学の歪みの結果として重力を扱う理論)から予測される「時間の遅れ」を判りやすく説明した言葉です。アインシュタインが語ったこの名言は強い重力場(注:かわいい女の子と一緒)中で測る時間の進みが、弱い重力場(注:熱いストーブの上に手を載せて)中で測る時間の進みより遅いことを比喩を使って巧みに説明しているのです。
私は以前、リボン応援を拒否されたある悪行親衛隊に、私の劇場で応援している劇場演技者に対する行動を説明する時、このアインシュタインが語ったこの名言を使って詳しく説明しました。でも、その悪行親衛隊はまったくそれを理解できなかったです。ですので、再度ここで、その説明をします。
私の場合、劇場で「かわいい女の子と一緒に」撮る写真は他人よりとても強烈な重力場であり、私と劇場演技者との位置関係にも強く影響しています。当然の帰結として、自然にある種のスキンシップ行為が発生します。その強烈な重力場での行為は、普通の弱い重力場での法則(時間の進み方)や規範ルールには当てはまらないものです。それが相対性理論より導かれる必然的な現象なのです。悪行親衛隊は弱い重力場(普通の客の撮影)での法則を、とても強烈な重力場(私の場合)でも、無理やり当て嵌めようとするまったく一元的な考えです。悪行親衛隊は、目にする現象をすべて一元的かつ一義的に把握してしまいました。独善的でなくもっと相対的かつ多様性なものと柔軟に認めるべきでした。
昨日、私が紹介した真言密教の経典「般若理趣経」の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』も私の劇場でのその行動を、名言と同じように良く説明しています。私の行動は自己のためでなく、損得を離れた他者のための欲(他人を愛しく思う心)は、大欲であり、清浄な菩薩の位(自と他との対立を離れ、他人のため考え行動する穏やかな姿にまで具現)のものと見なされていると、私は解釈しています。だから、私の行動は、ある悪行親衛隊が指摘したギラギラした本能に基づく欲望では決してないです。
そして、アインシュタインが解明しようとした宇宙理論と真言密教の経典で統一的に構図化された宇宙・曼荼羅が、究極的にはまったく同じものであると、名著『密教・コスモスとマンダラ』を読んで、私は確信しました。
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「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に真言密教の教義を!

2009-11-26 22:50:13 | 日記
今日は、「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に、その行動を悔い改めてもらう為、私は真言密教の教義真髄を言い表している真言宗の管長・松長有慶氏の名著『密教・コスモスとマンダラ』(1985年日本放送出版協会刊)から名文を抜粋して、以下に紹介します。
『密教の社会活動に対する積極的な姿勢は、現実を仮のものと否定せず、真理が現実社会に宿るという基本的な考えかたによるところが大きい。それとともに密教の欲望肯定の思想もまた、社会に対して働きかける原動力を提供したと見ることができるであろう。密教では人間の欲望を、いやしむべきもの、拒否すべきものとして、真正面から否認することはない。・・・ただここで注意しなければならないのは、本能的な欲望を、そのまま無条件に肯定するわけではない。欲望を一度は空として否定したのち、それが持つ本来的な生命力を取り出し、そこではじめて欲望の全面的な肯定が成り立つ。不空訳の「般若理趣経」では、「大欲は清浄であり、それは菩薩の位である」と言い切っている。・・・欲望もまた自己のためでなく、損得を離れた他者のための欲は、仏の欲であり、菩薩の位ということができるという意味なのである。・・・ここで欲望はもはや人間のギラギラした本能に基づく欲望ではなく、欲がそのまま絶対世界に属する清浄な菩薩の位と見なされる。・・・生きとし生けるものはことごとく、自己と同じいのちを持ち、その間にはなんらの生物的、階級的、職業的な差別はない。・・・獣も鳥も虫けらも魚も、みんなわれわれ人間と同じいのちを持って、それぞれの生をもって現に存在するというのが、「一切衆生」の思想なのである。・・・自我意識だけが突出し、自己と他者、それに自然との連帯意識を見失った現代人は、一切の事物を対象化し、無生物化して捉えようとする。しかし人間の理性も、感性も、行動も、本来は宇宙的な生命の一つの表現であるから、これらをばらばらに分解し、分析的に処理しては、全体像は一向に結ばないのである。・・・自己中心の近代的な世界観から、宇宙的な視座に転換するために、密教は各種の瑜伽の観法を用意している。雑多な民族信仰の神々を思いきって仏教化し、それぞれの特性を生かした仏、多様性を持ったまま、構図化した統一体を保つ曼荼羅の思想に、その好例を見ることができる。・・・以上から、密教が二十一世紀の思想原理としてのトータルな世界観を担う主体になることも、十分期待されてよいように思われる。』
私は「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に、この名著を熟読し「自分たちの世界だけが善である」との間違った意識を完全に捨ててほしいです。
(追伸)明日から、第29回さっぽろホワイトイルミネーションが始まります。私は28日(土)の夜、「希望の光」を鑑賞するため、旭川空港経由(注:旭山動物園を見る為)で札幌入りします。今からとても楽しみです。
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「政治を科学する」の鳩山首相は、「科学技術は生命線」と訴える野依氏に耳を傾け、「米百俵」精神の発揮を

2009-11-25 23:31:23 | 日記
今日の日記は、民主党政権の行政刷新会議の「事業仕分け」についての私的所感です。24日これを所管する仙谷由人行政刷新担当大臣は閣議後の記者会見で、スーパーコンピューター開発予算が縮減され、日本の頭脳の海外流出が懸念されていることについて『米国で採用されるような力がある研究をしているのか。そんなに甘いものではない。また、世界で一番を目指す必要があるのか?私は、基礎科学の理学部には予算が付かず、工学部系の研究ばかりに予算が多く付くことに疑問を持っている。予算の適正な配分が必要だ。』と語っています。
この閣僚発言を、任命権者である鳩山由紀夫首相は、何の叱責もしていません。鳩山首相の前職は、1969年に東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業し、1976年スタンフォード大学大学院博士課程を修了した専修大学助教授です。1986年の初選挙では、その選挙運動スローガンが科学者を志望していた自身の経歴をアピールした「政治を科学する」でした。だから、鳩山首相は、科学技術の重要性を良く知る理系出身の政治家です。何故、自身の選挙運動スローガンとまったく逆の行動「科学を政治化する」に邁進し、出身である工学部の研究を誹謗し、その科学技術の重要性を完全否定する担当大臣を注意しないのでしょうか。
この「事業仕分け」の横暴に25日、ノーベル化学賞授賞者で理化学研究所理事長の野依良治さんが『科学技術は生命線。コストと将来への投資をごっちゃにするのは見識に欠ける。世界水準をしのぐ科学技術なくして我が国の存在はない。外国から買って来ればという人がいるが、それはその国への隷属を意味する。歴史の法廷に立つ覚悟があって言っているのか!』と強く批判しています。
また、2001年5月7日自民党小泉元首相の所信表明演説に用いられ、一躍有名になった「米百俵」の逸話を、鳩山首相は御存知ないでしょうか?以下に、その逸話部分を掲載します。
『明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようという今日のわれわれに必要ではないでしょうか。』
政治的な立場は違いますが、小泉元首相もこの逸話を述べて、「事業仕分け」と同じような聖域なき構造改革への強い決意を語ったのです。でも、人的資源育成の教育や科学技術の振興だけは、その中でも逆に最重要課題と考えて、ばら撒き恩恵助成の削減や無駄の排除を反対しないでくれと訴えているのです。この決意は、今の政権とは、まったく違う政治姿勢です。技術立国の日本では、人間が貴重な財産資源です。優秀な人的資源が枯渇したら、豊かな日本は死滅します。国民は、ばらまき助成などの目先の利益を何も望んでいないと、私は思います。
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