天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

抵当権抹消申請の会社法人等番号を銀行渡さず窓口法務局担当者が自身の携帯で問い質し銀行顧客第一は絵空事

2018-06-29 20:07:23 | 日記
今日の日記は、本日札幌法務局で完了した別宅フォースマンション(新築賃貸用)の抵当権抹消登記申請書(本日にその登記完了書類を受領)のことです。
私は、今まで藤沢本宅(1986年)や札幌セカンドマンション(2012年)の建物購入時、全て現金で支払えず、物件を担保にして銀行から一部の資金を借りました。このフォースマンション(新築賃貸用)も、私は去年500万円の抵当権設定をしました。抵当権設定は銀行等の金融機関が司法書士を使って(その手数料等は借りる物件購入者が負担)自ら行っています。しかし、この担保した抵当権抹消(弁済完了)は、何も司法書士(手数料を支払う)を使って金融機関に依頼する必要はなく、自ら法務局に出頭し申請する事は可能です。
そして、購入15か月後に、全ての残金を一括返済(6月25日)をして、26日に札幌法務局に抹消登記申請をしました。私は、2013年にセカンドマンションの抹消登記申請を経験していたので、その際使用した書類(インターネットで自己申請HPを参考)を残していました。しかし、前日に法務局HPを閲覧したら、2016年にその申請書類が改定されている事を知りました。添付した書類は、その申請書のひな型です。
さらに、その書き方の手引きまで公開されていました。だから、ある程度事前に分る事項は申請書に記載して、不明な点は窓口で確認して書き方を教えてもらおうと安易に考えて、銀行関係書類を受領した翌日に、札幌法務局(初めてではなく二度目の体験だが)に出かけました。
その対応した窓口の女性は、”書き方は教えられない”と拒否されましたが、脇にいて見ていた中年男性職員の方が、親切にもその申請書を追加添削して、完全な形にしてくれました。
その際、職員から”金融機関の会社法人等番号の記載がないので、電話で銀行に問い合わせて下さい”とチェックされました。私は、”携帯を持っていないので、このフロアに公衆電話はありますか?”と答えたら、この男性職員が自らの携帯電話を出して、その金融機関を呼び出してくれました。私は、その銀行担当者からその番号を聞き出して、私は申請書を完成したのです。私は、”本当に申し訳ないです。銀行からもらった書類にその番号書は無かったです。”と職員に弁解しました。そうしたら、その男性職員は、”銀行は自ら司法書士に頼んでいる場合が多いので、申請権利者にその情報を教えない。”と私に教えてくれました。
さらに、この記載必要事項は、今回の改定で不動産番号が記載されていれば、詳細な表示は必要なくなりました。私は、藤沢本宅の抹消手続きの際、その記載が権利書と違っていたので、何度も訂正印(実印)を押した体験があったので、時代が大きく変わってきた(電子情報保存化)のだと、強く痛感しました。
それにしても、銀行は金を借りてくれなくなった顧客(注:私のような自分で全て行って手数料収入が入らない)の事など何も考えず、【顧客第一】の企業風土など全く絵空事だと、私は得心しました。
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開館6周年特別大興行から17周年某ストリップ劇場凋落に残念だが新人女性投光登場は復活隆盛への一里塚に

2018-06-27 11:15:45 | 日記
今日の日記は、今月初旬開館17周年を迎えた都内某ストリップ劇場の11年前の開館6周年記念時出演踊り子嬢の時系列比較での、劇場繁盛記です。
添付した写真は、その香盤情報の劇場パンフレット(上段:2007年上旬特別大興行8人 下段:2018年上旬LINE・UP6人★私の応援目当て踊り子嬢は欠場の代理出演の為その写真掲載無しでトリ前香盤の彼女に全く失礼な処置★)です。
私は、今年6月1日から、全てのストリップ劇場の観劇完全開始(約9年間のブランクの末)となりました。そして、この両方を観劇した某劇場での、かっての大繁盛からの顕著な凋落ぶりに、私は今、たいへん残念な思いを持っています。
11年前8人香盤のトリを飾った私が応援していて既に引退されている某踊り子嬢(デビュー5周年とあるが正確には前旬の5月21日で、彼女が劇場周年と合わせたか)を特別に応援する為、私は10日間皆勤(注:ステージ完全観劇では無く、土・日は朝から+平日は勤務終了後3・4回目のみ観劇)しました。そして、この時の出演メンバーには、今回17周年にも代理出演された〇〇〇嬢も、5番目(トリから3つ前)でしっかりと出演されていました。
超豪華踊り子嬢の8人香盤(トリを飾るだけの実力踊り子嬢が5人もいるが、現在でも現役なのは、〇〇〇嬢とキャリア27周年レジェンド嬢の2人のみ)だから、平日でも4回公演など全く無理で、ほとんど3回公演や4回でもダブル・トリプル公演になっていました。
一方の、私が観劇した今年の17周年開館記念公演の平日(金)8日では、3回目公演のみトリプル公演になっていましたが、4回公演(注:私は3回目観劇終了後退館)を実施可能でした。その観客も若い人は少なく、中高年(注:私もその一人ですが、9年前劇場で見た観客が多くいた)が多かった印象があります。だから、この某ストリップ劇場は、新しい観客を獲得していないと、私は今強く思っています。
ただ、昔は、ほとんど居なかった女性客(注:昔の劇場は女装した男性客が強く目立ったほどの男性社会だった)が多く見られたのが、この劇場観客の新たな動き(注:女性割引で2、000円入場料)だと思っています。さらに、ステージ進行や照明を担当する’投光’さんに、若い女性が8日1回目公演で勤めていました。私は、昔のエロ趣味過剰からの脱皮を図る劇場側の姿勢に好感を持ち、この男社会に入社した女性を、これからも強く応援・支持したいと、今思っています。
そして、この凋落ぶりからは、2010年に休館した札幌姉妹店の復活は困難かもしれませんが、私は、昔の隆盛を取り戻し札幌店が再復活する事を強く願っています。この女性投光の登場活躍は、その隆盛への一里塚・第一歩になって欲しいとも思っています。
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映画『ナイロビの蜂』スタッフはスラム住環境改善チャリティを立ち上げたが高槻市教育委員会は塀危険性黙殺

2018-06-22 16:06:51 | 日記
今日の日記は、今藤沢自宅で読んでいるアダム・シズマン著『ジョン・ル・カレ伝(上・下)』(1018年早川書房初版刊)で書かれた彼の著書『ナイロビの蜂(日本版名)現作版英語名は”The Constant Gardener”』の映画製作秘話です。
私は、スパイ小説の巨匠であるイギリス人作家、ジョン・ル・カレの生きざまを知りたくなって、この書著を読んでいます。彼の原作で多くの映画が製作されており、私は1963年に発表された『寒い国から帰ってきたスパイ:The Spy Who Came in from the Cold』の映画版(主演:リチャード・バートン)を、小学4、5年生頃、横浜の二流映画館「ライオン座」(既に閉館)の4本立て興行で、リアルタイムで鑑賞してから、ジョン・ル・カレのファン(イアン・フレミングの007シリーズとは全く違うタイプ)です。
その彼が晩年の2011年に出版したのが、『ナイロビの蜂』です。この著書(下)では、私がとても印象に残った記述がありました。以下に、記述の一部を引用・掲載します。
『威厳を備え、静かに話す中年外交官、物腰の柔らかなガーデニング愛好家は、親しい者・妻のテッサを失っている。テッサは強情で衝撃的、けっして信念を変えない若い女性だ。たとえ彼女が裏切ったように見えても、この男はどこでも誠実だった。そこから小説のタイトルは、”誠実な庭師(コンスタント・ガーデナー:日本語版タイトルはナイロビの蜂)となった。・・映画化に際して、フェルナンド・メイレレス監督は、撮影の大半は実際に舞台となった場所でおこない、エキストラにも現地の人々を使った。ナイロビ郊外のキベラというスラムでは、百万もの人々が粗末な小屋で暮らし、きれいな水も衛生設備も電気もない。あまりに大きな衝撃を受けたキャストやクルーは、撮影後その地区の住環境を改善するチャリティを立ち上げた。ジョン・ル・カレ自身に加え、監督のメイレレス、映画で共演したレイフ・ファインズとレイチェル・ワイズ(オスカー・助演女優を受賞)などが参加した。以来、<コンスタント・ガーデナー・トラスト>は、この地区で多くの住環境改善プロジェクトを支援している。』
日本語版出版に際しては、早川書房はその題名をもっと分かりやすく舞台となる場所を明記(「寒い国から帰ってきたスパイ」のように具体的に)変更しています。何故、英語版が”The Constant Gardener”だったのか?その疑問が、この著書を読んで私は完全に氷解しました。そして、この映画の撮影風景を引用掲載していますので、ご覧ください。
この監督は、見た目をそのまま表現して虚飾など一切排除して、観客に伝えようとしています。そして、その製作スタッフは、その撮影後もその舞台となった場所の住環境改善に取り組んでいます。とても人類愛に富んだ立派な行動だと、私は強く感動しました。
しかし、その一方では、高槻市教育委員会は、有識者が危険性があるブロック塀を無資格者(一級建築士ではなくとも、少なくとも建築担当なら、まずその違法性は分かる。)に安直な検査(全く無意味な打音検査やクラック等目視検査で、その設計図や構造計算書など調査せず)を実施させ、小学4年生の女子の尊い命を奪ったのです。この検査官はその見えている現実の姿を、ありのままに見ずその能力も無かったが、裏面に描かれた子供たちの楽しそうな姿に目くらましに遭ったのです。
今、この映画『ナイロビの蜂』でのキベラというスラム地域の当時の現状を再鑑賞して、私はその思いを強く抱いています。

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40年前起きた宮城県沖地震CB塀崩壊の天災教訓を忘れ小学4年生女子児童を登校中殺した高槻市長は辞職を

2018-06-18 20:26:22 | 日記
今日の日記は、本日午前7時58分頃、大阪府北部を震源とする地震(マグニチュード6.1推定)で高槻市立寿栄小学校の敷地内プールのブロック塀(高さ3.5m)が歩道側に倒れ、登校中の4年生女子児童が下敷きになって死亡した災害事故の事です。添付した写真は、その現場の読売新聞夕刊の航空写真です。
私は、この写真を見て、この崩壊したブロック塀は、RC造塀の上にコンクリートブロックを8段(約1.6m)積上げた構造(異種な工作物を複合)だと得心しました。でも、そのお互いの接合部はどうなっているか詳細は不明ですが、何も接続金物(鉄筋やアンカーボルト)が見られないことから、ブロックと一緒に破断したと思われます。
このような軟弱な工作物を、高槻市の建設主事が知ってて、その検査済証を出したとしたら、この地震災害は、天災ではなく完全なる人災(法的に訴え可能)です。『天災は、忘れた頃にやってくる!』とよく言われますが、私は今、私がかって体験した1978年6月12日(ちょうど40年と6日前)午後5時14分頃に起きた宮城県沖地震(マグニチュード7.4推定)を今思い出しています。
私はその地震が起きた日は、札幌支店への夏季応援出発準備の為、神奈川県横浜市の実家に戻っていた時でした。この地震が起きた時、実家のある関東地方でも揺れたとの記憶が残っています。私自身は既に転勤命令が出されていた為、仙台支店の災害復旧現場には行かなかったですが、札幌支店での夏季就業期間を短縮して9月1日に、仙台支店に戻されました。そして、向かった仕事先は、宮城刑務所の擁壁復旧工事でした。この宮城県沖地震では、ブロック塀などの下敷きで18名の方が亡くなっています。当然頑強と思われていた刑務所の塀も一部壊れてしまったのです。この復旧工事では、当時3年目の施工実績しかない私だったですが、特別な仕事をさせて頂き貴重な体験をしました。
そして、当時の建設省はこの地震を教訓に、3年後の1981年に建築基準法を抜本改正(新耐震基準による)したのです。でも、40年前の地震災害の教訓を、この問題の高槻市は全く理解していなかったのです。だから、高槻市長は、責任を取って辞職すべきです。
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デビュー45周年高橋真梨子さん”ステージで私が元気をもらっている”と応援踊り子嬢も”元気頂きました”

2018-06-16 20:27:43 | 日記
今日の日記は、レコードデビュー45周年を迎えた歌手の高橋真梨子さんの38年前の私の懐かしい思い出です。
私は、6月14日読売新聞夕刊MUSIC欄に『高橋真梨子 新作発表 感情秘めてさらっと歌う』の記事を読み、本日フジテレビ午後6時から放送されたミュージック・フェアに出演された高橋真梨子さんの歌声も聞きました。
そのTV番組の最後に、その新作アルバムの内、『雲母(きらら)の波』(作詞は本人)を、ピアノ1本の伴奏で情感を込めて歌われていました。そして、彼女は、読売新聞のインタビュー記事でも、『彼がいなくなってしまった。いつも触れてくれた髪の毛を切って、風で飛ばす。彼のところに1本でも届けばいいかな、という想像です。』と、自身の歌詞のイメージを自ら解説しています。いつもスケールがある熱唱ではないですが、枯れていてとても良い楽曲になっています。
レコードデビュー45周年の彼女は、私はそのデビュー(ペドロ&カプリシャスの2代目女性ボーカルとして)から、全てをリアルタイムで観て聴いてきました。そして78年にソロに転じてからも、彼女の大ファンでした。その頃の私は、76年に大学卒業し、某大手建設会社に入社し作業所の現場監督として、毎日忙しい日々を過ごしていました。私の所属した建設会社では、社員を定期的に国外内に転勤・移動させる人事システムになっていました。だから、私は79年10月には札幌支店に転勤し、その翌年2月には、道内で最も寒冷地(最低気温は氷点下20度以上)といわれる道北・北見市(日赤病院の増改築工事の現場担当)に移動しました。そして、その滞在地の北見市に一軒しかないレコード店で、購入したカセットテープが【高橋真梨子 サンライズ・サンセット】です。添付した写真を参照の事。今でもこのテープを私は藤沢自宅で大切に保存しています。
彼女が大ブレイクする2~3年前の曲ですが、その頃作業所宿舎(注:賄いのおばちゃんが居た所謂、建設現場の飯場)の個室で、私はいつも聴いていた楽曲です。そして、仕事がきつくて挫けそうになった時、彼女の歌声で励まされ私はとても元気になったのです。
しかし、彼女は読売新聞のインタビュー記事では、『本当に歌えなくなるまで、ステージにいたい。お客さまは私から元気をもらおうとしているかもしれませんが、私が元気をもらっているんです。』と、語っています。彼女らしいとても謙虚で含蓄に富む言葉です。
6月1日某ストリップ劇場で、私が応援観劇した某踊り子嬢の写真コメントでも、”〇〇〇さんのキラキラ笑顔見て元気頂きました!ありがとうございます♡♡”と、私に書いてくれました。前の日記での添付写真を参照して下さい。
だから、自身のステージで観客と真剣勝負で向き合う超一流のアーテストは、全く同じ思いを持つと、私は強く得心しました。
そして、38年前の当時を、私は今懐かしく思い出しています。



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