天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に真言密教の教義を!

2009-11-26 22:50:13 | 日記
今日は、「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に、その行動を悔い改めてもらう為、私は真言密教の教義真髄を言い表している真言宗の管長・松長有慶氏の名著『密教・コスモスとマンダラ』(1985年日本放送出版協会刊)から名文を抜粋して、以下に紹介します。
『密教の社会活動に対する積極的な姿勢は、現実を仮のものと否定せず、真理が現実社会に宿るという基本的な考えかたによるところが大きい。それとともに密教の欲望肯定の思想もまた、社会に対して働きかける原動力を提供したと見ることができるであろう。密教では人間の欲望を、いやしむべきもの、拒否すべきものとして、真正面から否認することはない。・・・ただここで注意しなければならないのは、本能的な欲望を、そのまま無条件に肯定するわけではない。欲望を一度は空として否定したのち、それが持つ本来的な生命力を取り出し、そこではじめて欲望の全面的な肯定が成り立つ。不空訳の「般若理趣経」では、「大欲は清浄であり、それは菩薩の位である」と言い切っている。・・・欲望もまた自己のためでなく、損得を離れた他者のための欲は、仏の欲であり、菩薩の位ということができるという意味なのである。・・・ここで欲望はもはや人間のギラギラした本能に基づく欲望ではなく、欲がそのまま絶対世界に属する清浄な菩薩の位と見なされる。・・・生きとし生けるものはことごとく、自己と同じいのちを持ち、その間にはなんらの生物的、階級的、職業的な差別はない。・・・獣も鳥も虫けらも魚も、みんなわれわれ人間と同じいのちを持って、それぞれの生をもって現に存在するというのが、「一切衆生」の思想なのである。・・・自我意識だけが突出し、自己と他者、それに自然との連帯意識を見失った現代人は、一切の事物を対象化し、無生物化して捉えようとする。しかし人間の理性も、感性も、行動も、本来は宇宙的な生命の一つの表現であるから、これらをばらばらに分解し、分析的に処理しては、全体像は一向に結ばないのである。・・・自己中心の近代的な世界観から、宇宙的な視座に転換するために、密教は各種の瑜伽の観法を用意している。雑多な民族信仰の神々を思いきって仏教化し、それぞれの特性を生かした仏、多様性を持ったまま、構図化した統一体を保つ曼荼羅の思想に、その好例を見ることができる。・・・以上から、密教が二十一世紀の思想原理としてのトータルな世界観を担う主体になることも、十分期待されてよいように思われる。』
私は「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」独善的応援教義を信奉する悪行親衛隊に、この名著を熟読し「自分たちの世界だけが善である」との間違った意識を完全に捨ててほしいです。
(追伸)明日から、第29回さっぽろホワイトイルミネーションが始まります。私は28日(土)の夜、「希望の光」を鑑賞するため、旭川空港経由(注:旭山動物園を見る為)で札幌入りします。今からとても楽しみです。
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