天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

私の劇場での行動をアインシュタイン名言と密教の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』が良く解明

2009-11-27 22:13:53 | 日記
私は、アルバート・アインシュタイン博士の有名な名言を、以前ネット掲示板で紹介しました。今日の日記は、その名言と真言密教の経典「般若理趣経」の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』の相関性について、私的所感です。
その名言とは、『熱いスト-ブに1分間手を載せて見てください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子と一緒に1時間座っていても、1分ぐらいにしか感じられません。それが、相対性というものです。』という「一般相対性理論」(時間=空間の幾何学の歪みの結果として重力を扱う理論)から予測される「時間の遅れ」を判りやすく説明した言葉です。アインシュタインが語ったこの名言は強い重力場(注:かわいい女の子と一緒)中で測る時間の進みが、弱い重力場(注:熱いストーブの上に手を載せて)中で測る時間の進みより遅いことを比喩を使って巧みに説明しているのです。
私は以前、リボン応援を拒否されたある悪行親衛隊に、私の劇場で応援している劇場演技者に対する行動を説明する時、このアインシュタインが語ったこの名言を使って詳しく説明しました。でも、その悪行親衛隊はまったくそれを理解できなかったです。ですので、再度ここで、その説明をします。
私の場合、劇場で「かわいい女の子と一緒に」撮る写真は他人よりとても強烈な重力場であり、私と劇場演技者との位置関係にも強く影響しています。当然の帰結として、自然にある種のスキンシップ行為が発生します。その強烈な重力場での行為は、普通の弱い重力場での法則(時間の進み方)や規範ルールには当てはまらないものです。それが相対性理論より導かれる必然的な現象なのです。悪行親衛隊は弱い重力場(普通の客の撮影)での法則を、とても強烈な重力場(私の場合)でも、無理やり当て嵌めようとするまったく一元的な考えです。悪行親衛隊は、目にする現象をすべて一元的かつ一義的に把握してしまいました。独善的でなくもっと相対的かつ多様性なものと柔軟に認めるべきでした。
昨日、私が紹介した真言密教の経典「般若理趣経」の『大欲は清浄であり、それは菩薩の位である』も私の劇場でのその行動を、名言と同じように良く説明しています。私の行動は自己のためでなく、損得を離れた他者のための欲(他人を愛しく思う心)は、大欲であり、清浄な菩薩の位(自と他との対立を離れ、他人のため考え行動する穏やかな姿にまで具現)のものと見なされていると、私は解釈しています。だから、私の行動は、ある悪行親衛隊が指摘したギラギラした本能に基づく欲望では決してないです。
そして、アインシュタインが解明しようとした宇宙理論と真言密教の経典で統一的に構図化された宇宙・曼荼羅が、究極的にはまったく同じものであると、名著『密教・コスモスとマンダラ』を読んで、私は確信しました。
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