天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『他人の不幸が蜜よりも甘い』社会の劇場密告者は暴露週刊誌より根深い自己矛盾をどう思う?

2009-11-05 22:40:48 | 日記
本日は続編を投稿します。『他人の不幸が蜜よりも甘い』社会の劇場密告者は、ストリップのある踊り子さんの「週刊誌は、一方でヌードや風俗情報を掲載しながら、他方では校長先生の行為を非難するようなエセ正義を振りかざしてストリップを非道徳的かつ軽蔑すべきものというように扱っている、気にくわないです!」との週刊誌報道に対する糾弾をどう思っているのだろうか?自分達とはまったく関係ないことと思っているかもしれない。
でも、この劇場密告者は踊り子さんを表面上では応援しているくせに、本質的には週刊誌と同じように踊り子さんを非道徳的かつ軽蔑すべきものと心の底で思っているから、その倫理感を持っている一般社会の組織にこのハレンチな行動を密告し、自分達の世界から排除しようと画策したのです。これら劇場密告者はこの大きな『自己矛盾』にまったく気がついていません。
そして、その暴露は写真週刊誌の場合、単なる行き過ぎた売上げ至上主義の商業的な要因です。だから、『自己矛盾』の意識など持たず、一部でも多く読者に買ってもらう為には、なりふり構わずあらゆる悪行に走るのです。だから、首都圏で販売しているにある大手スポーツ紙が
『公然わいせつ容疑でストリップ嬢ら逮捕』
「警視庁保安課は17日までに、公然わいせつの疑いで東京都○○区にある老舗のストリップ劇場「○○○○○劇場」の経営者○○○容疑者(XX)=神奈川県○○○市、ストリップ嬢○○○容疑者(XX)=豊島区○○○=の2人を逮捕。公然わいせつほう助の疑いで、同劇場の従業員4人を逮捕した。調べでは、○○容疑者と○○容疑者は15日午後1時ごろ、劇場の舞台でわいせつ行為を客51人に見せた疑い。従業員は舞台を回転させたり入場券を販売したりしてわいせつ行為を手助けした疑い。○○容疑者は「△△」の名で出演し、演出も考えていた。当時7人が出演していたが、○○容疑者は一番人気があったという。同劇場は1970年ごろ開店したストリップ劇場の老舗。2008年11月17日」
と大きく新聞報道したその約1年後には、ガラッと立場を変えて
「『○○○○○劇場』が、あす8カ月ぶりに帰ってくる。・・・・・『○○』のあの美しい照明と、音響が、所属の踊り子たちを、再び甦えらせる。踊り子たちは、水を得た魚になって、自由自在に泳ぎ回るにちがいない。 2009年10月31日の紙面から」
と節操もなく、まったく『自己矛盾』も感じない記事を臆面もなく堂々と掲載するのです。
しかし、劇場密告者の場合は、さらに他人の不幸を願う『他人の不幸が蜜よりも甘い』意識がその根底にあります。そして、その密告はとても卑劣でそこの踊り子さんをまったく軽蔑する意図がある悪行です。
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『他人の不幸が蜜よりも甘い』社会は1998年神戸連続児童殺傷事件の校長私的行動暴露報道が始まり

2009-11-05 20:35:43 | 日記
今日は、親衛隊による理不尽な私の家族・会社への密告行為の原点とも言えるある事件の検証です。その事件とは1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件での加害者生徒が通っていた公立中学校の校長が、その翌年生徒の卒業式が終了した後の私的行動を、写真週刊誌カメラマンに尾行されて全国に暴露報道された事件です。この事件に関して、1998年3月19日にジャーナリスト・畑仲哲雄さんがインターネットで自論を述べています。奇しくもその日の10年後、私は親衛隊の一員に自宅侵入され、家人に私の行動を密告され、個人プライバシーをネット掲示板に暴露されています。ちょっと長文になりますが、鋭く真理を突く論証をされていますので、その一部とそれを読んだ読者のあるコメントを掲載します。
『ストリップで謹慎になった神戸の中学校長を弁護する 畑仲哲雄 1998年3月19日』
「神戸の「酒鬼薔薇」が通っていた中学校の校長が、3月18日、神戸市教委から自宅謹慎を命じられた。中学の卒業式の後、大阪のストリップ劇場に行ったことがバレたためだ。・・・卒業式は3月13日に行われた。・・・卒業式が無事終わり、彼は午後6時すぎに1人で大阪市内のストリップ劇場に足を運んだ。それから約4時間、ほかの客席の男たちと同じようにショーを楽しんだ。写真週刊誌や新聞報道によると、彼はポラロイドカメラで踊り子を撮影したり、舞台に上がって野球券をしたとされている。 たしかにハメを外した行動かも知れないが、だからといって、他人さまに迷惑をかけたわけでは決してない。その時、彼は他の客と同じく肩書きのない1人の男だった。 彼にとって不幸だったのは、写真週刊誌のカメラマンに尾行されていたことに気が付かなかったということだ。彼はお楽しみのとろこの写真を隠し撮りされ、その行動の顛末が全国の不特定多数の人々にさらされることになった。
さて、ここで考えるべきことは、彼がどういう点で責められたのかということである。法治国家では違法行為をしないかぎり自由である。民主主義を標榜する社会は他人に迷惑をかけないかぎり個人にいかなる制限も科さない、と言い直してもよい。そこで、彼は違法行為をしたかを考えてみる。 彼はストリップ劇場に行った。これは自体は違法ではない。ストリップ劇場は風俗営業法に基づく事業を営んでいるものであり、そこへ足を運ぶという行為はなんら責められるものではない。学校長であろうと、坊主や牧師であろうと、裁判官や国会議員であろうと、そこへ行く人を法的に阻むことはできない。個人の自由の範囲である。
法的に問題がないとすれば、道義的な部分ではどうだろうか。ストリップ劇場は、純粋に踊り子の肉体美を観賞させるというより、客の性衝動を触発したり一定の性欲を満たしたりするのが主なサービス内容なため、一般的に公然と語られることは少ない。見合いの席や就職の面接などで「趣味がストリップ通いです」と臆面もなく自己紹介する人はないのはそのためだ。そしてその背景には、この社会が性にまつわる事象をタブーとしている現実が横たわっている。 タブーとは、もともとポリネシア語で、共同体の中での暗黙の禁忌を意味する言葉である。現地では宗教的な意味あいで使われていたが、現在では禁忌一般を指す用語として広く使われている。簡単に言えば、頭の中で想像することや人目を盗んで行うのなら許されるが、人前で口にしたり行ったりしてはいけないことを指す用語だ。さて、校長がストリップに行くというのが、タブーを冒したかどうかを考えると、彼個人としては何もしていないと考えられる。もし彼がストリップ劇場に入ったときに客席の他の客たちの前で「自分は中学校長だ」と表明すれば、タブーに触れることになるかも知れない。だが、彼はそれに類することはしていない。たまたま写真週刊誌にそのことを暴露されただけである。今はやりの言葉でいえば彼もまた「報道被害者」の1人なのだ。 もっとも、プライバシーについてはさまざまな考え方がある。公人は一定のプライバシーを公開しなければならないという意見が説得力を持っているのは言うまでもない。不十分とはいえ、国会議員の資産公開はそうした考えに基づいて行われているわけだ。公立中学の校長が公人とするか私人とするかについては意見が分かれるところだろうが、かりに公人だとしても、社会のタブー関わる私的生活まで暴かれていいものなのだろうか。そいうふうに考えていくと、彼の行動に責められるべき点はほとんど考えられない。 」
そして、これを読んだある読者からコメントを掲載します。
『投稿者・A.M 2002年7月19日』
「私はストリップの踊り子です。今の社会は性が隠蔽すべきものとして扱われているがゆえに私達の商売がなりたっていると思いますが、仕事や社会に疲れた男の人が癒される場として劇場は社会の中で何らかの役割を担っていると思います。(今は他の風俗のほうが盛り上がっていて劇場は少し下火ですが!)週刊誌は、一方でヌードや風俗情報を掲載しながら、他方では校長先生の行為を非難するようなエセ正義を振りかざしてストリップを非道徳的かつ軽蔑すべきものというように扱っている、気にくわないです!」
この投稿をした踊り子さんは丸尾長顕氏や塩野七生さんが言及している、ものごとに対処する「姿勢」(スタイル)を持っている女性『女は結局のところ、頭の良いのが最高だ』の真正具現者です。 
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