天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『心理学用語大全』の文化人類学者ホール提唱パーソナルスペース社会的ゾーン1m~3mをコロナ禍で2mに

2020-08-25 10:01:37 | 日記
今日の日記は、今札幌別宅で読んでいる『図解心理学用語大全 人物と用語でたどる心の学問』(監修・齋藤勇 編著・田中正人 イラスト・玉井麻由子:2020年5月誠文堂新光社刊)で、書かれている人間関係の心理学用語『パーソナルスペース』の事です。添付した写真は、その著書の表紙です。
実は、この著書購入目的の第一は、ユングが提唱した意味ある偶然『シンクロニシティ』の記述があるのでは?との密かな期待からでした。しかし、ユングは著書に登場しても、残念ながら『シンクロニシティ』の記載は無かったです。でも、今年発生したコロナ禍で登場した『ソーシャル・デスタンス:半径2m』の先駆的な心理学用語『パーソナルスペース』(エドワード・T・ホール1914~2009年:アメリカの文化人類学者で自書「かくれた次元」でこの言葉を提唱)の記述を見つけて、私は今回の悪玉新型コロナウィルスはこの提唱したスペース距離を根底から覆した事を、今知りました。以下にその著書からその関連記述を引用・掲載します。
『人は自分の周囲の空間を、自分の空間だと認識しています。この空間のことを、パーソナルスペース(個人空間)といいます。パーソナルスペースに見知らぬ他人が侵入してくると不愉快になりますが、親しい相手であればむしろ歓迎します。ホールは自分を中心にした4つの領域がパーソナルスペースとして存在すると考えました。
・親密 ゾーン:半径50cm以内:恋人や家族などごく親しい人だけが接近可能
・知人的ゾーン:半径50cm~1m:友人など親しい人だけが接近可能
・社会的ゾーン:半径1m~3m:生徒と教師、上司と部下のような公的な人間関係にある相手が接近可能
・公的 ゾーン:半径3m以上:個人的な人間関係が発生しない距離なので相手は大衆のひとりという認識になる
この広さは、性別や文化、個人の性格などによっても異なるとされている。』
今回のコロナ禍では、社会的(ソーシャル)ゾーンのホールが提唱した最小値1mではなく、お互いの距離2m以上確保が必要だと、当初から指摘されています。事実、現在の札幌大通公園の設置されたベンチでも、その背もたれに、横断幕(2m以上空ける)が設置され、利用者に注意喚起しています。しかし、このデスタンス2mを厳密に確保する事は、事実上困難で社会生活に多くの支障が出ています。
だから、私はソーシャルデスタンス2m以上の基準を、過去にホールが提唱した社会的ゾーン半径1m以上に訂正して、注意喚起を徹底して欲しいです。
また、ホールが亡くなった2009年までは、私は趣味で通ったストリップ劇場で応援踊り子嬢との2ショット撮影では、提唱している親密ゾーンに自己の身を置いていました。でも、現在のストリップ劇場では、私のこの嬉しい体験は幻の夢のような悲しい状況になってしまいました。だから、私は、この新型コロナウィルスがとても憎いです。
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『世界哲学史5中世Ⅲバロックの哲学』小倉紀蔵氏の「安重根は明治天皇を尊崇していたアジア主義者」に同意

2020-08-22 15:10:33 | 日記
今日の日記は、今札幌別宅で読んでいる『世界哲学史5・中世Ⅲバロックの哲学』(ちくま新書・2020年刊)で、私がそれを全く予期出来なかった第8章「近代朝鮮思想と日本・小倉紀蔵(京都大学教授)著」で書かれた日韓併合等に関する記述です。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、暗黒時代と言われていたヨーロッパ中世の時代背景をよく知りたくて、この哲学書を購入し今読んでいます。しかし、表紙で解説している17世紀バロック的世界(カラバッジョの絵画が代表的で表紙有り)だけでなく、近代の朝鮮思想史にも言及しているのにとても驚きました。以下に、私が大いに興味を持ち、共感した小倉紀蔵の記述の一部を引用・掲載します。
『1910年の韓国併合から1945年の敗戦、朝鮮の解放までの期間を、私は「併合植民期」と呼ぶ。このことは、朝鮮が純粋な客体として収奪や暴力的支配だけをされたという歴史記述が、虚偽であることを意味する。人間は、劣悪な政治的権力関係のなかでも、おのれの主体性を希求して思想を生み出すものである。・・1909年にハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺した安重根(1879~1910)も、実は明治天皇を尊崇していたアジア主義者であった。世界平和の実現のためには日韓が連帯しなければならないというのがその主張の根幹だが、単なる反日思想というよりは東アジア連帯論であり、日本側にも彼の哲学に共鳴する者も多くいた。』
この筆者は、韓国ソウル大学校哲学科大学院東洋哲学専攻博士課程単位取得退学の学業実績がある韓国通の哲学者です。よくこのような主張(安重根を明治天皇を尊崇していたアジア主義者)を持っていて、無事に韓国ソウル大学の博士単位を取得できたと、私はとても驚いています。でも、その筆者が学んだ当時にはまだソウル大学が反日思想に凝り固まっていなかったのか?、私は推察しています。
しかし、今の韓国には、昔の自国に関する歴史を、冷静に当時の文献を駆使して、小倉紀蔵氏のように学術的に正しく評価する事は、全く絶望的な状態です。そして、その危機的状況はさらに強まっていると私は思っています。
だから、何度も言いますが、もう悪漢国家・韓国とは「国交断絶」しか道がないです。
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明治天皇玄孫・竹田恒泰氏の皇位継承危機打開策「旧皇族赤ちゃん男子を現宮家養子にし皇妃が後見」に大賛成

2020-08-04 15:31:50 | 日記
今日の日記は、前回の続編で『入門 女性天皇と女系天皇とはどう違うのか』著者:竹田恒泰氏(明治天皇の玄孫)が、同書で語っている私が強く共感した今後の皇室男系継承危機打開の具体的方策です。以下に、その方策他の一部を引用掲載します。
『明治天皇は、四人の皇女を順番に竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮と嫁がせになられました。普通に考えれば、次の皇位継承危機となるのは、どんなに早くても悠仁親王殿下の次の世代です。旧皇族からいきなり天皇が出て、驚くようなことにならないためにも、旧皇族から早く皇室に戻っていただき、生まれながらに皇族となる男子を育てなくてならないのです。旧宮家をそのまま復活させる方法と、養子をとる方法の二つがあります。養子というと、旧皇族の未婚の男子が皇族女子の結婚相手になるというイメージがよくあるのですが、それに限定するとハードルが高いと思います。結婚をともなう養子である必要はなく、跡取りとしての養子となることで構いません。理想的なのは、生まれたての赤ちゃんを養子に迎えることです。その子が大人になるまで代わりに義理の母である皇族女性が後見という立場で祭祀を預かることも可能です。特に推奨しているのが夫婦養子です。旧皇族には結婚したばかりの若い夫婦もいます。また、予算措置が必要ないというメリットもあります。養子であれば、現行の皇室経済法で全部できます。旧皇族から男子を迎える場合、一人ではなく、四人ぐらいいるのがいいでしょう。江戸時代に世襲親王家が三つでは少ないということで一つ増やした経緯があるからです。』
この旧皇族から四人の男子を、現在の宮家の養子にする竹田恒泰氏の皇位継承危機解消方策に、私は大賛成です。当事者でもある竹田恒泰氏は遠慮して、その旧皇族(竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮と、現皇室宮家(常陸宮、三笠宮、高円宮、秋篠宮)との具体的な組み合わせには言及していません。以下は、まったくの私見ですが、私の独断(両家の了解も考えず)を持って、私が思う最も相応しい組みあわせを皆さんに披露します。添付した写真の皇室図を参照して下さい。
・継承順位1位・秋篠宮(最も血縁近い宮家)⇔東久邇宮(昭和天皇とも繋がっていてベスト血縁)
・継承順位2位・常陸宮(現上皇の弟君宮家)⇔竹田宮
・継承順位3位・三笠宮(昭和天皇弟君宮家)⇔北白川宮
・継承順位4位・高円宮(三笠宮御子息宮家)⇔朝香宮
すべて明治天皇の後子孫であり、過去の継体天皇は応神天皇の五世血縁だったのだから、皇室の一員として、天皇となられる悠仁親王殿下をサポートするは何ら問題はない、と私は強く確信しています。
安倍政権には、秋篠宮様の後嗣継承儀式が無事に済んだら、速やかに現在の皇室構成の見直検討を実施して、次の2000年を見据えた万全な体制を構築し、日本の「国体」を盤石なものにしてほしいです。
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日記開始4000日記念:竹田恒泰・谷田川惣著『女性天皇と女系天皇はどう違うのか』継体天皇即位が国体礎

2020-08-01 15:51:35 | 日記
今日の日記は、2009年8月19日ブログ開設以来、4000日になる特別記念版です。私は、最初の日記で『己の信念を貫けず、人間不信に陥った弱い男が、己の人生を振り返ってその過ちを懺悔し、素直に語る回想日記を始めました。』と、とても短い文章を投稿しこのブログを始めました。
こんなに長く続くとは、私は全く想像も出来なかったです。これも、ブログ日記を無償で運営してくれている運営関係者のお蔭と、私は今大いに感謝しています。現在(昨日まで)でのそのブログ投稿記録を、以下に示します。
投稿回数:2,051回 トータルアクセス閲覧数:5,250,858PV トータル訪問数:1,351,945UU 
約11年間で2,000回以上も投稿して、訪問者は一日あたり、338UU程度です。このように、私の拙い日記投稿でも、皆さんに愛されているから、私も長く続ける事が出来ました。ほんとうに、ありがとうございました。
そして、本日の投稿は、今札幌別宅で読んでいる竹田恒泰・谷田川惣著『入門 「女性天皇」と「女系天皇」はどう違うのか 今さら人に聞けない天皇・皇室の基礎知識』(2020年3月初版・PHP研究所刊)で、書かれている私が強く共感した谷田川惣氏の第26代継体天皇即位での歴史的事実です。添付した写真は、その著書の表紙です。
以下に、その継体天皇の即位に係わる記述の一部を、引用掲載します。
『第25代武烈天皇が跡継ぎ不在で崩御したので、身近に皇位継承資格者が誰もいなくなり、過去最大の皇位継承危機に直面した。そこで、大和朝廷は第15代応神天皇の五世子孫で、越前におられた皇子に白羽の矢を向けた。歴史学上では、継体天皇は応神天皇の子孫ではなく、ここで新王朝になったという説もあるが、「日本書記」の元になった「帝紀」は、継体天皇の孫である推古天皇の頃に完成しており、もし新王朝であったら、継体天皇のことをもっと偉大に書き残したはずである。しかし、継体天皇は大きな業績も残さず、大和朝廷での権力基盤はほとんど変動していないし、継体天皇即位以前から力を持っていた大伴金村が、即位後も権力の中枢におり、越前からの譜代の家臣が活躍する事もなかった。逆に、この時一部の不満分子を考慮して、武烈天皇の姉であった手白香皇女を即位させ、男系継承以外の別の方向を模索していれば、おそらく現在まで皇室が長く続くことはなかったと思う。血統原理を崩せば、力を持つ者が皇位に就くことができるという論理がまかりとってしまうからです。』
戦後の日本古代史学会では、大和朝廷は、朝鮮から渡来した騎馬民族に乗っ取られた(応神王朝から継体王朝へ)という「騎馬民族説」が一時期持て囃されました。しかし、谷田川氏が指摘しているように、大和朝廷の実力者大伴金村は、その間健在だったのです。仏教伝来で大伴氏一族が曽我氏(朝鮮系)により失脚するのは、もう少し後の出来事です。
2000年も続く皇統は、この五世子孫の継体天皇の登板により確固たるもの(日本の国体の礎となる)となったと、この著書を読み、私は今強く確信しています。さらに、この「女系天皇」は日本の「国体」を破壊する悪しき行為であり、決して認める事は出来ないと、閲覧している皆さんに私は強く訴えたいです。

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