天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

何清漣著『中国 現代化の落とし穴 噴火口上の中国』(坂井臣之助+中川友訳:草思社刊)10年前の警告書

2010-08-31 22:29:15 | 日記
今日の日記は、8月8日から出かけてた私の香港・深圳・マカオ旅行の紀行記(11):8月9日午後から10日午前中にかけて深圳で観光案内した現地中国人ガイドのことです。
9日に予定されていた夜の観光がすべて終了したら、このガイドは、たった4人の参加者しかいなかった実施されるオプショナルツアー「足つぼマッサージ」にそのまま同行し、後に残った客16人の宿泊先のホテルチェックイン業務を途中で放棄しました。だから、彼はその重要な職業上の役目を、旅行写真撮影の為に同行していた日本語がまったく判らない学生アルバイトのアシスタントに押し付けてしまいました。まったく、自分の職務が何であるか判っていない観光案内の現地中国人ガイドです。
そして、ホテルに向う途中、このガイドから、「泊まるホテルには、ミネラルウォーターの備え付けがないので、もし水が飲みたくなったら、ホテルで買うか、安い物が良ければ近くの店まで出かけるように」との注意と指示がありました。このガイドの言葉を聞いて、私は唖然としました。私は今まで中国旅行で、いろいろなホテルに泊まりましたが、紅茶やコーヒーパックが常備されているのに、その元になる飲料水が置かれていないホテルは、この深圳駅前のホテル(注:ガイドブックによれば5星グレード)が初めてです。このガイドは、ミネラルウォーター備え付けがこの5星グレードホテルの普通サービスなのに、あえてミネラルウォーター代の経費をカットして、自分たち旅行会社の不当な利益をあげたと、私は思っています。
今、日本に帰国してから、中国政府から発禁処分を受けた元『深圳法制日報』記者・編集者何清漣氏が書いた著書『中国 現代化の落とし穴 噴火口上の中国』(坂井臣之助+中川友:訳2002年草思社刊・添付した写真はその著書表紙)を読んでいます。そして、私が体験した出来事のようなモラル廃退は、もう10年前から何清漣氏が警告をしていたと、私ははっきりと得心しました。この著書からその該当する記述一部を、以下に引用掲載します。
『市場経済の道徳秩序はおもに経済倫理の第一段階、すなわち職業道徳と経済的信用で構成される。この両者は人びとの行動基準を示し、経済的取引に規範をもたらす。しかし、現在の中国ではこの両者に重大な問題が生じている。・・多くの長距離バスの乗客は「車匪路覇」の被害にあっている。バスに乗る前に約束した値段が途中で変わり、乗務員が値上げを強要するのである。金を払わないと鉄拳が待っている。途中で運行を止め、乗客を放りだすこともある。文句をいうと殴る蹴るの暴行を受ける。道路沿いの店がバスを止め、暴力で威嚇して乗客たちに高い食事を強要することもある。ひとりでも注文しない乗客がいると、出発を許さない。ある乗客が一日バスに乗り、強制停止を七回、飯の強要を五回くらったという報告もある。・・深圳経済特区には外地からやってきた大量の労務者がいるが、ここ数年、治安情勢は悪化の一途をたどっている。公安局が公表した資料によれば、深圳特区で発生した強盗、殺人、強姦、輪姦、売春、麻薬密売といった悪質な刑事事件の九割以上は、おもに各地の農村からやってきた「三無人員」(私注:”身証”“暫住証”“就業証(務工証)”の3種類許可証のいずれも所持していない者)の犯行である。』
この著書「車匪路覇」のくだりを読んで、私が体験した職業道徳と経済的信用の欠如など、現地の深圳ガイドにとって、何とも思わない当然の行為だったのだと今納得しました。
しかし、中国が先進国の仲間入りをして世界のリーダーとなりたいと願うなら、政府を批判した著書の発禁処分などの言論弾圧をせず、もっと職業道徳と経済的信用の回復を図り、自身の政治組織をより民主化する必要があると私は痛感しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深せん観光の小人国で利用した使用料80元電動カートは日本でいう歩行補助具でなく園内何度利用可の遊覧車

2010-08-30 22:41:57 | 日記
今日の続編日記は、8月8日から出かけてた私の香港・深圳・マカオ旅行の紀行記(10):9日午後深圳で観光した小人国(錦繍中華・ミニチャイナ)中国民俗文化村のことです。
今回の旅行を企画した日本旅行会社が作成した予定表では、次の日午前中に小人国観光で、9日の夜はテーマパークでナイトパレード(ショー)だけの鑑賞とありました。でも、出発の10日前に送られてきた旅行会社の『旅のしおり』2日目9日(月)午後の予定表では、小人国下車観光*『園内の電動カート利用には別途約80元がかかります。』との突如の変更及び追加別途料金の案内が書かれていました。
この変更案内を読んで、私はここで書かれた「電動カート」とは、添付した写真の上部の乗り物と考えました。なぜなら、日本で言われている「電動カート」とは、日本の法律で定められた、最高速度が6km / h以下、全長1,200mm以下、全幅700mm以下、全高1,090mm以下の、電気を動力源とする歩行補助具のことで、使用者およびカートが法律的に「歩行者」として認められるものだからです。
だから、こんな歩行補助具を、私はこの園内で使用しないつもりでした。でも、この小人国に向う車中で、この「電動カート」の使用の有無を、現地中国人ガイドが私を含めて旅行参加者20人に確認したところ、使用しないとしたのは私一人だけでした。そのため、このガイドは、私だけその園内では別行動を取れと、私に強要してきました。だから、私はしかたなくこの「電動カート」を使用することにしました。
しかし、現地中国人ガイドがこの小人国で実際に利用した「電動カート」は、添付した写真の下部の20人が一度に利用できる乗り物「遊覧車」でした。だから、現地中国ガイドは、この乗り物を拒否した私の面倒をみることを止めようとしたのです。そして、この「遊覧車」の写真は、園内で渡されたパンフレットに転載された一部写真です。そのパンフレットの記述には、『観光区でのメイン道路には四つのステーションがある。遊覧車のチケットを買ったお客さまはどのステーションでもまた乗ることができる。』とあります。
現地中国人ガイドは、チケット(私注:この小人国の入場料は120元であり、観覧車の利用料80元をこの小人国が徴収するとは、私にはとても思えない。高くても40元が妥当)を買えば利用できる遊覧車、を「電動カート」との偽りの別表現で日本人観光客を惑わし、不当な利益(実際の経費との差額)を巻き上げたのです。
だから、深圳旅行の現地中国人ガイドのこの行動顛末を、日本に帰国してから、旅行を計画企画した日本の旅行会社アンケートに詳しく回答しました。私は、今までの上海・北京・西安の中国旅行では、こんな不快な思いを一度もしたことはありません。今回訪れた中国経済特区・深圳市が抱えている深刻な住民の道徳・モラルの崩壊や拝金主義的な風潮を、私はリアルに目のあたりに見た思いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山咲千里著『だから私は太らない』スナック菓子をポリポリ食すと違い食時間長いケーキはダイエット敵でなし

2010-08-29 21:38:24 | 日記
今日の続編日記は、今再読している私の愛蔵書、山咲千里著のダイエットエッセイ『だから私は太らない』(2002年講談社刊:添付した写真はその裏表紙)のことです。
その著書第5章「真剣に食べます」の<40代からの食の在り方>に山咲千里さんの独自のダイエット法が書かれています。その記述の一部を抜粋引用し、以下に掲載します。
『私は今年40歳(私注:彼女は1962年生まれ)になる。・・私には40代の食のイメージがある。・・私はいわゆるダイエットのプロではない。栄養学を学校で学びもしなければ、医師の資格もない。ただ多くの女性がそうであるように、自分にとって何が必要で何が要らないのかをずっと迷いながらも正直に模索してきたひとりである。その結果、無理なダイエットで近道を求めないことが一番ということを知った。また、忙しいことを理由に食をおろそかにするな、という警告も多く受けた。・・本番の異常なほどの緊張感を抑えるための精神力のもとは体力である。健全な精神は健全な身体が支える。・・うちの家系は牛乳の消化がヘタなのを知って、母は私にムリに牛乳をとらせないでくれた。また甘いモノが好きな私に白い砂糖を取りすぎるとにごって血液がにごって疲れやすくなるからと、精製していない黒糖やさとうきびの砂糖、三温糖など身体に負担がかかりにくい砂糖を使ってお菓子を作ってくれていた。・・生活環境は大切。ケーキが食べたいならケーキ屋さんでしか食べません。だって家だとひとりで2~3個食べてしまうから。・・オトコのヒトが甘いものをあまり食べたがらないのも、どんぶりでご飯をおかわりしたり、でんぷん質から糖分をよく吸収しているので他にデザートを必要としないかららしい。・・女子は、ご飯は太るから半ライスにと食堂で頼むモノ。・・後で、はやくお腹が減ることが多かった。そしてそれをおやつという形で食べるから、ご飯抜きの食事のほうが、でんぷんの量が、かえって多くなって太る体質になっていくと思う。・・しかしケーキはダイエットの敵ではない。ときには、イギリス人のように1時間や2時間かけてお茶とお菓子をいただくのもいい。何個食べるかではなく、それを食べるのに何分かけたかが問題なのだ。ただなんとなくスナック菓子の袋へ手をつっこんでポリポリ食べたお菓子とは違うカロリーの吸収率となる。・・大切な心がけは、心の贅肉を落とすことである。そういった意味で、女性は太っていても痩せていても関係ないくらい、まず幸せでいることが大事です。』
私のような男性に、女性のダイエット願望を正しく捕らえることはできません。でも、山咲千里著のエッセイ『だから私は太らない』は、金言に満ちたとても全女性の参考になるダイエット書だと思います。
ですから、前回の「某劇場演技者女性にも、是非読んでほしい」との私の言葉を「全ての劇場演技者女性」にと、その対象者をより拡大し、皆さんに読むことをお勧めしたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山咲千里ダイエット著『だから私は太らない』でマリリンモンロー名言:私は見られていないときは死んでいる

2010-08-29 18:43:49 | 日記
今日の日記は、今再読している私の愛蔵書、山咲千里著のダイエットエッセイ『だから私は太らない』(2002年講談社刊:添付した写真はその表紙)のことです。
その著書第3章「写真は瞬間でスリムになれる」の<華麗なるダイエット写真>に私の大好きなマリリン・モンローが登場します。以下に、その記述の一部を引用掲載します。
『亡くなったのちに知られた話だが、あのマリリン・モンローは撮られた写真のネガにこれは使ってもいい、これはダメと自ら赤鉛筆でチェックを入れていた。マリリン・モンローといえば、名だたる大女優がいるなかでも際立ってフォトジェニックだったことでも有名である。・・誰がどんなカメラでどう撮ろうが、いかなる瞬間でもいつも最高の表情を見せていた女優だった。そして「私は見られていないときは死んでいる」という名語録があるほどの写真好きでもあった。・・マリリン・モンローは写真を撮られることに非情に敏感に反応してきただけに、撮られることにへの執着心も尋常ではなかったと思う。たとえ今よりどんなに太っていたとしても、このヒトはどんなポーズをとればウエストにくびれが出るか知っていたと思う。・・マリリンが最初に手にした賞は雑誌のアンケートによる大衆賞だった。ハリウッドの幹部が選んだスターではなく、読者が一票一票入れてくれた真実の賞であることをマリリンは自負していたという。』
私はこの著書を再読して、私と生まれが9歳違いでまだ若い女優山咲千里さんが、同じ職業の大先輩で、当時の全世界成人男性の恋人、マリリン・モンローに言及してくれたことにとても嬉しくなりました。けれども、私の抱く恋人マリリン・モンローは、山咲千里さんが自著で書かれたマリリン・モンロー観とちょっと違います。
マリリン・モンローが、山咲さんが書かれたような「写真を撮られることに非情に敏感」だったとは、私にはとても思えません。その写真撮影時のマリリン・モンローのポーズや仕草は、予め計算されたものでなく、自然と彼女の内面から沸きあがったものと、私自身は今でも思っています。何故なら、彼女はそんな計算高い女性ではまったく無かったからです。
そして読み終わって、この山咲千里さんのダイエットエッセイ書を、某劇場演技者女性にも、是非読んでほしいと私は思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アスペルガーは病気でない」の認知は一人の教育指導主事が決める事でなく、一般社会や専門医の総意が必要

2010-08-29 11:47:36 | 日記
今日の日記は、ネット掲示板に投稿したアスペ礼賛劇場客に対する私の意見及び回答書です。
私の日記8月25日付『自称アスペルガー患者の診療を専門家が行うと週刊誌報道有、狂うは歴史ある言葉、店は軒がまとまった数え方』にアスペ礼賛劇場客の反論投稿が再びネット掲示板にありました。その投稿全文はとても長文ですので、そのアスペ礼賛劇場客の主張した論理の要旨部分を抜粋し、以下に引用します。
・アスペ礼賛劇場客『「アスペルガーは病気である」とのあなたの主張はまったくの誤りです。・・教育指導主事から言われたことを今でもはっきり覚えています。「皆さん、自閉症(もちろんアスペルガーも含みます)は病気ではありません。治るものではないのです。症と名がつくので病気だと思う人がいますが、皆さんはそのようなことがないように。さらに、遺伝との因果関係もはっきりしていません。ですから、自閉症の子を持つ保護者の前で『病気』とか『遺伝』という言葉を発しないでください。」・・障害児教育に携わった者として、あなたのような無知・無理解を自覚せずしたり顔でものを言う人には大きな憤りを感じます。・・』
・(反論1)アスペ礼賛劇場客の主張「アスペルガーは病気」の根拠は、投稿に登場した教育指導主事の談話だけ・・私がこのアスペ礼賛劇場客に提示した疑問『何の根拠があってそう主張しているのか?』に対する回答は、彼は自身が研修で聞いた教育指導主事の個人的な談話だけがその根拠です。私は医学の門外漢(注:この私の認識はネット板では一貫して不変)ですが、この教育指導主事の主張にはまったく同意できません。
その根拠となる資料として長文になりますが、以下に掲載します。
<1>(アスペルガー症候群を手探りで診断)・・児童精神科医・目白大学客員教授:山崎晃資著『発達障害と子どもたち アスペルガー症候群、自閉症、そしてボーダーラインチャイルド』(2005年講談社刊:添付した写真はその著書の表紙)より関係文を引用掲載します。『内科の病気は、X線やMRI、CTなどの画像診断をしたり、血液検査などをして病気を発見することができます。医師から目に見える画像や数値として異変を示されるので、患者さんにもよくわかります。ところが、児童精神科では数値であらわせるような検査ができません。目にみえない心の発達の状態を把握するには、そのどもがどんな家族の中で、どんな関係を結び、どのような発達の仕方をしてきたか、一つひとつ成長の過程をたどりながら、手探りで診断していくことになります。』この専門医は、アスペルガー症候群を病気と見做し、その患者を真摯に診断しています。
<2>(病気の定義は曖昧だが、一般社会、専門医の総意で決定>・・百科事典ウィキペディアより『病気』の解説を引用掲載します。『病気は曖昧な概念であり、何を病気とし、何を病気にしないかについては、政治的・倫理的な問題も絡めた議論が存在する。もちろんそうではあるが、一方で、医療人類学では、病気(sickness)を、疾患(disease)と病い(illness)をあわせたものという概念が提出されている。・・結局、「病気とは心身の不調あるいは不都合であって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」と定義できたとしても、何が病気であるのか、病気でないのかを決めるのは、一般社会、あるいは医師の社会の総意によって決められている、と言えるだろう。』
<3>(発達障害の診療に見合った診療報酬が設定されていない)・・今春、日本小児科学会の理事長に就いた五十嵐隆東京大教授は、学会の今後の課題として「発達障害の子へ医療的な支援が必要。その環境づくりに取り組みたい。専門医が少ない上、診療に時間がかかるのに見合った診療報酬が設定されていない点など、多くの課題がある。」と公表しています。発達障害に診療報酬が設定されているのは、発達障害を治療が必要な「病気」と政府が認定しているからです。
アスペ礼賛劇場客は、自身が研修で聞いた教育指導主事の個人的な談話を鵜呑みしないで、もっと幅広い社会的な知識を吸収して下さい。そして、こんな独善的な人間では、障害児教育に携わる資格はまったくありません。さらに、このアスペ礼賛劇場客は、この自己の心的資質をさらに悪化させるこの閉鎖的で独善的な特殊劇場社会から早急に決別するべきです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする