天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

唐の男が魅せられ歌い踊る胡姫や豊満な肉体の楊貴妃は唐代美女の代表、美女審美眼は時代や思い愛す男で変遷

2010-02-28 20:16:56 | 日記
今日の日記は、「中国・唐代の美女条件」をまったく知らない悪行客がネット掲示板での劇場演技者女性を中傷した、書き込み投稿に対する私の反論です。以下に、その投稿文を一部引用し掲載します。
・客A『・・それが今や肥満がエースでガサで萎縮して札幌は閉鎖 こりゃダメだね』
・客B『◎◎の序列なら エースは肥満のデブ・・こんな感じかな?』
もう応援観劇に行けなくなった劇場の所属劇場演技者女性の容姿を心なく中傷する投稿に、私がまともに反論するのも大人げなく女々しい行為です。でも、この悪行客の一方的であまりに個人的な女性審美眼に、私は強い異論があります。ですので、「女性の美人条件」を巧みに記述した『故宮3・至宝が語る中華五千年』(陳瞬臣・中野美代子・NHK取材班著:1997年日本放送出版協会刊)より、長文になりますが、その該当記述を引用し掲載します。
『唐代の美女の条件は、それまでの社会にあった審美眼とは大きく違っている。たとえば漢の時代、美人の誉れ高い成帝の皇后「趙飛燕」は、手の平に載るほどかろやかだった。女性としての魅力は、あくまでも細面とスリムな体型にあり、触れなば落ちんとするそそとした相貌が好まれた。以降、およそ六百年の間、美人の条件は変わっていない。それが、唐の社会に入ると、一転してふっくらとした女性がもてはやされるようになった。だから、則天武后も楊貴妃(私注:掲載した華清池の像写真を参照)も、豊満な肉体とふくよかな面立ちをもった美女だったと思われる。・・唐の美人の典型は、唐三彩の女子俑に色濃く見てとることができる。女子俑はどれをとっても色鮮やかな胡服をまとい、グラマーといえるほど体格がよく、顔はしもぶくれでポッチャリしている。・・胡姫と呼ばれるその乙女たちは、悩ましいほど肉感的だった。彼女たちは、酒場や宴席に招かれては、胡服をなびかせ妖艶な笑みをふりまいた。強烈なエキゾチシズムを発散させて歌い踊る胡姫の肢体に、世の男たちは媚薬を嗅いだように魅せられた。・・それほど、胡姫が侍ると座が盛りあがり、若者たちは蜜に群がる蟻のようにその妖しい魅力の虜になった。そして、唐の女たちもまた、胡姫の魅惑的な容姿に感化され、こぞって胡服が似あうようにと我が身を整えたのである。このような社会背景から、唐代の美人像は確立した。』
この著書が記述し実際の西安・華清池にある肖像が示すように、中国四大美女の一人・楊貴妃はとても豊満な容姿の女性です。そして、この楊貴妃像を見て、この美しき姿は、まるで私が応援していた劇場演技者女性そのものと、私は感じてしまいました。
しかし、美女に関する審美眼は、その時代やその嗜好に好悪を持つ男(ネット掲示板に中傷した悪行客)に大きく左右されます。でも、少なくとも投稿した悪行客のように、あまりに一方的で個人的な女性審美眼で、自己の理想美女を決定し、他人にその理想を押し付け、特定女性の容姿を肥満のデブと記述する中傷行為は、まったく間違った短慮的な悪行です。
このネット投稿客に、女性に対してもっと幅広く多様的な審美眼を、私はもっと養ってほしいと思っています。
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映画『メッセンジャー』で若いメンバーをナビする加山雄三に、私たちの「中年おじさんの星」理想像を見た

2010-02-27 23:27:35 | 日記
今日の追加日記は、久しぶりに再度ビデオ鑑賞した日本映画『メッセンジャー』(1999年製作・馬場康夫監督 飯島直子 草剛主演)の感想記です。11年前に公開されたこの映画をまた急に見たくなったのは、この映画『メッセンジャー』には、脇役として加山雄三が久しぶりに映画に登場しているからです。加山雄三は、交通取締りを主な任務としていた警察署を定年退職し、自転車宅配便の個人会社に再就職する中年男役で出演しています。
監督の馬場康夫(注:1954年生まれで、私より一歳だけ若い私と同世代の人)は、加山雄三の『若大将』シリーズの大ファンで、彼に直々出演依頼しています。そして、大ファンの加山雄三を迎えた馬場監督は、もう一つ粋な配役をみせてくれています。宅配便メンバーの溜まり場となっているカウンター・バーのバーテン役に江原達怡を起用してくれているのです。
これは馬場監督と同じ世代の私には、とても嬉しかったです。1981年の東宝映画『帰って来た若大将』以来、19年ぶりとなる加山&江原の名コンビ復活の映画になったからです。
加山雄三は、定年で退職(注:映画製作時、彼は62歳)するとは思えないほど、とても若々しい中年男を映画で熱演しています。でも、映画では、実際に宅配自転車を走らす熱意(過去若い時、都内中を自転車で警邏した実績)があっても、宅配実績を上げられず、メンバーを無線でアシスト(勤務上都内の道路情報に精通している職能で)するナビゲター役に任務を転属してします。
若い宅配メンバーの中で、理解ある父親であり、良き兄貴のように接する加山雄三が、映画『メッセンジャー』の大きな魅力の一つだと私は思っています。 そして、映画を楽しみながら、リタイヤ後の私もこの映画の加山雄三のような存在になりたいと、私は痛感しました。
最後の映画エンディングクレジットで、若い出演メンバーと一緒にラップ音楽をキーボード演奏する加山雄三の姿に、私が理想とする「中年おじさんの星」を私はダブらせてしまいました。
映画鑑賞後、私も容姿はともかく気持ちだけは、いつも若々しくありたいと心から願いました。
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北海道の大自然の凄まじさを理解できない投稿者に、司馬さんの名著『街道をゆく・北海道の諸道』の熟読を!

2010-02-27 19:40:40 | 日記
今日の日記は、北海道の風土をまったく知らない悪行客のネット掲示板投稿に対する私の反論です。以下に、その投稿文を引用掲載します。
・投稿文『道北地方と言った次の記事は幌延町に限定して反論w 最初から幌延町に限った話ならまあ同意ではあるが、オヤジは道北地方と書いたから昨日の書き込みが生じた。そりゃあググれだのアイヌを知らないだの言われるわなw 毎度の反論ネタ探し乙w 実は幌延から来た上司も捏造だったりしてw あまり読者に誤解を与えるような書き込みはよそうねw』
この投稿者は、まったく北海道に住んだことがない悪行ネット客です。道北地方の中で幌延町だけが、特に酪農に力を入れているわけではないです。道北地方の他の町でも、同じように牛が多い所は存在します。そのことは、北海道道民なら皆が知っていることです。最初から幌延の地名を明記することがネット板でその町の謂れのない産業上の中傷を誘発すると、私は危惧したので、私は日記であえて場所を限定表現しなかったのです。
更に、この悪行ネット客は、私の過去の体験実話まで捏造だと言い出す始末です。この投稿者は、北海道の大自然の凄まじさを何も理解できないから、仕事で函館から北見に転勤になった「塩の人」の悲壮感もまったく判らないでしょう。北海道の風土に理解ある閲覧者なら、私が捏造できる話ではないと納得してくれるはずです。
そして、その出迎えてくれた上司から、その晩の私の歓迎会で「冬は飲み屋で飲みすぎて、ものすごく酔っ払っても、絶対、帰りに路上で寝るな!すぐに凍死するからな!」と私は直々に注意されました。なぜなら、厳冬の北見の夜は、氷点下20度以上にまで、外気温が下がるからです。
さらに、北海道の大自然の凄まじさを理解してもらう為、北海道でも「奥地中の奥地」と謂われる陸別の話を私はします。私が1980年頃住んだ北見には、石北本線(私は転勤の時、札幌から一日乗車)の幹線鉄道の北見駅以外に、南下した支線として池田町まで池北線(今ではもう廃止された)が当時運行されていました。その途中駅にその陸別がありました。1985年文庫版で出版されて私が愛読し、その当時を懐かしく思い出した司馬遼太郎さんの名著『街道をゆく(15)北海道の諸道』から、陸別に最初に入植した関寛斎の苦闘を引用掲載します。
『このあたりをひらいて人里にした最初の人は、いうまでもなく73歳で入植した寛斎である。仮に寛斎が別の土地を選んでそこを開いたとすれば、陸別は今なお原生林のままであるに違いない。小樽や函館のように、誰でも目をつけるという立地条件をもっていないのである。・・陸別の町の人々にとっては、明治初年の薩摩での西郷隆盛や初期の慶応義塾における福沢諭吉の名に等しい。・・寛斎は、開拓の労働に自分を投じ入れた。原生林を伐り、根を掘り起こし、地を平にして、牧草や野菜の種を蒔いた。が、右の条件である為に、絶望的な艱難が続いた。・・寛斎がここに鍬を入れて野菜の種を蒔くと、まわりの密林にすむウサギ、ネズミなどの小動物が大いに喜び、寛斎の野菜が大きくなるのをまちかねて食べた。蚊などの吸血動物も、それまで動物の血を吸っていたのが、人間の血の味を知るようになった。寛斎の顔はカボチャのように腫れあがり、瞼がふくらんで目があけられない日もあった。・・寛斎にとって開拓は自然にかえることであり、さらには社会への報謝であるつもりだった。でなければ、73歳で極寒の地にやってくるばかがいるだろうか。』
北海道をまったく知らないこのネット投稿者に一度、この司馬さんの名著『街道をゆく(15)北海道の諸道』を私は是非読んでほしいです。
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人がよいと語った石井一氏はその土地に共通した人間の匂いを感じない政治家、司馬氏著「街道をゆく」熟読を

2010-02-26 23:06:00 | 日記
今日の日記はは、自らの発言の弁明で『鳥取のカニも好きだし風光明媚でもある。だいたい人がよい。』と語った民主党・石井一選挙対策委員長(参院議員)のことです。石井一氏は、鳥取県にかって実際に住んでみてその体験談から、そのような自然的風土や県民意識の自己見解を披露したとは、私にはとても思えません。鳥取県は自然が風光明媚だけのその美しさが目立つ場所ではなく、古代出雲王朝以来の伝統的な文化施設のあるとても魅力的な街です。そして、彼は鳥取の県人意識を何も知らないのに、自己への批判の矛先を旨くかわす為、とっさに鳥取県人を「人がよい」と単純に美化した見解を述べています。さらに、彼は実際、鳥取に住んでいる人々の忌憚のない郷土話をまったく知りません。その鳥取の県民性がよく判る司馬遼太郎さんの名著『街道をゆく(27)因幡・伯耆のみち』の「伯耆国倉吉」から、鳥取県人の対抗意識を巧みに語った名文を長文になりますが、私は一部抜粋して掲載します。
『倉吉へゆく。この町は、同じ鳥取県ながら、伯耆の国に位置している。伯耆のかっての主邑である。それだけに、江戸期を思わせる古風な家や蔵が残っている。大正以後、伯耆における繁華は米子に移った。伯耆の人気(じんき)は、因幡とは別趣のものらしい。倉吉でも米子でも、「鳥取の人間はずるい」などという言葉をしばしば聴く。「伯耆も鳥取じゃありませんか」などと、愚問を返してはいけない。この場合の鳥取とは、因幡のことである。・・「伯耆と因幡は、そんなに違いますか」と聞いてみた。米子の酒場でのことである。たすき掛けのよく似合うママが首を振って、「それは、ずいぶん違いますよ」顔をしかめた。ただし具体的にどうとは言わない。言ったところで他国の者には判らないだろうとみているのだろう。・・江戸期、藩主池田氏は両国を版図としつつも、因幡の鳥取市を治所とし、伯耆には老臣たちを置いて、鳥取城からみれば間接支配した。いわば、農業が商工業を支配していたのである。・・鳥取県は、人口が日本最小の県である。雑賀氏(私注:「週刊朝日」に連載執筆中の司馬さんに、ある逸話書籍を寄贈された地元郷土史家)によれば、そういう小さな県内で「因幡だ伯耆だと目くじら立てることの愚かしさ」と自らを責めておられるが、しかしそういう感情を持ちぞこねた私としては、郷党意識がかえって新鮮なおかしみに感じられる。第三者がその土地にやってくると、土地に共通した人間のにおいを感じる。においだけでは、その土地の文化とは言いがたいが、においが愛嬌として感じられる場合に、そのにおいのもとこそその土地の文化であるに違いない。・・「鳥取人間」などと罵るのは、他府県に対して無害で、逆にユーモアでもある。言われて「鳥取人間」だけはむっとするかもしれないが、しかし双方、同じ鳥取県人である以上、さらに利害の問題に発展する主題でないから、最後は微苦笑で終わるに違いない。私が右に用いた「文化」とはそういうものである。』
「鳥取は人がよい」とただ単純に語った石井一氏は、その土地に共通した人間のにおいをまったく感じない政治家です。だから、この行為をできない石井一氏は、政治家として完全に失格者です。だから、私は石井一氏に司馬さんの名著『街道をゆく(27)因幡・伯耆のみち』を熟読されることをお勧めします。読んでその郷土のにおいを、敏感に嗅ぎ取ってほしいです。
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北海道幌延町と同じように鳥取県は人口が少なく牛が多いと発言した石井一議員はその根拠の明確な説明が必要

2010-02-25 22:24:37 | 日記
今日の日記は、鳥取県を「人が住んでいるのか。牛が多いのか。山やら何やらあるけど、人口が少ない所」と述べた民主党・石井一選挙対策委員長(参院議員)の弁明と、私の見解「明治維新以降、酪農開拓を進めた北海道の道北地方」に関してネット掲示板に書込された悪行客の投稿に対する私の反論です。
その問題発言をした民主党石井一選対委員長は、25日大阪市内で開いた後援会の会合で『鳥取のカニも好きだし風光明媚でもある。だいたい人がよい。同じようにチベットもそうらしい。・・いつの間にチベットはそれほど差別される国になったのか。釈明したりおわびをすることは何もない』と何ら弁解もせず、今だに自論が正しいと語っています。でも、この公開された談話だけでは、石井一氏の発言「鳥取県は人口が少なく牛が多い」の明確な説明を、彼は何らしていません。また、このような高飛車的な発言をする石井一氏は、自己の見識の無さをまったく理解できないのか?自己の発言を何ら恥じていません。とても情けないまったく品格のない政治家です。
それに輪を掛けたまったく見識の無い劇場悪行応援客が、ネット掲示板で私の見解を的外れの批判を行なっています。以下に、その投稿を引用掲載します。
・客A『オヤジは道北地方に対する歴史的認識を持っていない。もう少しググるなりWikipediaで調べろよと。』
・客B『オヤジは明治維新以前の道北に人がいなかったと思ってるんだな。石井一のは政治家の誇張表現だとわかるが、オヤジは本気でいってるっぽい。そっちのほうが驚きだ。』
・悪行客C『○○○ 北海道に出入り禁止』
・客D『アイヌ民族を知らないのか 』
・客E『用事もないのにわざわざ札幌遠征して何を見てきたんだか。旭川あたりならアイヌ民族ゆかりの建物が目についたが。以上、北海道に一度だけ足を踏み入れた者の感想。それともここで語られるためのネタ提供か。今夜は更新がないな。』
私の「明治維新以降、酪農開拓を進めた北海道の道北地方は、人口が少なく牛が多い地域」との見解は、私のちょうど30年前、会社の上司から聞いて今でも鮮烈な記憶を残した言葉がその根拠です。私は1979年秋、所属会社の仙台支店から札幌支店に転勤になりました。その最初の赴任地であった函館市の仕事が終わり、次の赴任地が北見市に決まりました。転勤先でとても気落ちしていた私を、その北見駅で出迎えてくれた上司が『君は何処から来たの?函館か~!良い所から来たんだね。僕は幌延から来たんだよ。そこは人より牛の方が多い所だった!』と私を慰めてくれました。その懸けられた言葉を聞いて、私は広大な北海道の物凄さを、その時に痛感しました。だから、今でもその言葉は、私の強烈な思い出になっています。
幌延町のHP「幌延の紹介」から、それを裏付ける記述を一部抜粋して、以下に引用掲載します。
『幌延町の草分けは、明治32年、福井県団体15戸が下サロベツ原野に入植したことに始まります。鬱蒼たる密林に覆われた人跡未踏の大地に、開拓の鍬が振り下ろされました。続いて同年、法華宗農場が字上幌延へ、本願寺農場が字幌延へ、天塩農場が字開進へ入植しました。町の基幹産業は、第一次産業としての牛乳生産を主体とする酪農業ですが、農業としての苦難の歴史がありました。草分けの明治32年から昭和30年時代までは、畑作物栽培でした。しかし、不安定な畑作経営からの脱却として、有畜農業を志向する声がたかまってきました。昭和26年の道貸付牛の導入等の政策により、乳牛多頭化の方向を歩みました。昭和44年には「乳牛5,000頭突破記念式」が開催されるなど、酪農専業経営の道を歩み始めたのです。酪農家の近代化への取組により、平成14年現在は牛乳生産戸当り450tを達成し、大規模酪農地帯として発展しつづけております。』
幌延町の平成17年統計によれば、酪農・乳用牛:10,405頭・肉用牛:324頭で、人口は2,807人です。3.82頭/人の割合です。現在はもっと人口が減り、その割合は高くなっています。
一方の鳥取県は去年の統計資料によると、県全体で、酪農・乳用牛:11,200頭・肉用牛:21,500頭で、人口590,713人です。0.055頭/人の割合です。
石井一氏は何の根拠で鳥取県に牛が多いとしたのか?私にはまったく判りません。そして、さらに何も知らず私を批判する無見識の劇場悪行応援隊の言動に、私はただ唖然とするばかりです。
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