天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『下流中年一億総貧困化の行方』赤木智弘氏談「政治的な非正規労働者」でも私には「神の思し召し」施されず

2016-07-15 23:06:49 | 日記
今日の日記は、今読んでいる赤木智弘他著『下流中年 一億総貧困化の行方』(2016年刊SB選書)の第2章<我々はいかにして「下流中年」にさせられているのか?-働くことの意味を問い直す・赤木智弘>で書かれている「非正規労働者が増えている」という報道に関する著者のとても気になる見解のことです。添付した写真はその著書の表紙です。以下に、その著者の考察の一部を引用・掲載します。
『2015年11月に厚生労働省が発表した「就業形態の多様化に関する総合実態調査」において、非正規労働者が全体の40%を超えたという報道があった。1990年には20%だったから、これが四半世紀を経て割合が倍増したと報じられていた。しかし、非正規労働者の割合が増えたことというのは、実はさして問題ではない。なぜなら、増えた非正規労働者の多くは、高齢者雇用安定法における、かつて正社員だった高齢者を定年後も非正規として雇い続けるという取り決めによって増えた、年金行政の失敗を見えにくくするために生み出された「政治的な非正規労働者」だからだ。こうした人たちは、それまでに正社員の立場として得た家をはじめとする数多くの資産によって、非正規となっても十分に悠々自適の生活をおくることができる。・・同じ非正規労働者の労働と言っても、それは「神の思し召し」であり、神<企業>に選ばれなかった非正規労働者が行う労働とはまったく異なるものである。』
この著者の赤木智弘氏は1975年生まれの41歳団塊ジュニアの方です。私は、その団塊世代より少し後の世代で、今まさに彼が言う「政治的な非正規労働者」の該当者であります。でも、彼は「その他の非正規労働者が行う労働とはまったく異なる」と、神<企業>にとても優遇されているように語っていますが、その<神>は、そんなに慈悲深い存在ではないです。
私は63歳を前にして1年契約の更新をしましたが、62歳の時の給料が半減され賞与と退職金【注:前の2年間はあった】も無くなりました。東京都の最低賃金時給(907円/H)より多少多い程度の月給になってしまいました。だから、59歳の時の年収の約1/3程度まで下がってきました。でも、こんな酷い仕打ちを受けても、厚生年金や健康保険等の社会保険を半額負担してもらっているので、65歳になるまで会社を辞めることが出来ないです。すべての定年後の再雇用非正規労働者が、著者の言う「神の思し召し」で働いている訳ではないです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『昭和天皇実録第5』昭和六年二月六日御成婚記念祝宴でトーキー映画「モロッコ」を劇場公開に先立って御覧

2016-07-10 14:02:24 | 日記
今日の日記は、今自宅で読んでいる『昭和天皇実録第5 自昭和三年至昭和六年』に書かれた1931年(昭和6年)2月6日御成婚記念の祝賀後、皇后共御覧になったアメリカ映画のことです。その当日の記載の一部を引用・掲載します。
・二月六日金曜日『・・侍従次長河井弥八に議会の紛糾状況について御下問になり、同人の所見をお聞きになる。・・衆議院ではさる三日の予算総会において、幣原首相臨時代理(私注:浜口雄幸首相が東京駅で重傷を受けた為)がロンドン海軍軍縮条約は既に御批准さになっていることから、本条約は国防を危うくするものではないと答弁したことに対し、野党は天皇に政治責任を帰するものであると強く反発し、・・議会は大混乱に陥った。・・幣原が失言を取り消したことで事態は一応沈静化をみる。夕刻、側近者をお召しになり、御成婚記念の祝宴を催される。・・屋内謁見所において一同とトーキー映画「モロッコ」「画家の夢」「米国の顔」及びパラマウントニュースを御覧になる。』
この日の午前中に昭和天皇は、ロンドン海軍軍縮条約に関して議会での紛糾状況を御下問になっています。でも、その後の天皇のご様子には実録では何も記載がないですが、一部軍拡派議員らによる議会混迷に、天皇は深く憂慮されていたと私は思っています。そして、その不快な御心痛を晴らすように、側近者たちと御成婚7周年記念の祝宴(予定は1929年1月26日に御成婚5周年だったが延期を重ねた)を催されたようです。
その会の最後に一同と、日本最初のトーキー映画であったアメリカ映画『モロッコ』(1930年製作・31年2月25日より松竹系で公開・添付した写真はその外国版公開ポスター)の劇場公開に先だって御覧(この実録により、私は初めてその事実を知った)になったのです。パラマウント映画社の深い配慮により実現したとても良い出来事だったと思います。その映画の御印象は何も書かれていないですが、このような映画を製作した自由なアメリカの国情に対して強く共感されたと思っています。また、この日を最後に、世界平和を願っていた昭和天皇に意志に反して、日本国の政治指導者たちは軍部の暴走(同年に起きた満州事変)を止められず、悲惨な戦争への道を進んで行ったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押田信子著『兵士のアイドル』ムーランルージュ女優「明日待子万歳」叫んだ出征兵は強い気持ちで憧れ思慕を

2016-07-06 22:23:46 | 日記
今日の日記は、今自宅で読んでいる押田信子著『兵士のアイドル 幻の慰安雑誌に見るもうひとつの戦争』(2016年5月旬報社刊)に書かれた1920年生まれ御年96歳の戦前新宿にあった「ムーラン・ルージュ」の看板女優・明日待子さんの当時の興味深いエピソードです。添付した写真は、その著書の表紙です。以下に、私がとても感銘した逸話の一部を引用・掲載します。
『新宿のムーラン・ルージュは、1933~34年(昭和8~9年)にかけて、定員430名の客席は大学生、サラリーマンで連日満員となった。彼らの共通項は、センターをつとめる待子が熱烈に好きというその一点だった。1936(昭和11)年5月、突然、観客席の兵士たち数名が立ち上がり、直立したまま、舞台の待子に向かって万歳三唱し、挙手の敬礼をしたのである。彼らは東京師団の兵士で、間もなく、満州に渡ることが決められていた。一人の兵士が「明日待子さん、自分たちは・・・」と、言いかけたとき、腕章を巻いた憲兵が飛び込んで来て、兵士たちに平手打ちをくらわし、引きずるように連行していってしまった。・・待子さんは「私の青春と戦争とはちょうど、同じ時期でした。同じ頃、出征した皆さんも一緒です。青春をみんな、戦争に奪われてしまったんです。でもね、若かったから、全然、へこたれませんでした。」と飾らない言葉で語ってくれた。舞台の閉幕後、彼らの差し出す手拭いに「武運長久 明日待子」と書いたサインが、彼らにとって、何よりの宝なのだと知ってからは、筆を持つ手に力がこもった。・・「明日待子万歳」と叫んで出征していった兵士たちが戦場で、傷つき、命尽きる瞬間、唱えた言葉は「天皇陛下万歳」だったのだろうか。それは分からない。・・ムーラン・ルージュのセンターとして君臨した明日待子さんは、暗い、閉塞した時代だったからこそ、現在よりももっと強い気持ちで、憧れのアイドルを思っていたことを、はっきりと私に知らせてくれたのである。』
この万歳を叫んだ兵士は、その年の2月26日に226事件を起こした第一師団の別組織の兵士たちです。第一師団の満州派遣は、前年の12月に発表されており、事件首謀者たちは渡満したら昭和維新の決起が不可能になると思い、その2か月後に事件を起こしたのです。こんな大事件が起きても、計画通り第一師団の満州派遣は実施されたのでしょう。しかし、軍隊の移動は機密扱いですから、兵士が一般人に話すのは御法度です。だから、憲兵が飛び込んできてその言葉を制したのです。
この第一師団の兵士たちは、満州派遣後、太平洋戦争が始まると密かに南方戦線に移動させられ、激戦の末、国を守る為戦死した兵士も多かったはずです。著者は兵士の最後の言葉は分からないと語っていますが、私は間違いなく「明日待子万歳」だったと強く確信しています。
それにしても、昨今の軟弱な若者が、この名著『兵士のアイドル』を読んでどう思うのか?私は今とても興味があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする