天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

CCタンシル著『裏口からの参戦』1938年1月インガソル米提督は太平洋で戦争状態入は誰も判ると参戦断言

2018-09-25 14:27:31 | 日記
今日の日記は、チャールズ・カラン・タンシル著『裏口からの参戦 ルーズベルト外交の正体1933-1941【下】』の続編で、ルーズベルト大統領が行った卑劣な日本叩きの隠された実態のことです。この著書には、ドイツが関係したヨーロッパのみならず、アジア諸国(特に日本)やソビエトにも言及しています。以下に、ルーズベルト大統領が日本に対して取ってきた卑劣な外交行動を、以下に一部を引用・掲載します。
『1938年1月アメリカ・ルーズベルト大統領はインガソル提督をイギリス・ロンドンに派遣し、「日本との戦争になった場合(米英共同で)何ができるかの検討、及び指揮命令系統の調整、武官の相互派遣、暗号の準備等」を海軍省作戦部で真剣な議論が交わされ、まず共同使用暗号とその暗号表が交換された。インガソル提督は、次のように語っている。「私がロンドンを訪問したことで、米国海軍は太平洋方面で戦争状態に入るであろうことは”誰にでも”わかる。この戦いには、オランダ、そしておろらく中国、ソビエト、イギリスも加わることになろう。」もし提督の発言にある「誰にでも」に含まれるルーズベルトの側近たちも、遅かれ早かれアメリカが参戦することを知っていたのだとすると、1940年(大統領選挙の年・ルーズベルトは3選を目指していた)に、これとはまったく違う物言い(公約・アメリカ国民を戦場には行かせない)をしたルーズベルトは、天才的な嘘つきであるといえよう。・・1941年11月25日午後、ルーズベルト大統領は、暗号解読された野村全権大使宛ての外務省指示書をすでに読んでおり、日本が交渉最終期限を11月29日に延期したことを知っていた。大統領は、早ければ次の月曜日(12月1日)には、日本軍の攻撃を受けるのではないかと懸念した。ルーズベルトの関心事は「われわれがそれほど危険に晒されない程度に、日本に最初の一撃を放たせるように仕向けるにはどうしたらよいか」であった。・・12月7日朝、日本から野村大使への指示の最終部分を解読したクレイマー少佐は、真珠湾への急襲があると直感した。この情報が、大統領まで伝わった事に疑いの予知はない。しかし、戦後のアメリカ陸軍の真珠湾事件調査委員会の報告書は、真珠湾への警告が電話、海軍無線、FBI無線、あるいはそのすべてを使ってなされなかった理由を見出しえない、と結論づけている。』
この著書を読んで、アメリカ国内では大人気(2選までなのに彼は3選された)のルーズベルト大統領に、私は人間のとる行動に照らして、強い憤りを持ちました。ルーズベルトは、自身の大統領3選を有利にする為、大嘘の公約(アメリカ国民を戦場には行かせない)を大きく掲げ、その一方陰では日本を強く蔑視し、三度大統領になった人です。そして、彼は、1938年初頭には、もう約4年先の1941年12月7日真珠湾への日本軍の急襲を、自身の脳裏では概略的に把握していたのです。
また、彼自身の公約を破るアメリカの参戦には、日本から先に手を挙げ戦争に突入させる必要があったのです。だから、暗号解読に成功しハワイ真珠湾が攻撃される恐れを、現地指揮官に伝えなかったのです。もし、湾内に空母が停泊していたら状況は変わったかもしれないが、幸運にも空母一隻も投錨していなかったのです。ルーズベルトが戦争突入の口実として目指した”われわれがそれほど危険に晒されない程度”の被害が想定されたから、彼は真珠湾の多くの兵士を、参戦の大義の為見殺しにしたのです。
もし、過去に遡れるなら、1938年1月のアメリカ海軍のインガソル提督のロンドン訪問を、日本政府指導者は強く重大化し、アメリカ・ルーズベルト大統領の本意は、日本を戦争に陥れ日本国民を悲惨な目に遭わす強い反日家と知るべきでした。そうすれば、その後の外交交渉も全く違ったものとなったと、私は今痛感しています。
日本は、ルーズベルト大統領に仕組まれて、全く馬鹿な太平洋戦争に突入したのです。返す返すも、当時の日本政府及び軍部の無能さに、私は腹が立ってしようがないです。
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CCタンシル著『裏口からの参戦』英チェンバレン仏ダラディエ両首相ヒトラー会談で軍部首脳クーデター中止

2018-09-24 15:48:21 | 日記
今日の日記は、自宅で読んでいるチャールズ・カラン・タンシル著『裏口からの参戦 ルーズベルト外交の正体1933-1941【下】』(渡辺惣樹=訳・草思社2018年8月刊)で書かれた1938年のヒトラー排除計画(クーデター)の事です。添付した写真は、その著書の表紙です。
この著書は、アメリカ歴史学者チャールズ・カラン・タンシル(1890~1964)が、1952年にアメリカ国内で出版しました。でも、その彼の真っ当な主張は黙殺され、彼自身は人種差別主義者と個人攻撃されてしまいます。その為、学会での彼の評判は貶められ晩年は全くの不遇の身になってしまいました。でも、彼はルーズベルト大統領を批判(戦勝国史観へのアンチテーゼとして)し続けたとても強い信念の人です。
この書著の中で、1938年のドイツ軍部上層部のヒトラー排除計画(クーデター)が、突然中止になった経緯を語っています。私がとても興味深い思いを持った記述を、以下に一部引用・掲載します。
『1938年、ドイツ国内では、有力者のグループが排除の動きをみせていた。ルートヴィヒ・ベック将軍(参謀総長)、クルト・フォン・ハンマーシュタイン将軍(元参謀総長1930~34年)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン将軍、ゲオルク・トマス将軍(ドイツ陸軍経済計画担当)、エドゥアルト・ヴァーグナー将軍(主計総監)、ハンス・オスター少将、クラウス・フォン・スタウフェンベルク大佐ら、そうしたグループだった。・・ベック将軍は、ヒトラーに強硬策をとらないよう願いながら参謀総長を辞任した。後任にはハルダー将軍が就いた。ハルダー将軍もヒトラー排除のグループに属していた。彼はブラウヒッチュ将軍(陸軍最高司令官)が、ヒトラー排除を命じたら、それに従う準備ができていた。ヒトラーは9月14日にベルリンに戻ることになっていた。ヒトラー排除派は、その機を捉えて計画を実行すると決めていた。・・9月28日、ヴィッツレーベン将軍はハルダー将軍(参謀総長)の執務室に入り、ヒトラー政権転覆計画の実行を命じられた。ところが、この時点で、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相が、この翌日にミュンヘンに入り、ヒトラーと会談することが伝わった。この報道で政府転覆計画はいったん中止されることになった。結局、ミュンヘン協定が締結され、それがヒトラーの政治的立場を強化した。同時にクーデター計画も無期限に延期された。クーデターが避けられて、ヒトラー排除の機会は失われ、第二次世界大戦が始まることになるのである。』
この記述を読んで、ヒトラーは何と悪運(親独派の英仏首脳・宥和政策推進者に自身の命を助けられる)の強い独裁者だと、私は痛感しました。クーデターの目的はヨーロッパ和平の維持(注:ヒトラーは最初からその気持ちは無かったと私は断言できる)だったからその理念は失われたと、この排除メンバーはその時に判断(ハルダー将軍は、後のニュルンベルグ裁判で証言)したのでした。独裁者ヒトラーの本性を見抜けなったハルダー将軍に、私はとても残念な気持ちを今抱いています。
でも、グループの一員だったクラウス・フォン・スタウフェンベルク大佐は、ヒトラー排除を最後まで諦めずその数年後、暗殺事件(映画『ワルキューレ』でトム・クルーズがその大佐を演じる)を起こしました。しかし、残念ながらヒトラーは負傷しただけで暗殺未遂に終わってしましました。つくずくヒトラーは腐れ運が強烈に強い男です。
このクーデター未遂事件が起きたちょうど80年後、9月18~20日、文在寅韓国大統領が北朝鮮の平壌まで出かかけて行き、独裁者・金正恩委員長と南北首脳会談を実施しました。北朝鮮の軍部に金正恩委員長へのクーデター計画があるとは、私は考え難いです。ですが、この親北派の文在寅韓国大統領の北への礼賛行動は、独裁者金正恩委員長を強く利する馬鹿げた外交だと、私は今痛感しています。
また、石破茂元自民党幹事長は、総裁選の政治公約で『北朝鮮に、連絡員事務所を設置し、交渉を促進する』と主張しています。彼は、独裁国家の北朝鮮の政治体制や金正恩委員長の本質を全く理解していません。彼が総裁選で敗れてほんとうに良かったと私は強く思っています。
ことわざで【歴史は繰り返す】と、巷間よく言われます。だから、文在寅韓国大統領(韓国で出版されているか?不明)と石破茂元自民党幹事長に、この名著:チャールズ・カラン・タンシル著『裏口からの参戦 ルーズベルト外交の正体1933-1941』を、是非熟読してほしいです。自分の国家が第二次世界大戦のイギリスやフランスのようにならないに、私はこれからの外交を注意深く運営して欲しいからです。
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『ヰタ・セクスアリス』6歳で春画見た学者・私10歳ローレン『昨日・今日・明日』鑑賞しストリップ観劇へ

2018-09-21 11:15:27 | 日記
今日の日記は、昨日も紹介した1964年日本劇場公開イタリア映画『昨日・今日・明日』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督:ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ主演)の事です。
この映画は、私は横浜天王町にあった『横浜ライオン座』の4本立て興行(注:有名巨編映画の上映時は少ない3本立て)の上映1本目(最後の上映は、当時流行ったハリウッド戦争映画や西部劇のアクション映画がほとんど・コメディー伊映画は刺身のツマ扱いで早い上映)で、劇場のスクリーン鑑賞した作品でした。1日の内で4本の作品を上映するから、当然1本目上映は午前9時スタートとなりますが、時間的には2回しか上映できないです。普段の私(当時小学5年生だった)は、1回目上映終了後(午後4時前頃)自宅での夕食の為、いつも劇場を退館していました。
しかし、私はこのソフィア・ローレンが主演した『昨日・今日・明日』を1回目を観た時、もう一度観たいと思い、2回目の再鑑賞を決意しました。それほど、幼い私でもソフィア・ローレンが、とてもセクシーで魅力的だったのです。2017年8月19日私のブログ日記『ヤマザキマリ著「望遠ニッポン見聞録」名作「昨日・今日・明日」Sローレン半端じゃない美しさ必見!に同意』でも紹介していますが、漫画家のヤマザキマリさんが、同性でもそのソフィア・ローレンの美しさに感嘆(今年流行語の先取り「半端ない!」)しています。
特に、私はこの3本オムニバス作品の内、最後「ローマのマーラ」で高級娼婦を演じたソフィア・ローレンに、10歳の幼心でも初めて見る女性特有の強いセクシーさを感じました。添付した写真は、神学生マルチェロ・マストロヤンニ(左側ベットに膝を抱えている彼いるが画面では見えず)を誘惑する為、黒いストッキングを脱ぐとても魅力的なソフィア・ローレンの姿です。
戦前では、日本文学巨頭の森鴎外の私的自伝『ヰタ・セクスアリス』で、主人公哲学を教える学者が、6歳で偶然に春画を見た思い出を著書で語っています。1964年、当時10歳だった私には、劇場鑑賞した映画『昨日・今日・明日』が、『ヰタ・セクスアリス』で哲学者が6歳で見た春画と全く同じだったのです。
そして、現在の私の趣味であるストリップ劇場鑑賞(好き踊り子嬢応援為、出来る限り数度ステージ鑑賞)も、過去を遡れば、そのルーツ根源は、55年前の映画館『横浜ライオン座』2回目鑑賞の映画『昨日・今日・明日』だったと、私は今強く得心しています。

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鬼塚大輔『誰でも一つは持っているソフィアは昔も今も正直率直』妻帯Rワグナーは独身Sローレンに愛してる

2018-09-20 15:33:31 | 日記
今日の日記は、本日誕生日を迎えて84歳になった20世紀後半映画界で活躍した世界的大女優ソフィア・ローレンの事です。添付した写真は、1991年当時の彼女の優雅な姿です。
私は、1963年小学5年生の時、当時横浜天王町にあったB級映画館『ライオン座』(現在は閉館)の4本立て興行の1本で劇場上映された『昨日・今日・明日』(1963年製作・ビィットリオ・デ・シーカ監督)で、主演したとても魅力的でセクシーな彼女をスクリーンで見て、以後彼女の大ファンになりました。だから、彼女の大ファンとしての私の応援付き合いはもう約半世紀以上となります。
そして、今自宅で読んでいるキネマ旬報9月上旬号の鬼塚大輔氏執筆コラム『誰でも一つは持っている・226・ソフィアは、昔も今も正直で率直だ』で、ハリウッドスターのロバート・ワグナーが語った、ソフィア・ローレンの人柄を詳細に紹介しています。以下に、私がとても興味深い思いを抱いた記述を、そのコラムから一部引用・掲載します。
『1960年代に入ると、ハリウッドでの仕事に行き詰まりを感じていたロバート・ワグナーは、ヨーロッパに活路を求めた。「ヨーロッパで最初に共演した女優がソフィア・ローレンだった。彼女は昔も今も変わっていない。完全に正直で率直だ」とワグナーは著書”I Loved Her in the Movies”の中で回想している。ローレンとワグナーが共演したのは「アルトナ」(62)という作品。監督は名匠ビィットリオ・デ・シーカ監督だった。・・「アルトナ」の撮影中、ワグナーはローレンの存在感に圧倒され続けていた。・・ワグナーによれば、スターの人格を知る手がかりは「親切にする必要がない人々、例えば下っ端のクルーたち」にどう接するかを見ることだと言う。「ソフィアはすべての人たちを友人として扱い、クルーたちは彼女を心から愛した」。2014年、メキシコで開かれたローレンの誕生日パーティ(80歳)にワグナーは招かれたが、仕事のために出席できなかった。パーティの数日後にワグナーはローレンに電話をし、遅れた誕生祝いを述べた。楽しい会話の最後にローレンは、「愛しているわ、ロバート」と一言。「親愛なるソフィア。私も同じだよ。」』
この二人(ソフィアとロバート)の2014年での親密な関係は、2007年に最愛な夫カルロ・ポンティを亡くし独身者だったソフィア・ローレンは、私は理解できます。でも、当時ロバート・ワグナーには女優ジル・セント・ジョン(007シリーズのボンドガールに出演)という妻(現在も夫婦)がいます。彼は、ソフィアと違い妻帯者でした。
だから、彼の甘い言葉には、私は少し不倫の匂いを感じています。さらに、彼は昔はナタリー・ウッド(注:名作ウエストサイド物語のマリア役で出演・私の好きな女優)の夫で、1981年に彼女が水死した事故で、警察に事情聴取(注:最近、その調査が復活したが彼が拒否)されています。故に、彼の男としての行動を、倫理感からを考えれば、強く批難されるかも知れないです。でも、彼は、女性を見る目(鑑識眼)には、とても鋭いものがあります。だから、ソフィア・ローレンを、”昔も今も変わっていないし、完全に正直で率直だ”と断言しています。私は、この彼の見解には全く同感です。
今年のソフィア・ローレンの84歳誕生日パーティにも、友人ロバート・ワグナーも当然招かれると思いますが、彼が彼女にどのような言葉を掛けるのか?、私は今興味津々です。


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『図説指輪の文化史』左手薬指に結婚指輪をはめる習慣は古代ギリシャローマがルーツ知り今の私は該当せずと

2018-09-19 14:33:08 | 日記
今日の日記は、昨日紹介した浜本隆志著『図説・指輪の文化史』の続編です。その著書で私が初めて知った左手薬指に結婚指輪をはめるエピソードの事です。
この著書・序章「人はなぜ指輪を付けるのか」1・”手と指は口ほどにモノをいう”には、何故「多くの人々が結婚指輪を、左手薬指にはめるのか?」を文化史的な鋭い考察をしています。私がとても興味深く強く共感したその記述を、以下に引用掲載します。
『古代ギリシャや古代ローマでは、左手薬指に結婚指輪をはめる習慣が定着したが、それは左胸の心臓と左手薬指に愛の導管(血管)がつながっており、左手薬指の指輪をはめると二人をつなぎとめることができるという俗信があったからだとされる。なお薬指はヨーロッパでは軟膏を塗る指、あるいは指輪の指と称するが、日本でも同様に薬指といわれ、薬師如来の指とのかかわりが指摘されたり、紅を塗る指とされたりした。・・近年、イギリス王室のウィリアム王子の結婚(2011年4月)の際に、王子が結婚指輪を新婦キャサリン妃に左手薬指の第二と第三関節の間まで入れている。これは日本の結婚指輪の習俗と同様である。このように、日本のこの左手薬指も、イギリス・アメリカの影響であり、明治以降にこれらの外国文化の受け入れによって定着したといえる。』
その関連を記述しているページでの写真(図3・イギリス、ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式での指輪の儀礼)を添付しました。
私も約35年前の結婚式で、同様の儀式を行った記憶があります。でも、その時何故左手薬指にお互いはめるのか?全く疑問を持たず言われた通リ行いました。しかし、その儀式には、古代ギリシャ・ローマの習俗(左胸心臓と左手薬指に、愛の血管がつながっており、左手薬指の指輪をはめると二人をつなぎとめることができる)にルーツがあった事を、今初めて知りました。だから、結婚指輪の裏面には、その儀式の年月日とお違いのイニシャルで、新郎名Aから新婦名B、新婦名Bから新郎名A(TOで結ぶ)と刻印されていたのだったと、私は今初めて分かり、その習慣儀式の謂れを強く得心しました。
しかし、今現在の私は、その結婚指輪のサイズが自身の指が合わなく(指が太くなった)なってしまい、家人からプラチナ製の代替え指輪をプレゼントされました。それを、今でも私はしっかりと着用しています。でも、私にプレゼントしてくれた家人は、いつでも自身の結婚指輪をはめていません。
だから、私と家人は、古代ギリシャ・ローマの結婚指輪の習俗である”二人をつなぎとめる”には、全く該当しなくなりました。さらに文化史的に言えば、私と家人は、明治以前の指輪を含めた装身具が全くない習俗時代に逆戻りした古い夫婦になってしまいました。
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